10月 火風

 その日は夏のように日差しが強く、選挙カーの上にいる京子は眩しくて目をしかめた。汗をかいているのは、緊張のためなのか、暑さのためなのか分からない。

 衆議院議員選挙の公示日、京子は青梅駅前のロータリーに止めた選挙カーの上に立っていた。

 選挙カーの看板には、「望みの党 桂木京子」と、緑字に白い字で書いてある。

 京子は真っ白なスーツに、「本人」と書かれた緑のたすきをかけていた。

 ――大丈夫、練習したんだから。

 何度言い聞かせても、体の震えは止まらない。ここまで緊張したのは、生まれて初めてだ。

「さあ、いくわよ」

 トレードマークの緑のスーツを着た桜子が、にこやかに京子の背中を叩く。

「大丈夫。うまく話せなくても、私がカバーするから」

 京子は頷くのに精いっぱいだった。

 桜子はマイクを持ち、ロータリーに集まった支援者や道行く人に向かって第一声を上げた。

「みなさん、おはようございます! 望みの党の代表、小谷桜子です」

 よく通る、高い声。みんなの視線が一斉にこちらに向く。テレビカメラも、観衆に紛れて何台もこちらに向けられている。

「今日が、衆院選の告示日、2週間の選挙のスタートです。今日はいいお天気ですね。選挙の初日として、気持ちいい日になりました。でも、皆さんは気持ちよく選挙を迎えたわけじゃないですよね。自由連合の田部井総理がいきなり解散総選挙を宣言したとき、『なんで選挙をするの?』って、思いませんでしたか? 多額の税金を使って、なんで選挙をやる必要があるんだって、思いましたよね? ねえ。大義なき選挙って言われてますが、私も、皆さんの税金をこんな風にムダに使う政治は、もう終わりにしたいって思っています」

 桜子は笑顔で四方を向きながら、語りかける。

「やっぱり、プロの政治家はスピーチが上手だな」と京子は感心していた。

「私たちの政党、望みの党は、2週間前に急遽誕生しました。私も国政政党の準備を進めてはいましたが、こんなに急に決まるとは思っていなかった。急遽、民衆党の皆さんと手を組むことになって、政治哲学やイデオロギーが違うんじゃないかって、あちこちから非難されました。でも、そんなことを言っていられません。今、私たちがすべきなのは、田部井政権の暴走を止めること。そのためには、イデオロギーが違うだのなんだの、言っていられないんです。今の日本は、そこまで切羽つまっているんですよ」

 観衆から、「そうだ!」の声が上がる。

 桜子は10分ほど、なぜ与党を倒さないといけないのか、望みの党は何を実現させたいのかについて熱弁をふるった。京子は、頭の中で何回もスピーチの内容を繰り返した。

「大丈夫、大きく息を吸って」

 隣にいた舟崎がそっと京子に声をかける。

 京子は目を閉じて、大きく息を吸う。その息を、細く長く吐き出す。深呼吸を繰り返すうちに、心なしか落ち着いてきた。

 桜子から、国政に出てほしいと言われたのは7月の末。それから2カ月間、慌ただしく政治家になるための勉強をしてきた。

 とはいえ、まったくの準備不足で、本当は議員になれる状態になどなっていない。

 それでも舟崎は、「議員になってから勉強をしていけば何とかなりますよ。元々政治家の秘書をやっていたっていう人ならともかく、それ以外の人は、みんな政治のど素人からスタートするんです。そのほうが、国民目線に立てますしね」と何度も京子に言い聞かせた。

 桜子が国政政党である望みの党を発足させた数日間は、「政権交代が起きるんじゃないか」と、国中で期待感が高まった。だが、野党第一党だった民衆党との合流がうまくいかず、世の中から批難が集中し、あっという間に失速したのだった。桜子も国政に出ないことになり、望みの党の支持率は既に急落している。

 目まぐるしく状況が変わるなか、京子は国民からの支持を得やすいだろうと、望みの党幹部が力を入れて応援する候補者の一人になったのだ。

「それでは、我が党の期待のホープである、皆さんもご存知ですね、奥多摩の老人ホームで体を張って高齢者を助けた介護士、桂木京子です!」

 桜子からマイクを受け取る。観衆は、割れんばかりの拍手を桜子に送っている。

 京子は大きく息を吐いてから、

「えー……」

 と第一声を出した。掠れている。

 足元を見下ろすと、秘書の有紀が「大丈夫!」という表情で、頷いている。

「みなさん、こんにちは、桂木京子です」

 舟崎と有紀から、ゆっくり、大きな声で話す特訓を受けた。

「私は奥多摩の老人ホーム、美園ホームで介護士をしていました。今年の1月、美園ホームは放火され、19名の方が亡くなりました。私は今でも、毎晩のように夢に見ます。あのとき、もっと早くに気付いていたら、もっと助けられたかもしれないって」

 声が震えて、思わず目を閉じた。やはり、放火事件の夜のことを語ると、今でも胸が苦しくなる。

「その後、各地で老人ホームが放火され、8月には、都内の小学校に避難していた高齢者が、放火で34名の方が亡くなりました。どうして、こんな事件ばかり起きるのか。高齢者を狙った事件、たくさん起きていますよね。それなのに、自由連合は何もしようとしません。本当は私、選挙なんてしてる場合じゃないんじゃないかって思うんです。今でも、老人ホームはどこも放火されるんじゃないかって、怯えてるんですよ? それなのに、何もしようとしない」

 段々、言っていることのまとまりがなくなってきた。こめかみから汗が噴き出し、頬を伝う。

「どうして、こんなことになっているのか、考えたら、世の中が本当の意味で豊かになってないからだって思うんです。タベノミクスって言われてるけど、今の若者は全然生活に余裕がないです。私も、介護士をやっていた時は、お給料は16万円でした。32歳でですよ? 介護士になって半年ぐらいしか経ってなかったってのもありますけど、やっぱり16万円はきついなって思いました。でも、20年ぐらい働いてる人でも、30万円ももらえないんですよ? おかしくないですか?」

「そうだ!」とあちこちで声が上がった。支援者かもしれないが、「自分の話が届いてる」と思うと、少し気持ちが落ち着いてきた。

「こんなに一生懸命働いてるのに、少しも生活は豊かにならない。だから、その怒りの矛先が、高齢者に向いちゃうんじゃないかって思うんです。だから、根本的なことを解決しなきゃいけないんです。一番、大変な仕事をしている人たちが、報われるような構造改革が必要なんです」

 そこで言葉を切ると、あちこちで拍手が起きた。

 その後も夢中で話し、最後は「桂木京子をよろしくお願いいたします!」と頭を下げた。全身、汗だくになっていた。

 途端に、割れんばかりの拍手が起きる。

 桜子がマイクを受けとり、「初々しくて、フレッシュな桂木京子の初陣でした。ねえ、私のようなおばさんの演説を聞くより、新鮮な感じがしませんでしたか?」と投げかけると、観衆はどっと沸いた。

「桂木京子は、青梅にとって、日本にとって必要な人材です。皆さん、どうか応援をよろしくお願いいたします!」と桜子が締めくくると、再び拍手の嵐。

 京子はあちこちに懸命に手を振って、選挙カーを降りた。

 車に乗り込むと、喉がカラカラなことに気付いた。有紀が冷たいペットボトルの水を差しだす。ゴクゴク音を立てて飲み、ようやく息をつく。

「お疲れ様でした、よかったです! 私、ちょっと感動しちゃいました」

 みると、有紀の目には涙が浮かんでいる。

「桂木さん、よかったですよ。若いサラリーマンや子連れの若い母親も、真剣に聞いてくれていました。やっぱり、同世代が共感できるような、力強いメッセージを伝えられる力が桂木さんにはあるんだと思います。この調子で行きましょう!」

 舟崎も笑顔で健闘を労ってくれた。

 選挙カーが走り出すと、有紀が「手を振って!」と指示を出した。

 のんびり休んでいる暇はない。

 京子は沿道にいる人に向かって、手を振った。



 その日、台湾空港に28人の日本人が降り立った。

 ベルトコンベヤーで自分の荷物が回ってくるのを待つ間、向井茂は辺りを見回してみた。

「こうしてみると、日本とあんまり変わらんな」

 隣にいる妻の春子に話しかけた。

「そうね、こっちの人は髪も目も黒いし。よく見ると日本人とは違う顔立ちだとは思うけど」

「そんなこといったら、渋谷にたむろしているギャルのほうが、とても日本人とは思えんよ。金髪で、派手なメイクをしておへそを出して歩いててさ。やけに外国人が多いなって思ったら日本人だったから、たまげたよ。アメリカ人になりそこねた日本人って感じでさ」

「そうですねえ、よっぽどこっちの人のほうが、まともな格好をしてますなあ」と、隣で聞いていた千葉明が相槌を打った。

「男でも、最近はパッと見、女なのかどうかわからんヤツが多いし。男でもパーマかけてるんだろ? フワフワした髪型してるから女なのかと思ったら、背ぇ高くてヒゲが生えてて、よくよく見たら男だってヤツがいてさ、何だこいつらって思ったよ。男用の化粧品とかもあるしさ、世も末だねえ」

 茂が嘆くと、

「今の男は草食系って言うけど、あんな女の子たちじゃ草食系にもなりますわなあ。絶食系男子ってのもいるそうですよ」

 と、明が返した。

「はあ、絶食系。恐竜時代以下ですな、それは」

 二人で声をあげて笑った。

「まあまあ、すっかり意気投合して。これからお隣さんになるかもしれないから、いいことね」と、春子も嬉しそうに言う。

「ああ、久しぶりですよ、こんなに明るい気持ちになれたのは」

 明は晴れ晴れとした表情で言った。

「ここ数か月は外に出かけるのも怖くて、妻と一緒に家に引きこもっておとなしくしてるしかなかったんです。その恐怖からようやく解放されたんですから」

「まあ、いい決断をしたってことですな。思いきって移住を決めてよかったですよ」

「ほんとですよねえ」

 周りの人たちもしみじみと同感した。

「まあ、落ち着いたらみんなでゴルフでも行きましょうよ。こっちにもいいゴルフコースがあるみたいですよ」

 茂が提案すると、みんなの表情が明るくなった。

「いいですねえ、ゴルフ。会社を辞めてから全然行ってないなあ」

「あーあ、ゴルフクラブは部下にあげちゃったんだよねえ」

 ぼやく人には、「私のでよければお貸ししますよ」と茂は愛想よく言った。相手が喜ぶ顔を見て、茂は満足した。

 茂は、このグループではリーダー的な存在になっていた。セミナーで知り合った後は率先してみんなの名簿を作り、連絡を取り合っていた。みんなの疑問は茂が代表して水島に質問していたのである。今日の成田空港での待ち合わせ場所を決めたのも、茂だった。

 茂は定年退職するまで、とあるレストランチェーンの部長を務めていた。若い頃は店長として現場を仕切っていた経験もあり、人をまとめるのには自信がある。退職後は何もすることがなく、暇を持て余す毎日だったが、久しぶりに多くの人と会い、交流を持つうちに、仕切りたがりの性格が顔を出したのである。

「さあ、行きましょう」

 全員が荷物を受け取ったのを確認し、茂は先頭に立って出口に向かった。ロビーに出ると、旗やボードを持って出迎えている人達がいた。

「パシフィックステイでしたっけ」

「そうそう」

 同じように搭乗口を出てきた人達が、旅行会社の名前を見つけて次々と合流していく。台湾人を迎えに来た家族もいる。

 出迎えの人は一人減り、二人減り、気がつくと出迎えらしき人はいなくなっていた。

「あれ、どうしたんだろ」

「遅れてるんですかねえ」

「ちょっと待つかな」

 28人はロビーの椅子に腰をかけ、めいめいペットボトルの水を飲んだり、トイレに行くなどリラックスしていた。

 茂は建物の外にも出て、出迎えてくれるはずのスタッフを探した。やがて、浮かない顔をしてみんなのところに戻ってきた。

「車が渋滞してるんじゃないですか。ここで待っていましょうよ」

 明がのんびりと声をかける。

「あなた、ちょっと座って待ってたら」と、春子も促した。みんな異国に来て気分が浮ついているのか、スタッフの到着が遅れていても気にならないようである。

 だが、茂は気に入らなかった。働いている時は、時間厳守で迅速に対応するよう心がけていたのである。それが仕事では当然だと思っていた。

 退職して家で宅配ピザや出前を頼む時も、何分で届くのかを計り、時間通りにこなかったらグチグチ文句を言うので、春子からたしなめられていた。最近は出前を頼んでも名前を告げたら断られるようになり、電話で大ゲンカになることもある。

 今は家族以外の人がいるので抑えてはいるが、予定の時刻を30分過ぎたころ、苛立ちは頂点に達した。

「ったく、何してるんだ」とパンフレットを取り出し、そこに書いてある連絡先に電話をかける。数回呼び出し音が鳴り、誰かが電話に出た。

「あー、もしもし?」

 不機嫌な声のまま呼びかけると、向こうは訳の分からない言葉で何かを言っている。それが中国語だと分かるまで、数秒かかった。

「あのー、パシフィックステイさんではないですか? えーと、日本語分かる人いませんか?」

 電話を切られ、茂は困惑した。

 みんなが茂を見ているのに気づき、

「まいったな、間違い電話をかけちゃったみたい」

 と、おどけて見せた。みんなはどっと笑った。

「今度は慎重に、えーと、04の……」

 茂は、今度は慎重に一つ一つのボタンを確かめながら押した。ややあって、誰かが電話口に出た。だが、やはり相手は中国語しか話せないようだった。

「あーもしもし、日本語分かる人いませんか?」

 しばらく相手は何か言っていたが、「いや、中国語は分からないから」「おかしいな、パシフィックステイさんの事務所じゃないんですか?」と茂が返すと、電話はまたもや切れてしまった。

「おかしいな、この番号じゃないみたいだ」

「ええー、どういうこと?」

 春子が呑気に飴をなめながら聞いた。

「いや、確かにこの番号にかけたんだけど、台湾人しか出ないんだ。子供の声がするから、普通の家にかかってるみたいなんだよ。水島さんは、日本語が分かるスタッフにつながるって言ってたよねえ」

「もしかして、その番号が間違ってるんじゃないの」

「ああー、印刷が間違ってたとか? ありがちだな。ったく」

 茂は今度は水島の事務所に電話をかけた。

 だが、すぐに「この番号は、現在は使われておりません」とアナウンスが流れる。電話を切り、もう一度かけてみたが、同じアナウンスが流れるばかりである。

「なんだ、こりゃ」

 茂はイライラと電話を切った。

「出ないの?」

 さすがに春子も不安そうな表情になっている。

「出ないどころか、この番号は現在は使われてないって」

「ええー、どういうこと?」

「わからんよ。昨日までは話せたのに。携帯にかけてみる」

 だが、携帯も同じアナウンスが流れるだけだった。

「だめだ、携帯もつながらない」

 茂は呆然と電話を切った。その場にいた人たちは、さすがにただならないことが起きていると気づき、茂のまわりに集まってきていた。

「どことも連絡が取れないってどういうこと?」

「今日私たちが来るって連絡が、向こうに行ってないんじゃないの?」

「そうだとしても、電話が通じなくなるってのはおかしいでしょ」

 みんなが口々に不安を言い出す。茂は、しばらく腕組みをして考え込んだ。

「とにかく、住む場所の住所は分かってるんだから、直接行ってみるしかないか。ここで待ってても仕方ないし」

「そうですなあ、もしかしたら手違いでそっちにスタッフが行ってるかもしれないし」

 明も同意した。

「でも、どうやって行くの。タクシーに乗っても、中国語わからないし」

 春子は不安がる。

「あそこの案内所で日本語話せる人がいるかもしれないから、ちょっと聞いてくる」

 茂は早足でインフォメーションセンターに行き、「すみません、日本語分かる人いますか」と尋ねてみた。若い受付嬢が笑顔で「ハイ」と答えたので、茂は事情を簡単に説明した。

 受付嬢は親切にタクシー乗り場に案内してくれた。運転手に事情を話してくれているようで、運転手は頷きながら話を聞いている。

「皆さん、北屯区でいいですか」

「ええ、みんな行く場所は同じです」

「タクシーは何台」

「そうだなあ、一台に4人乗れるから……7台か」

 受付嬢がタクシー運転手に説明すると、運転手はほかのタクシーに声をかけた。

「大丈夫です、この人たちが連れて行ってくれます」

 受付嬢はニッコリと微笑んだ。

「本当ですか? ありがとう、助かりました」

 茂は深々と頭を下げる。

「ただ、この家がどこにあるのか分からないから、近くで止めます」

「ええ、ええ、それでいいです、かまいません」

 茂は急いでみんなのところに戻り、状況を説明し、ぞろぞろとタクシー乗り場に向かった。

「えーと、4人ずつに分かれよう。千葉さん夫婦は私たちと一緒でいいかな」

 茂はてきぱきとメンバーを分け、荷物をトランクに積み込み、受付嬢に何度もお礼を言って助手席に乗り込んだ。

「ふう、初日からトラブルだよ、まいったな」

 タクシーが走りだし、茂はため息をついた。

「それにしても、日本の事務所に電話をかけてもつながらないなんて、どういうことですかねえ」

 明が不安そうに言った。

「もしかして、夜逃げしたとか」

「まさか、昨日は水島さんから電話がありましたよ。普通に話してましたから、それはないでしょう」

「そうなんですか」

「思い出した、しばらく出張で出かけるから、連絡がつかなくなるかもしれないって言ってたな、そういえば。後のことは事務所の人に指示してあるって。事務所の若い人と、こっちの人の仕事の仕方が、いいかげんなんでしょう。私も会社に勤めていた時、今どきの若者には手を焼きましたからねえ。本社に連絡をしておけって言っても、簡単に忘れちゃうんだから。あの神経は信じられなかったな」

「でも、電話が一切つながらないんでしょう。それはちょっと、おかしくないですか」

「さあ、そこまでは私も分かりませんよっ」

 茂は思わず声を荒げてしまった。明は口をつぐみ、タクシー内に重い沈黙が垂れこめた。

「ねえ、お父さん、向こうに着いても鍵がないと家に入れないでしょ。そのときはどうするの?」

 春子が努めて明るい声音で聞いた。

「そうだなあ……そのときはホテルに泊まるしかないでしょ。一泊ぐらいなら、仕方がない。昔、出張で台湾に来たことあるから、泊まる場所は大体わかるし」

「そう」

 会話が途切れて、再び車内は重苦しい雰囲気に包まれた。

 ――まったく、水島さんと連絡が取れたら、台湾まで謝罪に来させないと。こっちは500万円も払ってるのに、こんな雑な仕事をされるなんて、冗談じゃない。だいたい、こんな大事なときに出張に行くなんてどうかしてる。何かトラブルが起きるかもしれないんだから、最後まで見届けるのが仕事ってもんじゃないか。あの人、どっか呑気と言うか、緊張感がないんだよね。かみさんは上品な男性だって誉めてたけど、単なるお坊ちゃんじゃないのか? 仕事の仕方が甘いんだよな。会ったら締め上げてやらないと。 

 茂は心の中で水島に批難の言葉を浴びせかけていたが、疲れが出ていつの間にか眠ってしまった。タクシーの運転手に起こされると、空港を出てから一時間ほど経っていた。振り返ると、後部座席の3人も眠っている。3人を起こし、料金を払い、タクシーを降りた。

 降り立ったのは、大きな公園のそばだった。

「いい場所じゃないか」

 茂はつぶやいた。

「ねえ、池もあるし。ボートにも乗れるみたいよ」

 春子も少し明るい声で言った。

「水島さんの説明じゃ、確かこの公園の周辺だったよな」

「そうね、どの辺かしら」

 茂たちが地図を見ていると、後から続々とタクシーが到着して、メンバーを降ろした。

「まず、こっちに行ってみましょう」

 茂たちはスーツケースをゴロゴロと響かせながら、歩き出した。総勢28人がスーツケースを引いて歩いている光景を、道行く人は奇妙なものを見るような目つきで見ている。

 それから、1時間後。

 茂たちは公園の芝生に座り込んでいた。荷物を持ちながら歩き回ったので、みんな汗だくになっている。ペットボトルを持っている者は勢いよく飲み干し、自販機を探しに行ったメンバーもいる。

「どういうことなんだ、これ」

 茂の苛立ちは、またもや頂点に達していた。

「こんな写真の住宅地なんて、どこにもないじゃないか。ビルとか学校ばっかりで」

「住所を間違ったのかしら」

「そんなことないよ。パンフレットに書いてある住所は確かにここなんだから」

「印刷が間違ってるとか」

「そんな、勘弁してくれよ、もう」

 茂は頭をかきむしった。首筋に次々と汗が伝っては落ちる。

「誰に連絡すりゃいいんだ」

 そこにいる誰も、何も答えられなかった。一羽の鳥が、鳴きながら頭上の枝から飛び立った。その声が木立に高く響き渡る。



 その日、田部井真之介は朝から応援演説で大阪に入っていた。

 田部井は自分の知人の会社に便宜を図ったとして、今年の初めごろに週刊誌でスクープ記事が報道され、野党に国会で追及される日々が続いた。適当にごまかしておけばそれほど大きな問題にならないだろうと思っていたら、次々と新事実が出てきて、徐々にごまかしきれなくなってきた。これ以上国会で追及されると困るので、リセットするつもりで衆議院の解散に踏み切ったのだ。

 その直後に桜子が新党を立ち上げ、世論は「政権交代か?」というムードになった。

「失敗したか?」と数日間、眠れない日々を過ごしたが、桜子は最大野党の民衆党と手を組むときに、「新しい体質にするために、古い角質は取り除かなければならない」と民衆党の古株を古い角質呼ばわりしたことから、一気に批判を浴びたのだ。

