11月 烈火
「それじゃ、小峰君の門出を祝って……」
勇蔵がビールの入ったグラスを掲げると、道子と勇蔵の愛人もグラスを掲げた。雄太もグラスを掲げる。
「かんぱーい!」
その声を合図に、4人でグラスを軽く当てる。それから一口ビールを飲んだ。
「いやあ、ホント、小峰君のおかげで助かったよ。ホームページもできたし、顧客管理も物件管理もすべてパソコンでできるようになったし。ずっとやらなきゃ、やらなきゃって思ってたんだけど、なかなかできなくてね。ホント、助かった!」
勇蔵から何度もお礼を言われた。
「ホームページを見た人からの問い合わせも、ちょっとずつ増えてますしね。雄太君、本当にお疲れ様でした」
道子が焼きそばを取り分けて、雄太の前に置いた。
その日、雄太の送別会が赤羽の居酒屋で開かれた。送別会といっても、メンバーは勇蔵と雄太、道子になぜか勇蔵の愛人も加わり、4人だけの飲み会である。
雄太は来週から前職の後輩が立ち上げたIT会社で働くことになっている。あちこちに声をかけたところ、後輩から「来週からでも来てほしい」と言われ、急遽辞めることになったのだ。
「まあ、小峰君もこんな貧乏臭い不動産屋で働いてるより、ITの最前線に戻ったほうがいいもんなあ」
「いえ、最前線ってほどじゃ」
「まあ、辞めてもたまに顔を出してよ」
「ハイ、もちろんです」
勇蔵に笑いかけながら、
――こんなところに二度と顔出すわけないだろ。こっちは忙しいんだからさ。
と雄太は心の中で嘲り笑っていた。
――まあ、いいか。今日一日おままごとにつきあえばいいんだから。飲み会も適当に切り上げて帰るか。
ところが、勇蔵は酔うと絡む性格で、雄太が途中で帰ろうとしても許さなかった。結局カラオケにもつきあわされ、勇蔵が愛人と熱唱する姿をうんざりするほど見せられた。この愛人は隙あれば雄太にも色目を使うので、雄太は交わすのに苦労した。
「雄太君、一緒に歌おうよ」
二人の間に割って入るように、道子がデュエットに誘う。
――おばさんとブスが俺をめぐって熾烈な争いをしてるなんて、何の罰ゲームだよ。ったく。
雄太は、強烈な香水の匂いをプンプンさせている愛人よりはマシだと、道子とデュエットした。道子は酔っているのか、腕を絡ませてくる。
――もう、いいや。どうせ今夜限りなんだから。おさわりもOKってことで、いいよ、もう。
途中から投げやりな気分になっていた。
道子は最後には酔い潰れ、雄太が自宅まで送ることになった。タクシーで二人きりになると、道子はしなだれかかってくる。雄太は何度も道子を押し戻した。
道子は荒川の川沿いにある賃貸マンションに住んでいた。築30年は経っていそうな、古びた感じのマンションである。雄太は入り口で道子を下ろしてそのままタクシーで帰るつもりだったが、道子はタクシーを降りると道路に座りこんでしまった。
「しょうがねーな」
雄太は運転手に待ってくれるよう頼んでタクシーを降り、道子を引っ張り起こして、エレベーターまで引きずるように連れて行った。
「何階?」
「にゃにゃかい」
道子は赤い顔をしながら、ウフンと笑った。
「ハイハイ、7階ね」
雄太はげんなりした。
狭いエレベーターに道子を引っ張り込むようにして乗り込んだ。古びたエレベーターが音を立てて動き出すと、反動で道子の体は大きく揺れ、胸が腕に押しつけられた。雄太は振り払うように突き放した。
「もう、いい加減にしろよ。気持ち悪いだろ? ちゃんと立てって」
雄太が怒鳴ると、道子は驚いたような顔をして雄太の顔をまじまじと見つめた。
エレベーターは7階につき、扉が開いた。道子は足がすくんだように動けないでいる。
「ほら、早く降りろって」
雄太は腕を引っ張り、エレベーターから引きずるように降りさせた。
「痛い」
道子が小さな悲鳴を上げる。
「もう、ここでいいだろ。俺、帰るから」
エレベーターの扉が閉まりかけたので、「開」のボタンを押し、乗り込む。扉が閉まりかけたとき、道子が体を滑り込ませた。道子の体が挟まり、閉まりかけた扉が開く。
「ちょっと、気持ち悪いって、何よ、それ」
道子の目は吊り上っている。
「いつもいつも、人をバカにしたような態度でさ。うちにくるお客さんのこともバカにしてたよね? あんなボロアパートによく住めるなって。あんた、自分以外の人はみんなバカだって思ってるんでしょ? そういうあんたも、負け犬のくせに。キャンキャン吠える、ヘタレ犬のくせに。私があんたを構ってあげたのは、可哀そうだから。うちでひきこもりしてる弟にそっくりだから、構ってあげたのっ。あんたなんか、一人で野垂れ死ねば?」
ところどころ呂律が回っていないが、道子は一気に言い切った。その剣幕に、雄太はただ気圧されて一言も言い返せなかった。
ドアが完全に閉まるまで、道子は荒い息をしながら険しい表情で雄太を睨んでいた。エレベーターはゆっくりと動きだす。
「なんだよ、一体」
ようやくつぶやいたのは、4階を過ぎてからだった。
――冗談じゃねえよ。なんで、あんなブスにあんなこと言われなきゃなんないんだよ。ひきこもりの弟に似てるって……ふざけんな。
雄太は腹立ちまぎれに、エレベーターの壁を蹴とばした。
「くそっ」
心の中にはメラメラと殺意が燃え上がる。
――でも、あんなブタを殺しても、カネをもらえるわけじゃねえし。リスクを冒す意味がないよな。
「あー、もうっ」
エレベーターの壁に向かって、大声をあげる。マンションを出てから、心を鎮めるために何度も深呼吸した。
――落ち着け、落ち着け。あんなブタから何言われようと、気にする必要はない。もう二度と会うことなんてないんだから。一生行かず後家で一人で野垂れ死んでいくブタの言うことなんて、気にするな。来週からは、新しい生活が始まるんだ。
待たせていたタクシーに乗る頃には、少し気持ちが落ち着いていた。
――ある程度稼いだら、今度こそ自分の会社を興そう。その元手を稼ぐためにも、今度の仕事はまじめにやって、人のネットワークもつくっておかないと。負け犬なんかじゃないからな、俺は。今に見てろ。這い上がって、お前なんか、いつか叩き潰してやる。ブスが。不幸のどん底で死ねよ。
雄太は思わず握りこぶしに力を入れた。爪が掌に食い込む。
その日、幸輔はまっすぐ家に帰る気になれず、なじみの居酒屋に寄った。
「いらっしゃい」
板前が幸輔の顔を見るなり、すまなそうな顔をした。
「すみませんねえ、今日は奥の座席を同窓会で使ってるんですよ。騒がしいかもしれません」
以前、幸輔がどんちゃん騒ぎをしている客を怒鳴りつけたからだろう。職業が警官だと分かっているので、店の者は幸輔の顔色を窺うようになった。
「いいよいいよ。ビールちょうだい。やっこも」
カウンターに座り、出されたおしぼりで手と顔を拭う。
「魚は何がある」
「そうですね、サバと金目はいいものが入ってます」
「サバはしめてあんの?」
「ハイ」
「じゃあ、それと、金目は煮つけで。後、筑前煮もちょうだい」
幸輔は冷ややっこと枝豆をつまみにビールを一杯飲んでから、すぐに日本酒に切り替えた。
「今年は暖冬って言われてますけど、さすがに朝晩は涼しくなってきましたねえ」
「ああ」
筑前煮を出しながら、女将が話しかけてくる。幸輔は上の空で返すだけだった。女将は幸輔の様子を見て、それきり何も話しかけてこなかった。
ここのところ、直行のパソコンで見た画像がずっと頭から離れなかった。仕事に集中しようと思っていても、身が入らない。書類作成で簡単なミスをしてしまい、上司から注意されるという失態もあった。
――息子が変態だとバレたら、足を引っ張るやつらが出てきやがる。バレる心配はないと思うけど、あいつ、勤務先で変な行動してないだろうな。
そのとき、座席でどっと笑い声が起こった。思わず幸輔が振り向くと、ふすまを開けて出てきた40代ぐらいの男と目が合った。
「すみません、騒がしくしていて」
男は幸輔に頭を下げた。
「ああ、いや。同窓会なら騒ぐのが普通でしょう。どこの学校ですか」
「西松小学校です」
「へえ、西松小」
――直行が通っていた学校じゃないか。
その男は幹事なのか、女将に何か相談している。
ふすまが細く開いていて、そこから中の会話が漏れてきた。幸輔は何となく耳を傾ける。
「米原先生、定年後はどうするんですか」
「そうだな、家でブラブラしているわけにもいかないから、ボランティアでもやろうかと思って」
「ボランティア?」
「学生時代の友人が、NPO法人をつくって、青少年を更生させる活動をしてるんだよ。それを手伝ってくれないかって頼まれててね」
「すごーい、米原先生にピッタリですねえ」
「ほんと、うちらの担任のときも、不良の鈴木を更生させたぐらいだし」
「俺、不良だったか? ちょっと粋がってただけだろ」
そこでまた笑い声が起きる。
――米原。聞き覚えあるな。確か、学年主任だったんじゃないか。PTAの会合で、何度か会っているかもしれない。帰り際に挨拶でもしたほうがいいか。
