9月 火焔
「本日は猛暑のなか、お集まりいただき、ありがとうございます。いやあ、皆さん、最近街を歩いていて異常だと思いませんか? お年寄りの姿が見えない。電車に乗ったら明らかですよね。優先席に座るお年寄りがいないから、若者が堂々と座っている。前は、うちの近くの公園で、お年寄りが集まってゲートボールをしていたんですよ。それが今は誰もいない。お年寄りは買い物に出るのも怖がって、スーパーに配達してもらうようになったとか、生協の宅配サービスの利用者が急増したとか、ニュースで言ってました。本当に、恐ろしい世の中になったもんです」
都内の公民館の一室。50名ほど入る部屋に、立ち見が出るほど人が集まっていた。その多くは、60代から80代の高齢者である。ちらほら40代や50代の夫婦も混じっている。
「不動産コンサルタント 水野太」と書いてあるホワイトボードの前で、一人の男が熱弁をふるっている。みな不安そうな顔をしながらも、真剣に耳を傾けている。
部屋の外には、「不安に打ち勝つ自己防衛セミナー」と印刷された紙がドアに貼ってある。
「皆さんも、ニュースをご覧になって憤っているでしょう。罪もない高齢者をゲームのように殺すなんて、こんな狂った話はない。何でこんな世の中になってしまったんでしょう。教育のせいですか? 政治のせいですか? 警察の取り締まりが甘いから? いろんな理由があるでしょう。でも、政治が変わるのを待っていられますか? 教育なんて、もっと時間がかかる。近々、解散総選挙があるっていう話もあるけれど、何も変わらないでしょう。政治家はみんな、自分が当選することしか考えてないし、与党になったらなったで、自分の親しい人にしか便宜を図らない。私たちが爪に火を灯すような生活を送っているのに、首相の親友は補助金もらって豪遊してる。野党だって、与党になったとたん腑抜けになるのを、私たちは数年前に経験してますよね。政治じゃ、もう世の中を変えられないんです」
クーラーがついているにもかかわらず室内には熱気がこもっており、水野の額には汗が浮かんでいる。話を聴きながら、ハンカチで汗を拭う姿や扇子であおぐ姿があちこちで見られた。
「もう、今の日本はどうしようもない。だから、自分の身は自分で守るしかないんです。私はね、戦後の日本を支えてきてくれたお年寄りが易々と殺されるのを見て、我慢ならないと思いました。戦時中は国のために戦った方もいるでしょう。もしかしたら、あなたもそうではないですか」
水野は、一番前の席に座っている80代ぐらいの男に声をかけた。
「そうです、私は満洲に行きました」
「そうでしょう。そうやって自分の命を犠牲にしてでもこの国を、自分の家族を守ろうとした方がいる。そんな方々を無節操に殺すなんて、そいつらは人間以下ですよ、犬畜生ですよ。つかまえて全員死刑にするべきです」
パラパラと拍手がわき起こる。声をかけられた男は、何度も深く頷いている。
「でも、しばらくこの混乱は続くでしょう。そこで私は考えました。一人でも多くの方に生き延びてもらうためには、どうすればいいか」
水野は教室の隅にいた男に目配せをした。その男は出席者に封筒を一部ずつ配り始めた。
「皆さん、お配りした封筒を開けてみてください。中には数冊のパンフレットが入っています。私は以前、旅行代理店に勤めていたんです。台湾、シンガポールやオーストラリアといった海外の支店に勤めていて、そこで出会った現地の人たちとは今も交流を持っています。その人たちに相談したんです。日本では今とんでもないことが起きている、日本人が一時的に避難する場所はないだろうか、と。そうしたら、何人かが賃貸マンションや分譲住宅を紹介してくれたんです。これが、そのパンフレットです。台湾、シンガポール、オーストラリアの物件を紹介しています」
会場の人たちは戸惑った様子でパンフレットをパラパラとめくったり、互いに顔を見合わせている。
「つまりですね、一時的に日本から離れるということなんです。旅行とかではなく、数か月滞在する。もちろん、気に入ったらそのまま永住してもいいでしょう。分譲も、今は世界的な不況の影響で、ものすごく安く買えるんです。日本に戻る頃には景気が回復しているかもしれませんから、高値で売却できるかもしれませんね」
