雨村梨香 ⑯
前後左右に揺れる車両の中を一歩一歩踏ん張りながら進んで行く。乗客のほとんどは俺に無関心だが、何人かの視線を感じる。その視線にどんな意図があったとしても、見られるというのはすごくストレスになる。
俺が探していた女は、ドアに寄りかかりひっそりと佇んでいた。彼女の心情を知っていたからか、静かに涙を流していそうな暗い顔で窓外をぼんやりと眺めていた。
俺は雨村に歩み寄り、驚かせないよう声をかけた。
「数分ぶりの再会だな」
雨村はとてもつまらなそうに俺を視認する。道端に捨てられていたハンカチを何の感慨もなく一瞥するように。
「何か用? できれば、今一人にして欲しいんだけど」
「大事なことを伝えにきた」
「何それ? 愛の告白でもしにきた?」
意地悪く口元を歪めて笑う雨村の言葉を無視し、手に持っていたスマホの画面を彼女に見せた。画面には、一年前の彼女と花月が写った写真が表示されている。
雨村は写真を確認すると、不審なものを見るような目になる。
「何でアンタがこれを……。というか、これがどうしたの?」
「花月から送ってもらった。この写真を見て、何か思うことはない?」
「別に」
彼女は写真から目をそらし素っ気なく言う。この様子だと彼女は気づいていない。もしくは、周囲から指摘されることなく無自覚なのだろう。
「俺はこの写真を見てすごいと思った」
「はぁ?」
悲しみで滲んでいた彼女の表情が、怪訝なものへと変わった。その訝しさの中に、怒気も含まれているように見えた。
「いきなり現れて何意味わからんこと言ってるの」
確かに、彼女の言うことはもっとで、俺の言っていることは要領を得ないものだった。口下手な俺は、写真の中の雨村に指を当てて素直に言葉を重ねる。
「この写真に写ってる雨村と今の雨村を見比べてみて、すごく綺麗になったって思う。一年でここまで変わるのかってビックリするくらい」
南場花月という圧倒的な美を誇る存在のせいで、俺も先程まで盲点だった。雨村の変化に。
彼女は一年前と比べて、とても大人びて綺麗になっていた。少女のような幼さを隠すように化粧の仕方を工夫し、異性から好印象の清楚な髪色に戻していた。他にも服装や装飾品、人から見られるものに全て気を配り、容姿を磨き高めて今の彼女がいる。
「雨村は劣等感に耐えられないようになって花月を避けたみたいだけど、花月と一緒にいて得られるものは大きかったんじゃないのか。花月がいたから、ここまで変われたんだろ」
「だったら何? またあの子の引き立て役として一緒にいろって言うの?」
「そうじゃない。劣等感から花月を避けるようになったのを悪く言うつもりは全然ない。これまで通り、花月との付き合いを続けていた方がいいなんて言いにきたわけじゃない」
逃げることを情けないというのは、人の痛みを本当に理解していない暴君の台詞だ。物事の感じ方は十人十色である。ある人にとっては何でもないことでも、別の人からすればとても重いことに感じる場合だってある。誰もが自分の中にある怠惰や恐怖や弱気に勝てるなんて思うのは、酷く独善的で横柄だと思う。
じゃあ俺は、人と比べる必要なんてないと、安い慰めを彼女に言いに来たのか? いや、そうじゃない。それができるなら、彼女は人と距離を置くほど人間関係に悩んでなどいない。
「じゃあ、何を言いに来たの?」
俺の胸中の自問と反復するように、彼女が尋ねてきた。
激励? 同情? 慰め? それとも、美談? 違う、そうじゃない。
人の心を揺れ動かすような体験も話術もない俺に、折れた彼女の心に響く言葉は持ち合わせていない。
だから俺は、彼女にこう言いたかった。
「雨村が、すごく頑張ったってことを伝えにきた」
「私が、頑張った?……」
「そう。出会って間もない俺がこんなこと言うものおかしいけど、本当に綺麗になったと思う。他の誰かが何て言うようと、雨村が積み重ねてきた努力を、俺は尊敬する」
空っぽな俺がかけられる言葉なんて、自分にはない人の美点をただ褒め称えるだけだ。だけど、彼女には決定的にそれが足りていなかったと思う。だから、本来なら別に言わなくてもいいことを、あえて言いにきた。
努力をすれば必ず結果がついてくるなんてわからないのが現実。けど、努力をした人は、皆、報われるべきであると思う。成功か失敗かだけで全てが決められる、そんな世界はあまりにも生き辛い。だから、彼女の人知れない功績に称賛を送りたかった。
彼女はきょとんとしたまま俺と目を合わせる。俺の言葉がどこまで彼女に届いたのか見当がつかない。というか、一歩引いて自分の言動を見つめ直してみると、すごく青臭いことを言っていて恥ずかしい。雨村の成長に気づき、衝動的に行動していたせいで自制が利いていなかった。
雨村は事態に飲み込めていない様子で、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「……何が目的でこんなことわざわざ言いに来たの?」
「目的という目的はないけど、あえて言うなら雨村にお昼のことを許してもらうためかな」
自分のせいで誰かが傷つき、何のフォローもなく放置したという事実を作りたくなかった。小心者の俺は、彼女を慰めに来たというより、彼女から嫌われることを恐れて動いただけだ。そう、ただの自己満足。
「別にもう気にしてない。アンタに悪意があって花月を連れてきたとは思わないし、言いたいことは食堂でもう言ったし」
それを雨村から聞けただけで、罪悪感が軽くなった。わざわざ別車両から歩いてきた甲斐があった。
彼女は遺憾な面持ちで小さくため息を吐き、車窓から流れる景色を見た。
「どうせなら、イケメンにそんなこと言って欲しかったなぁ」
「俺じゃあ物足りない?」
「残念ながら。私、欲張りだから。そうね……せめて苗字くらい変えて私の前に表れて欲しいわ」
「それは無理」
天宮も、雨村と似たようなことを言っていたような気がする。阪城という苗字は呪われているのだろうか? いよいよ真剣に考えなければならないと思った。
「まぁ、でも、ありがと。こんなバカみたいに正面から私のこと褒めてくれたのは、アンタがたぶん初めて」
「バカは余計だと思うけど」
「じゃあ、アホ?」
「いや、もうどっちでもいい」
雨村と言葉を交わし、彼女の憂いのない仕草を見て、やっとわだかまりから解放された。
劣等感という、彼女の根本的な悩みを解決できたわけじゃない。それは彼女の心に長く根付いたもので、
それから俺たちは、たわいのない世間話をした。彼女が勤めるアルバイト先の苦労と愚痴。最近テレビで見た印象に残るエピソード。本当にどうでもいいことを話した。今まで感じていた気まずさが嘘のように。
終点の駅に着くまでの途上。 雨村梨香が、俺との会話でこぼした表裏のない笑みは、南場花月でさえ表現できない愛おしさで溢れていた。そう思ったのは、俺の勘違いだろうか。
……いや、そんなことはないな。
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