雨村梨香 ⑩

 五月二十六日、金曜日。俺は八号館の一階にある掲示板の前で、花月と待ち合わせをしていた。二限目の講義が終わる、十二時二十分頃に落ち合う予定だ。


 講義が早く済んで手持ちぶさただった俺は、約束の十分前に来て花月の到着をのんびりと待っていた。絶え間なく左右の方向から通りすがる学生たちをぼんやりと眺める。


 花月は待ち合わせ時間より五分ほど早く、図書館のある一号館から歩いて来た。俺と目が合うと、小走りで近寄ってくる。七分丈のミントグリーンのブラウスに、裾をロールアップしたジーンズを穿いていた。水曜日と同じ清涼感のある出で立ちだった。


 彼女は開口に一番に、両手を合わせて拝むように謝ってきた。


「この前はホンット、ごめんなさい。公大からの連絡を見てなくて」


「いや、いいよ。ちゃんと説明してもらったし」


 水曜日に連絡を取り合えなかった事情は、すでに昨日、彼女からメッセージが送られてきて知っていた。どうやら、水曜日の昼頃、花月のスマホのバッテリーが切れていたらしい。その日は、思いのほか電池の減りが早く、彼女自身こんなことは初めてだと驚いていた。


 もしかしたら、そうなったのは俺に起因があったかもしれない。彼女との連絡手段を断たれたことで、俺は無意味に雨村を約二時間も見張っていたのだ。俺にかけられた呪いが影響して、花月のスマホのバッテリーが切れたという可能性が十分考えられる。怨返しの呪いの影響で彼女をスマホが使えなくなっていたとしたら、強く責められない。むしろ、彼女に迷惑をかけたとなれば心が痛む。


 目の前の美人にいつまでも頭を下げさせるわけにはいかない。周りの人間に俺がどんな目で見られているか。考えると恐ろしい。人前で謝らせるために彼女を呼び出したわけじゃない。


 早速、本題に入った。


「花月の探していた雨村が、今どこにいるかわかった」


「本当にありがとう。とても助かる。梨香はどこにいるの?」


「今、食堂にいる」


「やっぱり、公大はすごいな」


「いや、俺は特に何してないよ……」


 彼女の賛辞を素直に受け取れなかった。俺は血眼になって雨村を探したわけじゃないから。


 今朝、雨村からメッセージが届いた。『末治君とご飯一緒に食べたいから、アンタも来て』と。末治と食事をしたいなら、二人だけですればいい。なぜ、俺を巻き込む必要があるのか、雨村に疑問を返信した。すると、『私は大丈夫でも、末治君が困るかもしれないでしょ。かわいい女子と二人だけで食事をすることなったら』という、返信が一分以内にきた。自信過剰にもほどがある。それに、俺への配慮が欠片も感じられない。怨返しの呪いのことさえなければ、きっぱり断っていた。


 そんな経緯があり、花月と待ち合わせをして、これから雨村に会いに行くわけだ。


 俺と花月は食堂に移動する。昼休みの活気に満ちた中庭を歩くのはわずらわしかったが、食堂に行って雨村がいなかったら花月に申し訳ない。二人が再会するまできっちり見届けよう。


 無言の間が息苦しかったのか、右隣に歩く花月が思いついたように言ってきた。


「公大は一昨日、梨香と会って話をしたんでしょ。私のこと何か言ってた?」


「いや、特に何も。本人曰く、別に花月と距離を置いているつもりはないって」


「そっかぁ……」


 花月は納得していない様子だった。その気持ちはわかる。


 雨村の言葉が真実か虚構かを決めるなら、おそらく後者だと思う。俺が花月の名前を出すと、彼女の目の動きや仕草に、わずかに動揺が見えた。


 そういえば、俺も花月に尋ねておきたいことがあった。


「唐突だけど、花月は末治と同じ高校に行ってたんだよな?」


「えっ、そうだけど。誰から聞いたの?」


「本人から」


 正確には、雨村の質問に対して答えているところを偶然聞いた。


「末治君と友達になったの?」


「いや、全くこれっぽっちも。出会いすらなかったことにしたいけど」


「末治君が聞いたら悲しむよ」


 あの美男に悲しみという感情があれば、俺もここまで言わない。


 花月と末治に思わぬ接点があった。呪いに苦しんでいる身としては、必然的に彼女が依頼者なのでは勘ぐってしまう。とはいえ、彼女が過去にいじめを受けていたようには見えないし、出会った記憶もない。小中高のアルバムの中にも、彼女の名前はどこにも記載されていなかった。


 訊くだけ無駄だと思いつつ、俺は花月に言った。


「あのさ、花月。できたら正直に言って欲しいんだけど」


「どうしたの? 急に改まって」


「俺のこと怨んでない?」


「怨む? 公大のことを」


 彼女の目が点になっている。まるで、異国語をリスニングするような難しい顔して。


「まさか。怨むどころか、おまじないをかけてでも公大の幸せを願ってるよ」


 嘘をついているとは思えない、極めて自然に出た言葉と微笑だった。元々、根拠という根拠はなかったのだ。彼女が白だというのは当たり前か。


 彼女のような善人に疑念を抱いてしまった罪悪感。俺の身近に依頼人がいなかった安心感。二つの感情が混濁し、複雑な気持ちになる。


 俺の見当違いだった小さな不安材料を消して、雨村のいる食堂に到着した。

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