会場にいる人々は、さらに困惑した表情になっている。なかには、眉をひそめて、明らかに不審そうに話を聴いている者もいる。
水野は敏感にその空気を感じ取り、
「いきなり海外に住むなんて言われても、戸惑いますよね。そんな簡単にできることじゃありませんから」
とフォローした。
「でも、このまま日本にとどまっていたら、明日は自分がターゲットにされてしまうかもしれません。巣鴨でおばあさんが刺され、日本のあちこちで買い物や農作業に出かけた高齢者が襲われている。それじゃあ、老人ホームに入れば安全かというと、そうではないことは皆さんもご存じでしょう。老人ホームがターゲットにされてるから、逃げだす人が増えてるんです。今でも、連日どこかで高齢者が殺されたというニュースばかりです。ニュースを聞いてもまたかという感じで、すでに国民の感覚は麻痺している。恐ろしいことです。電車で隣に座っていた若者が、いきなり包丁で襲ってくるかもしれない。そんな恐ろしい世の中になったんです。それなのに、国は真剣に対策を考えているわけではない。これでは見殺しにされるようなもんです」
緊迫した表情で、大げさなジェスチャーを交えながら熱弁をふるった後、水野はふっと表情を緩めた。
「実は、私も海外に脱出しようと考えているんです。私はオーストラリアなんですけど、すでに向こうに家を買ってあります。妻と子供はもう向こうに行って暮らしてるんです。昨日もメールが届いて、こっちはポカポカして暖かいって言ってました。向こうは南半球だから、8月が冬で、12月は夏なんですよね。今は冬があけて、春が来たころだから、移り住むのにちょうどいい季節なんです。でも、肝心の親が向こうに行きたがらない。うちの母親は82歳です。だから、海外に行っても言葉がわからない、ご飯だって合わない、具合が悪くなって病院に行くときはどうすればいいんだ、そんなことばっかり言って、行きたがらない。そこで私は考えました。高齢の母が安心して海外で住むにはどうすればいいのか。それについては、スライドをご覧ください」
部屋の電気が消され、ホワイトボードの横に設置してあったスクリーンに映像が映し出された。
「これが、私が買った家です。オーストラリアの首都、シドニーの街の中心地から車で30分ぐらい走ったところにあります。中古なので、日本円にして300万円ぐらいでしたね。安いでしょう。実はこれ、失業してローンを払えなくなった人の物件を値切って買ったんです。オーストラリア版サブプライムローンって感じですね。日本と違って、海外は中古の物件は丁寧に手入れしてあるから、全然古い感じがしないんですよ。ホラ、リビングはこの広さ。15畳もあるんですよ」
映し出された部屋の画像を観て、あちこちから「ほう」と声が上がる。
「これがキッチン、これが書斎、これが寝室、バスルーム、庭はこんな感じです。ああ、ここに写っているのは私の息子です。庭にブランコがあるって大喜びで、引っ越しの荷物を解く前に遊んじゃってるんですよね」
会場に軽い笑い声が起きる。次々に切り替えられていく画像を、会場にいる人たちは身を乗り出し、食い入るように見つめている。
「ねえ、中古でも住むには十分でしょう。私はずっと住むつもりではなく、日本の混乱が収まったら家を売って日本に戻るつもりです。だから高い新築の家を買う必要なんかない。300万円で家族の命が救えるなら、安いもんです」
次に一軒の家の画像が映し出された。
「この家は、私が買った家の、お隣です。入口のところにフォーセールって書いてあるでしょう? ここも空いてるんです。実は、この界隈はこの手の物件がたくさんあるんです。ローンを払えなくなって、家を手放した人たちの家がたくさんある。そこで、私はこれらの家を日本人が買えばいいんじゃないか、そうしたら日本人のコミュニティができるから、高齢者でも安心して住めるんじゃないかって考えたんです。やっぱり、まわりみんな外国人で、自分だけ日本人じゃ、心細いですからね」
スライドは物件の画像から、スーパーの画像に変わった。
