天宮満 ⑨
花月と上手く離れることができ、約一時間半ぶりに一人の時間を取り戻せた。安堵と疲労の混じった、深いため息をこぼす。
花月にお手洗いに行くと言っていたので、彼女のあとをすぐ教室に入ると
青い紳士のイスラトが描かれたドアを開く。小便器と個室のトイレが二つある、小さな便所だった。毎日、清掃員の方が掃除をしてくれているおかげで、清潔感が保たれていた。
俺が男子トイレに入ると、洗面台の前に一人の男がたっていた。それも、驚くべき人物が。
金髪の男、天宮満が、鏡の前で手を洗っていた。
意外な場所とタイミングで天宮と再開し、身体が硬直した。アプローチをする機会はすぐ目の前にあるのに、何と声をかけていいのかわからない。
ドアを開けて立ち止まる俺を不自然に感じてか、天宮が鏡越し俺を見てきた。
天宮の鋭い視線に
「あの、この前はありがとうございました」
同級生であることは知っていたが、一応敬語を使った。面識の薄い相手に敬語をおろそかして、失礼なやつだと思われたくない。
振り向いた天宮が、『突然、こいつは何を言っているんだ』、という奇人変人を見るような顔つきになった。逆の立場なら、俺も似たような反応をするだろう。
斜に構える天宮に、俺は説明を補った。
「先週の水曜日、購買で俺にご飯を奢ってくれましたよね。覚えていませんか?」
「あぁ、あの時の……」
どうやら思い出してもらえたらしい。警戒心が剥き出しの表情から、力を抜いて対話するものへ変わる。
「ビックリした。いきなり知らねぇやつから睨まれてきたから」
天宮はそう言うが、とても驚いているようには見えなかった。濡れた手を洗面器の上で払って、雑に乾かしていた。
事前調査があまり進んでいなかったが、俺は下手な探りを入れる余裕もなく、用件を切り出した。細事を気にかけないこの男には、はっきりと物事を伝えるのが適切だと思ったから。
「驚かせるつもりはなかったんですが、何かすいません。ここで会ったのも何かの縁ですね。この前のお礼をさせてください」
天宮は強面の顔をほころばせて言った。
「いいよ、別に。律儀なヤツだな。俺はたった数百円のことでがたがた言う器じゃねぇよ」
「何かお返しをさしてください」
そうしないと俺が困るんで。
遠慮する天宮に、交渉の余地を探す。相手の懐の深さを甘えたいが、ここで簡単に折れるとまた理不尽な目に遭う。
「黙っておごられとけ」
まぁ、でも、と天宮が言って、大きな体で俺に近づいて来る。何をされるのかわからず、俺は恐れて半歩退いた。
身構えていた俺に、天宮は相好を崩して言った。
「感謝だけは受け取っとく。それじゃ」
天宮はそう言い残し、俺の隣を横切りってトイレから出て行った。自身の行いを誇る素振りは皆無で、打算や称賛に淡泊な姿勢。彼のことをまだよく理解していないが、良い人を演じていたわけではなさそうだった。
花月から聞いた情報で、天宮という男は、もっと粗暴で、金の亡者という先入観を持っていた。が、今の短いやりとりで、思っていた人物像とのギャップに戸惑った。確かに表面的なところで見ると、人相が悪く近寄りがたい雰囲気があり、無骨な言動が目立つ。しかし、実際に接してみると、良い意味で細かいことに執着せず、自然と笑みがこぼせる好青年だった。
俺は天宮の後をすぐに追いかけた。彼は、先程、花月が入室した教室のドアを開けた。
次の時間、俺と同じ講義を受けているのは都合が良い。講義前に、再び接触を試みようか。
だが、花月には、一人で勉強したいとさっき言ったばかりだ。天宮の側に行って話をすると、俺が彼女に嘘をついたことになる。実際、嘘をついたことに変わりないが。二度と会わない相手なら憂いもないが、花月のことだ。いつか俺の虚実を追及してくるだろう。それは、怨返しの呪いに匹敵、あるいは上回るほど面倒な事態になりかねない。
「やっぱり、人付き合いは面倒だ……」
結局、花月の視線が気になって、教室で天宮に接触するのは控えた。四限目が終わった放課後に、もう一度当たってみることにした。
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