雨村梨香 ⑬
食堂の返却口に人だかりができ始めた頃。ガラスの窓越しから中庭を一望すると、学生がぞろぞろと各校舎に入っていた。腕時計を見る。午後、一時ジャスト。昼休み終了まで残り約十分だった。移動時間を考えれば、俺もそろそろ教室に向かわなければならない。
三人の会話にほとんど不参加であったが、それほど退屈と居心地の悪さは感じなかった。花月と雨村が、講義にまつわる話や過去のおもしろい体験談をして、場の空気を和ませた。俺は適当に相槌を打つだけでよかったので、気まずくならなかった。時間が過ぎるのが早いと感じたくらいだ。針の
花月と末治が荷物とトレーを持って立ち上がる。二人も俺と同様、これから三限目の講義があるらしい。
「それじゃ、もう行くね。また一緒にご飯食べる機会があればよろしくね、梨香、公大」
花月が愛想良く言う。
「今日はご飯に誘っていただき、ありがとうございました」
末治が礼儀正しく感謝する。
「今度は末治君と二人だけで食事がしたいなぁ~」
雨村は、最後まで末治に好意を向けて手を振った。ここまでストレートに
花月と末治は席を立った。が、雨村はまだ席を立つ気配がない。三限目の講義がないと言っていたので、混雑時を避けて食堂を出るのだろう。
先に席を立った二人に合わせるように、俺も食堂から出て行こうとした。やっと落ち着かないほどがやがやとした空間から抜け出せる。
「あっ、ちょうと、阪城君は待ってもらっていい?」
雨村がにっこり微笑みかけてきて言った。
「俺?」
雨村の意図がわからず、思わず聞き直す。どうも怪しい。彼女が俺に愛想よく振る舞うなんて。
「大丈夫、すぐ終わるから」
彼女の言うことを額面通りに受け取り、浮かした腰を再び下ろした。
雨村に呼び止められた俺を、花月が首を傾げて訊いてきた。
「あれ? 公大も次の講義があるんじゃなかったけ? 行かないの?」
「今、雨村に――」
「阪城君がどうしても私に話したいことがあるみたいだから、先に行っといて」
俺が答えるよりも早く、雨村が周囲の音にかき消されない声で言った。というか、雨村の言い方だと、まるで俺が望んで雨村と話したいみたいになる。
花月は納得し、トレーの返却口に行った。
先程まで談笑が交わされていたテーブルから二人の人間が立ち去り、少し寂しくなった。食堂自体が静寂の空気に包まれたわけでもないのに、俺たちのテーブルだけがしんみりとした。適当な話題を振って、この静けさを破りたい。しかし、その適当な話題が見つからず、結局黙ってしまい沈黙が保たれる。そんなふうに思ってしまうのは、人目ばかり気にしてしまう小心者の俺だけだろうか。
対面する雨村が、細く艶やかな黒い髪先を指でくるくるといじりながら言った。
「何で呼び止められたかわかるでしょ?」
「心当たりはないけど……」
ほんのわずかだが、彼女の眉間がピクリと反応した。もしかすると、何かまずいことを言ってしまったのではないかと不安になる。
「私は今、とてもご立腹です。それはもう、アンタの頬をビンタしたいくらいに」
素敵な笑顔に似合わない暴力的な台詞だった。たいした用件ではないと高を括っていたが、どうやら見込み違いだったらしい。緩んだ気を引き締める。
「俺が何をしたかは知らないけど、平和的な解決を望む」
「それはアンタ次第」
雨村が何に腹を立てているのがわからないが、交渉の余地はあるらしい。
髪先をいじるのを止めると、深いため息とともに人当たりの良い雰囲気を消した。食堂に来て間もない時に聞いた、冷酷な呟き。その時の彼女を思い出させる。
「よくも最悪なタイミングで、最悪なやつを連れて来てくれたわね」
何となく雨村が言わんとすることは読み取れた。俺の予感ができれば外れていればと願いながら、とぼけてみる。
「えっ、と、何のこと?」
「花月のことに決まってるでしょ」
ついに、彼女の顔から笑顔という化粧が剝がれ落ち、剣幕が表れた。口答えするようなら、情け容赦なく罵倒を吐いてきそうな様子だった。
「せっかく末治君と親睦を深められると思ってたのに」
「それは十分果たせたと思うけど。さっき一緒にご飯を食べてたし」
「花月が一緒いたら意味ないの。私だけを見て欲しかったのに」
「じゃあ、雨村が今怒ってる理由は、末治と食事をしているところに俺が花月を連れてきたから?」
「そうよッ」
語気を強めて彼女は言う。強欲で面倒な女だ。これは少しの時間で解放されそうにない。隙を見つけて逃げ出そう。
彼女の理不尽な怒りが今以上に燃え上がらないよう、別の角度から話をする。
「でもこの前、別に花月のことは避けてないって言ってただろ」
「あれは理由を話したくない適当な方便に決まってるでしょ」
俺に嘘をついたという悪気は、少しでもないのだろうか。
「四人でご飯を食べていた時は、そんな嫌がる素振りを見せてなかったけど」
「アンタって女のこと何も知らないのね」
人を見下した言い草。それはまるで、世間知らずの子どもに偉そうに説教する大人みたいだった。
「女ってのは、嫌いな相手がいても、直接それを本人に言わないの。男みたいに単純な生き物じゃないから」
「俺はともかく、全世界のオスを敵に回すような言い方は控えた方がいいかと」
「アンタだから言ってるんでしょ」
ですよね。
「女はね、嫌いな相手でも表向きは普通に喋れる。けど、それは社交辞令。本人がいないところでは、友達とか家族にボロクソ言ってるんだから」
彼女の言っていることは、わかるようで、でも俺自身の言葉では説明できない価値観だった。人のいないところで愚痴をこぼすのは、性差に関係ないだろう。
やはり雨村は、花月を遠ざけていた。今回はたぶん嘘じゃない。彼女の言動に余裕も違和感もなかったから。
なら、彼女が花月を嫌う理由は? その経緯を想像できない。俺の目から見て、南場花月は少々おせっかいなところもあるが、人から嫌われるような人間ではない。自発的に声をかけてコミュニケーションを取り、話の内容に偏りもなく、つまらない愚痴もこぼさない。彼女が傍にいても恥ずかしくも、煩わしくもない、綺麗な女だと思う。
移動時間を考慮すれば、そろそろ食堂を出ないと三限目の講義に遅刻する。雨村が花月を嫌う理由に興味がないと言えば嘘になる。ただ、呪いの影響もないのに、これ以上雨村と一緒にいても不毛だろう。講義に出て単位を取ることの方が大事だ。
「話の途中で悪いけど、そろそろ行かないと講義に間に合わない。また今度でいい?」
「じゃあ、私も付いて行く」
「はい?」
さっき雨村は、三限目の講義はないと言っていたはずだが。
「アンタが次に受ける講義は、六号館であるでしょ。私もその講義取ってるから付いて行く」
「いやでも、さっき三限目の授業はないって言ってただろ」
「いちいち説明するの面倒くさいな」と、言いつつ、雨村はそのあとに補足説明を加える。
「その講義には、ボランティア部の連中が何人かいるの。部活のやつらとあんまり顔を合わせたくないから、その講義は捨てるつもりだった。まぁでも、アンタが出るなら私も一回くらい出る。講義が終わってから逃げられるのも
「俺ってそんなに信用ない?」
「私に一言も断りを入れないで、花月を連れて来たやつが何を言ってるの?」
声色は優しく口角を上げていたが、彼女の瞳に光が射していなかった。
逆らうと何をされるかわからない恐怖から、雨村の指示に従った。その日の三限目の講義は、これまでにない緊張感で臨むことになった。
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