「この周辺の環境はですね、車で5分ぐらいのところにこんな大きなスーパーがあります。病院は、総合病院がやはり車で5分ぐらいのところにありますね。ここでコミュニティをつくれば、お互いに助け合うことができる。たとえば、足の悪いお年寄りと一緒に車で買い物に行ったりとかね。昔の日本はご近所で助け合って生きてたんだから、海外で助け合って生活すれば、お年寄りでもやっていけると思うんです。で、効外だから緑が豊かです。環境は本当にいいですね。こんなに広い公園もある。次は中古マンション。ご夫婦二人の場合、一戸建てじゃ広すぎるでしょうから、マンションがいいかもしれませんね。これもシドニーの物件です。市の中心地に近いんですが、静かでいいところです。ただ、値段はちょっと高めですけどね」
続けて、台湾やシンガポールの物件を紹介した。会場の人々は、時折感嘆や驚きの声を上げながら熱心に見入っていた。
「もちろん、海外で住むにはいろいろな手続きが必要です。それをすべて私の会社で代行いたします。手数料は物件ごとに要相談なんですが、引っ越しはお金がかかりますから、私たちがいただく手数料は可能な限り抑えたいと考えてます。私も皆さんの隣人になるかもしれませんしね」
スライドが終わり、会場に電気がついた時、人々は夢から醒めたような顔をしていた。
「ただ、私も早くあっちに移りたいんです。母もようやく乗り気になってきましたしね。ですから、申し込みの受け付けは今月いっぱいとさせていただきます。期間が短くて申し訳ないんですけど。実は、先日別の場所でセミナーを開いたら申し込みがかなりありまして、オーストラリアの一戸建ては残り3棟、中古マンションが6部屋、それからシンガポールは」
水野が手帳を見ながら数字を読み上げると、会場に緊張が走った。残りの物件の合計は、今会場にいる人の半分もない。
「台湾は日本語が話せる人も多いし、食べものも日本と割と近いですね。だから高齢の方は台湾がいいかもしれません。オーストラリアやシンガポールは、週末にゴルフを楽しみたいとか、ショッピングを楽しみたいとか、まだまだ元気な世代にお勧めかもしれ」
「さっきの、さっきのオーストラリアの一戸建てで3番目に映った家、あれはいくらぐらい。あの青い屋根の」
最前列に座っていた男が話を遮った。
「3番目……あれは……ちょっと待ってくださいね。資料では……ああ、ごめんなさい、あれはすでに予約が入ってますね」
「それじゃ、それじゃ、どの物件が余ってるの」
「オーストラリアの一戸建てなら、最初の緑の屋根の物件と、4番目と5番目の物件。4番目は赤い屋根、5番目も緑の屋根ですね」
「じゃあ4番目の物件はいくら」
「あれは……400万円です」
男は立ち上がった。
「それ、申し込むわ。今ここで」
会場がどよめいた。あちこちで「どうする」「そんな急には決められない」と相談する声が聞こえてくる。
水野は満面の笑みを浮かべて、「ありがとうございます。それでは、セミナー終了後に残っていただけますか。手続きについてご説明します」と言った。
「それでは皆さん、本日のセミナーはここまでとなります。もちろん、今すぐに決めなくてもいいんですよ。お家に帰ってからご家族でゆっくりと話し合ってください。疑問点がありましたら、パンフレットにつけておいた名刺までご連絡ください……ああ、そうだ」
水野は会場にいる人の顔を見渡しながら、最後に声を落として付け加えた。
「今日ここで聞いた話は、絶対に他の人には言わないようにしてください。申し込みがこれ以上殺到すると、こちらも対応できませんし、皆さんに紹介できる物件が少なくなってしまうので。その点だけ、よろしくお願いいたします。それでは、本日はありがとうございました」
水野が頭を下げるや否や、数人が前につめかけた。
「この台湾の物件について知りたいんだけど」
「シンガポールの中古マンションはいくらぐらい」
それを見て、他の人もつられたように前に押し寄せる。会場から出ていく人は皆無だった。
「順番にお話は伺いますから、並んでお待ちください。私以外のスタッフも相談に応じます」
水野は声を張り上げた。
「おい、押すなよ」
「ちょっと、並んでるんだから」
あちこちで小競り合いが起こり、まわりにいたスタッフが慌てて止めに入る場面もあった。
「榊原さん、今日の客はすごかったですねえ」
榊原は煙草の煙を薄く吐きながら、ビルダーを睨んだ。
「この仕事をしている間は水野と呼べと言ったろ?」