 メディアでは連日、自由連合の優勢を伝えているので、「我ながら、運がいいな」と田部井は晴れ晴れした気分になっていた。

 おまけに、自分が演説するときは、親衛隊のような輩がヤジを飛ばす聴衆を排除してくれる。選挙カーから見下ろすと、無数の聴衆が日の丸の旗を振っているのだ。

「自分はこんなにも応援されているんだ」と励まされ、演説にも力が入った。

 大阪の聴衆はノリがよく、冗談を飛ばすと笑ってくれる。

 田部井は詰めかけた聴衆に向かって何度も手を振り、選挙カーを降りた。

 すると、「そ・総理、大変なことが」と秘書が真っ青な顔で立っている。

「何? どうしたの?」

 ウグイス嬢が候補者の名前を連呼しているので、声が聞き取りづらい。顔を寄せると、秘書が耳打ちした。

「先ほど、外務省に台湾の交流協会から電話があって……」

「え? 何? 何だって?」と聞き返すと、秘書は声を張り上げた。

「だから、大勢の日本人が、台湾で詐欺に遭ったんですっ」

 ちょうどウグイス嬢が静かになったタイミングだったので、周りにいた支援者やマスコミに聞こえてしまった。

 一瞬、その場は水を打ったようになった。

「え? 台湾で詐欺って……どういうこと?」

「ハイ、外務省に台湾の交流協会から電話があって、台湾に住むことになっていた日本人が現地に来てみたら、その家がなかったと。協会で調べてみたところ、確かにそんな家は存在しないとわかりまして。今、交流協会には120人ぐらいの日本人が来ているそうなんです」

「120人? そんなに多くの日本人が台湾に住むってこと? どういうこと、それ」

「それが分からずに確認中なんです。しかも、そういう日本人がどんどん協会に来ているという話で」

「総理っ」

 そこに別の秘書が駆け寄ってきた。

「何?」

「今、外務省にシンガポールの大使館から電話があって、シンガポールに住むはずだった日本人が、現地に行ってみたらその家がないので、途方に暮れていると」

「シンガポール? 何人ぐらい?」

「それが……100人ぐらいだと」

 田部井は絶句した。

 その様子を、マスコミのカメラがすかさずとらえる。



「つまり、これは相当大規模な詐欺事件って可能性もありますよね」

「ええ、それもあります。被害に遭った人たちに、現地で話を聞いてみました」

 テレビのニュースでは、キャスターたちが深刻そうな顔で話をしている。映像が切り替わり、若い男性アナウンサーが台湾から実況中継をしている様子が映し出される。交流協会には大勢の日本人がつめかけ、みな疲れた表情でぐったりと座りこんでいる。

「いったい、何が起きたのでしょうか」

 アナウンサーが近くにいた初老の男にマイクを向けると、

「そりゃあ、こっちが聞きたいよ。わけがわかんないんだよ。俺たちは、台湾でしばらく住むことになっていて、家を買ったわけ。それが、来てみたら家がないんだよ。どこにもないんだよ」

 と答えた。

「家を買った。それはいつごろですか」

「申し込んだのは一か月前」

「家を買ったということは、現地に来て確認はしてるんですよね」

「いや、してないよ。そんな、一か月で海外に移住するんだからさ、こっちに来て物色してる暇なんてないんだよ。だから、パシフィックステイっていう会社で、すべて手配をしてくれるって話でさ」

「パシフィックステイという会社に連絡は」

「それが連絡つかないんだよ。事務所も携帯も、何度かけても現在は使われてませんってアナウンスが流れてさ。訳わかんないんだよ。ここに来たら、こんなに続々と人が集まってきてさ。何が起きてるか、わかんないんだよ」

「ここには、そのパシフィックステイという会社のスタッフと一緒に来たわけではないんですか」

「こっちに来たら、空港でスタッフが待ってるって話だったんだよ。でも、待てど暮らせど来ないから、自分たちで家まで行ってみたんだよ。住所は分かるから。でも、その住所には住宅地なんてなくて、汚いビルが建ってるだけでさあ。まいったよ、ほんと」

「住所は間違ってないんですか」

「パンフレットに書いてある通りの住所だよ。だから、困ってここに来て相談したんだよ。そうしたら、そんな住宅地は調べてもどこにもないって言われてさあ」

「えっ、それじゃあ、嘘だったっていうことなんですか?」

「わからんよ。何もわからん。ったく、勘弁してほしいよ。500万円で家を買ったんだから。老後の資金をつぎ込んだんだからさあ。困るんだよ、本当に」

 男は苛立っているのか、声が段々大きくなっていく。その後ろには泣いている初老の女の姿が映っていた。画面がスタジオに切り替わる。

「相当現場は混乱しているようですね」

 男性キャスターの言葉に、実況中継しているアナウンサーが、

「はい、そうなんです。つい先ほども、20人ほどの日本人がここを訪ねてきました。今日だけで、交流協会を訪れた日本人は150人を超えているんです。その誰もが、同じようにパシフィックステイという会社を通して現地で家を買った、けれども来てみたらどこにもその家がない、と訴えています。協会の職員は、ひとまず今日はホテルを探して全員が宿泊できるよう手配を整える、と話していました」

 と説明した。

「ありがとうございます。今、官邸で記者会見が始まったようです。記者会見の会場につなぎます」

 映像が切り替わった。カメラのフラッシュを浴びながら、いつも気だるそうな表情をしている官房長官が出てきた。

「こんなんに簡単にだまされるなんて、馬鹿ばっかだな、日本人は」

 幸輔は酒を飲みながらつぶやいた。

「ねえ、怖いわねえ。最近は何が起きるかわからないから、誰も信用できないわね」

 正子は相槌を打った。

「どうせ、こいつらは日本にいちゃ怖いからって逃げ出そうとしたんだろ? それを利用されて、お金を巻き上げられたんだよ。弱みを見せたら付け込むやつがいるってこと、どうしてわからんのかねえ。いい年こいて、情けないよ」

 幸輔は刺身を口に放り込んだ。

「うちはお父さんがしっかりしてるから、きっと騙されないでしょうけど、普通の人はなかなかわからないんじゃないの?」

「まあなあ。最近の詐欺は巧妙になってきてるしな」

 幸輔は手酌で酒を注いだ。

「直行は?」

「今日は、学生時代の友達と飲みに行くんですって。帰ってから出かけたわよ」

「ふうん。まあ、たまにはそういう息抜きも必要だな」

 晩酌を済ませ、幸輔は

「そういや、デジカメどこに行った? 明日のゴルフコンペに持って行って、フォームを撮ってもらおうかと思ってさ」

 と正子に尋ねた。

「直行が持ってるんじゃないの?」

「そうか」

 幸輔は二階に上がり、直行の部屋に入った。直行の部屋に入るのは、久しぶりである。高校生のときから親が部屋に入るのをひどく嫌がるようになったので、正子は小型の掃除機を渡して「自分で掃除しなさい」と指導していた。今も部屋の片隅に掃除機が置いてある。

 時折、直行が部屋にいる時に覗いてみることもあったが、ベッドに寝転んで本を読んでいたり、パソコンに向かっている。幸輔は適当に話をして、ドアを閉めるのだった。

 直行の部屋は適度に片づいていた。

 ――あいつ、結構きれい好きなんだな。俺の独身時代の部屋はひどかったよなあ。正子はアパートに来るたびに呆れてたっけ。その血は受け継がなかったってことか。

 机の上を見ると、ノートパソコンの周りに本やCDが置いてある。それらを持ち上げて探しているうちに、キーボードに手が触れ、パッと画面が明るくなった。

 デスクトップの画像が映し出される。何気なく目をやると、ふと、1つのファイルに目が止まった。「megami」とローマ字でタイトルがついている。

 ――なんだ? 女神? 女神とか言いつつ、エロ画像でも入れてんじゃないか。

 幸輔は興味がわき、いけないとは思いつつも、クリックしてファイルを開いた。案の定、画像がずらずらと並んでいる。だが、そこから先は幸輔の想像とはまったく違っていた。

 画像の1つをクリックすると、水着姿の少女が映し出されたのだ。その少女はどう見ても小学生である。

 幸輔の顔が、こわばる。

「なんだ、これ」

 ほかの画像を片っ端から開けて見る。そのファイルの画像にはすべて少女が映っていた。公園の砂場で遊んでいる少女、池で水浴びをしている少女、三輪車を漕いでいる少女、体操着姿の少女……どの画像も、少女の下着を狙って撮っているのはあきらかだった。幸輔の鼓動が速くなる。

 ある画像を開けた時、幸輔は息を止めた。その画像は、明らかに部屋の中で撮っている。しかも、少女は裸である。

 幸輔は生唾を飲み込んだ。

 その少女がすでに息絶えているのは、明らかだった。眼は見開かれ、口には布が押し込まれている。顔は涙と鼻水、よだれで汚れている。その少女の画像は、50枚ぐらいあった。なかには性器を接写しているものもある。

 幸輔は吐き気が込み上げてきたが、かろうじて堪えた。

 そのとき、階段を上がってくる足音が聞こえた。幸輔は慌ててノートパソコンを閉じた。

「デジカメ、あった?」

 正子が部屋を覗いた。

「いや、見当たらない」

 幸輔は机の上を探すふりをした。声がかすれていたので、咳払いをしてごまかす。

「そう。持って行っちゃったのかしら」

 呑気に答え、正子は寝室に向かった。幸輔は目を閉じ、

 ――落ち着け、落ち着け。

 と心で唱えながら深呼吸をした。

 パソコンを見たという痕跡を残しておいたら、まずい。机の引き出しを開けて中を見ると、文房具が乱雑に入っている。幸輔はわざとその引き出しを少しだけ開けておいた。引き出しを捜したけれど、何も見つからなかった、という演出をしようと考えたのである。

 ノートパソコンを開いて画像を閉じ、マウスの位置や本やCDの位置を確認し、電気を消して部屋を出る。

「お父さん」

 正子に声をかけられ、幸輔は飛び上がりそうになった。

「お風呂どうします?」

「あ、ああ……先に入っていいよ。俺は酔いを醒ますから」

 正子と入れ違いに寝室に入り、幸輔はベッドに腰を下ろした。

 ――これは、どういうことなのか。

 何十枚もの少女の画像。そして、死んだ少女の画像。

 ――あいつが撮ったのか? いや、まさか、そんなはずはない。おおかた、ネットで流出した画像をダウンロードしたんだろう。そうだとしても、少女の画像だぞ。しかも、死んでる少女の画像まで。そんなのに興味があるなんて、それだけでも十分おかしいじゃないか。こんなことがバレたら、あいつは昇進できなくなる。それどころか、俺も上からネチネチ言われるかもしれない……。

「なんてこった」 

 幸輔は思わず両手で顔を覆った。

 ――まっすぐ育てたはずだったのに、変態になっちまうなんて。

「バカ野郎めが」

 悪態が口をついて出る。



 その夜、直行は11時過ぎに帰宅した。帰るなり台所に直行し、冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んでいる。

