鶴見緑 ⑩
男は、小説を本来の持ち主に返却し、おざなりに謝罪と言い訳を済ました。彼の言い分としては、ちょっとした悪戯を仕掛けて女性の気を引こうとしたらしい。そこまで深い悪意はなかったと言う。何とも幼稚な理由だ。ばつが悪くなった彼は、逃げるように図書館から出て行った。
彼の姿が視認できなくなると、難が去ったことにホッとする。
二限目の講義が空いていて、雨宿りの場所として図書館に寄っていた。そこで偶然、あの男が貸し出しも済ませていない図書館の本にブックカバーをかけるという不自然極まりない現場を目撃した。
最初は男の奇行を見張るだけだったが、どこかで見たことがある顔だと思った。思い出させそうで思い出せない。それが今、あの男の立ち去る姿を見て、やっと記憶の中にいる人物と合致した。
彼とはたぶん、一年前に会っていた。教科書販売をしていた食堂の二階で。俺とあの男は運悪くぶつかり、教科書を落とした。あの時は、花月が列を抜け出し、教科書を拾うのを手伝ってもらい助かった。しかし、あの男は
にしても、天宮と雨村が来てくれていなかったら、どうなっていたか。向う見ずに黒髪の女性を助けようとしたが、俺一人ではたぶん本を取り返せていたかはわからない。俺が彼に追求して開き直られた時は、焦って対処できなかった。
「ありがとう、天宮、雨村。二人がいなかったら、今頃どうなっていたかわからない」
「あぁ、別に礼とかいいから。個人的な
自分は当たり前のことをしただけ、といった風に天宮は答える。
「右に同じく。私も個人的にアイツのこと嫌いやから、アンタに加勢しただけ」
雨村も天宮と同じように、自分のためにやったことだから気にするなといった
「災難だったな、そこのメガネかけた人」
雨村は、
「困っていたところを助けてもらって、ありがとうございました。あの人には前からうんざりしてて。君たちに言い負かされるところを見てスッキリしました」
「アンタ、前からアイツに付きまわられていたの?」
「はい、先週くらいから。あの人とは同じ電車に乗り合わせて、そこから変に絡まれるようになったんです。別に頼んでもいないのに、小雨の中、相合い傘を強要させられたりして。彼としては、私に傘を貸してあげたつもりらしいんですけど、私としてはただただ迷惑だったので」
その光景を、先週の火曜日くらいに一号館の前で見たような気がした。人の縁はどこで繋がるかわからないな。
「あんなやつとは、早く縁を切った方がいいよ。アンタの体目当てで近づいてるんだから」
面倒見のいいお母さんのように諭す雨村。彼女が言うように、男の視点からすると、この女性の体は、出るところが出ていてとても魅力的に見えるのだろう。言われてみればそうだなと納得した。
「ところで天宮と雨村は、さっきの人と知り合い?」
俺が興味本位で訊いてみると、苦杯をなめたように二人の顔が歪んだ。どうやら、図星らしい。
「私が前までボランティア部に入ってて、辞めたことはアンタも知っているでしょ?」
「あぁ、うん。一応、退部した理由も知ってるけど」
雨村が、出し抜けにその話をする意味は何だろうと考えつつ、彼女の続きの言葉を聞いた。
「私の愚痴をボランティア部の部員にリークしたのは、あの阪城」
「えっ、俺?」
「アンタじゃない。今、出て行った男の苗字、アンタと同じで阪城って言うの」
同じ大学で、同姓の相手と出会えるとは、何とも言えない感情が湧き上がる。しかし、今は俺が抱いた好奇心や親近感はどうでもいい。
「アイツに気を許して、うっかり陰口をこぼしたのが間違いだった。私の悪口をアイツは好き放題吹聴しやがったの。自業自得とはいえ、本当に腹立つ」
なるほど。だから雨村は阪城という男を目の敵にしていたのか。信用していた人物に裏切られ居場所をなくす。人を忌み嫌う動機としては十分だろう。
「天宮は、俺じゃない方の阪城とどういった因縁が?」
「そこの女子と、似たようなケース」
「というと?」
「俺がボランティア部にいた時、人から散々金借りて、部員から反感を買ったことはお前も知ってるだろ。花月に金を返すのが遅れて、ひと悶着あったって」
「覚えてる。花月の件を理由に、直接関係ない人から天宮に非難が殺到したことだろ」
「他の部員を煽って、俺に対する不満を爆発させるよう拍車をかけたのは、あのクソ野郎なんだよ。あいつがいなかったら、四方八方から罵詈雑言を浴びることはなかった。俺が逆ギレすることもなかった。全部が全部、あいつのせいだとは言わねぇけど、調子乗って人を陥れるあいつの腐った根性に腸が煮えくり返る」
罪人に仕立て上げられ、部員一同から指弾された。確かに、密告するという意味では、雨村のケースと通底するところがある。現に、阪城という男は人の目を盗んで人の本をすり替えるという悪行を働いていた。過去に人を困らせるような事例があっても何ら不思議ではない。
経緯は違えど、天宮と雨村があの阪城という男に同根の憎悪を持っていたことは理解できた。だからだろう。俺は以前から疑問に感じていたことを訊いてみたくなった。
「あのもしかして、時折、俺に名前を改名しろっていうのも、その阪城のせい?」
二人は同時に頷く。アイコンタクトもなしに、息ピッタリだ。
「今度、あの阪城が目の前に現れたらすぐ呼べよ。即行で駆けつけて、返り討ちにしするから」と、天宮が何とも頼りがいのある台詞を捨てて去って行く。
「あいつの悔しがる顔が見れるなら、私も誘って」と、雨村も嗜虐的な笑みを浮かべて図書館を出て行った。
どうやら、二人があの阪城という男を許すのは当分ないだろう。少しだけ、俺と同じ苗字を持つ男に同情した。
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