「あっ、すみません。なんか、慣れなくて」
ビルダーは頭をかいた。
「普段から慣れておかないと、気が緩んだときにポロッと出ちゃうからね」
水野は煙草を消し、ウィスキーを一口飲んだ。一仕事終えたあとは事務所でウィスキーを飲むのが榊原の日課である。
「飲んでいいよ」
榊原が空いているグラスを差し出すと、ビルダーは、「すみません、オレ、ウィスキーは苦手で」と申し訳なさそうに言う。
「ウィスキーって、どうもおいしいとは思えないんっすよねえ」
「このおいしさが分からないなんて、人生の半分は損してるな」
榊原は軽く笑った。
「もう宿舎は襲わないんですか? 後はずっとセミナーだけ」
「そう。種をまくのは一瞬がいいんだよ。やりすぎると足がつくからね」
「なるほど。あの順君、なんだかんだ言って、宿舎の襲撃はまんざらじゃないって感じになってますよね」
「みんなが誉めてくれるからね。ああいうタイプは操りやすくて簡単だよ。小心者だし、騙されやすいし、ちょっと脅すだけで言いなりになるし。まあ、南にホレてるってのもあるけど」
「あんなビッチに、よくあそこまで入れ込めますよねえ。オレ、一回でいいやって感じでしたけど」
「それ、順君の前では、絶対に口にするなよ? 俺が寝たってのも秘密なんだから」
「分かってます。陰では公衆便所って呼ばれてるなんて、口が裂けても言いませんから」
「公衆便所でも、なくては困るからねえ」
榊原はウイスキーを飲みほした。
「それにしても、今日はあんなに集まるとは思ってなかったね。前回のセミナーで『他の人には言わないでほしい』って言ったのが、こんなに効果があるとは思わなかったよ。言うなと言われたら、逆に誰かに話したくなる。『ここだけの話』って感じで、あちこちで話してくれたんだろうねえ」
「完売したって言った時、あいつらパニックになってましたね」
「完売も何も、元から存在しないのにね。きっと、買ってからも調べようなんて思わないんだろうな、あいつらは」
「ちょろいもんですね」
「ちょろいよ。これで明日からは忙しくなるな。事務所にジャンジャン電話が鳴り響いて、別の物件はないのか、問い合わせが殺到するからさ。そのときは、特別に用意したって言うんだからね」
「ハイ」
突然、電話のベルが鳴り響く。ビルダーが電話に出ようとしたのを榊原は制した。
「今日はいいよ。焦らすのも戦略のうちだからさ。明日対応すればいい」
「はあ」
電話は20回ほど鳴って切れた。
「長かったですね」
「それだけ諦めきれないってことさ。今すぐに家を手に入れないと気がすまないんだろ」
榊原が新しい煙草を取り出すと、ビルダーは素早くライターで火をつけた。榊原は「ありがと」と礼を言い、ゆっくりと煙草をふかした。
「そうだ、あのホームレスのおじさん、名前何ていうんだっけ?」
「山田とか言ってましたけど。名前は何でもいいって感じでしたね」
「山田さん、なんか演技うまくなってないか? 今日なんて、立ち上がって『買うわ』だって。最初のころは、棒読みって感じだったのにねえ」
「段々快感になってきたらしいですよ。自分の一言でみんなが騙されるのを見ていると、面白いって」
「ハハ、根っからの嫌なやつだね、あの人も。どっから見ても、くたびれたおっさんだし。いい味出してるよ」
「来週の大阪のセミナーはどうしますか?」
「そうだな。今までセミナーに参加した人がいたら困るから、適当に新しい画像を用意しておいてよ。名古屋でも福岡でも開くから、この調子で行ったら、数百人が来るかもね」
「分かりました」
「騒ぐだけ騒いでもらわないとね。俺らがこの国から脱出するために。そのために、あちこちで金を投資してるんだから」
榊原は煙草の煙を天井に向かって細く吐き出した。
その日の朝、京子はテレビの生放送の番組に出演することになっていた。
桜子都知事の研究会に参加するようになってから、さらにテレビ出演は増えた。事務局が売り込んでくれているらしい。
さらに、先月の小学校で起きた放火事件で、現場で高齢者の介護の手伝いをしていた京子は、連日のようにテレビ局からコメントを求められた。