「おう、お帰り」

 リビングのソファに腰をかけてテレビを見ながら、幸輔は平静を装って声をかけた。本当は、テレビの内容などまったく頭に入っていない。

「友達と飲みに行ってたのか?」

「うん。急に呼びだされてさ。レッカー車で車移動されちゃったんだけど、違反金を払いたくないから、どうにかならないかって相談された」

「ああ。俺もよく頼まれるよ。息子がスピード違反で捕まったとかさ」

「ったく、便利屋のように思われちゃ迷惑なんだけどね」

「そうだな」

 幸輔はテレビを消し、「さあ、寝るか」とつぶやいた。ここまでは頭の中で何度も繰り返したシミュレーション通りである。

「ああ、そうだ」

 幸輔は、思い出したように声を上げる。

「明日のゴルフコンペにデジカメ持って行きたいんだけど、どこに置いてある? さっき部屋に入って探しても見つからなくてさ」

「部屋に入ったの?」

 直行の表情がみるみる険しくなっていく。

「すまん、引き出しの中を勝手に見ちまった」

「えっ、引き出し開けたの?」

「でも、どこにもなくてさ。お前、持ってるか?」

「ああ……持ってるけど」

 直行はチラリと床に置いてあるリュックに目をやった。どうやら、デジカメはそこに入れてあるようである。

「じゃあ、明日の朝までに、そこのテーブルの上に置いとくよ」

「そうか。頼む」

「でもさ、これからは勝手に部屋に入るのはやめてよ」

「すまん。帰りが遅いのかと思ってさ」

「まあ、いいけど」

 これで何とか乗り切ったと、幸輔は心の中で安堵した。が、直行の横を通るとき、思わず足を止めた。

「お前、今日、酒を飲んできたんだよな」

「そうだけど?」

「その割には、全然酒くさくないな」

 幸輔の言葉に、直行はあきらかに狼狽した。

「あ、ああ、俺はちょっとしか飲んでないんだ。最初の一杯ビールを飲んだだけ。その店の酒はまずいんだよ。料理もひどくてさ」

「そうか。この間駅前にできた志乃って店は、なかなかよかったぞ」

「ふうん。今度行ってみるよ」

 廊下を歩く幸輔の背中に、直行は「おやすみ」と声をかけた。幸輔も「おやすみ」と返す。

 ――あいつ、どこ行ってたんだ。

 幸輔は動悸が激しくなり、こめかみがジンジンと痛むのを感じた。

 ――長年のカンだ。あいつ、何かしてきたな。デジカメにも、きっとその画像が入っている。間違いない。



 武山久美子は、ある朝、鏡の中の自分の姿を見てぎょっとした。気がつけば、白髪が一気に増え、しわまで目立つようになっていたのである。

 アロマテラピーにはまっている久美子は、50代になっても40代前半に見られる肌の艶がひそかな自慢だった。それが今は、60代といっても通用するほど老けこんで見える。しばらくまばたきするのも忘れて、自分の姿を見つめていた。

 なぜ、一気に老けこんだのか。理由はたった一つ、4か月前、透の部屋でゴミ袋の中身を見てしまったからだ。

 その後、透の部屋の前を通るのが恐ろしくなった。刺された老婆が化けて出てくるのではないかと真剣に考え、夜中に窓ガラスが風でガタリと音を立てるだけで震え上がっていた。

 ――私は何も知りません。私は何も知りません。

 そのつど、呪文のように心の中で唱えるのだった。

 その後、透は一度警察に事情聴取で呼ばれた。

 だが、物的な証拠も目撃者もなく、本人は「その日はずっと家にいた」としか言わないので、警察はそれ以上何もできなかったらしい。それ以来、事件はうやむやになっている。

 警察にあのゴミ袋を渡そうかと久美子は何度も思った。隆一郎が「余計なことをするなよ」と釘を刺したので、思いとどまったのだ。

 今ではそれを後悔している。

 隆太郎が会社に行った後は、透と家で二人きりになるのに耐えられず、公園のベンチに座って物思いにふけったり、図書館やスーパーをウロウロして時間をつぶしていた。

 食欲はなくなり、料理を作る気もしない。庭の手入れも怠るようになり、雑草があちこちに生い茂り、植木鉢の植物も虫に食われて荒れてきている。

 思い余った久美子は、「精神科のカウンセリングを受けたい」と隆太郎に漏らした。

 すると、隆太郎は血相を変えて、

「お前、カウンセリングで何を話すつもりなんだ? 息子が人を殺した、だから怖くて夜も眠れないとでも告白するつもりなのか? そんなことしたら、通報されるぞ」

 と猛反対した。

「でも、お医者さんには守秘義務があるんでしょ?」

「そんなの、犯人逮捕につながることなら、警察にペラペラしゃべるに決まってるだろ? 俺が医者なら、絶対に通報する。医者が患者を守ってくれるわけないんだから」

 隆太郎は強引に説得し、そして取り繕うように、

「何か趣味の教室にでも通ったらどうだ。油絵とか、昔は好きだったろ? 気分転換になるんじゃないか」

 と勧めた。

 だが、久美子にとっては、大勢の人がいる場に出かけるほうが恐ろしい。自分の気持ちをコントロールする自信がないので、何かの拍子に透の部屋で見たものをポロッと話してしまうかもしれない。そうなれば、すべて終わりである。今まで築き上げてきた幸せは、一瞬にして崩れ去るだろう。それが恐ろしくて、今は近所の人と世間話をするのも避けていた。

 日に日に弱っていく久美子を見かねて、隆太郎は展覧会の招待券をもらってきてくれた。

 ――一人で観に行って帰ってくるのなら、大丈夫かも。

 久美子はそう思い、久しぶりに展覧会を観るために遠出することにした。

 印象派の絵画を集めた展覧会は、雨の日にも関わらずそこそこ混んでいた。久美子は人の流れに紛れて、ノロノロと絵を見て回った。間近で巨匠の本物の絵を観ているというのに、少しも心は動かされない。以前なら色遣いや筆遣いに感嘆し、「私もまた始めようかしら」と思ったものだ。今は絵の前で物思いにふけるだけだった。家から離れてもなお、頭を占めるのは透の部屋にあった血のついた洋服である。

 少しも気分転換にならず、却って気疲れして久美子は帰途についた。

 おまけに、雨が一層強くなり、足元はずぶ濡れになってしまった。

 家に戻ったのは7時過ぎだった。玄関には透の靴がないので、出かけているのだと久美子は安堵のため息をついた。

 タオルで濡れた体を拭き、着替えようと二階に上がると、透の部屋のドアが細く開いていた。

 久美子はドキリと足を止めた。

 ――見ないほうがいい。

 久美子は足早に部屋の前をよぎり、寝室に入った。鼓動が聞こえそうなほど激しく脈打っている。

 ――見ないほうがいい。パパも言っていた、もう透の部屋には近づくなって。

 ワンピースを脱ぎ、部屋着に着替える。

 ――でも、袋が増えていたら、どうしよう。また人を殺していたら?

 久美子は部屋の中をうろうろと歩き回った。ふと鏡台の三面鏡を見ると、青ざめて生気を失った自分の顔が幾重にも映っている。まるで老婆のような姿――久美子は正視できず、三面鏡の扉を閉めた。

 ――ちょっと見るだけなら。確認するだけなら大丈夫、きっと。もし袋が増えてたら、あの人にこのままにしておいていいのかって、今度は本気で考えてもらおう。そうよ、あの人に、透を説得してもらえばいいんだ。警察に自首するよう説得できれば、私たちは悪くないってことになるじゃない。

 久美子は心を決めた。家には誰もいないと分かっていながら、足音を忍ばせて廊下を歩く。念のためにノックをしてみたが、やはり何も返答はない。そっとドアを開け、電気をつけた。

