親子

 OLさんが越してしまってから空室のまま、その後も数日が過ぎていた。

 お隣に人がいないと、角にある私の部屋は、取り残されたようにひっそりとして静かだった。大通りの車はひっきりなしに行き交かっているから、全くの無音というわけではない。けれど、お隣がいないというだけで、日々は何となく物足りない気がする。人の気配というか、微かに聞こえてくる生活音があれば、不思議と安心するものだ。きっと、一人暮らしの快適さの裏には、誰かが傍にいないという寂しさが付きまとうからなのだろう。

 そんな折、私は休日を利用して、お祖母ちゃんの家に遊びに来ていた。随分と肩を叩いてあげていないな、というのもあるけれど。私自身が、家族を恋しく思う気持ちに突き動かされたからだ。

 それに加え、夕食を肖りにも来ていた。

「ねぇ、お祖母ちゃん。うちの隣って、いつ入るの?」

 茶の間のテーブルで向かい合い、私はパクリと煮物を口にする。いつもながらに、よく味の沁みた大根だ。

 お祖母ちゃんの作る煮物はいつも美味しくて、食べるたびに作り方を教えてもらおうと思っているのだけれど、帰るころには忘れてしまう。

 今日こそは、訊いて帰ろう。

「隣? ああ、菜穂子のいるマンションかい。確かー、来週末じゃなかったかねぇ?」

 なんとものんきな大家のお祖母ちゃんだ。お金に困っていないせいか、年の功か。いつだってのんびり余裕綽々なんだよね。私も、こんな年のとり方をしたいものだわ。

 食事が済むと直ぐ、お祖母ちゃんは自分で淹れた緑茶をすすりながら、針仕事を始めた。

「何作ってるの?」

「鈴木さんところのお嬢さんがな、もう直ぐ出産だというから、おくるみをな」

 そういって針の先を頭にクイクイと擦り込ませている。見た感じ、頭に針を突き刺しているようにしか見えなくて、とても痛そうだ。

 昔、「何で頭に針を刺すの?」なんて子供ながらに、痛そうだと思い訊いたことがあった。

 すると、それは刺しているんじゃなくて、針の滑りをよくするために、頭の油を針先につけているんだと教えてくれたことがあった。

 昔の人の知恵だよね。へぇ~。なんて感心したのを憶えている。

 そうだ。

「肩、揉んであげるよ」

「なんだい急に。気持ち悪いねぇ」

 孫の好意に、気持ち悪いはないでしょうよ。

 と言いたいところだけれど、久しぶりに来て喧嘩腰というのもいただけない。

 もとより。気持ち悪いと言いながらも、お祖母ちゃんは笑顔なのだ。照れ隠しだね。お母さんがいない分の孝行をさせてもらうよ、お祖母ちゃん。

 グイグイッとツボだと思われる箇所に親指の腹を押し当てて揉んでいくと、「いい気持ちだねぇ」とお祖母ちゃんが少しの間手を休めて目を閉じた。

「お母さんも、こうやってお祖母ちゃんの肩を揉んでくれたことってあった?」

「あったよ。菜穂子の揉み方は、咲子に似ているかもしれないねぇ」

 お祖母ちゃんは、昔を思い出すみたいにお母さんの名前を口に出し、目を瞑ったまま気持ちよさそうにしている。

 私の母。お祖母ちゃんにしてみれば大切な一人娘のことだけれど。その娘を亡くしたというのに、お祖母ちゃんは、普段からとても明るく暮らしている。

 でも、それは。唯一残された孫の前だけなんだろうなって、私は勝手に想像していた。

 だって。お祖父ちゃんも亡くなって、娘も亡くなって。唯一残された孫の前で、しくしくメソメソして見せるなんて、辛い時代を超えてきたお祖母ちゃんには、きっとありえないことだろうから。

 私の父と母は、私が母のお腹に宿って少しした頃に離婚したと、昔亡くなる前の母から聞かされていた。お祖母ちゃんは、そのことについて私に何かを話してくれた事は一度もない。

 話すのも嫌なのか、自分から話すべきではないと思っているのか。なんにしても、お祖母ちゃんの口から父の事は聞いた覚えがないのだ。

 母から聞いた話では、父は仕事が忙しすぎて母とのすれ違いの末にうまく結婚生活が続けられずに離婚した、ということらしい。

 私が母のお腹の中にいたことを、その当時父が知っていたのかいないのか。今もって謎のまま。

 母曰く。菜穂子の事は私が望んで生んだのだから、父の事は一切関係ない。と断言したことがあって。確か、私が中学の時だったと思う。

 そう言い切った母に、それ以上父のことや、父と私のことについて訊ねることができず。その後、母は事故で命を落としてしまった。

 謎は、謎のまま。離婚して離れ離れになってしまった父の写真など、家には一切なく。おかげで私は父の顔も、名前さえも知らない。なので、どこか町ですれ違ったとしても、それが父だとは気づきようもないという状態だ。

 お祖父ちゃんは、母が亡くなる五年ほど前に脳梗塞で亡くなった。母がえらく泣いていたのを憶えている。

 お祖母ちゃんは、気丈にも涙一つ零さず。夜遅くにお祖父ちゃんの写真に向かい、「長い間お疲れ様でしたね。もう少しそちらで待っててくださいな」とポツリ零しているのを、私はトイレに行く足を止めて聞いてしまったことがあった。

 母が亡くなり、私は大学生時代をお祖母ちゃんとこの家で一緒に過ごした。そのままずっと一緒でも私はまったく構わなかったのだけれど、お祖母ちゃんの方から、少し自立した方がいいという提案を持ちかけられ、私は就職を機に今のマンションで一人暮らしを始めたんだ。

 けれど、なんやかんや言っても、たった一人残された身内の孫には甘かった。

 マンションの家賃をただにしてしまうなんて、本当に甘いよ、お祖母ちゃん。

 そして、ありがとーーー。

 心の中では、いつだって声を大にして感謝をしている私です。

 なもんで、肩をモミモミ。今日は、とことん揉ませていただきます。

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