京子は、みつや三郎もそこで暮らせるように手配し、校内を見て回って、「ここに手すりをつけてください」「ここにはスロープを」などと、業者に指示していた。なるべく現場の不満を吸い上げるよう、多くの高齢者と会話をし、久しぶりに充実した日々を送っていたのだ。それが放火で台無しになり、京子自身もショックを受けていた。
結局、その小学校は閉鎖され、今は武道館で高齢者は避難生活を送っている。桜子も、次に打つ手を考えあぐねているらしい。
京子は武道館にも足を運んでいたが、ある老婆から、「あなたがいるから、また放火されたんじゃないの。テレビに出たりして、目をつけられているから、面白半分で放火しようなんて人に狙われたんじゃないの」と言われ、行く気がしなくなった。
――せっかく、お世話してあげてるのに。
そういうジレンマは、ホームに勤めていた時も度々感じていた。好美ぐらいのベテランは聞き流していたが、京子はひどいことを言われると相手を憎むこともあった。
「京子さん、そろそろ出番です」
川越有紀が控室に入ってきた。
事務局長の舟崎は、有紀を秘書としてつけてくれた。
有紀は政治経済学部卒の29歳で、アメリカにも留学して政治について学んでいる。博識で弁が立ち、自身も政治家を目指しているらしいが、今は東京ファーストの会の事務局で下積み生活を送っているのだと、舟崎から教えてもらった。
政治の知識はほとんどない京子のために、有紀はしばらくサポートに回ることになったのだ。
心強いサポーターを得られただけではない。舟崎は邦雄とも手を切らせてくれた。邦雄を本部に呼び、京子を国政選挙で立候補させたいと告げたのだ。
「桂木さんには、正式に発表するまで誰にも言わないでおいてほしいと、私からお願いしたんですよ。でも、桂木さんはどうしてもあなたには相談したいというから、それなら直接私から話をしようと、今日ここにお呼びしたわけです」
「はあ」
邦雄は驚きを隠せない表情で話を聞いている。
「それでですね、桂木さんはまだ独身だし、安藤さんもご存じのように美人でしょう。立候補したらマスコミから注目されるわけです、当然。そこで同棲している男性がいるとマスコミが知ったら、あることないこと書きたてられるのは目に見えているんですよ」
「まあ、分かります、僕もマスコミの人間ですから。モラルのない人間が多い業界ですから」
「そうでしょう、安藤さんのようにモラルのある人ばかりなら、いいんですけどね。世間には、同棲していると聞くとふしだらなイメージを持つ人が、まだまだ多いんです。なんで結婚しないんだ、とかね。率直に申し上げると、私としては桂木さんをイメージダウンさせたくない。だから、しばらく私達に桂木さんを預からせてもらえませんか。政治の勉強をさせるためにも、今は桂木さんは一人になったほうがいいと思うんです。安藤さんはどう思いますか」
「……いきなり言われても、なんて答えたらいいのか」
「そうですよね、本当はゆっくり検討していただきたいところなんですが、近いうちに解散総選挙が起きるって言われています。だから、早急に手を打ちたいんです」
邦雄はしばらく腕組みをして考え込んでいた。
「分かりました。そういうことなら、僕はしばらく京子と距離を置くことにします」
「そうですか、いやさすが、ご理解が早い」
舟崎は嬉しそうな顔をして見せた。京子は心の中で拍手をしていた。
「そのかわり、落ち着いたらまた一緒に暮らしますよ」
「もちろん、お二人の将来に口出しするつもりはありません。選挙の間と、当選してしばらくはマスコミも嗅ぎまわるでしょうから、それをうまく交わせれば、それでいいんです。ただ、その間は、京子さんとのことは、誰にも言わないようにしてください」
「でも、テレビ局のディレクターは知ってるんじゃないかな」
「それはこちらで何とかしますよ」
そんな会話を交わした後、すぐに京子は青梅に引っ越した。
さらに、舟崎は邦雄が食いつくような餌をまいた。舟崎の親族が経営している商社の、広報関係の仕事を任せたいと話を持ちかけ、邦雄は喜んで話に飛びついたのである。
今や、邦雄は香港の空の下である。いろいろと理由をつけて、海外の支店を転々とさせるという話を聞いている。
最近は、邦雄からの連絡も途絶えがちになっている。京子は心の底から解放感に満ち溢れていた。