 3か月前に見た光景と変わらず、床には乱雑に漫画本やゲームが積み重ねてある。久美子はそれらの山を崩さないように注意深く歩き、しゃがんでベッドの下を見た。

 そこには、ゴミ袋が1つ。久美子は目を閉じた。

 ――増えてはいないみたい。

 久美子は部屋を出ようと腰を浮かしかけたが、ふと

 ――もしかしたら、あれは血じゃないかもしれない。見間違いかもしれない。

 と思い立ち、ゴミ袋を引っ張り出した。結び目をほどき、ジャンパーとジーパンを取り出すと、血液と思われる汚れはさらに黒くこびりついている。

 久美子はそれが本当に血液なのか、しばらく凝視していた。

 その時。

 低くくぐもったような笑い声が部屋に響いた。久美子は驚いてドアを見たが、誰もいない。

「やっぱりね」

 その声は、クローゼットから聞こえてきた。一拍おいて透が扉を開けてのそりと出てきた。久美子は悲鳴を上げ、尻餅をついた。

 透は中に隠れて久美子が来るのを待ち構えていたらしい。眼は妖しく光り、ニヤニヤと、おぞましいとしか言いようがない笑みを浮かべている。

「やっぱり。あの日、帰ってきたら、本が違うし。ママもパパも、変、だし。見たんだ、その中」

 数ヵ月ぶりに聞く声だった。舌がもつれているような、たどたどしい感じで話す。

「違うの」

 久美子は弱々しく否定した。

 ――普通にふるまってろ。

 隆太郎からは何度も釘を刺されたが、すっかり態度に表れていたらしい。

 久美子は逃げ出そうとしたが、体が動かなかった。腰が抜けたのか、立つことさえできない。本当の恐怖の前では、体が動かなくなるのだと、初めて知った。

「ここここんなところにゴミ袋があるから、だから、だから、ゴミ、ゴミかなって思って、捨てようって、それで、それでね」

 とっさに思いついた言い訳をすると、透は「フン」と鼻先で一笑した。

「なんで、知ってる? そこにゴミ袋、あること」

「そそそれはね、見え、見えたから」

「見えない」

「ううん、見えた見えた、見えたの。部屋を覗いたときに、チラッと見えたんだから」

 久美子は必死で考えていた。透をなだめる言葉を。昔、透が怒ったときや泣いたときにどんな言葉をかけてなだめていたのか、必死で思い出そうとしていた。

「ダメでしょ、こんなことしちゃ」

 ふと、そんな言葉が口をついて出た。

 ――そうだ、いつもそう言ってたんだっけ……。

 透は驚いたような表情を一瞬見せた。その表情がみるみる険しくなっていく。

 久美子は慌てて、

「ちが、違うの、こんなことを言いたかったんじゃなくて」

 と打ち消したが、もはや取り返しはつかなかった。

「いつも、そうだ。最初に、怒る。理由聞かずに、否定する」

「そそそん、そんなことない、そんなことないから」

 透はドアの鍵を閉め、久美子を睨んだ。その憎悪に満ちた眼を見て、久美子は透が何をしようとしているのか悟った。

「ねねねえ、透ちゃん」

 久美子はできるだけ優しい声を出そうと努めた。震える手でジャンパーをつかみ、

「これ、何なの? この黒いシミ」

 と示した。

「分かってるくせに」

「ううん、分からない。分からないの」

 ――知らないふりを通そう。それしかない。

「血だよ」

「血? どうして血がついてるの?」

「刺したから」

「え?」

「ババアを刺したから」

「ババアって誰?」

「前、警察が来てたじゃん。公園で殺されたって」

「ああ、あのおばあさんのこと? でも、透ちゃんは、関係ないんでしょ? 知らないおばあさんでしょ?」

「知らないけど、殺した」

 透はあっさりと人を殺したことを認めた。その表情には何の感情も見られない。

「どうして? どうしてそんなことを?」

「害虫だったから。ネンキンもらえるし」

 久美子はどういう意味なのか分からず、困惑した。

「ねえ、透ちゃん、一緒に警察に行こう。いけないことをしたって、わかってるんでしょ? ママも一緒に行くから。一緒に謝るから。今なら、まだ間に合うから、ね?」

 透はしばらく考えこみ、「いいよ」とポツリとつぶやいた。

「いいの? 警察に行ってくれるの?」

「うん、いいよ。つかまっても、死刑になってもいい」

「そんなこと言わないの。パパが助けてくれるから。パパなら、いい弁護士さんを知ってるだろうから」

「助けてくれなくていい」

 透はきっぱりと言い放った。

「早く死にたい」

 その言葉の強さに、久美子は息を呑んだ。

「早く死にたい、早く死にたい、早く死にたい」

 透は何かにとりつかれたかのように、同じ言葉を繰り返す。

「早く死にたい、早く死にたい……あーっ」

 突然絶叫し、透は頭をかきむしった。

「お前らのせいだっ、お前らのせいでこんなになった。お前らのせいだよっ」

 久美子はとうとう透が狂ってしまったのかと思った。透は訳の分からない叫び声を上げながら、ドアを拳で叩き始めた。

 ――誰、この子。

 久美子は立ち上がろうとしてもやはり足腰に力が入らないので、座ったまま後ずさりした。

 ――私、こんな風に育てた覚えはない。

 丹精を込めて育てれば、どんな植物でも立派に育つ。

 なぜ、人は。自分の息子は育ってくれなかったのか。こんなにも懸命に育ててきたのに。

 24年前、透を出産する時、切迫流産の可能性があった。無事に産まれたときは涙を流して喜んだのだ。

 ――この子は、私が一生守っていくんだ。

 そう思い、自分ではずっと守ってきたつもりだった。事実、息子の将来をいつでも案じて、早いうちに塾にも通わせたし、私立校にも入れた。夫のコネでいい会社に就職もできただろうし、一生何不自由なく暮らせる生活を保障されたも同然だったのである。それを壊したのは、透自身ではないか――。

 久美子は無力感に打ちのめされていた。

 目の前で息子が死にたがっている。しかも自分の人生がダメになったのは、自分と隆太郎のせいだと言うのである。

 気がつくと、久美子の頬には涙が伝っていた。

「一緒に、警察に、行こう」

 久美子はそう言うのが精一杯だった。

 透は糸が切れた操り人形のように、床にしゃがみこんだ。ドアを見ると、透が殴った箇所は大きくへこんでいる。

「もう、疲れた、私も疲れた」

 久美子は泣き出した。

「喉、渇いた」

 ポツリと言うと、透はゆらりと立ち上がり、鍵を開けて部屋を出て行った。階段を下りる足音が聞こえる。

 しばらく久美子はその場で泣きじゃくっていた。

 ふと、

 ――あんな子のせいで、人生が台無しになるなんて。

 という思いが頭をよぎった。

 ――私が悪いんじゃない。私の言うことを聞かなかった、あの子が悪いんじゃないの。

 久美子は泣いている場合ではないと気づき、震える足で何とか立ち上がり、よろめきながら部屋を出た。

 ――警察に。息子に殺されそうだって言えば、助けてもらえる。あの子をつかまえてもらわなくちゃ。

 寝室にたどりつき、タンスの上に置いてある電話の子機をとる。

 ――どこに電話すればいいんだっけ。警察は何番だっけ。

 動揺して、番号を思い出せない。

 ――117番? 119番? もう、どこでもいいから、とにかく電話しないと。

 手の力が抜けて、なかなか番号のボタンを押せない。

 何とか番号を押すと、受話器を耳に当て、

「もしもし? 警察ですか? 殺されそうなんです、息子に殺されるっ。助けてくださいっ」

 叫ぶように、一息に言った。だが、送話口から聞こえてきたのは、

「気象庁予報部発表の10月20日午後7時現在の気象情報をお知らせします。関東地方では激しい雨により、注意報が出ております」

 というアナウンスだった。

「嘘つき」

 冷たい声が背後から投げかけられた。

「一緒に警察に行こうって言ったのに」

 恐る恐る振り返ると、寝室の入り口に透が立っている。部屋の電気がついていないので、表情までは分からない。

「いつも、そうだ。平気で嘘をつく」

 透は右手に何かを握り締めている。

「一緒に行くって言うから、持ってきたのに」

「な・何を?」

 透は無言でそれを振り上げる。廊下の明かりを受け、鈍く光る――それは包丁だった。久美子の手から受話器が転がり落ちる。

「これで、ババアを、刺した」  

 久美子は膝から崩れ落ちた。

 久美子は料理が好きなので、使う道具の管理を怠らなかった。包丁は一週間に一度は研ぎ、切れ味は抜群である。

「ダメでしょ、こんなことしちゃ」

 口をついて出たのは、またその言葉だった。

 じゅうたんに転がった受話器からは、天気予報のアナウンスが流れている。

「明日は北の風、後、やや強く、激しい雨が降るでしょう。波の高さは2メートル……」



 隆太郎はその日、夜11時過ぎに帰ってきた。

 最近、夜遅くなると久美子は泣いて抗議をする。透を怖がっているのだとは分かっているが、隆太郎も家にまっすぐ帰る気にはなれず、早く仕事が終わっても飲んで帰る日が多い。そんな隆太郎を久美子は、「自分だけ逃げてずるい」となじる。隣のベッドですすり泣いている久美子が煩わしく、耳栓を買ってきて眠るようになった。

 隆太郎は酒の力を借りないと眠れなくなっていた。酒を飲んでいると、透の部屋で見てしまったものを、「たいしたことではない」と思えるようになる。だが、翌朝は吐き気と共に、消せない事実が重くのしかかる。

 休日も家にいるのが辛いので、接待ゴルフや会合と称して出かけていたが、久美子に「休日まで私一人にするのなら、もう耐えられないから、警察に行く」と詰め寄られた。それ以来、仕方なく家で過ごすか、久美子と二人でどこかに出かけるようにしている。だが、既に愛情のなくなった夫婦には会話もなく、家にいるのと同じぐらい苦痛だった。

 ――俺、なんでこいつと結婚したんだろう。

 ふと考えることもある。結婚しようと思った時の気持ちを思い出そうとしても、ぼんやりとしか思い出せない。ほかに選ぶ道はいくつでもあったのではないか、と今さらながら後悔している。

 その日は初めて入った居酒屋の居心地がよく、かなり酒を飲み、足がふらついていた。

「ただいむあっと」

 玄関から呼びかけても、誰も出てこない。いつもなら久美子が「お帰りなさい」と出迎えてくれる。

「なんだ、寝ちまったか」

 隆太郎は呟いて靴をノロノロと脱いだ。

 ――喉が渇いたな。水でも飲むか。

 廊下を千鳥足で歩き、リビングのドアを開けると、そこには透がいた。ソファに座り、テレビをつけて見ている。隆太郎は息を呑んだ。

「お帰り」

 透は振り向かないまま挨拶をした。

「ぬわんだ、め・珍すい」

 ようやく出した声は、呂律が回らず、もごもごと口ごもっただけだった。

「ママから聞いた」

「え?」

「ママから、聞いた。あれ、見たって」

「あれって」

 透はテレビを消し、振り向いた。その顔は、相変わらず無表情だった。

「袋の中、見たでしょ。血のついた服」

「なんななななんのことだか」

「ママが、全部、話した」

 透はゆっくりと立ち上がった。その眼はぎらつき、尋常ではない。隆太郎は壁に背中をつけたまま、金縛りにあったように動けない。

「パパは、誰にも言うなって、言ったって。自分の昇進に、ひび、響くって」

 ――久美子のやつ、なんてことを。

「ママ、泣いてた。パパの言うとおりに、したから、こんなことになったって」

「俺は、知らない。何の話か、さっぱり」

 透はフンと鼻先で笑った。

「ママも、はじめ、知らないふりしてた」

「久美子はどこだっ、久美子は」

「寝てる」

「こんなときにっ」

 ――寝てる場合じゃないだろ。

 隆太郎は逃げるようにリビングを出て、階段を駆け上がろうとした。足がもつれたので、両手をつきながら階段を上る。

 廊下の突き当たり、寝室のドアを開けると、久美子がベッドの上に仰向けに寝ている。

「オイッ、こんなときに」

 電気をつけ、隆太郎は「ヒッ」と小さな悲鳴を上げた。

 久美子は驚いたように両目を見開いている。天井を見上げるその瞳には何も映っていない。胸には包丁が突き立ち、絶命しているのは明らかだった。

 逃げようとしたようで、ベッドの周辺には電気スタンドや時計、エアコンのリモコンなどが散乱している。

 隆太郎は足が動かなかった。久美子に駆け寄り、体を抱き起こすことすらできなかった。

 階段をゆっくりと透が上って来る。その手には、中華包丁が握り締められている。

 二人は廊下の端と端で向かい合った。透の眼は異様にぎらついている。本気なのだ。本気で自分を殺そうとしているのだと、隆太郎は全身に鳥肌が立った。

「ままま待て、話し合おう、話し合おう」

「何を」

 透の声はいたって冷静である。

「何って、落ち着け、落ち着きなさい、そんなもの置いてっ」

「落ち着くのは、そっちじゃん」

「俺は何も知らない、見てないんだっ。本当だっ、黙ってるから、そんなもの置いてっ」

 透は呆れた表情になり、ため息をついた。

「なんか、カッコ悪いな、もう」

 隆太郎は酔いで回らない頭で、中華包丁に対抗できるものはないかと必死に考えた。

 ――そうだ、ゴルフクラブ。

 ゴルフクラブは玄関に置いてある。透を倒さない限り、取りにいけないだろう。

 透は一歩前に踏み出した。

「お前っ。お前なっ」

 隆太郎は下半身が冷たくなるのを感じた。どうやら失禁したようである。

「俺を殺す気なのか? 俺をっ」

「うん」

 透は素直に頷く。

「お前、なんでっ、親だぞ、俺はっ」

「お前らが諸悪の根源で、無邪気な悪だから」

「は?」。

 ――ダメだ、こいつ、狂ってる。

 隆太郎は寝室に飛び込んだ。何か武器になるものを――血走った眼ですばやく室内を見回すと、部屋の隅に殺虫剤のスプレーが置いてあるのに気づいた。飛びつくように殺虫剤を取り、透の姿が見えると同時に、わめき散らしながらスプレーをかけた。透は慌てて体を引っ込める。