板前が、しめサバを幸輔の前に置いた。さっそく箸をつける。程よく脂ののったサバのうまみが、口の中にフワッと広がる。酢のしめ加減も程よい。続けて日本酒をチビリと飲むと、至福の一時を味わえる。
「米原先生、今までの教師生活の中で、一番手こずった生徒を覚えてますか?」
「鈴木、自分で聞いてどうすんだよ。米原先生、お前を前にして、お前だとは答えられないじゃないか」
絶妙な突っ込みが入り、またどっと笑いが起こる。
幸輔は少しうらやましくなった。学生時代の友人と最後に会ったのはいつになるのか。同窓会など、今まで一度も出たことはない。年賀状のやり取りも途絶え、学生時代の友人とのつきあいは皆無に等しい。
――もっと同窓会に出て、交流していたらよかったかもしれないな。そしたら、何かあったときに悩みを相談できる友人を持てたかもしれない。
重い気分がのしかかり、幸輔はため息をついた。今の自分の悩みごとは、一人で抱えているには重すぎる。
「そうだなあ。どんなに反発して問題を起こしている生徒でも、相手を信じて接していたらだんだん変わってくるもんなんだよ。世の中に、本当に悪い子なんていないって、僕はずっと信じていたね」
米原先生と思しき人物が、穏やかな声で語っている。
――なんだ、模範解答で面白くねえな。
幸輔は心の中で毒づいた。
「でも、今までの教師生活の中で、実はたった一人だけ、こいつは救いようのない悪党だと思った生徒がいたんだな。その子は、あきらかに普通の生徒とは違っていてね。僕は直接指導したわけではなかったんだけど、その子の親もひどくてねえ。担任は毎年泣かされてたし、心労で倒れた先生もいたな」
「へえ、誰だろう」
「みんなは知らないよ。みんなより、ずっと後に入った子だから。今は30代かな。名前は忘れはしない、森山直行っていうんだ」
幸輔の箸が止まった。板前の様子を窺うと、電話で客とやり取りをしていて、今の会話は耳に入っていないようである。
「親が警察官なんだよ。その子はね、入学した時から問題児だった。『俺の親は警官なんだぞ』って言いながら、他の子を無理やり支配しようとするんだよ」
「親が警官なら、正義感が強いんじゃないですか」
「いやいや、そんなことはない。その逆だよ。弱そうな子をつかまえていじめて、持っているものを横取りするんだ。下敷きとか、筆箱とか。その子が先生に言いつけたら、帰り際に貯め池に突き落としたこともある」
「えっ、ひどい」
「池に落とされた子は、溺れて死にかけたんだよ。そばで見ていた子が近所に知らせて、それで助かったんだけど。その子から事情を聞いた先生が森山を問い詰めたら、向こうが先に殴りかかってきたから、やめろよと力いっぱい突き飛ばしたら、池に落ちてしまった、正当防衛だっていうんだよ」
「えっ、小学生で正当防衛ですか?」
「そう、しかも一年生で、そんな言葉を知ってるんだから。それに、顔に痣までできててさ。自分でつくったんだよ、痣を。突き落とされた子は、泣きながらそんなことしてない、向こうが突き飛ばしたんだって訴えたんだけど。そこに親がのりこんできたんだよ。警官の親がね。その警官も、うちの息子がしたのは正当防衛だって言い張るんだ。それだけじゃない。突き落とされた子の親がトラックの運転手でね、違反が結構たまってたらしいんだ。それを調べてきたんだよ、その警官は。そのトラック運転手の親は、駐車場じゃないところにトラックを停めていることが多かったらしくて。違法駐車ってヤツだね。それを引き合いに出して、うちの息子を悪者にするなら免停は免れませんな、それは商売柄困るでしょうと言ったらしい」
「そんな、脅迫じゃないですか」
「そのとおり。でも、それきり、その被害にあった家族は何も言わなくなった。それから森山は図に乗って、気に入らない生徒は痛い目にあわせて、正当防衛だと言い張るんだ。そりゃあひどかったね。成績のいい子を脅して、次のテストで悪い点をとれということもあったし。女の子には、服を脱げと脅したこともあった。それを拒んだら、階段から突き落とされたよ、その女の子は。それきり登校拒否になっちゃってさ。さすがにPTAでも問題になったんだけど、今度は警官の親がPTA会長を逆恨みしてね。たまたま駐車できない場所に数分車を止めておいたら、どこで見張ってたんだか、すぐにレッカー車を呼んで移動させようとしたんだよ。それでPTA会長が激怒して、警官を小突いたら、その場で逮捕されて。あれは大変だったな。PTA会長の奥さんはその後、自殺未遂まで起こしたんだから」
「そんな、ひどい」
「僕はね、あの生徒の親と出会ってから、日本の警察を疑い始めたんだ。それまでは正義感があるやつが警官になるんだろうって思ったけど、あの子の親は絶対そうじゃない。だから息子もそうなんだよ。息子が悪党なのは、親のせいなんだ。でも、たった一人だけ、彼を信じて何度も立ち直らせようとした先生がいてね。6年の時の担任の先生で、10年ぐらい前に定年退職したんだけど。他の先生はもう腰が引けてしまって、森山に何もできなかったんだよ。でも、その先生だけは彼を特別扱いしないで、悪さをしたら廊下に立たせることもあったし、げんこつを食らわすことも、校庭を走らせることもあった。何度もその子からは、親に言いつけてやるって言われたらしいよ。でも、言えばいい、俺はほかの学校に飛ばされてもいい、でもお前はこのまま大きくなったら絶対に困る、社会でやっていけなくなる。だから、今お前に憎まれてもいいから、俺はお前を怒り続けると言ったんだ」
「すごい、カッコいい」
「そうしたらね、卒業までのほんのわずかだけど、やつはおとなしくなったんだよ。卒業式の時は、二人とも涙を流していてね。でも、森山は中学は私立に行っちゃったから、その後はどうなったかは知らない。その先生のお陰で、まともになってくれてたらいいんだけど」
「しかし、すさまじいガキですねえ」
「そんなやつがクラスにいたら、たまらんなあ」
「うちの子のクラスにそういう問題児がいたら、どうしよう。モンスターペアレンツじゃなくて、モンスターチルドレンだよねえ」
米原の話を聞きながら、まわりの元生徒たちは口々に直行の批判をしている。幸輔はショックと怒りと恥ずかしさで体が熱くなるのを感じた。
――そんな話、初耳だ。あいつ、そんなことをしていたのか?
「お燗、つけましょうか?」
板前に聞かれ、幸輔は我に帰った。いつの間にか、金目鯛の煮つけが前に置いてある。
「ああ、いや、今日はもういい。水をもらえるかな」
板前は「おや?」という表情を一瞬見せて、すぐに氷の入った水を幸輔の前に置いた。普段なら、ここから飲みの本番が始まるのである。今日はとてもそんな気分にはなれなかった。
煮つけを一口二口食べたが、味を感じない。これ以上聴いているのはつらいので、そろそろ店を出ようかと思ったとき、米原の話が耳に入った。
「でもね、善人は早死にするっていうのは、本当だね。その先生は数か月前に死んじゃったんだよ。しかも殺されたっていうからさ、お葬式のときは奥さんがショックでやつれていて、見るのがつらかったねえ」
「えっ、殺されたって」
「新聞でも小さく取り上げられてたけどね。日の出町に住んでいた70代のおじいさんが、山菜採りに出かけたときに何者かに殺されたって。それがその先生でね。田所という先生なんだけど」
幸輔は腰を浮かしかけて止まった。
――日の出町。田所。どこかで聞いたことがある……。
酒が入っているので、思い出すまでしばらく時間がかかった。
――そうだ、ネンキンブログを調べていた時に、資料と一致したコロシだ。
幸輔は動転してコップを倒してしまった。水がテーブルに流れ出す。
「あっ、すまん」
慌てておしぼりでテーブルを拭いた。
「大丈夫ですか? 服は濡れませんでしたか?」
女将が飛んでくる。
「あ、ああ、大丈夫。手元が狂っちゃって。疲れてんのかな。おあいそを頼む」
幸輔は勘定を待っている間も、気が気ではなかった。動悸が激しくなり、息が荒くなる。板前は心配そうにお茶を出してくれた。
「ああ、すまん」
幸輔はお茶を二口三口飲み、勘定を済ませると店を出た。
「ありがとうございましたあ」
女将と板前が店の外に出て見送ってくれる。幸輔はしばらくゆっくりした足取りで歩いていたが、角を曲がったところで早足になった。
――どういうことだ。どういうことなんだ。
ビルの谷間に、小さな公園がある。幸輔は人気のない公園に入り、白いペンキがはげかかったベンチに腰を下ろした。
――まずは分かっていることを整理してみるんだ。ネンキンブログを調べていた時、日の出町で殺されたじいさんがいるとわかった。そのじいさんは学校の先生だった。付近には、オートバイのタイヤの跡が残っていた。その犯人は見つかってない。そのじいさんは、どうやら直行の担任の先生だったらしい。俺は、その話を直行にしたか?
