悲しい

 昨日の今日で、私はとてもガックリときていた。私にしては珍しく食欲もなく、毎日欠かさず食べていた朝食も喉を通らなかったくらい。

 会社に着いても、来る途中にコーヒーショップで買ったコーヒーを、エレベーターの中で一口二口お腹の中へと入れただけ。足元をヨロヨロとさせ、悲しみに暮れながら総務二課のフロアに行くと、櫂君が既に仕事の準備を始めていた。

 背筋をピッとさせ真摯に取り組む櫂君の姿は朝日を浴びて、淀んだ心の私には眩しすぎて直視できない。まるで別の時空に存在するような櫂君に、ブラックホールを背後に従えたように暗い私が、近寄っていいものかと躊躇ってしまうくらいだ。

 そんなこんなの言い訳をしても仕事はしなくちゃいけないので、どんよりとした真っ黒な空気を背負ったまま私は櫂君に声をかけた。

「櫂君……おはよ。昨日はありがとう……」

「いえいえ。どういたしまして。少しは元気出ましたか?」

 生き生きとした櫂君の言い方に、私は力なく首を横に振り、まだたっぷりと入っているコーヒーのカップを力なく机に置き、ドサリと椅子に腰かける。

 そんな私の姿を目にして、櫂君がちょっと引き攣ったような顔をしている。

「えーっと。昨日よりも、更にテンションが落ちているのは、僕の気のせいでしょうか……」

 せっかく高級イタリアンをおごってやったのに、なんなんだよ。とお怒りですよね。

 当然だよね。ホント、ごめんなさいね。でもね、落ち込まないわけにはいかないのよ。

 あんな悲しい思いをしたのに、それでも元気になんて、いくら能天気な私でも無理です。

 だって、久しぶりに見ることができた好きな人から、「二度と関るな」だよ。

 これが落ち込まずにいられますかって。

 昨夜、元気付けたはずの私が落ち込んでいるのを見て、「何かあったんですか?」と櫂君が親身に訊いてくれるので昨日のことを話してみた。

「うーん。……なんと言えばいいのでしょう」

 困った顔をして、櫂君が腕を組む。

 ここまでコテンパンにのされるくらいのことを言われた私に、かける言葉なんてみつからないよね。

「もう、なんとでも言って。私は所詮ストーカー女なので」

 投げやりのように言うと、櫂君はますます困った顔をする。

 けど、好きな人にあんな冷たい目で見られて、はっきりとストーカーなんて言われちゃったら、もう立ち直れませんよ。いや、前にも言われているけど、そんなの比じゃないくらいのストーカー呼ばわりだからね。それ以上近づいたら、警察呼ぶぞ! ってくらいの怖がられ方したからね。

 机に額をぺったりとつけてだらりと手を下げていると、「元気出してください」と背中をとんとんされる。

 その手やリズムがあまりに心を温かくするから、じんわりしてきて目元が揺らいだ。

 こんな私に優しいね、櫂君。櫂君だけだよ、こんなおバカな私に優しくしてくれるのは。

 今にもこぼれだしそうな涙の奥では、昨日の怒った神崎さんの顔が浮かぶ。思い出しただけで、悲しさ倍増だ。

 このままだと、私のことが怖すぎて引っ越してしまったりするんじゃないだろうか。

 それとも、私に引っ越しするようお祖母ちゃんへ言ったりするかもしれない。

 考えただけで哀しい。

 だけど、思うんだ。会社で泣くなんて、新入社員でもあるまいし。後輩に甘えてばかりじゃ駄目だよね。

 自制心を無理やり働かせて、私はガバッと上半身を起こし、グイッと目元を拭う。

 そして、櫂君へ向かって宣言でもするように言った。

「仕事するっ」

 余計なことを考えていても仕方がないので、今はとにかく仕事だけに目を向けよう。落ち込むのは、帰ってから一人でやればいい。

 帰ったら、さらに落ち込み倍増かもしれないけどね……。

 私は気持ちを切り替えて、書類に手を伸ばす。すると、タイミングよく部長から声がかかった。

 私の専売特許、議事録だ。

 よし。無意味な会議を、只管ひたすらパソコンに打ち込んでやろうじゃないのさ。

 勢いをつけて立ち上がり、ノートパソコン片手に出て行く私を、櫂君が可哀相なやつを見るような目で見送ってくれた。


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