 その隙に隆太郎はベランダに出た。途端に、大きな雨粒が顔を打つ。

 ベランダから近所に響き渡るような声で、助けを呼ぼうとした。

「誰かっ」

 手すりから大きく身を乗り出した、そのとき。雨で手すりが濡れていたので、手が滑った。バランスを崩し、あっと思う間もなく、隆太郎は庭に向かって頭から落下した。

 運悪く、荒れ放題になった庭は植木鉢がゴロゴロ転がっていた。

 鈍い衝撃音、続いてバキッと何かが折れる音がした。

 透は隆太郎とは距離があったので、まともに殺虫剤をかぶらずにすんだ。階段のところまで退散すると、ややあって隆太郎の声がした。

 ――まずい。助けでも呼んだのかな。

 包丁を握り締め、様子を伺っていると、寝室からは物音一つ聞こえてこない。壁に体をつけるようにして慎重に廊下を進み、寝室を覗くと、隆太郎の姿は見えない。ベランダに出る窓が開き、カーテンが風ではためいている。

 透は中華包丁をかまえて、一歩ずつ窓に近寄った。いつ隆太郎が飛び出してくるか分からない。カーテンの陰に隠れているかもしれない――手に汗がにじむ。

 窓のそばに来ても、隆太郎が飛び出してくる気配はない。雨が部屋の中にも吹き込んでいる。

 ベランダに出るところを狙っているのだろうか? 窓に顔を貼りつけるようにしてベランダを覗いても、隆太郎の姿は見えなかった。

 意を決して、ベランダに出てみる。隆太郎はいない。

 ――まさか、飛び降りたとか?

 庭を覗き込んで、そこに横たわる隆太郎を見つけた。首があらぬ方向に曲がり、ピクリとも動かない。そこに雨が容赦なく降り注ぐ。

「うわっ」 

 透は思わずしゃがみこんだ。

 隣の家から、笑い声が聞こえた。どうやら、テレビのお笑い番組を見ているらしい。

 透はしばらくしゃがみこみ、膝に顔を埋めて震えていた。自分もあっという間にずぶ濡れになったが、立ち上がる気になれなかった。



「どうしたんですかねえ、本部長」

 本町は応接室から出てきた藤木に小声で尋ねた。

「何か連絡はあったのか」

「いえ、まだ何も」

「まいったな。今日が取引先との契約の日だってこと、忘れてるわけないよな」

 藤木は禿げあがった頭をなでた。

「携帯に連絡してみたのか」

「ハイ、でも何回鳴らしても出なくて」

「しょうがないな。自宅のほうにかけてみるか」

 藤木はカバンの中からアドレス帳を取り出し、隆太郎の自宅の電話番号を探して電話をかけた。

 15回ほど呼び出し音が鳴り、「誰もいないか」とつぶやいた時、誰かが受話器をとった。

「――もしもし」

 低い、ねぼけたような声である。

「あーもしもし、武山さんのお宅ですか」

「ハイ」

「あのー、私、リーフ食品の藤木と申します。あのー、息子さんでしょうか」

「ハイ」

「あのー、お父様はいらっしゃいますか。今日、まだ出社されていなくて、連絡もないんですよね」

「あー、パパ……は、会社に行けないんで、す」

「はい?」

「あー、えっと、おじいちゃんが、亡くなったので」

「えっ、おじい様が。それで、葬式のために実家に戻ってるってことですか?」

「あー、はい、まあ」

「実家はどちらですか?」

「えー、あー、九州」

「九州のどちら?」

「えっと……」

 藤木は段々苛立ってきた。

 ――本部長の息子さんは、確か社会人だったよな。何なんだ、この対応は。まるで小学生じゃないか。

「とにかく、それならそれで、本人から会社に連絡があるはずでしょう」

「さあ」

「携帯は持って出ているんですか?」

「たぶん」

「それじゃ、実家の電話番号を教えていただけませんか。連絡が取れないと、困るんですよ」

「あー、えー、分かりません」

 電話はそこで一方的に切れてしまった。

 藤木はしばらく受話器を握ったまま、呆然としていた。やりとりを聞いていた本町は心配そうに「どうしたんですか?」と尋ねた。

「いやあ、息子さんが出て、本部長の父親が亡くなって、九州に帰ったって言うんだよ」

「えっ」

 本町は思わず大声を上げた。

「そんなはずないですよ。だって本部長、俺は両親がいないって言ってましたよ。老人ホームの放火事件があったとき、俺は両親を早くに亡くしたけど、今となってはよかったって。介護しなくていいし、事件に巻き込まれる恐れもないからって言ってましたよ」

「じゃあ、奥さんのほうの実家かもしれないな」

「奥さんの実家は、確か埼玉だった気が……僕の住んでるところと近いって、埼玉は結構詳しいんだって、前言ってましたよ」

「じゃあ、どういうことだろう」

 二人は黙り込んだ。

 そのとき、

「部長、電話です」

 と、離れた席から女性社員が声をかけた。

「誰から?」

「それが、本部長の息子さんだって言ってるんですけど」

 藤木と本町は顔を見合わせた。

 藤木はすぐに電話を切り替えて、「もしもし」と出た。

「あー、すみません、あー、えっと、電話があって」

 低い声でモゴモゴと話すので、聞き取りづらい。

「本部長から連絡があったんですか?」

 藤木は大きな声で確認した。

「ハイ、あー、急いでいて、携帯を、忘れてしまったって」

「それで?」

「は?」

「今日の取引のこと、何か言ってませんでした?」

「は?」

「今日、大事な取引があるのに、何も言ってなかったんですか?」

「さあ……しばらく連絡とれないって」

「え? 連絡がとれない?」

「はい。そう言ってました。じゃ」

 そこで電話は再び切れた。

 藤木は受話器を握りしめ、

「一体、なんなんだ……」

 とつぶやいた。



 電話の呼び出し音で起こされた時、透はリビングのソファで寝ていたことに気づいた。テレビがつけっぱなしになっている。

 半分寝ぼけたまま電話に出た後、どっと疲れた。

 家族以外の人とまともに話すのは久しぶりである。声が思うように出ないし、相手の言葉にどう返せばいいのかも分からない。頭の中が真っ白になり、思うように言葉が浮かんでこないのである。

 ――いつもパソコンやテレビに向かって喋ってるんだけど。それだけじゃ、ダメみたいだな。

 空腹に気付き、キッチンで冷蔵庫を開ける。自分の部屋に買い置きしていた菓子やパンはすでになくなっていた。

 中はきれいに整頓され、野菜や卵、ハム、ソーセージなどの食料が買い置きしてある。だが、料理をした経験がないので、食材だけあってもどうしようもない。

 仕方なく、食パンを焼き、お湯を沸かしてインスタントスープを作った。スープはお湯の分量が分からず、多く入れすぎて味が薄まってしまった。そのうえ、バターを探しているうちにパンは冷めてしまった。

「マジかよ」

 透は小さく舌打ちした。

 まずい朝食をすませると、そっとカーテンを開けて窓から庭の様子を伺った。

 そこには隆太郎が横たわったままである。

 金曜の夜から、土曜、日曜と隆太郎と久美子の死体はそのまま放置していた。近寄ってみる気にもなれない。

 週末に台風が来ていたこともあり、隣人も庭の死体に気付いていないようだ。だが、それも時間の問題だろう。

「どうしよう」

 ポツリと透はつぶやいた。

 死体を隠したほうがいいのかもしれないが、それも面倒臭い。カーテンを閉めると、透は二階に上がった。

 部屋に入り、ベッドに寝転がる。

 大嫌いだった親が二人ともいなくなったというのに、気分は少しも晴れない。むしろ鬱々と重い気持ちがのしかかっていた。

 ――自由になったはずなのに。自由になったのに。

 家の中には誰もいない。いや、正確に言うと死体はあるが生きている人がいない。いつも部屋にこもりきりで親とは顔を合わせなかったのに、この先もずっと一人でこの家にいるのかと思うと、急に寂しさと恐怖感がこみあげてくる。

 ――俺は、一人になるのが怖いのか? そんな、まさか。

 透は気持ちを切り替えようと、パソコンに向かった。自分のブログを開け、久しぶりに何か書きこもうと思ったが、なかなか文章が思い浮かばない。


 諸悪の根源と無邪気な悪がいなくなった。


 ようやく、そんな一文を打ち込み、手は止まった。

 いなくなった。そう、二人ともこの世からいなくなった。もううるさく言われることも、煙たがられることもない。ずっとそれを望んでいたではないか。

 それなのに、なぜ喜べないのだろう。

 なぜこんなにもスッキリしないのだろう。

「後悔?」

 透は思い浮かんだ言葉を打ち込んだ。


 俺は後悔してる?


 高校を辞めなければよかった。大学に行けばよかった。働けばよかった。面接を受けに行けばよかった。バイトでも何でもすればよかった。いじめられたとき相手が降参するまで立ち向かえばよかった。パパとママに嫌なことは嫌だってハッキリ言えばよかった。もっと話せばよかった。パパとママと話せばよかった。

 それはずっと封じ込めてきた思いの数々だった。それ以上思いが溢れそうになるのを、透はかろうじて堪えた。

「そうだ」

 ――ネンキンがあるじゃないか。ロージンじゃないけど、報告してみよう。

 透は胸焼け相手にメッセージを送った。


 おひさです。害虫駆除の報告です。

 50代を二人始末しました。

 すぐにロージンになるんだからちょっと早くてもいいですか。

 2ネンキンもらえますか。


 それから10分も経たないうちに返信が届いた。


 胸焼けです。

 残念ながら、ネンキン制度は終了しました。

 今後私は一切ノータッチです。

 連絡するなら、代表さんにしてください。


「なんだよ」

 透は茫然とそのメッセージを何度も読んだ。

 ――じゃあ、いくら殺しても誉めてもらえないのかよ。

 ブログは誰も読んでくれない。ネンキン制度も終われば、誰との接点もなくなる。もう、誰も。誰ともつながっていないことになる。

 放心していたとき、電話のベルが鳴り、飛び上がりそうになるほど驚いた。

 ――またパパの会社の人かな。

 今度は出る気になれなかった。

「まずいな。ここに来るかも」

 透はひとまず家を出ようと、荷物をまとめることにした。クローゼットを開け、閉まっておいたリュックを探した。乱雑に放り込まれている荷物の下のほうに、リュックの肩ベルトが見えた。引っ張り出すと、それは小さなリュックだった。

