警戒 1
櫂君に何度も忠告された私は、なるべくお隣の動向は気にしないように努めた。
外で僅かな物音がしても、サッと時計を見て帰宅時間などを確認するくらい。櫂君が来たときのように、わざわざそおっと外の様子を窺ったりはしていない。
洗濯物を干すふりをしてベランダに出ても、隣のベランダを覗き込んだりもしていない。覗こうと思っても、柱というか壁が邪魔して見えやしないのだけれど。
ゴミ置き場のゴミ袋だってあさっていないし、ポストだってネームプレートを横目でチラ見するくらいだ。壁にだって、時々しか耳を当てたりしていない。
大体、引っ越してきて以来、彼とは一度も逢っていない。
あれだけ電車でも逢っていたというのに、今じゃあ駅で見掛けもしないのだ。どうしてだろう?
「完璧に避けられてますよ、それ」
アツヒロさんのことを話す私に向かって、今日も櫂君は真面目にお仕事に取り組みつつ、興味もないような返しをする。書類をとんとんと整えながら、櫂君は冷静だ。
「えっ!? そうなの?」
「警戒されてるんじゃないんですか?」
整えた書類を綺麗にファイリングしているさまは、どう見ても仕事とは無関係の無駄話をしているようには見えないだろう。おかげで部長からのお小言もないのはいいのだけれど、もう少しこの話題に食いついてくれてもいいのにな。。
「やっぱり、ストーカー認定なのかなぁ?」
私がしょんぼりしていると、櫂君が元気付けようとしてくれる。
「ストーカーなんて思われているような相手の事は、すっかりさっぱり忘れてしまいましょうよ。今日、僕が夜ご飯をおごりますから、元気出してください。で、新しい恋でもしましょうよ」
さっきまでの真面目なテンションとは対照的に、櫂君は何故だかやたらとご機嫌な笑顔を向けてくる。
あれの日が終わったのかな? って、だから男の子だって。
「新しい恋ねぇ」
そんなにゴロゴロと、その辺に恋が落ちているわけないし。しようと思ってできるものでもないでしょう。
すっかりさっぱり忘れられる恋なんて、どうしたらできるの?
単なる一目惚れだから、何の進展もなかったおかげで傷も浅く済んだじゃないか。と言われてしまえばそれまでだ。
けれど、恋をしてしまったこの気持ちを、はいそうですか。と直ぐに切り替えられるほど、私は器用ではないのです。
あーあ。好きな人に避けられているかもしれないなんて、切ないなぁ。
仕事が終わると、櫂君はさっさと帰り支度をして、切なさにどんよりと身支度する私を急かす。
「さっ、菜穂子さん。ご飯ですよ、ご飯。いきましょー」
ピクニックへ出かけるくらいの勢いじゃないのよ、櫂君。私は、そこまでテンション上がりませんよ。
お隣に住んでいるにもかかわらず、神崎さんの顔を見かけることもない日が続いていて、私はかなり充電切れの状態だ。スイッチを切り替えられないが故の充電不足に、どんよりを通り越してそろそろ動かなくなりそう。
「イタリアン好きですよね?」
私とは正反対で、充電満タンバリバリオッケーのような櫂君は、半ばスキップ気味で最近人気のあるお店に連れて行ってくれた。店中に入ると結構混んでいて、席が空いているのかと心配になっちゃうほどの盛況ぶり。
「いらっしゃいませ。奥へどうぞ」
店員さんは、櫂君とお知り合いなのか。櫂君の顔を見た瞬間に僅かな頷きと笑顔を返し、私たちを奥の席へと案内してくれた。
案内されたテーブルのそばへ行くと、reserveと書かれたプレートが置かれている。店員さんはスマートにプレートを回収すると、私たちの椅子を引いてくれる。
「櫂君。ここ、予約したの?」
「ええ、まあ。ちょっと知り合いが働いているので」
櫂君は、なかなかやるでしょ、僕。というように、若干悦に入った顔をする。
こんな労力を私に割いていないで、櫂君の好きな子に使ってみてはどうなのでしょうか。
アニメキャラのような可愛い女の子のためにとか。禁断の人妻のためにとか。あ、それ。私の妄想か。けど、そっちの方が、ずっと櫂君には有益でしょ?
仕事のできない先輩と食事することに何の意味があるのかと、櫂君の顔をマジマジと見ながらしばらく考えていると、何故だか彼の目が泳ぎだした。
「どしたの?」
「え? あ、いや。だって菜穂子さんが、あんまりじっと見てくるから」
「ああ、ごめん、ごめん。ちょっと考え事してた」
「か、考え事ですか。そうですか……」
私の返答に、泳いでいた櫂君の目が急に翳る。
なんともアップダウンの激しい櫂君の表情だ。
でも、こうなんというか、キラキラした目をしたり、翳りのある目をしたり。見ていて飽きないかも。
櫂君を好きな子は、こういうのにキュンとなってしまうんだろうな。普段はあんまり気にしないけど、こうやって正面から眺めてみると、やっぱりイケてるよね。アイドル的な可愛さを兼ね備えた、イケメン君? これで歌って踊れたら、完璧じゃない。今度カラオケに連れていこうかな。
そういえば昼間、とばっちり受けたんだよねー私。櫂君好きの後輩ちゃんから、ねっとりとした嫉妬の目で見られて、言われてしまったのです。
「川原先輩ってー、いつも藤本君と一緒にいますけど、まさか彼女じゃないですよねぇ?」
後輩ちゃんは、語尾を延ばしてねっとりと私に言ったのでした。その目はちょっと見下したように私のことを見ていて、なんとも感じの悪いこと。
もちろん私は、「仕事上の付き合いだよ」と爽やかに笑ってはみたものの。
「ですよねやぇ。先輩と藤本君じゃあ、年の差ありすぎですよねぇ。一緒にいても不釣り合い? 的な」
なんつって、後輩ちゃんはバカにしたようにクスクス笑ったのでした。
年の差ってなにさっ。たった三つでしょうがっ。という、叫びは胸に押し込め。“怒り”マークがこめかみに出ていないか注意しながら、笑みを張り付けたのでした。
もう、櫂君がもてるのは勝手だけど、ああいうのは本当に迷惑だよ。女子の嫉妬って、恐いんだから。
そんなことがあったものだから、櫂君が私なんかとご飯を食べていていいのか? なんて余計に思ってしまうのです。
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