第1章 南場花月

南場花月 ①

 末治英雄と出会ったその日の午後。


 三限目の講義が始まって早々、困ったことが起きた。


 常備していたルーズリーフを切らしてしまった。昼休みに買いに行こうとしていたが、すっかり失念していた。


 このままでは、板書された講義の内容を書き残しておくことができず。期末テストに向けて復習できなくなる。


 ショルダーバッグからメモを取れそうな紙を探す。読みかけの小説、財布、スマホの充電器、教科書、クリアファイル、ティッシュ……。他の講義で配布されたプリントがあったが、その紙に書くことは抵抗があった。手持ちにメモできる紙はない。


 俺の性格が外向的であれば、近くにいた誰かにルーズリーフをいただく選択肢もあった。だが、いかんせん、人付き合いが面倒なたちだ。見知らぬ他人から紙を要求するくらいなら、ノートを取ることを諦める。


 仕方ない、この時間の講義は捨てるか。


 俺が所在しょざいなげにしていると、不意に背後から一枚のルーズリーフが伸びてきた。俺に譲るように、それはそっと置かれた。


 不審に思って振り返る。


 そこには、輪をかけて綺麗な女がいた。


 おそらく、今年で二十歳になる俺と同い年。女は優しく口角を上げて、愛らしいリスのような瞳をしていた。艶やかでまっすぐに伸びた淡いチョコレート色の長髪。薄化粧で色白の小顔は、健康そのもので瑞々しい肌だった。過大評価でちょうどいい美貌。


 女は腰を少し浮かせ、俺の机にルーズリーフを置こうとしていた。その所作と、女が着ていた袖のない乳白色のニットのせいで、豊かな胸が強調していた。ルーズリーフを机に置いた際、キャラメル色のロングスカートを穿いているのが見えた。


「よかったら、これ使って」


 女は、俺にウインクを送ってそう囁いた。小声ではあったが、はっきりと聞き取れる澄んだ声色だった。


 俺は周囲の目を気にしながら、女の情けを断ろうとした。


「いや、別にいいですよ」


「でも、紙がなくてノート取れないんでしょ」


「いや、でも……」


「いいから、はい」


 女は俺の声に耳を貸すことなく、強引にルーズリーフを机に置いてきた。世話焼きな学級委員。彼女の性格を言い表すとすれば、そんなフレーズが思い浮かんだ。


 優柔不断で、押しに弱い俺は、戸惑いながらもルーズリーフをいただくことにした。女に感謝の意を告げると、優しい笑みを返してくれた。


 高鳴る心音を聞きながら、板書された字をもらった紙に書き写していく。手を動かしながら、棚から牡丹餅ぼたもちとはこのことだと思った。


 しかし、そう遠くないうちに獣食ししくった報いを受けることになる。


 机に置いていたスマホが振動した。スパムメールかと思いつつ画面を点けると、末治英雄からメッセージが届いていた。


 黄緑色の情報交換アプリを開き、末治から送られてきたメッセージを読んだ。


『あなたに恩が着せられました』


 このメッセージの意味を理解した瞬間、女からルーズリーフをもらったことを後悔した。そして、思い出す。今日の昼休みにあった、美青年との出会いと、作り話みたいな不幸な出来事を。

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