「これ」

 ――子供の頃に使ってたリュックじゃん。捨ててなかったんだっけ。

 青色のビニール製のリュックは、透が幼稚園時代に買ってもらったものである。

 透の脳裏に、ある光景が蘇った。


「ねえ、透がもう歩けないって」

 あれは、尾瀬にハイキングに行ったときだっただろうか。

 透は途中で歩き疲れて「もう歩けない」と駄々をこね、座り込んだのである。

「えー? まだ大分あるぞ」

 隆太郎は困った顔をして、半べそをかいている透の顔を覗き込んだ。

「やっぱり、まだ透には尾瀬なんて早すぎたんじゃない?」

 久美子がタオルで汗を拭いながら言う。

「しょうがないな。ホラ」

 隆太郎は久美子に自分のリュックを渡し、透の前に後ろ向きにしゃがみこんだ。背中に乗るよう手で促す。透は喜んで背中に飛びついた。

 隆太郎は「よっこらせ」と掛け声をかけながら、立ち上がる。たちまち久美子の顔を見下ろす位置になった。

「透ちゃん、よかったね」

 久美子が微笑みかける。

「でも、ずっとおんぶしてたら、パパが疲れちゃうから、後で歩かないとダメだよ?」

「うん」

 透は大きく頷いた。

「重くなったなあ、透。大きくなったんだな」

 隆太郎が朗らかに笑う。透は隆太郎の首筋に抱きついた。

 

「なんで」

 ――なんで、今、思い出すんだ。

 透はリュックを抱きしめた。

 ――なんで、今、思い出すんだよ。

 その記憶が引き金となり、次から次へと思い出が記憶の奥底から湧き出てくる。

 幼稚園のとき、熱が出て寝ている透を心配そうに看病する久美子。休みの日にキャッチボールを教えてくれた隆太郎。運動会で、かけっこで走る透を精一杯応援してくれる二人、歩きながら二人の手にぶらさがった夏の日……。

 頬を涙が伝う。零れ落ちた涙は、リュックに点々と小さなしみをつくる。

 話せばよかった。パパとママと、もっと話せばよかった。ケンカすればよかった。本気でぶつかればよかった。二人の話を聞けばよかった。もっと、パパとママと一緒にいたかった。殺さなければよかった。殺さなければよかった。殺さなければ――。

 透は子供のように大声を上げて泣いた。

 他に誰もいない家に、その声は隅々まで響き渡った。



 京子は固唾を飲んでテレビ画面を見守っていた。

 夜8時10分。

「望みの党桂木京子 当確」というテロップが画面に出る。

 次の瞬間、まわりにいた支援者が、うわっと湧き上がる。

「当確! 出た!」

「おめでとうございます!」

 京子は嬉しさよりも戸惑いが先に来て、「本当に? こんなに早く?」と何度も周りの人に確認した。周りはみんな、笑顔で拍手してくれる。有紀は既に涙ぐんでいた。

 有紀に引っ張られるようにして、選挙事務所に設けたステージに上がる。途端に、カメラのフラッシュが一斉に焚かれる。

 マイクを渡され、会場を見渡すと、支援者が入りきらずにドアの外からも大勢の人が拍手を送ってくれている姿が見えた。

「えー、ただ今、当確が出ました。本当に、本当に、これは応援してくださった皆様のおかげです。ありがとうございます!」

 京子はそれを言うだけで精いっぱいで、深々と頭を下げた。さらに拍手が大きくなる。

 有紀からさらに話すように促され、涙ながらに感謝の言葉を伝えて、「皆様のためにも精一杯がんばります」と頭を下げた。

 その後、後援会長の音頭で、お決まりの万歳三唱をした。大きな花束を渡され、ステージから降りると、有紀が涙を流しながら握手を求めてきた。二人でしばし抱き合う。その姿に向かって、無数のフラッシュが焚かれた。

 支援者の人たちと握手を交わし、何度も「おめでとうございます」「ありがとうございます」と言い合う。

 10時過ぎまで熱狂は続いた。

 しかし、そのころになると、望みの党自体の当選数は伸び悩み、与党の自由連合が独走している状態であることが分かった。

 桜子がテレビで「すべては代表である、私の責任です」と暗い表情で語っているのを見ながら、京子は「これからどうなるんだろう……」とつぶやいた。

「京子ちゃんは、何も気にする必要はないよ。堂々と、政治家としての責務を果たせばいいんだから」と、後援会長が励ましてくれた。

「そうですよ。京子さんは、ちゃんと国民から選ばれたんです。これから、忙しくなりますよ」と有紀も空になったグラスにオレンジジュースを注いでくれた。

 ――そうか、政治家。私、本当に政治家になったんだ。

 当選したという実感はあっても、政治家になるという実感はまだ湧かない。そもそも、政治家になって何をすればいいのかも、実はまったく分からないのだ。

「それにしても、田部井総理は本当に悪運が強いねえ」

 後援会長がすっかり赤くなった顔で言う。

「高齢者が海外で詐欺に遭ったって事件で、『老人ホームの放火が相次いだのに、何も対策を取らなかった田部井政権が悪い』って最初は批難を浴びたのにさ。被害者たちが『国が迎えに来てくれ』『救済してくれ』って大使館でわめいている映像が繰り返し流されたから、そっちに批難がいっちゃってさ。自己責任だろって話で終わっちゃったからねえ」

「ホントですよね。お金持ちの高齢者って、若者には目の敵にされてるから」

 有紀が後援会長にビールを注ぐ。

「若者だけじゃないよ。年金で細々と暮らしてる高齢者も、あいつらのことを目の敵にしてるよ。自分達だけ海外に逃げてずるいってね。みんな、怖い思いをしながら日本で暮らしてるのにさ」

「日本に帰ってきた人達、空港で罵倒されたみたいですよね」

「罵倒どころか、生卵をぶつけられたって言ってたよ。オレの知り合いの知り合いが、騙された中にいるんだよ。泣きながら『被害に遭ったのは私達なのに、ひどい』って電話がかかってきたんだって。『じゃあ、日本に帰ってこなければよかったんじゃないの?』って言ってやったらしいけどね」

「うわあ、そのお知り合いの方も、言いますねえ」

 京子は二人のやりとりをぼんやりと聞いていた。

 火事の夜、「これでやっと死ねる」と泣きながら語っていたとよ。

 ――老人になるのって、こんなに希望のないことなんだろうか。前はお年寄りは尊敬される対象だったのに、どうしてこんな風になっちゃったのかな。

 テレビの画面には、次々と当確のテロップが出る。

 窓ガラスに強風で雨粒が叩きつけられる音が、部屋に響いた。


 

 腕時計を見ると、8時を回っている。

「そろそろ、狩りの時間だ」

 マスクをした男が告げると、一緒にいた四人が一斉に頷く。

 ここは、いわゆる「限界団地」と呼ばれる公団住宅である。30棟ほどある建物には、チラホラと明かりが点っている。

 老朽化が進んでいる建物は、夜見るといっそう気が滅入るほど汚れ、階段の踊り場の電気が切れている棟も多い。建物のまわりには樹木がうっそうと生い茂り、人里離れた雰囲気を余計に醸しだしている。植え込みの木は枯れかけ、辺りにはゴミが散乱している。