「したよな、確か」
幸輔はそのときの直行の様子を、記憶の奥底から引っ張り出した。
――名前を聞いても、知らないような感じだった、確か。担任の名前を忘れるものか? 俺は小学校のときの担任の名前を、全員ではないが覚えてるぞ。ましてや、直行の歳だったら、名字ぐらいなら覚えてるだろう。まったく覚えてないってことは考えられん。しかも、さっきの話では、ずいぶん熱心な先生だったようだし。じゃあ、なんで知らないふりをしたんだ? それとも、さっきの話で出てきた森山直行は同姓同名の別人か? いや、親が警察官で、西松小に通っている森山直行なんて、ほかにいるはずはない。まさか、直行が、まさか。
急に吐き気が込み上げてきた。幸輔はベンチの後ろの芝生に、胃の中のものを戻してしまった。しばらく立ち上がれずに荒い息をしていると、後ろを「やだあ」と言いながら若い女性が通り過ぎて行った。重い体を起こし、フラフラと水飲み場に行き、口をゆすぐ。
「ったく、考えすぎだ」
幸輔は自分に言い聞かせるように呟いた。
――たまたま、だ。たまたま、直行の昔の担任が殺されて、その担任がネンキンブログのコロシと関係していただけなんだ。本当に担任の名前を忘れてるのかもしれない。直行とは何も関係はない。第一、直行には担任を殺す理由がないじゃないか。
幸輔は夜空を仰ぎ見た。夜空はただ暗いだけで、月も一つの星も見えない。陰鬱な気分はますます心に深くにじんでいった。
「ばあちゃん、無事か?」
丸山秋介は玄関に入るなり、大声で奥に声をかけた。
「ハイハイハイ。今日も来てくれたのねえ」
奥から丸山菊子がパタパタと出てきた。秋介はスニーカーを放るように脱ぎ捨てる。頭には手ぬぐいを巻き、汚れたつなぎを着て、仕事帰りであるのは一目瞭然である。
「今、みんなで団地をパトロールしてるから。昼間は変なやつはおらんかった?」
「いなかったんじゃないかしら。私は外に出てないから、分からないけど」
「一人で出ちゃダメだよ。いつ襲われるのか分かんないんだから」
リビングに入ると、テーブルにはおにぎりや煮物、からあげなどの料理がずらりと並んでいる。
「今日もこんなに作ってくれたん?」
「他にすることもないからねえ」
「後でみんなを呼ぶよ」
秋介は椅子に座り、からあげを口に放り込んだ。
「うん。ばあちゃんのからあげは、冷めてもおいしいよな。おふくろのからあげは、冷めたらまずくて食えねえの。弁当に入れんなっつってんのに入れるから、中学んときはよくケンカしたんだよなあ」
菊子は味噌汁をよそいながら、あいまいな笑みを浮かべた。
「千鶴さんはお勤めで忙しかったんでしょ? 仕方ないわよ」
「まあね。弁当を作ってくれない親も多かったしね。作ってくれるだけマシかな」
秋介はおにぎりを頬張りながら、よそってくれた味噌汁を飲んだ。ポケットに突っ込んでいたスマフォが鳴り、口をモグモグさせながら出る。
「おう」
菊子はお茶を入れていた。壁の時計を見上げると、7時を回っている。
「うん。見回るだけじゃなく、その表に書いてある家を一軒ずつ訪ねて、いるかどうかを確認して欲しいんだ……うーん、話が長くなりそうだったら、パトロールがあるから、後で寄るとか言えばいいんじゃねえ? まあ、よろしく頼むわ。あ、そうそう、ばあちゃんがまたご馳走作ってくれたから、交代で食べに来てよ。そんじゃ」
携帯を切り、秋介はポテトサラダを小皿に取り、かきこむように食べた。
「もっとゆっくり食べたら?」
菊子が呆れていると、
「早く、俺もパトロールに行かなきゃ」
とポテトサラダを頬張りながら言う。
「みんな、仕事終わってからこっちに来てくれてるんでしょ? 悪いわねえ」
「うんにゃ。みんな、結構楽しんでるからさ」
「楽しんでる?」
「用心棒になったみたいで、カッコよくねえ? って。族にいたときは迷惑がられたけど、今はありがたがられてるからさ」
「ふうん」
菊子は秋介の前にお茶を置き、向かいの椅子に腰かけた。秋介は菊子の顔をチラリと見て、何か言いたそうな顔をしている。
「何?」
「うん、いや」
秋介は煮魚を皿に取り、しばらくつついていたが、
「一緒に暮らすって話、おふくろに言ったんだけどさ、今は夏樹が受験だから無理だって」
とさりげなさを装って切り出した。
「そう」
「ごめんな。ずっとじゃなくて、一ヶ月でも数週間でもいいんだって説得したんだけど、夏樹が神経質になってるからとか、泊める部屋がないとか、ごちゃごちゃうるさくてさ。相変わらず、冷てえよな」
「いいのよ。千鶴さんはそう言うだろうと思ってた」
「おふくろは仕方ないとしても、親父は自分の親だろ? なんで引き取るって言わねえんだろ。自分の親が襲われるかもしんないのに」
「前、同居して失敗してるからねえ。嫁と姑の板ばさみになって、懲りたんじゃないの?」
「だとしても、今は緊急事態なのにさ」
「私が生きようが死のうが、関係ないのよ。老い先短い老人より、夏樹ちゃんの受験のほうが緊急事態なんでしょ」
「そんなこと言うなよお。寂しくなるじゃないかあ、ばあちゃああん」
秋介は情けない声を出した。菊子は弾けたように笑った。
「あんた、ちっちゃい頃と変わんないわねえ。寂しがり屋で、優しい子なのよね、本当は」
「俺のこと、そう言ってくれんのはばあちゃんだけだよ」
「奥さんも分かってくれてんでしょ?」
「まあ、美優は別格だから。魂で分かり合ってるというか」
「まああ、のろけちゃって、ごちそうさま」
菊子がからかうと、秋介は照れて頭をかいた。
「ホントはうちに来てもらいたいんだけど、うちはチビがいるからさ。8畳のIKに無理やり3人で住んでるし」
「いいのよ。私はここが居心地がいいんだから。友達もいるし」
「いつ変なやつらに襲われるか分かんないのに」
「それが問題なのよね。いつまでビクビクしながら暮らさなきゃいけないのか」
菊子はため息をついた。
「隣の地区の団地の人、今日もまた亡くなったんでしょ? この間襲われて、意識不明だった人」
「だね」
「7人も亡くなったなんて。うちの団地はもっと独居老人が多いから、もっと狙われるんじゃないかって、みんな怯えてるのよね」
「そうならないよう、俺らで見回ってるんだし」
「でも、ずっとというわけにもいかないでしょ?」
秋介は困った表情になり、俯いた。
確かに、一時的に団地内をパトロールしていても問題を解決したことにはならない。いつ、“やつら”が襲ってくるかは分からないのである。秋介の友人もいつまでもパトロールを続けられないだろうし、やめた途端に襲撃されるかもしれない。
「ったく、狂ってるよな。老人を殺してカネをもらうなんて。カネが欲しけりゃ、自分で稼げってえの」
「最初の頃は、殺すだけだったんでしょ? それが、殺した後お金を奪うケースが増えてきたって、テレビで言ってた」
「何の目的もなく殺すほうが異常だよ」
「まあねえ」
「なんか、襲う人間が増えてるって話だよ。テレビでワーワー騒いでるからさ、面白がって真似するやつがいるんだろうなあ。じゃないと、全国の団地で老人が殺されるわけないし」
「犯人を目撃した人は、普通の人だったって言ってるんでしょ? 部屋から出てくるところを見たら、その辺にいそうな普通の人で、てっきり遊びに来た孫かと思ってたら、その部屋のお爺さんが殺されてたって」
「ふうん。俺らみたいに、見るからに悪いことしそうな感じじゃないんだ」
「何言ってんの。見るからに悪そうなんて」
「だって、俺らを見て、警察に通報しようとしたじっちゃんもいるんだぜ? 作業着着て髪を染めてるやつらが集団で団地を歩いてたら、襲撃するんじゃないかって思われるみたいでさ」
「みんな、いい子なのにねえ」
その時、どこかでパンパンと何かが破裂するような音が響いた。
秋介は瞬時に険しい顔つきになり、立ち上がった。
「何、今の音」
「わからん。ばあちゃんはここにいて。絶対に部屋から出んなよ」
飛び出そうとする秋介を菊子は慌てて追い、
「危ないから、警察を呼んだほうがいいんじゃないの? 行かないほうがいいわよ。襲われるかもしれない」
と呼び止めた。
「大丈夫、サツが来るまで待ってらんねえし」
秋介は靴を慌しく履きながら、「絶対、ここにいろよ。鍵も閉めて」と念を押し、エレベーターホールに駆けて行った。その後姿を見送る。
玄関に入り、言われたとおりに鍵をかける。一人になったとたん、恐怖がジワジワとこみあげてくる。
――大丈夫。秋ちゃんたちが守ってくれるんだから。
嫌な気分を振り払うためにテレビでも見ようかとリビングに入ったとき、部屋の隅に鉄パイプが立てかけてあるのに気づいた。その下にはヘルメットが転がっている。パトロールに出るとき、秋介はそれらを身に着けていた。
「まあ、大切なものを忘れて」
秋介を呼び戻そうと携帯を取り出すと、チャイムが鳴った。
――気づいて戻ってきたのね。
菊子は鉄パイプを肩に担ぎ、ヘルメットを持って玄関に向かった。菊子は日ごろ近くの市民農園で畑仕事をしていることもあり、見かけによらず力持ちだった。
ドアスコープで確かめもせず、菊子は鍵を開けた。
「大切なもの、忘れたでしょ」
ドアを開けると、そこには見知らぬ男が立っていた。どこにでもいるような普通の顔立ちに、長袖のコーデュロイのシャツにジーパンという普通のいでたち。一瞬、部屋を間違えているのかと思ったが、すぐにそれが誰なのか、何の目的でチャイムを押したのか気づいた。
男は右手を背中に回していた。ニヤリと笑うと、後ろに隠し持っていたアイスピックを構えた。その眼は妖しく光っていた――。
秋介は仲間とともに、花壇に仕掛けられた爆竹を見下ろしていた。
「ガキのいたずらか?」
「夏じゃないし、こんな季節に爆竹するガキはいないだろ」
「じゃあ、誰がやったんだよ」
秋介達は顔を見合わせた。
「もしかして、やつらじゃねえの?」
