鶴見緑 ④
「あの、すいません。俺のこと覚えていますか?」
彼女は最初、自分に声をかけられたと思っていなかったのだろう。俺の声に聞く耳を持たず、運命の一冊を熱心に探し続けていた。仕方なくもう一度、話しかける。今度は彼女の左肩に手を置いて。
「あの、すいません」
背中から冷水でもかけられたみたいに、彼女の肩がビクンと跳ね上がる。何事かと、愕然とした目で振り返る。
「君は……」
俺を視認した彼女の顔から、警戒心がわずか和らぐ。どうやら、俺のことを覚えてくれていたらしい。
「そういえば、自己紹介してなかったですね。俺は、阪城って言います」
「えっ、と……うん。こんにちは、阪城さん」
無表情の彼女から返事をもらう。パソコンの画面と向き合っているように、表情筋が動いていない。俺の顔に見覚えはあるようだが、まだ気を許してはくれないみたいだ。
「そういえば、名前を訊いてなかったですよね。教えてもらってもいいですか?」
「私の名前、ですか?……」
彼女の目が、人を
名前を聞いてから数秒の間を経て、彼女から淡々と手短に名を告げた。
「
「鶴見さんですか。それは苗字ですか? 名前ですか?」
「苗字ですけど」
「じゃあ、名前は何て言うんですか?」
またも返事にタイムラグが生じる。彼女の
「……言う必要ありますか?」
「個人的に興味があるので」
彼女はさらに逡巡したあと、「……
改めて鶴見を正視する。化粧気が薄く、普通の女よりやや眉が太い。そして、眠たそうに開けていた細い目。残念ながら、美人の枠にカテゴリーしないが、豊かな胸に反抗的な性格は、性欲と独占欲を刺激させられる。十分俺の
彼女との邂逅で、沈んでいた気分が晴れた。無気力だった身体に力が加わる。
「俺のこと覚えていますか?」
「えぇ、まぁ……。その節はどうも」
彼女の表情は、まだ固かく暗かった。受け答えもぞんざいで、馴れ合うつもりは微塵もないという態度。このまま重い空気が流れれば、何のために声をかけたかわからない。
鶴見の機嫌を取るため、彼女が得意としそうな話題を振ってみる。本棚の前に立ち、周りが見えなくなるほど本を眺めていたのだ。本好きなのは、疑う余地もないだろう。
「よく、本を読まれるんですか?」
「えぇ、まぁ。読書家を名乗れるほどではありませんが」
「へぇー、どんな本を読むんですか?」
「それを聞いてどうするんですか?」
「鶴見さんと仲良くなりたいです」
返事がない。こちらの真意を推し量るように虚空を見て悩んでいた。
鶴見は「そうですね……」と言い、目の前の本棚に並んでいた本を手に取った。本のことはよくわからないが、表紙やサイズから察するに小説だろう。
「最近だとこれにはまりました。『通過儀礼の愛』という恋愛小説です」
「どんな物語何ですか?」
「話を簡単に要約すれば、主人公の男性と女性が、前編、後編に分けて恋愛をする物語です。ただ他の恋愛小説と違って、ありきたりな恋が成就して物語の幕が閉じるわけではありません。緻密な構成によってどんでん返しの結末が用意されたミステリー要素も含まれています。私も、作者が仕掛けたトリックに仰天して、二度読みしました。最近、映画化もされていてけっこう有名な作品なんですよ。阪城さんも知ってますか?」
「いや、俺は知りません。でも、映画でやっているなら、今度観に行こうかな」
狙い通り、無表情だった彼女の顔に
あまり俺の知らない話をされても退屈なので、話の路線を切り替える。
「鶴見さんは二限目の授業、空いているんですか?」
「空いてますけど……何か?」
恐る恐るといった風に、彼女が訊き返す。
「俺も二限目空いているんです。もしよかったら、もう少し喋りませんか? こうして鶴見さんと再会できて、運命的なものを感じてるんですよ」
彼女は視線を逸らし、難色を示す。当然、彼女の承諾しかねる反応は予想していた。そして、俺の経験則から彼女を攻略する対策も用意してある。
「それに、鶴見さんの小説の話にも興味が湧いてきました。一緒にいたら迷惑ですか?」
一見、ガードが固そうに見える女だが、その実、
「別に迷惑ではないですけど……」
『うん』とも『いいえ』とも言えない玉虫色の返事。それが意味するのは、俺がもう一押しすれば彼女の隣にいても構わないということだった。
「じゃあ、適当にどこか座りましょう」
そう言って、多少強引ではあったが彼女と一緒に移動した。
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