鶴見緑 ⑥

 会話が弾まなくなってきた頃に、鶴見から一人になりたいと言われた。


「そろそろ行くね、阪城君」


「何か用事でもあるんですか?」


「一人で本を読みたくなって」


 三十分くらい話し込んで、話題も尽き、別れの潮時だった。彼女の意思をないがしろにして反感を買いたくない。一応、引き止めの言葉くらいはかけておくか。執着心のない淡泊な男だと思われるのもよくない。


「俺も一緒にいたらダメですか?」


「本は一人で集中して読みたいから……ごめんね」


 オブラートに包んではいるが、これだけは譲れないという確固たる主張だった。特にこれといった理由もなく何となく傍にいたいからでは、彼女を不快にさせかねない。彼女の要望に従おう。


「そういうことなら仕方ないですね。また、どこかで会いましょう」


「うん。さよなら、阪城君」


 鶴見はリュックサックを肩にかけ、私語禁止エリアの勉強机に向かった。彼女の情欲をそそる体が見えなくなるまで目で追った。


 俺の仕掛けた罠に彼女がかかるまで、まだ時間がある。鶴見は食堂が混む前に図書館を出ると言っていたから、あと三十分くらい暇だ。


 じっと座ったままでいるのも辛いので、トイレに行った。尿意や便意はなかったが、とにかく立って、体を動かしたかった。


 トイレの前に行くと、女子便所のドアが静かに開いた。長い黒髪をツインテールにした小柄な女が出てくる。側頭部で髪を結んでいるわけではなく、両耳の下で光沢のある髪を結び垂らしていた。


 生地の薄い白シャツを羽織り、黒のボーダーのTシャツが透けていた。紺色のスカートを穿き、膝下の細い脚を露出させている。端正な顔立ちは南場花月と遜色ないが、貧相な胸に細すぎる肢体から、さほど魅力を感じなかった。


 女は俺を視界に収めると、お化けと遭遇したみたく目を見開く。驚いたのち、嫌悪感をき出しにして睨んできた。頬を突き出せば、情け容赦ない平手打ちが飛んできそうだ。


 外面は良いが、内面が致命的にクソのこの女は、雨村梨香だった。先月までボランティア部に所属していたが、今は退部している。自分がこぼした部員の陰口が部に広がり、いたたまれなくなったのが原因だ。


 黙ったまま敵視する雨村に、努めて明るい声で言った。


「出会い頭に殺気立つのは、いかがなものだと思うけど」


「いきなり目の前にゴキブリが現れたら、誰でも不快になると思うけど」


「少し前まで仲良かったのに、今じゃあ害虫扱いですか」


 かわいい見た目に反した、辛辣な物言いは健在だった。


 にしても、ちょうどいいところに知人が現れてくれてよかった。俺は雨村が立ち去る前に、トートバッグから文庫本を取り出した。


「雨村、よかったらこの本やるよ」


「いらない」


 無慈悲な即答。だがそれは、俺を唾棄しているから反射的に出た言葉であって、全く本に興味がないというわけではなさそうだった。俺が差し出した本の表紙を、何度か視線を送る。


「小説を読まないアンタが、何でそんなものを持っているの?」


「知り合いからもらって。俺は本なんか読まないって言ってるのに、映画化もされててすごく面白いからって押し付けられた」


 もちろん嘘だ。自分にとって都合のいい話をでっち上げる。


「で、読んだの?」


「いや、読んでない。処分に困っていたところ」


「最低。読む気もないのにもらって、人に始末させるって。私はアンタの保護者でも都合の良い女でもない」


 雨村はそう言い捨てると、俺の隣を横切って行った。無駄に俺との距離を取って。


 仕方ない。この本はまだ俺が持っておくか。

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