鶴見緑 ⑤

「このソファーに座りましょうか」


 俺が図書館に来て一人で寝転ぶ予定だったグレーのソファーに腰掛ける。ソファーの前方にはガラス張りの壁があり、大学の前の道路と空がよく見える。残念ながら悪天候のため、景観はよくなかったが。


 ここだと、固い空気が充満した勉強机と違い、空気がゆるく大きな声を出さない限り話しやすい環境だった。鶴見と親睦を深めるのに、おあつらえ向き場所だ。


 鶴見は、俺の左隣にゆっくりとした動作で腰を下ろした。俺の誘いに応じてはくれたものの、まだ完全に心を開いてくれる様子はなく、ソファーの肘掛け寄りに座る。最初から詰め寄って、まだ土台もできていない信頼関係をぶち壊したくない。今はこの距離で我慢する。


「そういえば、鶴見さんは何学部なんですか?」


「国際コミュニケーション学部です」


 国際コミュニケーション学部は、外国語や異文化、心理学を専門的に学ぶ学部だったはずだ。将来は国際的に活躍したい学生が所属する学部だと、学校のパンフレットで見たことがある。日本語ができれば十分だと思う俺にはよくわからん。


 学部の質問を皮切りに、俺は次々と鶴見に質問を投げていく。講義の時間割は? 地元はどこなのか? 自宅から大学までの距離は? 実家暮らしなのか一人暮らしなのか? どんな友達がいるのか? とにかく、思いつく限り訊いては相槌を打ち、コミュニケーションを取る。話の中で、彼女は俺より一つ歳が上だということがわかる。


 話していて気づいたのは、鶴見緑はどうしようもなくつまらない女だということだ。俺から聞かれたことに対し、機械的に必要なことだけを答える。


「大学に来るのにどれくらい時間かかるんですか?」


「三十分くらい」


「読書以外の趣味はありますか」


「……いえ、特には」


「実家暮らしなんですか?」


「うん」


 と、いった感じに。


 俺の話に食いつくこともなければ、話を広げることもない。本の話題になった時だけ少し口数が増えるくらい。唯一の救いは、こうして身近で彼女の豊満な胸を拝めることだけ。これだけでも、彼女に声をかけた価値があった。誠に眼福である。


 十五分ほど当たり障りのない話をしていると、初めて鶴見の方から尋ねてきた。


「ところで、阪城君は何で私に声をかけてきたの?」


 俺が歳下だとわかり、出会った頃より打ち解けてきたこともあって、さん付けやよそよそしい敬語は取り除けた。これだけでも、俺と彼女の関係は前進していると言えるだろう。一、二歩しか進んでいないとても小さな前進だが。


 彼女から関心を抱かれたことを嬉しく思いつつ、問いに答える。


「鶴見さんに恩を返したかったからです」


「恩? 私、君に何かした?」


「電車で席を空けてもらいました」


 彼女は納得がいっていない面持ちだった。つい最近の出来事なのに、もう記憶の底に沈んでいるのか。いや、おそらく、彼女としては至極当たり前のことをしただけで、礼を言われる善行をした自覚がないのだろう。誰にでもしている気配りだから、特別俺のことを覚えていないのかもしれない。


「よくわからないけど、私に恩を返すために近付いたの?」


 不思議なものを見るように、俺の表情を観察してくる。普通に考えれば、これまで一切交友のなかった他人に、恩返しをしたいからという理由で声をかけるのは胡散臭うさんくさい。それもただ、電車で席を詰めただけなのに。彼女が懐疑的かいぎてきになるのは至って正常だ。だからといって、彼女の疑念を払拭するために本来の目的を話すつもりは毛頭ないが。


 今は、無茶で無理でも恩返しの口実を押し通す。


「そうです。俺って、義理堅いんですよ」


「でも、それなら傘を貸してくれたでしょ。それで帳消しにならないの?」


「あれくらいのことで、恩を返したなんて言えませんよ」


「そう……。うん、まぁ、わかった」


 完全に納得し切った顔ではなかったが、深く考える問題でもないと判断してくれたのだろう。それ以上、彼女から突き止められることはなかった。


 突然、彼女は静かにソファーから立ち上がった。何事かと俺が尋ねる前に、席を立ったわけを答えた。


「少し、荷物を見といてもらえる? その、お手洗いに行きたいから」


 彼女はお手洗いという単語だけ声量を落として言った。その辺の恥じらいのない女より、余程好感を持てる。彼女を見初めた俺の目に間違いはなかった。


 彼女はキャラメル色のリュックサックを俺に預ける前。黒いブックカバーをかけた文庫本を取り出した。


「それであの……もしよかったら、この本読んでみる? さっき話した『通過儀礼の愛』っていう恋愛小説なんだけど。最後まで真剣に読んだら、きっと読み返したくなると思うよ」


 先程までの冷めた目と違い、期待を込めた眼差しで俺にその本を手渡してくる。押し付けるとまでいかないが、俺が本を受け取るまで引き下るつもりはないらしい。断ると好感度が下がりそうなので、俺は無理に笑みをつくって、彼女の本を受け取った。


「ありがとうございます。ちなみに、この本は鶴見さんが買ったんですか?」


「うん。本屋さんのPOPを見て、面白そうだったから。学校の図書館に同じ本があることを知っていれば、お金が節約できたんだけど」


 じゃあ、ちょっと行ってくる、と言い残し、俺から離れて行った。


 黒いブックカバーがかけられた文庫に目を落とし、ため息がこぼれる。面倒な物を預かってしまった。


 俺は小説なんて普段読まない。映像作品ならまだしも、文字の羅列から想像を膨らませ、物語を楽しむことができない。俺にとって文章を読むことは、催眠薬を飲むことに等しい。


 物は試しに、最初の一ページを読んでみる。しかし、二ページの途中まで読むと、飽きてしまった。ただ文を目で追っているだけで内容がさっぱり頭に入ってこない。この小説が面白いのかつまらないのかさえも判断がつかない。本を閉じてソファーにポンと置いた。


 あの女の期待に満ちた目を思い出す。どうせ、自分の趣味の共感者が欲しいために、俺に本を貸してくるのだろう。挙句、感想を聞かせてくれとか、すこぶる煩わしいことを言ってきそうだ。


 もういっそのこと、あの女は諦めるか。彼女から任された荷物も本も置いて、どこかに消えてやろう。こうしてごちゃごちゃ考えて悩む必要もなくなるし。というか、何で俺一人だけがあれこれ気を回さないといけないんだ。


 人の顔色を窺いながら接するという慣れないことをしたせいか、段々、苛立ってきた。あの澄ました顔をしている女に一泡吹かせてやりたい。


 彼女のリュックサックから何か抜き取ろうかと思ったが、リスクが高すぎると思い踏み止まった。さすがにこの歳で人の物を盗るとシャレにならない。下手すれば、通報ものだ。手軽で損害の少ない悪戯を仕掛けたい。


 そこで、ふと気づく。あの女が、狼狽うろたえる姿を見られる方法を。自慢じゃないが、人を陥れることに関しては人後に落ちない自負がある。

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