そのとき、秋介の携帯が鳴った。表示を見ると、菊子からである。
秋介は嫌な予感がした。
「もしもし?」
急いで出ると、菊子は「秋ちゃん、どうしよう、どうしよう」と明らかにうろたえている。
「何、どうしたの? 何があった?」
「大変なの、大変なの」
「だから、どうしたの?」
「私、やっちゃったのよ」
「何を?」
「だから……」
菊子は興奮してうまく話せないようである。
「すぐに戻るから、そこにいて」
電話を切ると、仲間は秋介を心配そうに見つめている。
「ばあちゃんに、何かあったらしい」
秋介の言葉に、みな息を呑む。秋介が駆け出すと、仲間もそれに続いた。
エレベーターを待つ数分間ももどかしく、7階につくやいなや、エレベーターのドアが開け切らないうちに飛び出した。
通路に、誰かが倒れているのが見える。
「ばあちゃん!」
叫ぶと、菊子の部屋のドアが開き、中から菊子が顔を覗かせた。秋介の姿を見て、安堵の表情を浮かべる。
「ばあちゃん、大丈夫か?」
駆け寄ると、菊子は青ざめた顔で何度も頷いた。
「私は大丈夫、でも……」
「誰、こいつ?」
秋介は倒れている男の顔を覗き込んだ。どうやら気絶しているようである。
「さあ、知らない。ドアを開けたら、立ってたの。この人、私を刺そうとしたの」
「えっ」
「これで」
菊子はエプロンのポケットからアイスピックを取り出した。
「じゃあ、こいつ」
秋介は呆然と男の傍らに膝をつく。
「なんだよ、うちのばあちゃんを襲うなんて」
「でも、なんでこの男倒れてんの?」
秋介の背後から覗き込んでいた男が、菊子に聞いた。
「それは、これで突いたから」
菊子は玄関に転がっている鉄パイプを持ち上げた。
「てっきり、秋ちゃんが取りに戻ったのかと思ったの。そしたら、この人が立ってるじゃない? 刺そうとしたとき、とっさにこのパイプを構えて、喉元をエイッて」
「喉元を」
「そしたら、その人、吹っ飛んじゃって。倒れるときに頭も打ったみたい」
「へええ……」
仲間達は信じられないような面持ちで、菊子と倒れている男を見比べている。
「そういえば、ばあちゃん、昔剣道やってたんだっけ」
菊子が頷くと、秋介は「ハハハ」と笑い声をあげ、豪快に手を叩いた。
「いいぞ、ばあちゃん。犯人を捕まえたんだよ!」
雄太が新しい職場に移り、一週間が過ぎた。
五反田の雑居ビルの一室にオフィスがあり、社員は雄太も含めて7人と小規模なベンチャー企業である。雄太は初日から大手企業の人材育成のシステム開発のチームに加わり、毎日朝から晩までパソコンに向かっていた。
――やっぱり俺には、こういう仕事が向いてんだな。遠回りしたけど、やっと自分の居場所に戻って来たんだ。
雄太は、久しぶりに充実感が体中にみなぎってくるのを感じていた。
その日は、近所のコンビニで弁当とマンガ雑誌を買ってきて、社内の片隅にある休憩スペースでマンガを読みながら昼食を食べていた。そのとき、社長の斎藤泰輝が、弁当屋の包みを下げて雄太の前の席に座った。
泰輝は細身でいかにも草食系という感じの風貌で、めったに感情的にならない。独立志向があるように見えなかったので、最初、会社を立ち上げたと聞いたときは意外に感じた。
「テレビ見ていいですか?」
泰輝に聞かれて、雄太は弁当を食べながら頷いた。泰輝は、前職では雄太の方が上司だったということもあり、話すときは敬語を使う。雄太は面接の時に敬語を使っていたが、「タメ口でいいですよ」と言われたので、今ではタメ口で話している。社長が敬語を使い、社員がタメ口を使うというチグハグな構図だが、泰輝は気にしていないようである。
――こいつ、人間の器がおっきいんだな。
雄太はひそかに感心していた。
泰輝がテレビをつけると、ワイドショーが映し出された。
「こちら、浦安にある住宅街です。東京都心から電車で30分、駅からは車で10分ほどの閑静な住宅街で、ひじょうにショッキングな事件が起こりました」
青いシートが張ってある民家のまわりを、捜査官たちが忙しなく行き来している。テレビカメラは庭からリビングの窓を狙っているが、カーテンはぴっちりと閉められ、中の様子は分からない。家の前で、若い男性アナウンサーが神妙な顔つきで実況している。
「こちらの家に住んでいた武山さん一家が、一昨日遺体で見つかるという痛ましい事件が起きました。武山隆太郎さんは首の骨が折れた状態で、妻の久美子さんは胸に包丁が刺さったままで、さらに息子の透さんは餓死した状態で発見されたそうです。隆太郎さんと久美子さんは死後一ヶ月ほど経っており、透さんは死後1週間ぐらいではないかと言われています」
その後、お決まりの近所の住民へのインタビュー映像などが流れてから、スタジオに切り替わった。武山家の見取り図のボードを指しながら、男性アナウンサーが解説する。
「こちらが武山さんの家の1階の見取り図なんですが、武山隆太郎さんと妻の久美子さん、息子の透さんとも、リビングで遺体が発見されました。ですが、どうやら隆太郎さんと久美子さんは別の場所で亡くなった可能性が高いんですね。亡くなった後遺体を引きずって、リビングに集めたのではないかと、警察の中にはそういう見方もあるようです。そして息子の透さんは、二人の遺体の真ん中の布団で横たわった状態で発見されました。透さんはその場で亡くなられたのだろうという見方が強いようです」
スタジオの真ん中に座っている中年の男性キャスターが、おおげさに顔をしかめて、口を開いた。
「なんか複雑すぎてよく分かんないんだけど、つまり、息子さんは両親の死を知っていたってわけ?」
「そうだと思います」
「でも、警察には届けなかったってこと?」
「警察ではそういう通報は受けていないとのことです」
「じゃあ、誰がこの親子が死んでいるのに気づいたわけ?」
「隆太郎さんの会社の方が、何回か家を訪ねたそうです。隆太郎さんは本部長という立場なので、こんなに長い間無断欠勤するのはおかしいだろうと。でも、何回訪ねても誰も出なかったので、庭に入って家の中の様子を覗いてみたところ、人が倒れているのが見えて通報したそうです」
「へええ。それまでずっと、近所の人も気づかなかったんだ」
「その、両親は殺された可能性もあるってことですよね」
男性キャスターの横にいる女性キャスターも質問する。
「そうですね」
「もしかして、息子さんがその犯人だっていう可能性もあるんですか?」
「それは今捜査中ですので、まだ正式な発表はないですね」
「これ、3人とも布団の中で発見されたってわけじゃなくて」
「両親は床に横たわって、息子さんだけ布団に横たわった状態だったそうです」
「じゃあ、もしかして、遺体と一緒に寝ていたってことですか?」
「うーん、そうかもしれませんね」
女性キャスターがなおも質問しようとするのを遮るように、男性キャスターは、
「それはおかしいでしょ。自分の親が殺されてたら、普通は警察に通報するでしょ。それをしないってことは、自分で殺したってことなんじゃないの?」
と断定するような口調で言う。
「まあ、そういう線でも警察は捜査してると思いますから」
困ったように男性アナウンサーは取り繕う。
「この事件、すごいですよね」
「ああ。自分の両親を殺して、遺体と一緒に寝ていたってことなのかな」
「そうじゃないですか。殺した後で後悔したのかもしれませんね」
雄太は自分の両親のことを考えた。
雄太が高校のときに両親は離婚し、母親はその後、再婚した。雄太は母親と一緒に暮らしていたので、居心地が悪くなって大学入学と共に家を出たのだ。それ以来、ほとんど家には帰っていない。母親は新しい夫との間に子供をもうけたので、もう完全に自分の居場所はなくなってしまった。
父親は、学費を出してもらっていたこともあり、学生時代はたまに会っていたが、社会人になってからは会っていない。自分の結婚式にも呼ばなかった。今はどこで何をしているのかも分からない。
――殺しても一緒にいたいって感情どころか、殺したいって感情さえわいてこないよな。そういう感情がわくだけ、この息子はマトモなのかもしれないな。
その日は、幸輔は神戸とともに警察署の近くにあるなじみのそば屋に出かけた。昼時ということもあり、店内は背広姿のサラリーマンとOL風の女性で混雑していた。ちょうど席が空き、2人はそこに滑り込む。幸輔はもりそば、神戸はカツ丼つきのランチセットを頼んだ。この店は味は誉められたものではないが、値段は安く、料理が出てくるのが早いので、給料日前や時間がないときには重宝する。
ほどなくして、料理が運ばれてきた。
「そういえばさ、あれ、なんていうんだっけ、ブログに投稿するときの名前」
幸輔は何気ないふりをして尋ねた。
「ハンドルネームですか」
「そう、それ。前、日の出町のコロシと、ネンキンブログのコロシが一致するんじゃないかって言ってたろ? 日の出町のコロシと一致したハンドルネームって覚えてるか?」
「クジョレッドです」
「クジョレッド?」
「なんか、5人ぐらいでクジョレンジャーってのをやってたみたいですね。日の出町のコロシ、なんか進展でもあったんですか?」
「いや、実は俺の知り合いで、殺されたじいさんが、自分の息子の担任だったっていう人がいるんだよ。なんであんないい先生が殺されるんだって言ってたからさ。ちょっと気になってね」
「うーん、うちの管轄外ですからねえ」
神戸は、店の奥に「すみません」と声をかけた。そばのお代わりを頼むつもりなのだろう。神戸は線は細いが、見かけによらず大食漢である。
幸輔はすっかり食べる気をなくしてしまったので、自分のざるを神戸に差し出した。
「これ、食うか?」
「えっ、半分ぐらい残ってますよ」
「最近、胃の調子があんまりよくなくてさ。食欲ねえんだ」
「それじゃ、遠慮なくいただきます」
顔を出した店員には、「そば湯ちょうだい」と幸輔は声をかけた。
「大丈夫ですか、疲れでも溜まってるんですか」