 まだ8時だと言うのに、外を出歩く人の姿はまったく見られない。人の気配をまったく感じない一角だった。

 5人は団地内の公園にいた。公園の遊具はさびれ、もうずいぶん子供が遊んでいないのだと分かる。

「今日はどうする? みんなで一緒に行く? 二手に分かれる?」

「そうだな、二手に分かれようか」

「今日は南の棟から行こうかな」

「昨日はアイスピックで3人、包丁で2人か」

「あのジジイ、アイスピック刺さったまま逃げるから、ビックリしたよ」

「ゴキブリ並みの生命力だな」

「逃げたジジイを、ブルーがタックルするのが面白かったあ」

「ブルー、引きずられてたし」

 小さな笑いが起きる。

「じゃあ、俺とイエローでチーム組むか。そっちはブルーとピンクとグリーンね」

「そうだね」

 5人はリュックから黒いニット帽を取り出してかぶり、マスクと軍手を装着した。準備ができると、互いに顔を見合わせる。

「それじゃ、害虫駆除開始ってことで。1時間後にここに集合ね」

 みな無言で頷き、二手に分かれた。



 生島たえはお茶を入れようとしていた。

「湯のみが足りないわね」

 つぶやき、戸棚のあちこちを探した。

「あった、あった」

 吊り戸棚から、一つの箱を取り出して開けると、伊万里焼の湯呑茶碗四客が入っていた。

「大事なお客さん用にって、お義母さんがとっといたのよね。一度も使ったことがないけど」

 湯呑を洗っていると、

「生島さん、何やってるの?」

 と吉田貫太郎が隣の和室から顔を覗かせた。

「ちょっとね、お茶を入れようと思って」

「そんなことしてる場合じゃないでしょ。それに、明かりをつけたら、やつらにここにいるってバレちゃうじゃないか」

 貫太郎はヒソヒソ声で話す。

「ちょっとだけよ、すぐに終わるから」

「早く、早く電気を消して。そこの電気は外の廊下から見えるんだから」

「ハイハイ」

 たえは慌てて8つの湯飲みにお茶を入れ、用意しておいた菓子と一緒にお盆に載せた。台所を出るとき、忘れずに電気を消す。

 和室には、男4人、女3人が車座になり、沈痛な面持ちで佇んでいる。7人とも、たえと同じ団地の住人の、70代から80代の高齢者だった。

 停電でもないのに電気を消し、部屋の真ん中にろうそくを立てていた。

「お茶なんて飲んでる場合じゃないのに」

 男の一人が、呆れたように言った。

「いいじゃないの、最期なんだから。おいしいお菓子も買っておいたの。もう食べられないからね」

 たえは端に座っている女に湯呑を手渡した。その女は隣の人に渡し、やがて全員にお茶が行き渡った。菓子はろうそくの隣に置く。

「そうよね、これで最期なんだから。せめておいしいものでも食べたいわよね」

 そう言いながら、一人が菓子に手を伸ばした。

「ここのどら焼き、私大好きなの」

「ねえ、おいしいわよねえ」

「私は饅頭をいただきましょ」

 女性陣は次々と手を伸ばし、菓子を食べ始めた。

「ああ、おいしい」

 たえはそう言いながらも、実際には味はあまり感じられなかった。

 男性陣は黙って腕を組んでいたが、やがて一人が菓子に手を伸ばし、ほかの3人も結局菓子を食べた。

「この饅頭、うちの子大好きだった」

「うちの子は、和菓子は全然ダメ。ケーキとかプリンじゃないと食べなかった」

「俺の子供のころは、饅頭なんてめったに食べれなかったけどねえ」

「そうそう。今の子は、ほんっと贅沢だよ」

「子供の頃は、こんな暗い中でご飯食べたよな」

「そうそう、B29に狙われるからって、電気の傘に黒い紙を巻いてさ」

 みな、菓子を頬張りながら、思い思いに話し始める。

「しっ」

 突然、一人の男が人差し指を立て、静かにするよう指示した。

「今、外で話し声がしなかったか?」

 とたんにみな押し黙った。息を殺し、身じろぎもせずに全神経を外に集中する。

 貫太郎は壁に体を押し付けるようにして窓際に寄り、カーテンをわずかに開けて外の様子を伺う。

「いる、あいつらだ。隣の棟にいる」

 7人は同時に息を呑んだ。

「じゃあ、こっちにも」

「来るだろうね」

「急がないと」

 貫太郎は、ガムテープでふすまの隙間をふさぎ始めた。

「湯呑をかたさなきゃ」

 たえが湯呑をお盆にのせて立ち上がると、

「手伝うわ」

 と一人の女が懐中電灯を持ち、一緒に台所についてきた。

 その女の名前をたえは知らない。たまに団地内で見かけたとき、会釈する程度のつきあいである。

「立つ鳥、跡を濁さずって言うからね」

 懐中電灯に手元を照らしてもらい、水を少しだけ出して湯呑を洗いながら、たえは独り言のように呟くと、その女も

「そうよね。うちも、今日は朝から大掃除よ。だから、腰が痛くて」

 とかすかに笑った。

「今まで何度もお見かけしたけど、こうやってお話しするのは初めてね」

「ほんと、そうねえ」

 二人はヒソヒソ声で話す。

「今更ですが、生島たえと申します」

「国崎まきのと申します。私は7号棟に住んでるの」

「今日は、どなたの紹介で?」

「吉田さん。うちの主人と仲が良かったの」

 片付けが終わり、和室に戻ると、四隅には七輪が置いてある。

「あら、四つもあるのね」

 たえが言うと、

「いくつあれば効くのか、分かんないからね。これだけありゃ、効果があるだろって思ってね」

 貫太郎が答えた。

「そういえば、人数はこれでよかったんだっけ? 確か9人じゃなかった?」

 たえが尋ねると、男性陣は顔を見合わせた。

「そうだったけど……来てないってことはさ」

「たぶん、ね」

 たえは意味が分からずに首を傾げた。

「だからさ、あいつらにやられちゃったってことだよ」

 貫太郎の言葉に、たえは「えっ」と驚いた。

「その人、隣の棟の人だから」

 貫太郎は外を指差す。

「じゃあ、ここに来る前に」

「たぶん、あいつらにつかまったんだな」

「そんな……」

「まあ、どっちみち、死ぬには変わりないんだけどさ。あんなやつらに刺し殺されるのは勘弁して欲しいよな。なんで、あんなやつらに……」

 重苦しい空気が部屋を包む。

「みんな、遺書は書いてきてある?」

 たえが尋ねると、「もちろん」「ポケットに入ってる」と口々に答えた。

「生島さん、本当に明日、娘さんたちが来るんだね?」

 貫太郎が念を押した。

「うん、来ることになってる」

「早いとこ、見つけてくんないとね。発見までに一週間とかかかったら、悲惨なことになっちまう。まだ昼間はあったかいからね」

 部屋のセッティングが終わった。

「それじゃ、練炭に火を付けようか」

「一斉につけたほうがいいよな」

 男性陣が立ち上がり、ライターを取り出した。

「本当に」

 たえは思わずため息をついた。

「これで最期なのね」

 その一言で、みなが動作を止める。

「しょうがないさ。このまま、いつ殺されるのかってビクビクしながら生きてたくないんだから」

 貫太郎は「何を今さら」という口調で言う。

「俺は見たんだよ、5号棟の人が襲われるのを。1階に住んでる足の悪いお婆さんが、あいつらに嬲り殺されるのが窓から見えたんだ。それなのに、警察を呼んでも来るまでに1時間もかかってさ。ここは警察署から遠いからって……1時間だよ? 警察にパトロールを頼んでも、これだけ広い団地だと、パトロールしても限界があるって言われちゃうしさ。それって、警察から見離されてるってことじゃないか」

「そうねえ。そうだけど」

「俺んとこにも来るかもしれないって、じっと息を殺して、部屋の電気を消して身を潜めてるのに、耐えられるか? もう二週間にもなるんだよ、こんな生活が。頭がおかしくなっちまうよ」

「……」

「うちの子に、ここから出たいって言っても、そんな金はないって言われるし。しばらくそっちに行かせてくれって頼んでも、引き取る余裕はないって、あっさり断られたんだから。ほかにどうしろって言うんだよ」

 たえは何も言えずに項垂れた。みな押し黙っている。

 貫太郎はみんなの顔を見回し、

「引き返すなら、今のうちだよ。やめたい人は今すぐ出て行ったほうがいい」

 と語りかけた。

「いや、俺も息子に見捨てられたから」

 一人の男が投げやりな口調で言う。みな顔をそらせ、唇を噛みしめる。

 ここに集まってきているのは、つれあいをなくして長年一人で暮らし、自分の子供にすら頼れない者ばかりである。別の場所に引っ越すお金もなく、殺されるかもしれないと分かっていてもここにいるしかない。

 たえは、ふと思った。

 ――死ななくても、みんなで力を合わせれば、何とかならないかしら?

 だが、年寄りだけで何ができるというのか。今更それを議論したところで、何になるのだろうか?

「せっかく、戦争で生き残ったのにね。最期はこんな風に死ななきゃならないなんて」

 まきのが涙声で言い、鼻をすすりあげる。

「孤独死するんじゃないから、まだいいわよ。みんなで死ぬんだから」

 近くにいた老婆が慰める。

「それじゃ、いいね」

 貫太郎が念を押すと、みんなは黙ったまま頷いた。

 貫太郎はライターに火をつけ、練炭に近づけた。他の3つの練炭も次々と火をつける。

 それから、思い思いの場所に座った。たえは部屋の隅にある仏壇の前に座る。仏壇には夫の遺影が飾ってあった。

 貫太郎が、ろうそくの火を吹き消す。たちまち部屋は真っ暗になり、互いの姿は見えず、気配だけ感じられるようになった。

 ――これじゃ、一人で死ぬのと変わりないじゃないの。

 たえは心細くなり、ハンカチを握り締めた。

 あちこちですすり泣く声が起きる。隣にいたまきのが、たえの腕をつかむ。二人は手を握り合った。

 ――もうすぐ、お父さんのところに行ける。

 たえは、恐怖に負けないよう、必死に心の中で天国にいる夫に向かって手を合わせていた。

 ――苦しまないよう、見守っていて、お父さん。もうすぐ、そっちに行くから。もうすぐ、会えるから。



 都内の公団住宅で起きた高齢者の集団心中は、世間に衝撃を与えた。

 そのうちの一人の親族が翌日家を訪ねて、和室に倒れている8人を見つけたのである。手を握り合い、折り重なるようにして死んでいる者もいれば、数珠をしっかりと握り締めている者もいた。それぞれ遺書を身につけて亡くなっていた。

 一人の老人の遺書にはこう書かれていた。

『一人で殺されるのを待つなんて生き地獄です。せめて、自ら命を絶ちます。

 天国のお父さん、お母さん、申し訳ありません。命を粗末にするなと教えられてきたのに、その約束を守れませんでした。

 いえ、もうずいぶん前から、私は生きてないも同然なのです。足腰が弱って出歩くこともできず、部屋を訪ねてくる人もいません。誰とも会わず、テレビと会話する日々が続いていました。私はすでに、この世にいない存在です。

 私はなんのために生まれてきたのか、振り返ってみても分かりません。まったく無意味な一生だった気がします。

 両親と5人の兄弟とともに育ち、結婚して子供に3人恵まれました。

 それなのに、なぜ今、一人なのでしょうか。

 人は一人で生まれ、一人で死ぬものだという人もいます。

 人は孤独を味わうために生まれてきたのでしょうか。それなら、なぜ家族をつくらなければならないのか。最期は一人になるのなら、家族をつくる意味がなかった。

 あんなに、懸命に家族を守ってきたのに。オレの一生は何だったのか。


 死んだら、きっと両親にも兄弟にも妻にも会えるでしょう。ようやく孤独から解放されるのです。もはや死しか安らぎを得られないのです。


 充、佐和子、良美、財産も何も残せなくて申し訳ない。部屋にあるものは、すべて捨ててくれて構わない。葬式はしなくていい。最期に遺体の処理など、やっかいな仕事を任せてしまって本当に申し訳ない。長生きしてもいいことなど一つもない。お前たちもこうなる前に寿命がつきることを祈っている。

 それじゃあ、天国で登紀子と、お前たちにいつか会える日を待っているよ』



 その日の朝、雄太は朝ごはんを食べながらテレビを見ていた。

 ネットカフェに寝泊まりしていた時はまともな食事をできなかった反動で、最近は三食をしっかり食べるようになった。今朝もご飯に干物、納豆、インスタントみそ汁という健康的なメニューである。食生活を変えてから、体重は半年で10キロ減った。昔の体型に戻りつつある。

 テレビでは、台湾、シンガポール、オーストラリアで起きた大規模な住宅詐欺事件について報道している。被害に遭った637人を帰国させるために税金が使われたことに対して、ネット上で議論が巻き起こっているという話題だった。

 帰国した人の中には家を売り払ってしまった人もいるので、各自治体が無料宿泊施設を用意しているらしい。家に戻ったら、外壁に落書きがしてあったり、家財道具をごっそり盗まれていた老夫婦もいるという。

「バッカだよなあ、こんなのにひっかかるなんて」

 雄太はテレビに向かって一人ごちた。

「警察は、被害に遭った人の意見を参考に、似顔絵を作成しました」

 アナウンサーの解説と共に、画面には似顔絵が大写しにされた。

 切れ長の二重、高い鼻――どこかで見たことがある、と雄太はその似顔絵を凝視した。

「あっ」

 短く叫び、持っていた椀をテーブルに落としてしまった。味噌汁がテーブルに零れる。慌ててそばにあったティッシュでテーブルを拭いた。

「胸焼けじゃないか、この顔」

 先月会った時の胸焼けの言葉を思い出した。

 ――我々の計画は次の段階に移ってる。

「こういうことだったのか……」

 ――だからロージンを殺したら10万円も払ってたんだ。住宅詐欺で被害に遭ったのは全員で637人だろ。一人につき500万円もらったって単純計算しても……。

「31億以上か」

 雄太は仰向けに畳に引っくり返った。

「そりゃあ、ロージン一人に10万円払っても、痛くもかゆくもないよなあ」

 ――全国で殺されたロージンの数を合わせても、200人ぐらいか。必要経費だったんだ。つまり、俺たちは世の中を不安に陥れるための広報活動をしてたようなもんなんだな。

 雄太はしてやられたという悔しさや鮮やかな手腕に対する感動などが、ないまぜになり、複雑な心境だった。

「だったら、もっともらってもよかったよな」

 ポツリとつぶやく。

 ――しょせん、この世の中は騙す人と騙される人とで成り立ってるんだ。俺は騙す側にいると思ってたけど、結局騙されてたわけだ。

「くっそ」

 テレビはCMに切り替わり、明るい音楽が鳴り響く。雄太はしばらく起き上がる気になれず、畳に手足を投げ出して転がっていた。


 

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