桜
「よく我慢しましたねぇ」
朝から櫂君に昨日のことを話すと、やけに感心されてしまった。私だって、ストーカー呼ばわりされたり、警察のお世話にはなりたくないのだよ。
でもちょっと惜しかったかな、とも思う。もしあの後気づかれずにアツヒロさんの後をついていくことができたなら、彼のおうちを発見することができたわけでしょ。
世紀の大発見! なんてよくテレビでやっているけれど、そんなの目じゃないからね。
大手の会社にお勤めしているくらいだから、アツヒロさんは高級マンションに住んでいたりするんじゃないだろうか。オートロックに広いエントランス。受付には、「お帰りなさいませ」と出迎えてくれるコンシェルジュがいるようなところだったりして。
勝手な妄想をしていると、櫂君が顔を覗き込んでいることに気が付いた。惚けた私を不思議そうに見ている。
いかんいかん、現実に戻らなくては。
「偶然にも、名前が分かったしね。ちょっと満足している部分もあるのよ」
思わずニヤニヤしてしまう。
「アツヒロでしたっけ?」
私が嬉しそうに頬の筋肉を緩めていると、櫂君がそれほど興味もなさそうに彼の名前を口にする。
「こらこら。私の愛しい人を呼び捨てにしないの」
「すみません」
櫂君は、申し訳程度に肩を竦めて謝った。やっぱりどうでもいいみたい。
「あ、そういえば。お隣って、入居してきましたか?」
いつもの如く、あっさりと話題を変えてしまった櫂君。どうやら、愛しのアツヒロさん話に興味はないみたい。当然か。
「そういえば、まだみたい」
クリーニングも済んで、いつでも入居可能な状態だけれど、今も空き部屋のままだ。
空き状態が続くと、もったいないよね。
要らぬ心配をしていると、櫂君が窺うように訊いてくる。
「キャンセルとか……ないですよね?」
「それはないと思うけどね……。そんなにうちの物件がよかったの?」
「はい。話を聞いただけでもいいなと思っていたけど、この前菜穂子さんちにお邪魔したら、更に気に入りました。あの部屋、広くて贅沢な作りですよね」
そうだよね。一人住まいであの広さって、なかなかない物件だと思う。
エントランスはそんなに広くないし、コンシェルジュもいないけど、掃除はきれいに行き届いている。入ってすぐにキッチンで、玄関もリビングもいっしょくたになってる物件も多いのに、短いけどちゃんと廊下もある。リビングも奥の部屋も広いし日当たりもいい。それに何がいいって、お風呂とトイレがきっちり別になっているところがいいのよ。お風呂の隣にトイレなんてあると、掃除も大変だし、落ち着かないよね。トイレットペーパー湿気っちゃうし。
私みたいな若造が住むには、贅沢すぎる部屋だと改めて思う。お祖母ちゃんに感謝。
「特にあの桜。惹かれるんですよねぇ」
部屋の作りについてあれこれ考えていたら、櫂君がふっと表情を緩ませた。きっと渡り廊下にせり出し咲く桜が、満開になったところを想像しているのだろう。
「櫂君も、あの桜が気に入ったんだね」
笑顔を向けると、にっこりと笑みが返ってきた。
実は当時私も、あの桜に惹かれて住むことを決めたんだ。今の会社にもっと近い物件にも空きはあったけれど、部屋を借りるために見学しに行ったら、一瞬で気持ちを持っていかれた。
桜が咲く時期だったこともあって、満開の姿を見たからなおさらだ。
あの桜は、何故だか心を惹くものがあるんだ。大きく渡り廊下に伸ばした枝は、優しく包み込んでくれるような温かみがあって。咲き乱れる桃色の花たちを見るだけで、自然と幸せな気持ちになっていく。
新緑の季節には、緑の葉たちが元気をくれる。秋や冬は少しだけ寂しいけれど、凛とした枝ぶりもまたいい。
櫂君同様に桜を思い、うっとりしてしまう。
あ、そういえば、以前その桜を写真におさめたことがあったっけ。櫂君に見せてあげよう。
私はスマホを操り、桜の写真を探し出す。
「櫂君、ほら、見て」
スマホの画面を櫂君へ差し出し、画面を寄せると顔を近づけて食い入るように見ている。
「うわー。これ菜穂子さんが撮ったんですか。綺麗に撮れてますねぇ」
「そうなのよ。意外と巧く撮れて、一時期スマホの待ち受けにしていたこともあったくらい」
誇らしげに櫂君へ話しながら二人で桜の画面をのぞき込んでいたら、部長がやってきた。
「今日も二人は仲がいいな。チューは、他でしてくれよ~」
部長は、私と櫂君の肩にポンと手を置いて自席へ向かいながらガハガハ笑っている。
「チューって……」
思わず呆れてしまう。
「あれって、セクハラじゃんねぇ」
私が口を尖らせると、櫂君はどうしてか目を泳がせている。
「どしたの?」
訊ねる私に向かって、櫂君は飛んでいきそうなくらいぶんぶんと首を横に振るから、思わず笑ってしまう。
「落ち着いて、落ち着いて。どー、どー」
それより、部屋のことだよね。
「うちのマンションよりも、もう少し会社に近い物件もあるけど。そこに空きがないか、訊いてみようか?」
私が話を戻すと、今度は首を縦に振る。本当に首が取れちゃうよ。飛んでいったら拾ってあげるね。うん、ホラー。
桜の物件に思いを馳せる櫂君だけれど、空室待ちなんてしていたらいつになるかわからない。引っ越しを急いでいる風でもないようだけれど、気分が乗っているときに越したいっていう気持ちもわかる。
「い、一応お願いします……」
言葉を詰まらせるように話す櫂君は、あんまり気が進んでいないようだったけれど、いつまでも見つからないよりはいいだろう。
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