鶴見緑 ⑪
一件落着。そう、安堵しかけたところ、あることを思い出した。あまりに重大な件で、思わず「あッ」と、声が漏れてしまう。
どういう形であれ、あの二人に助けられた。つまり俺は、恩を感じた。普通なら、今度会った時に、『あの時は助かった』と、簡単な感謝を示せばいいが、俺の場合違う。怨返しの呪いを受ける身である俺にとっては、ただの言葉だけで恩を返したことにはならない。
焦燥感にかられて、スマホを取り出す。怨返しの呪いが始まった場合、末治からメッセージが送られてくるので、その確認をする。
しかし幸い、俺の懸念は外れてくれた。末治からの連絡がない。時間差で『あなたに恩が着せられました』と、お決まりの文句が届くとも考えらたが、メッセージを受信気配がない。今回の件は、ノーカウントなのだろうか? 怨返しの呪いの基準がわからない。
「あの……」
俺がスマホの画面と向き合っていると、女性の声が俺を呼んだ気がする。振り返ると、繊細なメガネをかけた女性がまだいた。
彼女と二人になって対面する。黒髪のセミロングで、線の細い銀フレームのメガネをかけていた。無地の白いTシャツの上にグレーのカーディガンを羽織り、細身のジーンズという落ち着いた身なり。やや眉が太く、人並みより少し細い眼をしているが、化粧を上手く使用すれば十分綺麗な女性になりえる。
改めて近くで見ると間違いない。今朝、大学の最寄り駅で、折り畳み傘を貸した名も知らない女性だった。俺の目に彼女が少し疲れたように映るのは、先程の一件があったからだろう。
「さっきは助けてもらってありがとうござました。月並みの簡単なお礼しかできませんが、本当に感謝してます」
そう言って、彼女は小さくお辞儀をした。彼女は簡単なお礼というが、頭を下げる動作が流麗で、数秒硬直してから頭を起こした。一つ一つの動作が丁寧で、彼女の謝意は確かに伝わった。
「いや、俺は別に頭を下げられるほどたいしたことしてませんよ。天宮と雨村、あの二人が来てくれなかったら、どうなっていたか……」
「ご謙遜を。あの二人にももちろん感謝してますけど、一番は君にしています。あなたがいなかったら、きっとあの二人もいなかったと思いますから」
それは買い被りだ。俺は本当にその場に立ち会っていただけ。天宮と雨村がほとんど問題の解決に導いてくれた。
「それと言い忘れていました。今朝、折り畳み傘を貸していただいてありがとうございました。おかげで濡れずに済みました。忘れないうちに返しておきますね」
彼女はそう言い、ベージュのリュックサックから俺の折り畳み傘を出した。綺麗に袋に入れてある折り畳み傘を彼女から受け取る。
俺には怨返しの呪いという事情があったから、自分を犠牲にして折り畳み傘を渡しただけだ。変に、良い人間だと勘違いされていなければいいが。
「一つ、訊いてもいいですか?」
「何ですか?」
「どうして、私を助けてくれたんですか?」
「俺にも事情がありまして。詳しいことは言えないんですけど、あなたに折り畳み傘を渡さなければならなかったんです。意味不明で理解できないと思いますけど、納得してくれれば幸いです」
自分で言っていて、随分都合のいいことを言っていると思う。そんな曖昧な答弁で納得できるわけがない。だからといって、本当のことを話せば、頭のおかしい人間だと思われかねない。
「傘の件はわかりました」
意外にも、彼女は俺の自分勝手な言い分を受け入れてくれると思ったが、「ただ……」と、言ってその続きを話す。
「私の本があの人に悪戯されていることを、どうして指摘して、助けてくれたんですか?」
困ったな。
それについては、怨返しの呪いは関係ない。彼女の恩返しは、折り畳み傘を貸した時点ですでに完了していた。だから、図書館で困っていた彼女を助けるメリットはなかった。
正直に打ち明けてもいいのだが、どうにも気恥ずかしい。言葉にするとどうしても
だが、彼女の細い目は真剣だった。ごまかしてうやむやにするなど、気が
俺はそのまっすぐな目に負けて、白状した。
「幻聴かもしれないですけど、声が聞こえたんですよ」
「声、ですか?」
「はい。誰か助けて、って」
「誰がそんなこと言ってたんですか?」
「俺の目の前にいる人がです」
彼女の真摯な眼差しが、きょとんとするのがわかる。でも、ここまで答えたからには全て素直に答えよう。
「自分には目の前で困っている人を助けられる術がたまたまありました。なのに、そこで他人事と決め込んで、面倒事から避けて、見て見ぬ振りをする自分が許せなかったんです。だから、俺は別にあなたを助けたとは思っていません。自分を嫌いにならないために、少しだけ勇気を出しただけです」
彼女は、クスッと微笑み、なぜだか嬉しそうに言った。
「はい。確かに私は、心の中で誰かの助けを求めていました。君の幻聴ではありませんよ」
ほら、やっぱり笑われた。だから言いたくなかったんだよ。
たまらず視線をそらすと、彼女は白い歯を見せて心からの笑顔をこぼした。
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