今日の番組では、高齢者を狙った事件が相次いでいるので、どのような対策をとればいいのか、レギュラーコメンテーターの人たちと議論することになっている。
司会の鹿取光一は女性からの人気が高いアナウンサーだ。俳優になっていてもおかしくないぐらいのイケメンなので、京子もファンだった。
鹿取は、
「先月の小学校の放火、あれはひどかったですけれど、桂木さんもその後の処理にあたってるんですよね」
と、京子に話を振った。
「ハイ。私も何度も現場に足を運びましたけど、もう、校舎の一階部分は真っ黒に焼けちゃっていて、見るも無残な光景なんです。亡くなられた方にはご遺族に連絡をして、遺体を引き取っていただきました。生き延びた方は、今は武道館に避難していただいています。ただ、そこでずっと過ごすわけにはいかないので、倒産した病院や、空き部屋の多い団地で住めそうなところを東京都が探しているんです」
「それじゃあ、また小学校のように一箇所に集めてお世話をする」
「そうです」
「ほかの学校には移さないんですか?」
「学校は冷暖房が完備されていないので、入居者の方からかなり苦情が来ていたんですね。ですので、病院や団地のように冷暖房がついている設備のほうがいいんじゃないかと」
「でも、また一箇所に集めちゃったら、襲われるって可能性はありませんか」
「もちろん、もう二度と襲われないよう、警備は必要です。それは警察と話し合っているところで……」
そのとき、何か問題が起きたのか、スタジオにいたスタッフたちの間で静かなざわめきが起きた。ADが「CMに入ります」とカンペを出す。
「えー、ここでCMです。CMの後は、また桂木さんに続きを伺います」
鹿取がすばやく指示どおりに話を打ち切った。
すぐに画面はCMに切り替わった。ディレクターが慌てて鹿取に駆け寄る。
「今、老人ホームの放火事件の犯人と名乗る男から電話がかかってきてるんです」
「えっ、何?」
「奥多摩の老人ホームの放火犯。桂木さんと話をさせろって、その犯人は電話で言ってるんです」
スタジオにいる人の視線が一斉に京子に集まった。
「えっ、私、ですか?」
「それ、いたずらじゃないの」
鹿取が眉をひそめる。
「私もそう思って、電話に出てみたんですよ。そしたら、奥多摩のホームのことをやけに詳しく知っていて。玄関に書初めと鏡餅が飾ってあったって言うんですよ。書初めは『一歩、前へ』っていう言葉だったって」
「書初め?」
京子は目を閉じて、記憶の中から美園ホームの玄関の映像を引っ張り出した。確かに、正月に園長の元が書いた書初めを玄関に貼っていた。毎年それが恒例なのだと、元は誇らしげに語っていた。かなり達筆なので、「上手ですねえ」と京子は感心したのだった。
「介護の現場は大変なままで、国は全然動いてくれないけど、どんな大変な状況でも前向きに生きていきたいっていう願いを込めたんだ」
元はその言葉を選んだ理由について、そう話していた。
「ありました、確かに。一歩前へっていう言葉でした」
「火事で玄関は焼けちゃったから、それを知ってるのは、火事の前にホームにいた人だけだろうって電話で言ってて」
ディレクターの言葉に、京子は大きく頷いた。
「確かに、そうです。それはお正月に園長が書いて貼ったので」
スタジオ内に緊張が走る。
「放火事件があったのはいつでしたっけ?」
「1月5日です」
「じゃあ、書き初めが飾ってあったのは、本当に数日間……」
京子は再度頷いた。緊張で動悸が激しくなってきた。
「本当なの、それ」と、鹿取は驚いて目を見開いている。
ディレクターは興奮した口調で、
「桂木さん、CMが終わったらその電話をスタジオにつなぐから、その電話の人と話してもらえませんか」
と京子ににじり寄った。
「えっ、急に言われても」
「警察にも連絡してあるんです。何か犯人につながる情報を聞き出せるかもしれないから、ここで出ないとチャンスを逃すことになる」
「でも、何を話せばいいのか」
「相手の話に合わせればいいんです。鹿取さんもサポートできますよね?」
「うん、わかった」
京子は鹿取とディレクターの顔を交互に見て、「分かりました」と頷いた。この雰囲気では、断れるはずなどない。
「すごいぞ、これはすごいことになったぞ」
ディレクターの顔は紅潮している。走ってカメラのほうに戻り、集まったスタッフに大声で指示を出している。
