天宮満 ⑤

 花月との世間話は、講義が始まっても声をひそめ、会話のテンポを落として続けた。彼女はしきりに「私たちの声、大きくないかな」と、確認を取り、先生の視線と周りの迷惑を気にかけていた。周囲の学生もこそこそと喋っていたので、俺たちだけ変に目立つことはなかった。


 互いのことをよく知るためと言って、花月が小学校の時に流行っていたことを話題にしてきた。


 その時だった。


 教室のドアが開かれた。講義が始まって数分後に入室してくることなんてよくあることだ。開閉音に反応した何人かの学生が、遅刻者に視線を送る。俺も一目、遅刻者の顔を見ようとした。


 視線はすぐに外すつもりだった。けれども、俺の意思に反して、注意深くその者を凝視してしまった。顔の造形から、頭髪、体つき、服装まで、その人物だけに全神経が集中した。


 胸の鼓動が高鳴った。再会を熱望していた金髪の男が、教室に現れたからだ。


 あの男とは一度しか会ったことがなかったが、俺には確信があった。高飛車な雰囲気や、マイペースなところ。迷彩柄のパーカーに、ダメージが入ったジーンズといった装い。水曜日に邂逅した金髪の男と、全てが一致していた。


 金髪の男は、教室の出入口付近の席にドスンと着いた。白いトートバッグを机の上に置き、スマホをいじりだす。遅刻してきてその態度は、授業をなめているとしか思えなかった。


 周りの目さえなければ、今すぐにでも金髪の男の元に駆けつけたかった。会って、話がしたい。ただ見ているだけが歯がゆかった。


 左袖をぐいぐいと引っ張られた。その感覚で我に戻る。


「どうしたの、急にぼうっとして」


 聞くだけで癒されるような花月の小声。彼女の綺麗に整った眉が八の字になっていた。


「いや、何でもない」


「本当? 大丈夫?」


 小さく頷いて応える。体調が崩れたわけじゃない。ただ、動揺しているだけだから。


「そう、ならいいけど。……それで、話は戻るけど、小学生の時、私の学校で変な遊びが一時期、流行っていたの。主に男子の間で。何だったと思う?」


「ええっと、何かな……」


「少しは考えてよ」


「あぁ、うん……、何だろ?」


 正直、花月の話は聞こえなかった。いや、正確には彼女の声は聞こえたが、言葉の意味を理解しようとしなかった。歌の歌詞を聞き取らず、メロディーだけをぼんやりと聴いている感じ。俺の意識は今、完全に金髪の男に向いていた。俺にとって死活問題――と言うと、やや過剰表現だが、平和なキャンパスライフを送るためには、あの男を観察するのが最優先だった。


「さっきから、あの遅れて来た人を見ているけど、何かあるの?」


 俺の視線の先にいた人物を、花月に気づかれた。


「あぁ、少し気になって」


 花月は金髪の男をじっと見つめて、事もなげに言った。


天宮あまみや君のことが?」


「えっ?」


「だから、天宮満あまみやみちる君。あの金髪の男子のことだって。気になってるんでしょ」


 花月は俺の恩返しの相手である、金髪の男を小さく指さして言った。


 胸中に溜まっていた焦燥感が、全身から発散されたようだった。今の心情を例えるなら、どこを探しても見つからなかった家の鍵が、ズボンのポケットに入っていたような気持ちだ。嬉しい誤算に、彼女の手を握りたくなる。こんな身近に、金髪の男を攻略できるキーパーソンがいたなんて。


 湧き上がる興奮を抑えて、冷静に花月に尋ねた。


「あの男のこと知っているのか?」


「うん。一時期、ボランティア部にいたし」


 なるほど、部活の繋がりで知っていたのか。天宮という男が、無償の奉仕活動に奮闘する姿が全然目に浮かばないが。


「知っていることだけでいいから、天宮のこと教えてくれないか?」


「ちょっ、公大、声が大きいって」


 花月が慌てた表情で制してきたので、「あっ、ごめん……」と、口パクに近い声量で謝る。自分では声量を抑えていたつもりだが、無意識に大きくなっていたらしい。彼女に恥ずかしい思いをさせてしまった。幸い、教壇に立つ先生は、俺たちのひそひそ話に気づいていないのか、あえて無視しているのかはわからないが、淡々と授業を進めていた。


 反省すると、ようやく感情の起伏が穏やかになった。もう一度、花月に頼んでみる。


「頼む、天宮のこと教えてくれないか?」


「うん、いいよ。でも、条件があるけどいい?」


「条件?」


「天宮君のことは、授業が終わってから喋っていい? さすがにこれ以上話していたら授業についていけないし。他の人に迷惑がかかるかもしれないし」


 天宮という男をいち早く知りたい俺にとっては、納得しかねる条件だった。ただ、授業中に私語を慎むという正論に、異を唱えることができなかった。


 俺は授業後に天宮を追いかけることを諦め、「了解」と、答えた。月曜日の三限目にこの講義を取っているだけでも、一つ収穫があった。


「それともう一つ。私、ここからだとホワイトボードに書かれた字が見えないの。だから、ノート写さして」


 それは二つ返事で引き受けられる取引だった。


「あぁ、任せろ」


 花月との会話を打ち切った。彼女の声が聞こえなくと、板書された文字とルーズリーフを交互に見ながら、シャープペンシルを走らせた。

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