むふふふ な出勤

 週明け、燃えるゴミの袋を片手に玄関を出ると、お隣の神崎さんもゴミ袋を手に隣の部屋から姿を現した。以前までだったら、もう一度サッと玄関に引っ込んでしまうか、私の行動を察知して時間差で家を出ていただろう神崎さんだけれど。鍵のことがあったせいか、彼は引っ込んでしまうどころかにこやかに挨拶をしてくれた。

「はよう。川原さん」

 しかも、爽やか~。

「おはようございます」

 うわー。私、もうストーカー女って呼ばれてないよ。川原さんて、ちゃんと名前で呼ばれてるよ。

 凄いよ、凄いよ。

 以前のような不信感を抱かせないよう、私はテンション上がりまくりなのをひた隠し、ぺこりと冷静さを装いつつお辞儀をした。

「川原さんのおかげで、仕事に穴をあけずに済んだよ」

「仕事?」

「実は、プレゼンのデータや書類なんかが家にあって、その日中にまとめなくちゃならなくて本当に困っていたんだ」

 ああ。だからあんなに切羽詰ってたんだ。

「鍵も会社に行ったら管理室に届いていたから、借りたスペアも返してきたよ」

「そうなんですか。見つかってよかったですね」

「ああ、ホッとしたよ」

 二人でゴミ置き場にゴミを出して、一緒に駅へと並んで歩いた。

 こうして肩を並べて歩ける日が来るなんて、夢のようだなぁ。

 ストーカー女というレッテルを貼られてしまってからは、半ば諦めていたことだった。いや、半ばどころじゃないか。ほぼ、100%に近いほど諦めかけていた。

 櫂君だって、無理って言ってたもんね。

 なのに今は、この状況。人生、何が起きるかわからないもんよね。

 嬉しさを顔には出さないように必死に抑えているけれど、実際はニヤニヤが止まりませんよ。

 むふふふふ。

「ん? なんか言った?」

「え? あ、いえ。別になにも」

 心の声が聞こえてしまったのだろうか。危ない、危ない。

「この沿線て、通勤には便利だけど、ラッシュの凄さがな」

 駅に着くと、神崎さんは改札を抜けホームに並びながら、眉をハチの字にして溜息をつく。私も毎日の通勤ラッシュには、辟易していたので同意して頷いた。

 電車が滑り込んできて、有無も言わさず車内へと押し込まれる。

 いつもなら雪崩れ込むように奥へと押しやられてしまうのだけれど、今日は少しだけ違った。神崎さんが私のために僅かに空間を作るように誘導してくれて、巧くつり革に掴まることができたんだ。

「ありがとうございます」

「いや。このラッシュは、さすがの川原さんでもきついでしょ」

「そうなんですよ」と応えてから、さすがの川原さんでもって、どういう意味だろう? と心の中で疑問が浮ぶ。けれど、その意味は多分よからぬことのように思えるので、訊くのはちょっとやめておこう。

 神崎さんは電車内のせいか、元々そういう性格なのか、余り口数が多くはなかった。

 ストーカー疑惑は一応はれた事にはなっているけれど、まだちょっと心配なところもあるので、私も通勤電車内ではお口にチャックをしていた。

 神崎さんの事は知りたいけれど、調子に乗って色々訊いてしまって、またストーカー疑惑が疑惑でなくなる可能性も否めないのでね。

 お隣さんだし、これからもきっとまだまだ話す機会はあるだろうから、焦ることもないでしょう。

 私が余裕をかましていると、電車はあっという間に会社の最寄駅に着いてしまった。

「じゃあ、私はここで」

 小さくお辞儀をして、押し出されるようにして車外に出る。まだ車内にいる神崎さんへ、ホームから軽く手を振って挨拶、なんて思っていたけれど、吐き出されたホームでよたよたフラフラしているうちに、電車が走り出し行ってしまった。

 名残惜しく去り行く電車を見送り、私は会社へと足を向けた。

「おっはよー」

 今日は神崎さんとラブラブ出勤だったので、スキップでもしてしまいそうな足取りでオフィスに入り席に着く。けれど、隣からはねっとりとした目つきで見られてしまった。

 あれれ? 櫂君、その目はなんですか?

 あ。もしかして、LINEを無視したこと、まだ根に持ってる? 案外ねちっこい性格なんだね。

「櫂くーん。そんな目してると、女の子たちに嫌われちゃうよぉ」

 櫂君はモテモテ君なんだから、いつでもニコニコしていないとね。

 笑顔の私に向かって「別にいいです」と、とっても拗ねたような返事が返ってきた。

 あらら。

「もしかして、LINEのこと。まだ怒ってる?」

 窺うようにして訊ねると、ぷいっという感じで「別に」と言われてしまった。

 そうは言っても、目も見ずに冷たくあしらわれてる私って、何?

 やっぱり、まだ怒ってるんでしょ。

「LINE無視したのは、ごめんなさいって。ね」

 胡麻をするように下手に出てみたけれど、まったく通用しない。櫂君は、無表情で書類に目を通している。

 もう、朝からそんな態度しないでよ。折角、神崎さんとの嬉し恥ずかしラブラブ出勤に浮かれて気分が上がっていたのに~。

 いつもの気遣いばっちりの明るい櫂君じゃないと、仕事し難いんですけどー。

 へそを曲げてしまった櫂君をどうやって宥めすかそうかと考えていたら、今日もお呼びがかかってしまった。

「川原、パソコン持って会議室」

 部長が席に座ったまま、こちらへ向かって指示を出す。

「了解でーす」

 朝から会議ですか。ご苦労なことです。

 ノートPCを片手に席を立つ。

「櫂君。ちょっと行ってくるね」

 そう言って一歩足を踏み出したところで、櫂君が思い詰めたように私を呼び止めた。

「菜穂子さん。今日,行っていいですか?」

 無表情のままの櫂君は、私の目を真っ直ぐ見て訊いてくる。

「どこに?」

 はて? と首をかしげると、「この前のリベンジです」と言って、櫂君はまた真っ直ぐ机に向かってしまった。

 リベンジ? この前の?

 よく解らないまま、私は「うん」と頷きを返して会議室へと向かった。

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