京子は目を閉じた。
「桂木さん、大丈夫だから。なんでもいいから話をすればいいから。何か聞きたいことがあったら、どんどん聞いちゃってください。僕もフォローします」
そう京子にアドバイスしながら、さすがの鹿取も緊張した面持ちになっている。
「CM終わりまーす」
ADの声がフロアに響き渡り、秒読みが始まる。京子は深呼吸した。鹿取が、少しうわずった声で話し出した。
「えー、桂木さんに話を伺っていたところでしたが、今、奥多摩の老人ホームの放火犯を名乗る人物から、局に電話がかかってきました。その犯人は桂木さんと話をしたいということですので、今、このスタジオに電話をつないでみます。電話はつながっていますか?」
鹿取がディレクターに確認すると、ディレクターは両手で大きく丸をつくった。
「もしもし?」
鹿取が問いかけると、数秒間、スタジオに沈黙が流れた。
「もしもし?」
再度呼びかけると、ひどい雑音とともに、「あー、もしもし」という男の声がスタジオに流れた。若い男の声である。
「あなたが、桂木さんと話したいと、電話をかけてきた人ですね」
「はい」
「奥多摩の老人ホームの放火は自分がやったと」
「そう、あれをやったのは、俺だから。1月5日の夜11時半ごろかな。玄関の植え込みにオイルをまいて、新聞紙で火をつけたんだよね」
男は高くて硬い声をしている。恐ろしい殺人を犯すような人物は、どすのきいた低い声をしているのではないかと思っていた京子は、意外に感じた。男は殺人を告白しているというより、まるで世間話をしているような調子で話している。
「ここにいる桂木さんは、美園ホームの職員だったと知っているんですね」
鹿取が質問を投げかける。
「テレビの報道で何回も見たからね。余計なことをしてるなあって思って」
「余計なこととは?」
「あんた、うるさいな。黙っててくんない? 俺は、そこにいる人と話をしたいんだから」
男は苛立ったように声を荒げた。鹿取の顔色が変わる。
「私と話したいって、何を話したいんですか?」
京子が呼びかけると、
「あんた、ロージンを助けようとしているでしょ。ムダなのにさ」
と、人を見下しているような口調で男は言った。
「ムダ? ムダってどういうこと?」
「今の日本はロージンが多すぎるから、数を減らしたほうがいいんだよ。今、俺達が払ってる年金は、今のロージンにつぎ込まれてるってこと、あんたも分かってんだろ? 俺達が養ってるようなもんじゃんか。このペースでロージンが増え続けたら、俺達の金はどんっどん搾り取られていくだけでさ。年金は必ずもらえるって政府は言ってるけど、俺達が年とったころのことなんて、政府が真剣に考えてるはずないから。そのときになって、一円ももらえなかったじゃ済まされないんだよ。だから、今ロージンの数を減らして、社会のバランスをよくするのが一番だって」
「それなら、何も高齢者を殺さなくても、年金のシステムを見直せばいいじゃないですか」
「あんた、本気でそんなことできると思ってんの? 見直す、見直すってずっと言ってっけどさ、何も変わってないじゃん。それに、国民も年金特別便とかいうのをもらって、自分はもらえるんだって安心したとたん、何も言わなくなったじゃん。ダメなんだよ、誰も本気で考えてないって」
「でも、政権が変わったら、どうなるか分からないし」
「まあ、無理っしょ。公務員の改革だって、するするって言っておきながら、自由連合も民衆党もできなかったんだからさ。何もできないまま終わるね。社保庁解体って言っておきながら、結局名前を変えて残ってんじゃん。だからロージンの数を減らして調節するしかないんだよ。ロージンだって散々生きたんだからさ、もういいじゃん、ここらで死んでも。日本の将来のためにも、さっさとお亡くなりになってくれたほうがいいんだよ。100歳まで生きるなんて、冗談じゃないね。ムダに長く生きても、迷惑なだけだからさ」
そのとき、京子の隣に座っていた高齢の元大学教授が、顔を真っ赤にして立ち上がった。
「君ね、一体何様のつもりなんだ? 恥を知りなさい、恥を。戦後、日本をこんなに豊かな国にしたのは、私達なんだから。私達が一生懸命、汗水垂らして働いたから、日本は先進国になることができたんだ。君が今生活してられるのは、私達のおかげなんだっ」
