鶴見緑 ⑧
見たことがある顔だと思えば、今日の一限目の講義で南場花月と一緒にいた男だった。全身ずぶ濡れで、陰気な雰囲気をまとい、魅力という魅力が外見からは何も感じ取れなかった。一度視線を外せば、再び視認するのが難しいほど希薄な存在感。
やつは、鶴見に忍び寄り、こう告げた。
「お取り込み中すいません。俺でよければ困りごとを解決しますよ」
自信なさげな小声ではあったが、謙虚に優しく彼女に救いの手を差し伸べた。
もっと冷めた男だと思っていたが、困っている人を見ると放っておけないヒーロー願望持ちだったとは。バカなやつだ。お前が登場したところで状況は何も変わらない。俺だけがこの状況を打破できる術を知っているのだから。
「君は、今朝の……」
男と鶴見は、全く面識がないというわけではないらしい。どのような出会いがあって、関係を築いているのかわからないが。
「本を持っていましたよね。差し支えがなければ、俺に見せてもらえませんか?」
「でも、その本は私が買った物なんです」
「はい、承知してます。確認を取りたいんです」
鶴見は男の言う通り、リュックサックから黒いブックカバーを付けた本を出す。彼女は、戸惑いながらも男にその本を託す。
まさか、あいつ……。
男の一連の所作に胸がざわつく。自分しか知らないはずの秘密が、他者に漏洩していた時のような焦り。それは、あの男が本を開いた瞬間に一気に膨張した。
「この『通過儀礼の愛』という小説、この図書館に置かれていたものですよね」
男は、最後のページをめくって鶴見に見せる。少し離れている俺には見えないが、最後のページには貸出記録の紙が貼られていたはずだ。それを見た彼女の顔は蒼白になり、「うそ……」と、力なく声をこぼす。彼女が青ざめるのも無理もない。客観的に見れば、鶴見が図書館の本を盗み出そうとしていたのだから。
混乱に取りつかれた鶴見に、男は表情も変えず落ち着いた様子で声をかけた。
「大丈夫です、安心してください。俺はあなたが本を盗ったとは思っていませんから」
男のフォローに、鶴見は心細くなりながらも頷く。
黒縁メガネをかけた女の職員はというと、鶴見を罪人として扱っていいものか判断しかねているみたいだった。職員の女は横槍を入れず、事の成り行きを静かに見守っている。
「こうなった経緯を今から説明します」と、男は鶴見と女の職員を交互に見ながら言った。
「あなたは、この『通過儀礼の愛』という小説をブックカバーにかけて、故意に盗もうとしたわけじゃありませんよね」
「えぇ……それはもちろん。とても説得力に欠けるけど、本当に身に覚えがないから」
「そうだと思います。あなたの意思に関係なく、すり替えられていたのですから」
男はまるで、全てを知り尽くしているような口ぶりで話す。一体、やつは何なのだ?
「図書館にいた間、リュックサックを置いてどこかに行っていた時間はありませんか?」
「えっ、と……はい。あります。男の人に荷物を見てもらって――あっ」
「あなたの席を外していた間に、あなたが買った本と、図書館の本が入れ替えられている可能性が考えられませんか?」
ヤバいな、これ。種明かしする前にばれたな。鶴見を追い詰めいたはずなのに、いつの間にか俺が追い詰められそうになっている。
「ちょうど本人も近くにいるんで、話を聞いてみましょうか」
俺に一瞥もくれていなかった男が、まっすぐ俺の方を見てきた。興味も憤慨もなく、無感情に冷めた目で。
鶴見も俺を視界に収めた。事態の把握が追いついていないのだろう。彼女から怒りや悲しみは浮かばず、ただ困惑の情が顔に色濃く出ていた。
正直、この展開は意想外だった。俺のシナリオでは、彼女が苦境に立たされている時に近づき、軽い気持ちで真相を伝え、ドッキリを成功させたかっただけだ。だが、冴えない男の登場により、俺の筋書きが破綻させられた。
こうなれば、嘘を押し通して逃げ切るしかない。
「数十分ぶりですね、鶴見さん。どうしたですか、そんな落ち込んだ顔して。それに、この男は誰? まさか、彼氏とか?」
この男はいけ好かないので、鶴見とだけ視線を合わせる。
しかし、俺があえて無視をしているのに、男が喋りかけてくる。
「あの、バックの中身を確認させてもらいませんか?」
俺の挨拶も、ちょっかいも全部無視。前置きも何もなく、単刀直入に問題を聞いてきた。
「俺は今、鶴見さんと喋ってる。お前は誰だ?」
口調を高圧的なものへ変え、冴えない男と応対。話を優位に進めるには、上下関係が決まっていた方がいい。男は、俺より身長が高いわけでもなく、恰幅がいいわけでもない。貧弱そうな体質だった。拳を交えることになれば、負ける気がしない。だから、巻き舌で話し、少し脅してみた。
残念ながら、脅しの効果は男にあまり表れなかった。無表情を変えず、慎重に言葉を選んで言葉を返してきた。
「通りすがりの大学生です」
「通りすがりの大学生に、何で鞄の中身を見せないといけない?」
「この人の無実を証明するためです」
俺は確信した。この男に鶴見がいない間、俺が本を入れ替えていたこと目撃されている。でなければ、いけしゃあしゃあと鶴見に近づき、自分の正義を疑わず受け答えができるはずがない。
こんな風に誰かから、疑惑をかけられるようなことになると知っていれば、金を払ってでも雨村に本を押し付けいたのに。後悔先に立たずだが、やはり数十分前に戻りたくなる。
手元にある本が露呈すれば終わりだ。何とかごまかして時間を稼いでみる。
「お前さぁ、女の前でかっこつけるのはいいけど、俺の迷惑とか考えてるのか?」
「迷惑、ですか?」
「そうだよ。仮にお前の言うこと聞いて、俺が何か怪しい物持っていたら俺が悪い。けどな、もし何もなかったら、時間は取られるわ、私物を見られるわ、疑いをかけられて、気分が悪い。お前な、責任取れるのか? 俺に恥かかしたことになるんだぞ」
さらに語気を荒げ堂々とでたらめを言うと、男はたじろぎ口をつぐんだ。さすがにここまで言われると怯むか。
この調子で押していけば凌ぎ切れるかもしれない。続けて、重圧を与える言葉を投げようとした。
しかし、新たな登場人物によって、局面がさらに変化した。
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