「そうかもな。一度検査してもらったほうがいいかもしれない」
「温泉でも行ったらどうですか。この間の連休、友達と長野に旅行に行ったんですよ。蓼科温泉、なかなかよかったですよ」
「友達って、彼女だろ?」
「ええ、まあ」
神戸は照れ笑いを浮かべた。
そのとき、幸輔の脳裏で何かが警告音を発した。
――長野、旅行。長野……確かあいつ、長野に行ったことがあったんじゃないか。春スキーに行くって。あれは、いつだ。いつだった? 確か、春ごろに長野で事件があったよな。ばあさんと一緒に孫が殺されたって、マスコミで大騒ぎしていたニュースがあった。家の中で少女が強姦されて殺されたって聞いたぞ。婆さんの遺体の前で孫を犯すなんて、鬼畜みたいな野郎だって思ったから、覚えてる。まさか、パソコンのあの少女の画像は、まさか、直行が、まさか。
「警部」
神戸に声をかけられ、幸輔は我に帰った。
「そば湯来てますよ」
「あ・ああ、そうか」
幸輔は動揺を隠すように、そば湯をそばちょこに注いだ。
「大丈夫ですか?」
心配そうに尋ねる神戸に、「ああ、ちょっと考え事してただけだ」と幸輔は返した。手がかすかに震えているのを悟られないように、幸輔はそば湯をすすった。
警察署に戻ると、幸輔はトイレの個室に入り、手帳を取り出した。
――確か、直行がスキーに行ったのは、ゴールデンウィーク前の日曜だったよな。あれは確か、4月の……。
4月のページを見ると、23日がゴールデンウィーク直前の日曜日になっている。幸輔はトイレを出ると机に向かい、何気ない様子を装いながら、ネットで長野の事件を検索し始めた。
すぐに過去のニュースが出てきた。4月23日の日付で長野の老婆と孫の殺人事件のニュースが出ている。
幸輔はざっと目を通し、ネットを閉じた。それだけわかれば十分だった。
「お父さん、お風呂どうします?」
正子に声をかけられ、幸輔は我に帰った。ソファでテレビを見ながら、物思いにふけっていたのだ。
「直行が明日の朝、早いんですって。先に入りたいって言ってるんだけど」
「ああ、じゃあ、先に入れって言って」
正子は直行に告げに行った。やがて、直行が一階に下りてきて、浴室に入る音がした。
幸輔は、つくづく自分がもっと鈍い人間であればよかったのに、と恨んだ。神戸の長野旅行の話を聞いて、直行が長野に行ったことを思い出してしまうなんて。老婆殺しと関係があると気づいてしまうなんて。
――居酒屋で直行の昔の先生の話を聞いても、気の毒にな、って感じただけならよかったのに。あのコロシは直行の先生だったのかって、無邪気に驚いて、それですめばよかったのに。
だが、一度疑い出したら、止めようとしても疑惑の念はますます膨らんでいくばかりである。直行とは関係がないという証拠を見つけない限り、この疑念は消せないだろう。
直行は今、風呂に入っている。
幸輔は階段をのぼった。寝室に入るふりをして、足音を忍ばせて直行の部屋の前に立つ。そこから先は、ためらわなかった。ノブを回し、すばやく部屋に滑り込む。外の音が聞こえるよう、ドアは薄く開けておいた。
パソコンはついたままだった。幸輔は椅子に座った。直行は、後10分は風呂から上がらないだろう。
デスクトップの「megami」というファイルを開け、先日見た息絶えた少女の画像を幸輔は探した。気が焦ってしまい、なかなか見つけられない。しかも、画像の数が増えている。
――あいつ、何をやってるんだ。
やっと見つけて、その画像を撮影した日付を確認する。4月23日。何枚確認しても、すべてその日付だった。
――やっぱり。長野の事件は、あいつがやったんだ。ってことは、少女だけじゃなくて老婆もやったってことか。
そのフォルダを閉じたとき、デスクトップの「仕事」というファイルが目についた。
開けてみると、そこにはやはり画像が並んでいる。
最初の画像を開けてみると、横たわっている老婆の姿がパッと大写しになった。その老婆は、背中に包丁を突き立て、あきらかに息絶えている。同じ老婆の画像が、何枚もあらゆる角度から撮られている。
11枚目からは、違う老婆の画像だった。首にはひもが巻かれ、眼は見開かれ、開いた口からはよだれが垂れている。さらに、老爺の画像もある。
――まさか、これ、全部あいつが……?
幸輔は動悸が激しくなり、思わず胸を押さえた。
「やっぱり、見てたんだ」
ふいに背後から声がして、幸輔は心臓が止まりそうになるほど驚いた。振り向くと、ジャージを着て肩からタオルをかけている直行が立っていた。
――いつの間に!
幸輔は素早く立ち上がった。
「この間から、気になってたんだよね。親父が部屋に入ってデジカメを探したって日から、なんかおかしくてさあ」
直行はスタスタと机に向かって歩いてきた。幸輔は思わず後ずさりする。
「ここの引き出しがちょっと開いてたけど、ここを探したのなら、絶対に見つけてるはずなんだよね、これを」
直行は引出しをあけ、奥のほうにしまってあった煙草の箱を取り出した。幸輔にそれを渡す。幸輔は恐る恐る箱を開け、眉をしかめた。中には乾燥した葉が入っている。
「……大麻か」
「そっ。それを買ったのは、学生の時だけど。それを見つけたら絶対に怒ってるだろ? でも、それを見た形跡がないんだよね。親父のことだから、この箱を開けないわけないし。だから、おかしいと思ったんだよね。何かほかのものを見つけて、そっちに気を取られてたんじゃないかと思ってさ。パソコンを閉じてなかったら、あの画像を見た可能性があるって推理したんだよ」
直行はベッドに腰かけた。
「やっぱりね。犯人は犯行現場に戻ってくるっていうけどさ、泳がせといたらまたパソコンを見るだろうなって思ってたんだよ」
幸輔は立っているだけで精いっぱいだった。直行はいつもと同じで、表情は変わらない。パソコンを勝手に見たのを怒っているわけでもなければ、悪事が見つかって動揺しているわけでもない。いたって冷静である。
――俺は、今までに何度かこういう人間を見たことがある。ひっでえ悪事を働いておきながら、平然と嘘をつくやつらだ。取り調べでどんなに脅しても、眉をぴくりとも動かさない、根っからの性悪だ。まるで、悪いことをするために生まれてきたようなやつなんだ。
「んで、どうする?」
直行はタオルで髪を拭きながら唐突に聞いた。
「へ?」
幸輔は間が抜けた声を上げた。
「俺が殺された人間の画像を集めてるからって、変態だから警察をやめろって言うわけ?
ネットで話題になってたから、見てみただけだよ。画像をダウンロードしたのはやりすぎかもしれないけど。オレから通報するのも変な話だしさ。なんで、そんな画像を知ってるんだって追求されたら、面倒なことになりそうだし」
幸輔はしばらく、直行の話を呑み込めなかった。ややあって、直行が誤魔化そうとしているのだと気づいた。殺人を犯したのではなく、ただ画像を集めているだけという話にしようとしているのである。
一瞬、幸輔の心の中で二つの感情が揺れた。
このまま騙されたふりをするべきか。それとも、真実を追求すべきか――。
騙されたふりをしたほうが、この先楽かもしれない。だが、膨らみすぎた疑惑の念が、それを許さなかった。
「この画像、どこで入手したんだ?」
幸輔はかすれた声で聞いた。
「ネットの怪しいサイトから拾った」
「どのサイトだ?」
「それはいちいち覚えてないけど」
「仏さんの画像を集めてるだけってことにしたいんだろうけど、そうはいかないんだよ。あの女の子は、長野でばあさんと一緒に殺された子だろ? そんな画像がネットに出回るわけないだろ。警察の人間が現場で撮った写真を流出しない限り、そんなのありえねえ。つまり、お前は現場にいたってことじゃねえか」
直行は言葉に詰まり、顔をゆがめた。幸輔は、直行が泣き出すのかと思った。悪事がばれて、「親父、ごめん」と泣き出し、すがりつくのかと。
ところが、直行はニヤリと薄気味の悪い笑みを浮かべた。幸輔は全身に鳥肌が立つのを感じた。
「さすがだな、親父。オレが長野に行っていたこと、思い出したんだ」
「お前、この老人の画像は何なんだよ」
「だから、話題になってたから、興味本位で」
「そんなわけないだろ? こんなん、調べたらすぐにお前が撮ったってバレるぞ? だいたいお前、クジョレッドって名前で、あのブログに」
そこまで言って、幸輔はハッとした。ネンキンブログが閉鎖されたのは、幸輔が直行にその話をした直後だった。
「まさか、お前、あのブログを作ってるやつとつるんでるのか。そいつにばらしたんだろ、警察が調べてるって。だから捜査が及ぶ前に消されたんだ」
「ばれたか」
直行はフンと鼻で笑った。
「それで、どうすんの? 俺を警察に差し出すの? 息子がコロシをしてましたって。そんなことしたら、親父も警察での立場がまずくなるよね。自主的に退職するよう、上に圧力かけられんのは間違いないよね。マスコミでも大々的に取り上げられるだろうしさ、うちにまで新聞やテレビの人間が押しかけてくんだぜ。近所の人から白い目で見られて、耐えられんの? しかも俺、殺したのは一人じゃないから、死刑になるかもしれないよね。それに耐えられんの? 親父もおふくろも」
直行は立て板に水のごとく、スラスラと話す。その様子からは、罪悪感は微塵も感じとれない。幸輔は口を半開きにして聞いているだけだった。
「何もできないだろ、親父には。でも、これで黙っていたら同罪だよな。それがバレたら立場がまずくなるよな。どっちに転んでも、最悪ってわけだ。だったら、バレないようにするしかないんじゃね?」
直行は、最後には勝ち誇ったような声音になっていた。
「お前、なんで、こんな」
幸輔はようやく声を絞り出した。
「なんで、こんなことを」
「コロシにはすべて理由があるって思ってんの? とくに理由なんかないよ」
