俺と××の恩返し
ヤマタ
ある男の風変わりな日常
ある男の風変わりな日常
好ましくない一日の始まりだった。
混雑する朝のターミナル駅。俺は改札口から流れ出てくる人を避けて通り、足早に先発の普通電車を目指した。この電車を乗り過ごすと、一限目の講義に間に合わない。
ドアが閉まり、徐々に速度を上げて電車が走り出す。ドア付近には、俺と歳の近い二十台前後の青年ら群がっていた。仕方なく車内の奥に進み、つり革を持った。
ここまでよかった。
遅刻しそうな日なんて別に珍しいことではない。駆け込み乗車は日常茶飯事。人混みに紛れる嫌悪感にもある程度、免疫がついた。俺の日常生活に支障はなかった。
問題はその後に起こった。
俺の眼前に、読書をする女性が腰かけていた。この時間、この電車に乗っていることから、おそらく俺と同じ大学に通う女子大生だろう。
黒髪のセミロングで、線の細い銀フレームのメガネをかけていた。無地の白いTシャツの上にグレーのカーディガンを羽織り、細身のジーンズといった落ち着いた身なりだった。そして、片手に黒いブックカバーをかけた文庫本。良く言えば清楚で知的。悪く言えば地味で固そうな女性だった。
女性は、俺が前に来るとわかると体を右に寄せた。女性の動作に呼応して、隣でスマホを操作していた背広の男も横にずれる。結果、わずかに空いていた座席のスペースに、もう一人座れる広さができた。
気配り上手なのは結構だが、正直その気づかいは不要だった。女性の気持ちは嬉しい反面、今の俺にとってはただのありがた迷惑でしかなかったから。
活字を追っていた女性の目が、ふと俺を見上げた。その視線は『よかったら隣をどうぞ』と、無言で語りかけてくれているようだった。
女性の気づかいを無下にできず、俺は内心でため息を吐きながら腰を下ろした。座して一息入れる間もなく、ズボンのポケットに入れていたスマホが振動した。メッセージを受け取りましたというサインだ。
スマホの画面を確認するまでもなかった。このタイミングで届いたメッセージに心当たりがあったから。
『あなたに恩が着せられました』
そんな文面が届いているのだろう。実際に見なくても予想できた。
俺の心労を知るよしもない隣の女性は、黒いブックカバーをした本を
電車に揺られること約十分。無数の水滴が車窓に降りかかっていた。濡れた車窓の向こうに、俺の通う大学が見えた。
停車の直前、車内はぐらぐらと揺れ、俺を含めた多くの青年たちを吐き出していく。プラットホームは瞬く間に青年たちの喧騒で満たされた。
俺の隣に座っていた女性も本を閉じ、下車する人波に加わった。女性を見逃すことがないように、俺も少し遅れて湿った空気の駅に下りた。
周囲の緩慢な歩調に合わせて改札口を抜けると、先程の女性が人波から外れて屋根の下で立ち止まっていた。誰かと待ち合わせをしているようにも見えた。が、すぐに別の可能性に思い当たった。
女性の手には傘はなかった。激しい雨音が鳴る屋外を、不愉快そうに眺めている。昨晩の天気予報では曇りのち晴れだったので、傘を持ってきていなかったのだろう。
人の不幸を喜ぶわけではないが、これはチャンスだと思った。
俺は、常時ショルダーバッグに入れていた折り畳み傘を取り出した。困っている女性に近づき、騒々しい雨音にかき消されないよう思い切って声をかけた。
「よかったらこの傘、使ってください」
雨に濡れ、息を切らせて、好ましくない一日の始まりだった。
行く道にいた学生から軽蔑や、同情や、奇異の視線がチクチクと刺さる。雨を浴びるより、周囲の視線から一歩でも早く逃れるため、地面の水を弾いて行く。
屋根のある校舎まで走り切り息を整える。肩で息をするまで走ったのは、高校生以来だった。校舎のガラスドアに自分の姿が映っていた。着ていたグレーのパーカーの大部分が雨にかかり、濃色に変わっていた。穿いていたジーンズは、両足に冷たく、そして不快に張り付いていた。
「何でこうなった」
周りに誰もいなかったことをいいことに、不服の独り言をこぼした。
席を空けてもらっただけの見知らぬ女性に、なぜここまで男気をあふれる姿勢を見せるはめになったのか。その理解しがたい理不尽な理由は、今から約三週間前。ゴールデンウイークを終えた月曜日までさかのぼる。
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