第3章 雨村梨香
雨村梨香 ①
やらなければならないことは、さっさと済ませるべきだ。それが遅れれば遅れるほど、自分の首を絞めるようなことであるなら尚更。
五月二十四日の水曜日。あくびを嚙み殺しながら、一限目の講義を受け終えた。教室にいた学生たちが、我先にと教室の出入口付近に密集する。
俺は淡いチョコレート色の髪をした女を見つけ、会いに行った。彼女はホワイトボードの近くの席に座り、赤いメガネをかけた女性と雑談に興じていた。
二人の会話がちょうど途切れた時を見計らって、声をかけた。
「花月、今、少しいいかな?」
花月は俺の声に反応して、リスを彷彿させる愛らしい眼を向けてくれた。視線が合うと、柔和な笑みを浮かべた。
「おはよう、公大」
今日の彼女は、晩春を思わせる涼しげな装いだった。七分丈のミントグリーンのブラウスに、ふくらはぎが若干見えるくらい裾をロールアップしたジーンズを穿いていた。
「そういえば、公大もこの講義取っていたんだね。初めて知ったよ。それで、私に話しって何かな?」
「あぁ、うん、実は――」
俺が要件を言い始めると、赤いメガネをかけた女が席を立って言った。
「それじゃあ、私はもう行くから。じゃあね、花月」
「えっ、もう行くの先輩?」
赤いメガネをかけた女性は頷いた。
花月は残念そうに一度席を立ち、女を教室の通路に通す。彼女は、花月に手を振って教室の出入口に向かった。
たぶん、俺と花月が話しやすいように、気をつかって席を外してくれたのだろう。何だか申し訳ない。
「話を戻すけど、いいかな?」
「うん」
彼女は再び席に着き、俺も彼女の一つ後ろの席に腰かけた。
俺が花月の元を訪ねたのは、他でもない。彼女が現在抱えている悩みを解決して、怨返しの呪いを終わらせるためだ。
昨日、天宮の恩を返すために、花月の力を借りた。その結果、天宮には恩を返すことができたが、彼女に恩義を感じ、新たな恩返しの相手となった。言うなれば、元の
彼女には一度、恩を返して呪いを終わらせた経験がある。何をすれば彼女が喜んでくれるのか、だいたい把握しているつもりだ。
「唐突だけど、今、何か悩み事はない? 自分のことだけじゃなく、悩んでいる人や、助けてあげたい人でもいいんだけど?」
南場花月という人間は、人に奉仕することで幸福を感じられる、サービス精神の
「ホント、唐突だね。ちょっと待って、考えるから」
彼女は俺の質問に一切の疑問を持たず、真摯に考えてくれた。俺に全幅の信頼を寄せてくれているからか、『何でそんな恩着せがましいことを聞くの? 何が目的なの?』と、口を挟んでこない。少しは
「悩みって言うほど大げさなのことでもないんだけど、いいかな?」
俺は「もちろん」と、言って
「実は私、ある人から避けられているような気がするの」
「避けられている?」
この容姿端麗で、品行方正な彼女が? 誰かに執拗に追い回されていると言われた方が、まだ現実味がある。人を惹きつける要素はあっても、遠ざける要素などないだろう。
「誰に避けられているのか訊いてもいい?」
「うん。梨香って覚えてる? この前、私が部活に残って欲しいって言ったけど、結局、ボランティア部を辞めた女の子なんだけど」
会ったことはないが、その人物の話だけなら色んな人たちから聞いた。花月からは絶大な好感を得ていて、他のボランティア部の人、主に女からは毛嫌いされていた同学年の女。
確か、梨香がこぼした部員たちの陰口を誰かが密告し、部活で居場所がなくなった。元々、部活動に熱心ではなかったことも相まって退部した、という話だったと思う。
だが、梨香が花月に好感を持てる理由はあっても、避ける理由はないはずだ。他の部員たちが敵に回っても、花月だけは最後まで彼女を擁護し、部に残留することを勧めたのだから。
「詳しく話を聞かせてもらえる?」
最近、こうして人の相談に乗ることが多くなったなぁ、と心の片隅で思いつつ、花月の話に耳を傾けた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます