序章 末治英雄

末治英雄 ①

 五月八日。大型連休明けのキャンパスは、桜花おうかが舞っていた時期と比べ、心なしか閑静としていた。昨年、俺が大学一年生だった時にも、連休明けの校内は学生数が減っていたことを思い出す。社会人が休日から脱却しても、一部の大学生は日常に帰らず、ぬるま湯に浸かるように休日を過ごしている。


 二限目の講義を終えて昼休みになった。お腹の空き具合に関係なく、教室を出て図書室に向かう。キャンパスライフを単独で過ごす俺にとって、人が溢れる二限目直後の食道ほど居心地の悪い空間はない。


 六号館(大学の中心にある七階建ての建物。主な使用用途は講義全般)を出て、外の陽射しを浴びる。大学の敷地内は手入れの行き届いた多様な庭木が立ち並び、クリーンな風景を彩っていた。見慣れた緑の風景に何の感慨もなく、ベージュ色のタイルで舗装された道を歩いていく。


 ぼうっとした頭で一号館(正門近くにある四階建ての建物。教務課や図書館がある)に向かう道すがら。聞き覚えのない澄んだ男の声に、呼び止められた。


阪城公大さかしろ こうだいさん、ですよね?」


 声がした方に振り返ると、背丈の高い男がいた。


 男は爽やかな微笑みを浮かべていた。同性の俺でも一瞬、返事を忘れて見惚みとれるくらいの眉目秀麗。白シャツの上に、体のラインに沿った紺色のジャッケトを羽織り、清潔感のあるグレーのパンツを穿いていた。ブラウンの革靴は下ろしたてようだった。着用している物はどれもそれなり値段がかかっていそうだったが、その服を着こなすだけの魅力がこの男にあった。俺が女なら、間違いなく一目惚れしている。


「あの、阪城公大さんで間違いないですよね?」


 黒髪の美青年から重ねて名前を確認された。


「はい、間違いないです」と、俺は戸惑いながら応えた。


 男は俺を認めると、右手を差し出してきた。差し出された手が何を意味するかわからず当惑したが、数秒考えてから握手のサインだと気づいた。


「お会いできてよかったです」


 男は愛想よくそう言い、握手を交わした。男の手は細くてやわらかく、これまで汚れたものを触ったことがないみたいに綺麗だった。


「阪城さんにお話したいことがあります。今、お時間は大丈夫ですか?」


「えぇ、まぁ……」


 とっさに言い訳が思いつかず、曖昧な返事をした。人間関係を忌避する俺としては、正直、この美青年と関わりたくなかった。素直に言動に移せなかったのは、俺が押しに弱いからだ。


 俺と見知らぬ男は、近くにあった木製のベンチに腰かけた。ベンチの後ろには、人工芝でできたグラウンドがある。サッカーの試合ができるほどの面積で、今は数人の男たちがボールを蹴って遊んでいた。

 

 感心するほど礼儀正しくて、非の打ち所がないほどの美男とは、縁もゆかりもなかった。容貌、性格、品位からして、住んでいるまるで世界が違う。それなのに、俺に話とは? そもそも、なぜ俺の名前を知っている? この男との接点が何一つ思い浮かばない。


 突然、声をかけられた緊張がほぐれていき、ふつふつと疑問が湧いてきた。冷静に思考ができるようになり、男の目的を推測する。時季外れの部活の勧誘? それとも、噂で聞いたことがある宗教のお誘いだろうか。


 男の目的をそうこう考えていると、彼から話の口火を切ってきた。


「単刀直入に言います。あなたの空虚なキャンパスライフは終わりました」


 男は爽やかな笑みを浮かべながら、確かに俺にそう告げた。

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