幕間

幕間 ④

 彼女が大学生になって間もない頃だった。


 講義の教材を揃えるために、大学生協に訪れていた。三十メートルほど伸びた長蛇の列から、長い待ち時間を要求されるのは必至だった。


 必要な教材を記入シートに書き、列に並ぶ彼女。手持ちぶさたに教書を購入できる時を待っていると、彼女の側で些細な災難が起きた。


 教科書を買い終えた一人の青年が、通りすがりの別の青年とぶつかり買ったばかりの教材を床に落とした。


 彼女は列を並び直すことをいとわず、その青年に手を貸した。彼女にとって人助けは、もはや当然の習慣だった。


 拾った本を青年に渡す際、顔を見ると既視感きしかんがあった。どこか懐かしい、けれども名前を思い出せない。彼女はその場で青年のことを思い出せず、役目を終えると立ち去った。


 後日、既視感のあった青年を、通学路や大学の中庭で度々見かけるようになった。誰かに似ているとは思うものの、誰かに決定付けるものが欠けていた。


 青年の正体がはっきりとわかったのは、ある日の下校時。


 偶然、帰りの電車で、例の青年と乗り合わせた。その時に、彼女は目撃した。青年が途中乗車してきた老爺ろうやに席を譲る場面を。


 とりわけ珍しくもない、ありふれた青年の厚情。しかし、彼女の記憶の中のある人物と重なった。そう、幼き日の彼女を助けてくれた少年の姿に。


 彼女は今すぐ駆け寄って話をしたかった。少年と過ごした日々を回顧かいこしたかった。彼女の成長した姿を見てもらいたかった。彼と将来について語り合いたかった。


 だが、彼女はその衝動を抑える。突然、目の間で信号が変わり急ブレーキを踏むように。


 少年だった頃の彼と、今の青年は雰囲気がまるで違う。顔、髪型、背丈はもちろんだが、それ以上に、明朗で生命力にあぶれていた少年の影が浮かばない。生気が薄れ、漠然と日常を送っているようだった。


 それに、彼女が彼を見かけた時、いつも彼は独りだった。誰かと連れ添って歩いていた光景を見たことがない。


 どんな紆余曲折うよきょくせつを経て、今の彼が形成されたのだろう。疑問、好奇、心配。彼に対する関心は尽きなかった。


 遠目で彼を見守ること一年。彼は孤独に取りかれたままだった。


 このままではいけない。彼なら自力で立ち直れると期待していたが、彼女が思っていた以上に彼の抱えた問題は深刻そうだった。


 高校時代、いじめがきっかけで友人になった男の子の協力もあって、彼は少しずつ社会との繋がりができていた。もちろん他力本願だけでなく、彼女自身も彼に近づき固く閉ざされた心の扉をノックして。




    *




 彼女が彼に恩返しを始めてから、もうすぐ一ヶ月が経とうしていた頃。彼から金曜日に会えないかと連絡が届いた。大事な話があると。


 彼女は、彼から送られてきた大事な話の内容を想像する。また、天宮満の時と同様、人助けのために手を貸して欲しい頼みだろうか。どんな内容にせよ、彼からの誘いを二つ返事で引き受けた。


 彼女は約束の日時と場所に向かった。曜日は金曜。時間は午後三時。場所は食堂の二階にある購買。雨村梨香の退部問題のことで相談したことがあった、カウンター席での待ち合わせ。


 彼はすでに到着していた。爽やかな水色のシャツに、ストレートのジーンズといった身なり。


 しくも、彼女も似たような服装をしていた。袖をまくった空色のシャツを身につけ、ロールアップしたジーンズを穿いていた。


 彼女は、その寂しげな青年の背中に声をかけた。


「ごめん、待った?」


「いや、今、来たとこ」


 彼の何気ない優しい嘘に、彼女は喜んで騙される。安堵を装い、彼の気づかいをありがたく受け取った。


 彼女は彼の隣の席に腰かけ、用件を訊きだす。


「私に話しって何? もしかして、また私の悩み事を聞いてくれるの?」


 冗談っぽく話しかける彼女とは逆に、いつになく彼の顔は真剣だった。目の前のことにとらわれ過ぎて、余裕がないとも言えた。彼との温度差に彼女はひやりとする。


「今日はそのことじゃない」


「あぁ、うん。ちょっとふざけて言っただけだから、真に受けないで。それで、そんな浮かない顔をしてどうしたの?」


 彼から返事に数秒のタイムラグが生じる。話す内容がそれほど重いのだろうか。


「この前も訊いたけど、もう一回、確認させてもらっていい?」


「あなたの気が済むまで確認していいよ」


「俺のこと、本当に怨んでない?」


「うん、全然怨んでないよ。むしろ、感謝してる」


「……じゃあ、末治に依頼して、俺にいろんな人と関わらせるようにのろいをかけたのは、だったのか?」


 かつて彼女を護ってくれた少年、阪城公大の問いに、南場花月はほれぼれするような笑みを浮かべて答えた。


「人聞き悪いな、のろいだなんて。私があなたにかけたのは、おまじないだよ」

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