鶴見緑 ⑫

 早めに昼食を取った俺は、学生が雪崩なだれてくる二限目の終わり頃に食堂を出て行った。図書館の一件がなければもう少し余裕を持って食事をできたが、恨み言はなしだ。自分で勝手に他人の問題に踏み込んで時間を費やしたのだから、誰かのせいにはできない。


 午後からの天気はどうなるかと心配していたが、鈍色の雲が風に流され、眩い陽光が中庭を照らしていた。雨で濡れた地面や木々が、太陽の光を反射して煌めく。雨上がりのあとに陽の光を浴びると、胸の奥が洗われたような爽快な気分になる。


 三限目の講義までまだ、たっぷり時間があった。図書館にまた滞在して、時間を潰そうか。部活やサークルにも所属せず、友人と呼べる人間が大学にいない俺にとっては、そこしか自分の居場所を作れなかった。


 いつも通りの平穏な図書館であればいいが。そう思いつつ移動していると、ボランティア部の部活仲間に囲まれて歩く花月を視界にとらえた。花月の一行は、中庭から食堂に向かっていた。


 彼女は身内との会話に夢中で、蚊のように存在感の薄い俺に気づいていなかった。


 周囲の人間から慕われる花月を見て、今日の一限目に交わした彼女との不思議な会話を思い出す。


 折り畳み傘を他人に預けた俺は、洋服が重いと感じるくらいに濡れていた。花月に会った時、雑談の一つとしてその経緯を話した。


『電車で席を空けてくれた人に折り畳み傘を渡した結果、雨をもろに浴びながら通学してきたわけ』


 普通に考えれば、電車内で腰を下ろせるスペースを作っただけで、自分の身を顧みず傘を譲るなどのおかしな話だ。フィクションの世界でも、そんな義理堅い人間が登場するのは希少である。現実だと、そんな行き過ぎた善行に走るやつなんて、まずいない。


 しかし、俺の荒唐無稽な話を聞いた花月は、そしることなく『そっかぁ』の一言で受け入れた。無関心からの生返事ではなかったと思う。俺の話をしっかり聞いて理解した上での返事だった。


 そして、彼女はこう続けた。


『小学生の時、ヒーローごっこっていう遊びが流行っていたの。変なネーミングで、珍しい遊びでしょ。どれくらい困っている人に貢献できたかを競う遊戯なんだけど、ルールも曖昧で、勝ち負けの判定もない。けど、子どもの功名心を満たせるそんな遊びだった。公大がしたことって、まさにそれじゃない?』


 彼女の表情や声色は、なぜか喜悦に満ちていた。まるで、友人の夢が叶ったことを聞き、一緒になって喜ぶように。


 どうして、彼女が喜ぶのだろう?


 ……わからない。


 中庭を通り過ぎる花月を目で追う。彼女の思考を読み、感情の共感を試みるが、違和感の正体を突き止められない。彼女の端正な顔立ちの奥に何があるのか。


「人間観察とは悪趣味ですね」


 後ろから聞こえた声に、飛び跳ねるように振り返る。花月のことを考えていたので、死角から向けられた声に、過敏に反応した。


 俺のリアクションがすこぶる滑稽だったのか。俺に突然声をかけてきた色男、末治英雄は腹を抱えて静かに笑っていた。


「おどかさないでください」


「失礼しました。まさか、芸人みたいなオーバーリアクションをされるとは思っていませんでした」


 紺色のシャツの袖を丁寧にまくり、女のように華奢で綺麗な白い腕を出していた。下はカフェオレ色の細身のパンツを穿き、今日も爽やかな雰囲気をまとっていた。服装は清潔感があり、気立ても良く、男前。この優男を見る度に、世の不平等さを何度嘆いたことか。


 通行人の邪魔にならないよう道端に寄り、末治に用件を尋ねる。


「今日はまた何で俺に話しかけてきたんですか?」


「ただの暇潰しと言えば怒りますか?」


「……」


 黙って立ち去ろうとすると、末治に肩を掴まれた。


「冗談ですよ」


「じゃあ、真面目に答えてください」


 最近、この男とのやりとりにも慣れてきたと思いつつ耳を傾ける。出会った時の緊張感はもうない。憤りは常に感じているが。


「以前、阪城さんは花月さんに恩を返されましたよね。そして、今日の午前中にも、呪いの影響を受ける前に恩返しをされました。ということで、阪城さんに怨返しの呪いをかけた依頼人のヒントをお教えしたいと思います」


 ちょうどよかった。俺もそろそろ呪いに悩まされる非日常とはたもとを分かちたかった。ここらで決着をつけよう。実はというと、一昨日くらいから依頼人の目星がついていた。ただの当てずっぽうではなく、ちゃんとした根拠と自信を持って。


「では、ヒントです。僕の依頼人は、視力があまりよくありません」


 視力が悪い、か……。


 よかった、俺が思い浮かべていた依頼人も視力が悪い。


「そして、もう一つのヒントですが―」


 末治が新たなヒントを告げる前に、俺は思い切って口を挟んだ。


「ちょっと、待ってください」


「どうされましたか?」


 まだ、末治は余裕の笑みを崩さない。俺がこの場で依頼人を言い当てるなど、全く予期していないのだろう。


 ルールを遵守する末治に限ってありえないとは思うが、念のために確認を取っておく。


「俺がもし依頼人を言い当てても、ごまかしたりしませんか?」


「えぇ、それはもちろんです。ルールを破ると面白くありませんから。その口ぶりから察するに、どうやら依頼人の見当がついたみたいですね」


「えぇ、まぁ……」


 どうせ、この男は俺の推測など外れると思っているのだろう。確かに、一つの不安材料を残しているので、絶対の自信があるのかと言えばそうでもない。だが、いい線はいっていると思う。


 俺は末治の目をまっすぐに見て、答えた。


「俺に呪いをかけた依頼人は、末治さん。あなたじゃないですか?」

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