「だってお前、田所って先生を殺したのもお前なんじゃないか? お前の小学校の時の担任だった先生だろ。先生を理由もなく殺すわけないだろうが」
「んだよ、それもバレてんのか」
直行は舌打ちをした。
「あいつは、うるさかったからさ。小学校のとき、俺、さんざんあいつに殴られたし、校庭を何周も走らされたしさ。親父に言いつけてやるって言ったら、あいつ、内申書に響くぞって脅すんだ。受験する学校に、俺の悪事を全部ばらすぞってさ。そうすれば私立には行けないからってさ。仕方ないから、あいつが担任だった一年間はおとなしくしてたんだよ。今までの人生の中で、一番許せない人間なんだ、あいつは。それなのにあいつは、自分の手柄のように、どんな悪い人間でも信じてれば立ち直るんだとか、講演で俺の話をしてるって聞いてさ。あったま来たんだよ。人を脅して従わせたくせに、立ち直るも何もないだろうって」
「……」
「面白かったよ、あいつと会ったとき、俺が警察官になったって言ったら、お前、あの親父と同じ道を歩んだのかって、顔をしかめてさ。小学校の時、お前が悪さばっかりしていたのはお前が悪いんじゃない、親父のせいだってさ、まともな警官になれって相変わらずエラそうに言うからさ。まともじゃないお前に言われたかねえよって包丁で刺したら、驚いて叫び声もあげられねえの。あのコロシは楽だったね」
直行はまるで世間話でもするかのように、悪事について話す。心なしか顔は紅潮し、興奮しているようでもある。
「お前、罪悪感はないのか?」
思わず幸輔は尋ねた。
「罪悪感?」
直行は笑い声をあげた。
「親父からそんな言葉を聞くとはねえ。親父こそ、罪悪感なんてもの持ってないくせに」
「馬鹿を言うな、俺は」
「じゃあさ、PTA会長の奥さんが自殺を図ったとき、親父はどうした? 天罰だって笑ってたじゃないか。いつも親父はそうやって、気に入らないやつを排除してきた。知ってるんだぜ、松川さん、親父と同期で幹部から気に入られてたんだろ? 松川さんがミスをしたとき、黙ってりゃ分からないって言っておきながら、上にチクったんだろ? そんで、松川さんは降格して、今ではちっちゃな駐在所で働いててさ。おれ、松川さんにものすごい目で睨みつけられたことがあんだから。迷惑な話だよ、俺まで恨まれてさ」
幸輔は何も言い返せなかった。
――俺のせいだというのか。こいつがこんな風になったのは、俺のせいだと。
「まあ、親父ももうすぐ定年だしさ、おとなしくしてるのが一番なんじゃないの? 俺も親父のために、この先はコロシはやめておくよ。バレないからスリリングだったけど、バレたらスリルないし。まあ、これからは俺のコロシがばれないように、親父も協力するしかないよな」
直行は再び勝ち誇った表情で微笑んだ。幸輔は足元から力が抜けていくような感覚に襲われ、思わず壁に手をついた。
――知らなければよかった。知らなければ。
だが、すべてを知ってしまった。この先は直行が言うように、破滅の道が待ち構えている。その道を避けるには、バレないようにするしかないのだ。
それは、心の奥底に残っていた、ひとかけらの良心を捨てるのに等しい行為である。幸輔は思わず目を閉じた。
順二は、足取り重く池袋のサンシャイン60の足元にある東池袋中央公園に向かっていた。
昼間は付近のサラリーマンやスケボーをしている少年たちでにぎわっている公園は、暗くなるとホームレスたちが集まって来る。巷では心霊スポットだと言われているという話も聞き、順二はしばらく公園に入る気になれず、入り口でスマフォをいじっていた。
すると、LINEで鉄拳5から「今どこですか?」というメッセージが届いた。
諦めて公園に入る。
――俺、なんでこんなことをしてるんだろう。
その日、東池袋中央公園に集まるよう呼びかけたのは、ホームレス中年だった。何でも、ホームレス時代にこの公園で寝泊まりし、お世話になった人がいるらしい。その人に順二をぜひ会わせたいのだと30分も熱弁をふるわれ、順二は仕方なく頷いたのである。
公園内をウロウロしていると、ホームレス中年が走り寄って来た。
「こっちです、こっち。もうみんなで飲みはじめてるんですよ」
噴水近くの芝生にビニールシートを広げ、20人ぐらいが集まっている。鉄拳5やこばけん、憂国などいつものメンバーも揃っていた。
「ハイ、正義の怒りさんの到着でーす」
ホームレス中年の言葉に、集う人々は一斉に拍手をし、「いよっ、待ってましたあ」「会いたかったですっ」など口々に叫んだ。
順二は何度もお辞儀をしながら、勧められるままビニールシートの奥に座った。5人のホームレスが座っており、特有のすえた臭いがする。みな、髪は長くぼさぼさで、ひげが生え、垢にまみれた服をまとっている。
「こちら、谷さん」
ホームレス中年が一人の男を紹介する。順二は「どうも」と軽く頭を下げた。
「正義の怒りさんが来たので、もう一度ここで乾杯しなおしましょう」
いつものように鉄拳5が場を仕切った。プラスチックのカップにビールを注ぎあい、掲げ持つ。乾杯の掛け声とともに、順二はビールを一気に半分ほど飲んだ。酔えば強烈な臭いも気にならなくなるのではないかと思ったのである。
「谷さんは、学生運動に参加してたんですよ。逮捕されたこともあるんですよね」
ホームレス中年が話を振ると、日本酒をちびちびと飲んでいた谷さんが、
「まあね」
と短く答えた。
「国際反戦デーのときに、新宿騒乱が起きたでしょ。谷さんはそれに参加して、火炎ビンを投げて、捕まったんですよ」
「新宿騒乱なんて言っても、今の若い人は知らないでしょ」
谷さんは低い声で呟くように言った。
「全共闘とかあさま山荘事件なんて知らないでしょ、ねえ」
「はあ、まあ、あんまり」
順二はあいまいに答えた。
「我々が学生の頃は、権力に立ち向かって、みんなで戦ったんだよ。ヘルメットかぶって、ゲバ棒持ってさ。世界平和のために戦ったんだよ」
「はあ」
「東大の、安田講堂の封鎖解除の時は、機動隊と戦ったんだよ」
「えっ、東大出身なんですか」
「いや、違うけど」
「……はあ」
「まあ、そういう、たくさんの暴動が起きたってこと。今の若者は、みんなおとなしくて、政治家や官僚がこんなに世の中を堕落させても、誰も何も文句言わんでしょ。福島の原発だって、爆発した後はあれだけ騒ぎになったのに、今はおとなしくなっちゃってさ。あちこちで再稼働を認めちゃってるじゃない。俺らだったら、絶対に止めてたけどね。体を張って」
「はあ」
順二は話を半分聞き流しながら、急ピッチでビールを飲んでいた。今年はすでに寒さが厳しく、アルコールで体を温めるのが一番だ、と順二は思った。
「でも、あんたは違うみたいだね。年金基金の宿舎を襲ったんだって? その話を聞いたときは、痛快だったねえ」
谷さんはどす黒い顔ににやりと笑みを浮かべた。
「当然なんだよ、公務員なんて、公僕なんだから。庶民よりもいい給料をもらっていい暮らしをしてるなんて、おかしいんだよ。おしおきとしては、いいんじゃないの、あんたがやったことは。俺は賛成だね」
「はあ」
「しかも、そのカネを俺らに配ってくれるなんてさ。あのお金で古本を買ったんだよ。資本論の初版本とか、ブルデューとか。あのころ、むさぼるように読んだんだよね。懐かしかったなあ」
「谷さんは、テントの中にも難しい本がいっぱい積んであるんですよ。それも思想の本ばっかり。僕にはよく分かんないんだけどね」
ホームレス中年が説明を付け加える。
「谷さんは社会情勢や世界経済についても詳しいんですよね」
「まあね、毎日ごみ箱から新聞拾って読んでるからさあ。貧しい生活を送っていても、思想まで貧しくなったら、人間として終わりだからね」
順二は、どう相槌を打てばいいのか分からなくなってきた。
「それでですね、谷さんが私たちの活動に力を貸してくれるそうなんですよ。学生運動の時に培った戦い方を教えてくれるそうなんです」
ホームレス中年が興奮気味に言う。
「戦い方って……どんな風な?」
「そりゃ、火炎瓶を投げたり、投石したりしてさ」
そのとき、憂国のまわりでドッと笑い声が起きた。今日は憂国の仲間が7人ほど参加していた。
「今どき、火炎瓶や投石なんて、時代遅れも甚だしいっすよ」
憂国が谷さんに向かって言う。
「学生運動のノリと同じだと思われたら困っちゃうんだよね。こっちは、日本を真の姿に戻そうと真剣に戦うんだからさあ」
「ノリってなんだよ。こっちは命を張って戦ってたんだから。安保闘争の時、死者が出たのを知らないのか?」
「それくらい、知ってるって。でも、多くの学生はお祭り騒ぎに便乗してただけなんじゃないっすか。信念を持ってやってたわけでもないっしょ。仲間と群れて行動してる暴走族と同じじゃないっすか」
谷さんが無言で立ち上がった。ホームレス中年が慌てて仲裁に入り、
「まあまあ、色々なやり方があるってことで、いいじゃないですか。どれがいいのかはやってみないと分からないんだから、色々やってみましょうよ」
と二人をなだめた。
「まあ、とにかく、我々の活動を邪魔しないでほしいっすね」
憂国の言葉に、
「なんだよ、力を貸してほしいって言うから、来てやったのに。ふざけんなよ。お前らだけで何ができるって言うんだよ。ガキどもが」
と谷さんは吐き捨てて立ち去った。
ホームレス中年が慌てて追いかける。ほかのホームレスは、興味なさそうに酒を飲み、つまみを食べている。
「なんだかなあ」
憂国は大げさにため息をつく。
「人数は増えてほしいけど、変なやつを入れてほしくないっすね。ホームレス中年さんも、何考えてんだか。そんなことより、そろそろ具体的にどう攻めるのかを考えましょうよ」
憂国に話を振られたが、順二は「うーん、そうだね、どうしようか」とあいまいに答えるだけだった。
順二は本気で厚労省を襲う気などない。酒の席でたまたま出た話であり、実際に行動に起こすなどとは考えていなかった。ところが、憂国を中心に話は徐々に大きくなっていき、今や12月に厚労省を襲撃する計画が固まりつつある。
「襲撃するのは、やっぱ12月14日の討ち入りの日ってことで。赤穂浪士が好きってわけじゃないんすけど、敵討ってところが、俺らの活動と微妙に重なるかなって思って」
「いいんじゃない。俺、もうその日は有休をとってるし」
こばけんが上機嫌で会話に参加する。
「銃は俺のほうでそろえますよ」
憂国が当然のように言った。
「銃!?」
「銃があるほうが、心強いじゃないっすか。俺の親は猟銃の免許を持ってるんで」
順二が動揺しているのを見て、「大丈夫っすよ。マジで撃ったりしませんから」と憂国は笑った。
「あ、爆弾は、こいつらが作れますから」
憂国は連れてきた仲間を指した。みんな目が変にギラギラと光っている。銃に爆弾と聞き、順二は話の大きさにめまいがした。
鉄拳5は満足そうに頷いている。
「それじゃあ、まず厚労省周辺で爆弾を爆破させて、それから館内に突入という感じですかね。大臣と役職づきの官僚を拘束して、今すぐ年金を全国民に返せと迫る。大まかな段取りとしては、そんな感じですか」
「異議なし」
憂国たちは大きく拍手した。
順二は拍手をする気になれず、ひたすらビールを飲んだ。
――南、どうしよう。俺、とんでもないことに巻き込まれちゃったよ。
南とは8月以降、一度も会っていない。
榊原に南と会うのを止められているというのもあるが、南はヨーロッパ方面の部署に配属されて、ほとんど日本にいないと言う。今は電話かLINEでやりとりするだけだ。
榊原の事務所で暮らし続けるのはさすがに手狭だということになり、近くのマンションに部屋を借り、順二はそこから会社に通っている。常に榊原の部下のどちらかが見張っているので、逃げることはできない。ただ、見張り付きでコンビニや定食屋に行ったりするぐらいのことは許された。
元々住んでいたアパートはいつの間にか解約され、今の生活費はほとんど榊原が出している。順二は給料を逃走資金として貯めておこうと決めた。
――ゴタゴタが片付いたら、南とどこかに逃げよう。そうすれば、南も借金から逃げられる。誰も自分達を知らない場所で、2人だけで一からやり直すんだ。
その思いだけが、今の順二にとって支えだった。
この集会に出ているのは、その間は見張りから逃れられるという事情からだ。
集会のメンバーは順二を敬い、持ち上げてくれる。それが心地よく感じるときもあるのは事実だ。
――まあ、いいか。当日は参加しなければいいだけだし。こっそり通報して、こいつらをつかまえてもらえばいいか。
おでんを食べながら、順二は酔いのまわった頭でぼんやりと考えていた。
「お前は、人に流されやすいんだから」
ふと、大学の時に母から言われた言葉を思い出した。
「一博はしっかりしてるし、裕三はちゃっかりしてるけど、あんたは自分というものを持ってなくて、いっつもボーッとしてる。だから狙われるのよ」
大学で自己啓発のセミナーに勧誘され、断りきれなくてあいまいに返事をしていたことがあった。連日勧誘の電話がかかってきたので、たまりかねた母に怒られたのである。
「嫌なら嫌と、ハッキリ断りなさい。相手に悪く思われたくないなんていうお人好しは、社会に出てからやっていけないんだからね」
あのときの母の助言は、その後の人生でもまったく役に立たなかった。
今、また断りきれなくて、流されてここにいる。
――俺の人生は、流されっぱなしなんだろうな。
あきらめにも似た感情で、順二はチクワを頬張った。
「警部、大丈夫ですか」
神戸が心配そうな声で尋ねる。
車で張り込んでいる最中に幸輔は居眠りをし、窓ガラスにしたたか頭を打ち付けてしまったのだ。
「あ、ああ。最近どうも、夜眠れなくて」
幸輔は頭を押さえた。
「一度病院で診てもらったほうがいいんじゃないですか?」
「ああ、そうだな」
直行の殺人が発覚して以来、幸輔はまともに眠れない日が続いていた。食欲も落ち、見るからに頬がこけてしまった。仕事にも身が入らず、ミスが続いている。このまま、定年まで持ちこたえる自信はなかった。
「神戸は長男だったっけ」
「ハイ、長男です」
「そうか。親御さんから期待されてるんだろうなあ」
「そうでもないですよ。お袋は、銀行に勤めることを望んでたんです。警官は危険な仕事だから、やめておけって。うちの父親は銀行員だったんですよ。だから、お袋は僕がわざわざ大変な仕事を選ぶのが理解できないみたいで。同じ公務員になるなら、役所勤めでいいじゃないかって散々言われました。でも、僕はデスクワークには向きませんから。お袋の猛反対を蹴ってこの道を選んだから、勝手にしなさい、責任持てないって言われてます。弟が今年、銀行に入ったから、ますますうちでの立場は弱いですよ」
「そうなのか。普通は、警官なら給料が安定しているからいいって言うのになあ」
「メガバンクなら、不景気でも何だかんだいって政府がつぶさないから、将来安泰ですからね。でも、お金を扱う仕事はどうも面白いとは思えないし」
「この仕事は面白いのか」
「ハイ! もちろん、大変ですけど。でも、お巡りさん何とかしてよって頼られると嬉しいですよね」
「そう思ってられるうちが華だよ」
――神戸が俺の息子だったら。
幸輔はふと思った。
神戸は学生時代に父親を亡くし、奨学金で大学を出たという苦労人である。幸輔は、普段から息子のように神戸に目をかけていた。
――直行も、こんな風に素直に育ってくれたと思ってた。どこで間違ってしまったのか。
大きなため息をついたとき、神戸が「あっ」と小さく叫んだ。
「あのワゴン車がそうじゃないですか」
白いワゴン車が、団地の近くにある公園の前に止まった。中から野球帽を深くかぶり、サングラスをかけ、革のジャンパーを羽織った男が出てくる。
「あいつ、いかにも怪しそうなカッコして、バカだな」
幸輔は呟く。
男は煙草を取り出し、ライターで火をつけて吸い始める。ちらりと腕時計を眺めた。
やがて、団地から一人の女が現れた。30代前半ぐらいの人妻だろう。帽子をかぶり、コートを羽織り、どこかに出かける風情である。女は辺りを見回して、ワゴン車に近寄った。男がドアを開けると、すばやく乗り込む。
「今の女が売春しているんですかね」
神戸はやや興奮した口調でつぶやいた。
「そうだろうな。見かけは普通の主婦でも、平気で売春しているんだから、信じられんよ」
2人が話している間に、二人目の女がワゴン車に来て乗り込んだ。10分間で5人の女がワゴン車に乗り込み、男が外側からドアを閉めた。幸輔と神戸は車から飛び出し、運転席に乗り込もうとしている男に「ちょっと」と声をかける。
ふいに声をかけられ、固まっている男に警察手帳を見せると、男は弾かれたように駆けだした。
「おいっ」
2人は追いかけ、すぐに神戸が男に追いつき正面に回り込んだ。背後に幸輔が張りつくと、男は観念したようにがっくりと膝をついた。
「数ヶ月前から、ここで不審なワゴン車を見かけるって通報があったんだよ」
神戸が言いながら、男に手錠をかける。幸輔はその間にワゴン車の後ろのドアを開けた。
「悪いな、あんたらにも警察に来てもらわんと」
女は、みな強張った表情で体を硬くしている。
――まったく、旦那が働いている間に、自分たちは体を売ってんのかよ。どうせ、クスリか、パチンコにでも金を使うんだろ。
ふと、女が一人多いことに気づいた。先ほど車に乗り込んだのは、5人である。別の場所から乗っていたのか、最後部の奥に体を小さくして震えている女がいる。
その女と幸輔の視線があった。女はすぐに顔を伏せたが、それが誰かは一目瞭然だった。
「ま・正子!?」
幸輔は素っ頓狂な声を上げた。
男を引っ張ってきた神戸が、幸輔の様子を見て怪訝そうな表情を浮かべる。
「どうしたんですか?」
幸輔は何も言えなかった。
どうしたもこうしたも、なぜそこに正子がいるのか、幸輔もわからないのである。
――針の筵とは、このことか。
幸輔は自分のデスクで、ぬるくなったお茶をすすった。
署内の人間が、チラチラと自分を見ているのがわかる。神戸は気を使っているのか、幸輔とは視線を合わさないように、書類づくりに没頭しているふりをしている。
おそらく、あっという間に署内に知れ渡ってしまったのだろう。正子が売春組織に関わっていたということが。
「森山君、ちょっと」
渋い顔をした署長が部屋に入ってきて、幸輔に声をかけた。
――ほうら、おいでなすった。
幸輔はノロノロと立ち上がった。署長室に向かう幸輔の姿を、好奇心に満ちた目で見る人もいる。
――そんなに面白いか。破滅に向かう人間を見ているのが。
幸輔はこぶしを握り締めた。
署長室に入ると、副署長もソファに座っていた。沈痛な面持ちをしているが、心の中ではおそらく好奇心満々だろう。
「困ったことになったねえ」
署長は幸輔にソファに座るよう促しながら、自分も腰をかけた。
「奥さんの事情聴取は済んで、こちらとしては、奥さんには厳重注意で済ませて、このまま帰したいと思っている」
「はあ」
「聞きづらいんだか、君はもちろん、この件は知らなかったんだね」
「もちろんです」
「そうだよね。神戸君も、君がかなりショックを受けていたと話していたし。同情するよ」
「はあ」
「これから話すことを聞けば、さらにショックを受けるとは思うんだが、話しておいたほうがいいと思ってね。事情聴取によると、奥さんは5年前からちょくちょくやっていたと言うんだ」
「5年前!?」
「ああ、こちらも驚いてね。何のためにそんなことをしてたんだって聞いたら、理由などない、ただ寂しかったんだって言ってね。薬をやっていたわけでもなければ、借金で困っていたわけでもない。熟女向けの出会い系サイトがあるらしいんだ。そこで知り合った男と関係を持ち、それが重なるうちに、売春を勧められたらしいんだな。それで5年前から、組織の人間に斡旋してもらって、売春していたらしい」
幸輔は後頭部を殴られたような衝撃を受けていた。借金や薬のせいで売春をしていたというのなら、まだわかる。だが、寂しいという理由は、一体何なのか。自分との結婚生活にずっと不満を抱いていたということなのか――。
署長は気の毒そうに幸輔を見た。
「まあ、こちらもあまりあれこれ聞くのも悪くて、あんまり詳しくは聞いてないんだ。後は2人の問題だと思うし。ただ、もしマスコミがこの件をかぎ付けたら、週刊誌の格好のネタにされるのは間違いない。それは困るんだよ、こちらとしても。警察の不祥事と聞くと、やたらとバッシングするからね、今の世論は。だから、どうだろう、しばらく有休でもとったら。夫婦二人でじっくり話し合う時間も必要だろうし」
「しばらくとは」
――どれぐらいですか。
幸輔は最後までは聞けなかった。聞かなくてもわかっている。もう、自分のキャリアは終わったのだ。休暇から戻って来たとき、自分は捜査の第一線には戻れない。事務の仕事を淡々とこなすような、窓際に追いやられてしまうのだろう。
「まあ、数週間骨休みをしてさ。戻って来てからのことは、また改めて話し合おうよ」
署長は優しい声音で幸輔に言い聞かせた。幸輔は膝で握りしめている手が震えているのに気づいた。
――あっけない。今まで必死で築きあげてきたすべてが、一瞬で崩れ去ってしまうなんて。
「今日はもう、帰っていいよ。奥さんを一人にするのは危ないから、一緒に帰ったほうがいいんじゃないか」
署長の言葉に幸輔は立ち上がり、無言で頭を下げ、部屋から出た。頭はのぼせたようにボウッとなり、自分がきちんと歩いているのかどうかもわからなかった。
部屋に戻ると、視線が一斉に突き刺さった。ただ一人、神戸だけが心配そうに幸輔を見ている。
幸輔は必要な荷物をカバンに詰めこみ、背広をはおり、部屋を出ようとした。神戸の前を通り過ぎる時、目が合った。神戸の目が潤んでいる。幸輔は「頑張れよ」と小さく声をかけた。神戸は無言で俯く。
そのとき、鼻で笑ったような短い笑い声が聞こえた。
「誰だ、今笑ったのは!?」
幸輔は地の底から響くような声で振り向き、部屋の中を見回した。その形相に、その場にいる人はみな凍りついている。
一人の中年男が、幸輔から目をそらせた。
「お前か、中田!?」
幸輔はカバンを投げ捨て、中田に走り寄った。中田は逃げようとしたが、素早くその首根っこを捕まえた。
「お前、今笑ったのか? 何がおかしいんだ?」
幸輔が怒鳴りつけると、「いや、俺は、別に」と、中田はモゴモゴ口ごもり、逃れようと懸命になっている。
幸輔は中田を突き飛ばした。中田はよろめいて床に倒れる。
「おかしいのかよ、妻が売春していて、キャリアを全部失った俺が、みじめでおかしいのか? 普段偉そうな顔をしている俺が転落していくのが、面白いとでもいうのかよ」
幸輔は中田の背中を踏みつけ、全体重をかける。中田が叫び声をあげる。
「なんだ、その蛙が潰れたような声は? 大体、お前は仕事できねえくせに、要領ばかりはいいから、気に食わなかったんだよ。署長らとしょっちゅう飲みに行って、署長らの悪口を言ったやつをチクってんだろ? 卑怯者が」
中田の横腹に何発も蹴りを入れると、さすがに周りにいた部下が止めに入った。中田は腹を押さえて呻いている。
――これでもう、何もかも終わりだ。
幸輔は羽交い絞めにされていた手を振りほどき、カバンを拾うと振り返らずに部屋を出た。
幸輔と正子は警察署の近くでタクシーを拾い、無言で家に向かった。
タクシーの運転手は2人にただならない空気を感じたのか、何も話さずに黙々と運転している。
家に着いてからも、2人は何も話さずにリビングに佇んでいた。幸輔は放心状態でソファに座り、正子はダイニングテーブルの椅子に力なく座っている。
カーテンの隙間から西日が差し込み、壁や床に温かな光の筋をつくっている。一方で、日が当たらない箇所は暗く沈み、正子の表情は幸輔のいる場所からはよく見えなかった。
「何なんだ、その理由は」
ようやく幸輔は口を開いた。
「寂しいから売春したっていう、その理由は何なんだよ。女子高生じゃあるまいし、50を過ぎていい歳こいたおばさんが、寂しいも何もないだろうよ。恥ずかしくねえのか。ったく汚らわしい」
幸輔は、最後は吐き捨てるように呟いた。
「あなただって、人のこと言える? 浮気してたくせに。それも、何年もずっと」
正子は震える声で反論した。幸輔はハッと正子の顔を見た。
「私が気付いてないとでも思ったの? 香水の匂いをプンプンさせながら帰ってきて。休みの日に愛人と会ってたこともあるんでしょ? 2人で歩いてる姿を知り合いが見かけたって教えてくれたとき、どれだけ恥ずかしい思いをしたか」
「浮気と売春は違うだろうが」
「浮気は犯罪じゃないからやってもいいって言いたいわけ? 犯罪じゃないなら何をしてもいいの? あなたはいつもそうやって、自分のやっていることだけは正当化するんだから」
「じゃあ、なんで何も言わないんだよ。浮気してるとわかったんなら、俺を責めればいいじゃねえか」
「私がうるさく言ったら、離婚してその人と一緒になるって言い出すかもしれないじゃない」
「お前、俺と離婚はしたくないのか?」
幸輔は驚いた。一瞬、正子はそこまで自分に深い愛情を抱いてくれているのかと思った。だが、正子は口をゆがめてフンと笑った。
「当たり前じゃない。あなたと夫婦でいる限り、お金に困ることはないんだから。定年後に退職金をもらったら、慰謝料をもらって別れようと思ってたの。そのために今まで我慢してただけだから」
幸輔は、口を鯉のようにパクパクさせてしまった。
「おま、お前、俺といるのは、カネが目当てだっていうのか?」
「それ以外に、あなたに何か取り柄があるとでもいうの?」
幸輔は思わずテーブルにあった灰皿をつかんで、正子に投げつけた。灰皿は大きくそれ、壁にぶつかって粉々に砕け散った。正子は眉一つ動かさない。
「定年退職したとき私がいなくなれば、あなたは老後の生活に困るでしょ? あなたは家事は何もできないし、近所のつきあいなんてできるわけない。今、あなたにすり寄ってきている人の多くは、あなたが警察の人間だから利用しているだけ。警察の人間ではなくなったあなたに、誰も近づこうとはしないでしょ。直行も恵美もあなたの老後の面倒なんて見るわけない。二人はあなたに似て薄情だからね。私はいつもこう想像していたの。あなたが一人きりで死んで、何カ月もたってから誰かに発見されて、新聞で報道されるの。また孤独死かってね。私はそれを読んで、ざまあみろって笑い転げるのよ。それで、この何十年もの苦労が報われる。そう思ってたのに、残念よね、それが実現できなくて」
正子がこんなに話すのを、幸輔は久しぶりに聞いた。いつも一方的に幸輔が話し、正子は相槌を打つぐらいだった。幸輔はくだらない話には耳を傾けないので、正子は次第に話さなくなっていったのかもしれない。
――これは、本当に正子か? あの、従順でおとなしい正子なのか?
幸輔は愕然とした思いで正子を見つめた。正子は立ち上がり、不敵な笑みを浮かべている。
「出て行け」
幸輔は怒鳴りそうになるのを必死で堪えて言った。怒鳴ったら感情のタガが外れて、自分でも何をするか分からない。
「今すぐ、この家」
「言われなくても、出て行きます」
正子はきっぱりとした口調で幸輔の言葉を遮り、リビングを出ようとした。
「おい、体を売って稼いだ金、何に使ったんだ?」
幸輔の問いに、正子は幸輔の方に向き直り、「あなたのお酒の肴代よ」と今まで見たこともない皮肉な笑みを浮かべた。顔色を変えた幸輔を見て、正子は満足そうな表情になった。
正子がタンタンとリズムよく階段を上る足音が響く。幸輔は荒い息をしながらソファに座りこんだ。
――いつからなんだ。いつから、うちは壊れてたんだ。結婚したばかりのころは、確かに幸せだった。結婚して5年目で直行が生まれた時は、俺も正子もどれだけ嬉しかったことか。勤務時間の合間を縫って、何度も病院に行って、直行の顔を見ては喜びを噛みしめてたんだ。恵美が生まれたときだって、どこにも嫁にやらんと言ったら正子は笑っていた。休みの日は、みんなでいろんなところに遊びに行った。幸せだった、あのころは。いつから、こんな風になっちまったんだ。
幸輔は暮れていく部屋の中で、明かりもつけずに、ただただ頭を垂れていた。
やがて、二階でガタンと何かが倒れる音がした。
その音が何なのか、幸輔にはわかっていた。だが、動けなかった。
――俺が壊したのか、すべてを。俺は今まで、自分のしていることは正しいと思っていたんだ。家族を、家庭を、俺は守っているんだと思っていた。それが間違っていたというのなら、俺が今までしてきたことは何だったんだ。
そのまま身じろぎもせずに座っていた。
やがて腰を上げ、のろのろと二階に上がった。寝室に入ると、ベランダに通じる窓が開け放たれている。物干し竿に幸輔のベルトをかけ、正子は首を吊っていた。その足元には椅子が倒れている。正子は、幸輔を睨みつけるように両眼をむき、事切れていた。
寒風が吹きこみ、部屋はすっかり冷え切っていた。
幸輔はしばらく正子の姿を眺めてから、直行の部屋に向かった。パソコンを立ち上げ、USBメモリに画像のデータをコピーする。寝室に戻るとクローゼットからボストンバッグを取り出し、着替えを詰め込み、部屋を出た。
家を出て、通りからベランダを見てみると、正子が風に揺られている姿が見えた。
幸輔は空を見上げた。もう夜空が広がっている。
――直行が帰ってきて気づくか。直行が気付かなくても、明日の朝になれば誰かが気づくだろう。
それきり、幸輔は振り返らずにその場を立ち去った。
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