「うるせえ、誰だよ喚いてるジジイは。お前も殺すからな、待ってろよ」
男から罵倒され、教授は次の言葉が出てこない。真っ赤な顔で体を震わしている。
――何か。何か言わなきゃ。
京子の体も小刻みに震えていた。足の指先が極度の緊張でじんと痺れている。
「あなたにも、おじいさんやおばあさんはいるんでしょ? 高齢者を殺すということは、自分のおじいさんやおばあさんを傷つけてることになるじゃない」
「あー、そういうの分かんないんだよね。俺、自分のじっちゃんやばっちゃんには生まれてから2・3回しか会ったことないからねえ。だから自分のじっちゃんやばっちゃんが殺されても、何とも思わない。ああ、自分では殺さないけどね」
教授がようやく口を挟んだ。
「君ねえ、高齢者を殺したら、本当に自分の年金はもらえるって思っているの? そんなわけないじゃないか。そこまでバランスを取るには、今の高齢者の半分ぐらいを消さなきゃいけないかもしれんよ」
「それはそれで、面白そうじゃん」
「面白いって、そんな」
「まあ、でも、さすがにそこまでするのはムリだって思うよ。俺らも、そこまで暇じゃないし。まあ、別のネンキンをもらえるからさ、それで老後も何とかなるよ」
「別のネンキン?」
「俺たちで決めたんだよ。新しいネンキン制度。ロージンを一人殺したら1ネンキンもらえるっていう制度。ああ、ちなみにネンキンはカタカナだから」
「ネンキン……1ネンキンって何?」
京子は震える声で尋ねた。
「カネだよ。カネ」
「高齢者を殺したら、お金をもらえるってこと?」
「そういうこと」
「そんなの、嘘でしょ。一体、何の目的でそんなこと」
「だから、さっき言ったじゃん。ロージンを減らして、世の中のバランスをよくするんだって」
「君ね、そんな、人を殺してカネをもらうなんて、映画やマンガの世界じゃあるまいし、現実じゃあ、ありえない。目を覚ましなさいよ」
教授が思わず声を荒げた。男はフフンと軽く笑った。
「実際にカネになるんだよ。俺もかなりもらったし」
「そんなお金、誰が払うの?」
京子の問いに、「さあ、あの人が誰なのか、俺も知らないね」と男はさらりと答える。
「このままコツコツ毎月払ったところで、老後もらえる額なんてわずかなんだから。今ロージンを殺してカネもらって貯めておいたほうが、よっぽど将来の役に立つんだって。だからね、このテレビ見てる人は、どんどん参加したほうがいいよ。それじゃ」
そこで電話を切ろうとしたので、京子は慌てて
「あの、なんで私と話したいって言ったの?」
と話を繋いだ。
「ああ、だってあんた、本でも呼びかけてるだろ、犯人には自首してほしいって。犯人の顔を見てみたいって。自首する気はないし、顔を見せる気もないけどさ。あんたかわいくて俺の好みだから、声だけでも聞かせようかと思って。そんだけ」
「なに、言ってるの」
「もうあんたには何もできないんだよ。やってるのは俺だけじゃない、全国で何十人ものやつがやってるんだよ」
「何十人?」
「そっ。今はもう、地方のロージンの殺人は新聞にも載らなくなったね。毎日2・3人ペースで殺されてんのにさ」
「……」
「そういうわけで、あんたがどんなにメディアで訴えかけても、ムダなんだよ。あんたが助けた、三郎とかみつとかいうやつも、気をつけたほうがいいな」
京子は思わず立ち上がった。電話はそこで切れ、ツーツーという音がスタジオに響き渡る。
「どうしよう」
京子はマイクを外し、スタジオから出ようとした。
「京子さん!」
スタジオの隅にいた有紀が駆け寄って止める。
「まだ番組の途中ですよ」
「だって、二人が、みつさん達が」
「京子さんが行ったら危ないですよ。警察に連絡したほうがいいですよ」
「そうですよ、今警察に連絡しますから、落ち着いてください」
ディレクターも駆け寄って説得した。
「出番もすぐ終わりますから、とりあえず席に戻っていただけませんか」
「でも、でも」
「どうするの、この後」
再びCMに切り替わったらしく、鹿取がディレクターに呼びかける。
「あんな電話の後で、普通に番組はできないでしょ」
「そうですね、どうしましょう」
ディレクターは鹿取や女性アナウンサーと相談を始めた。
青ざめて震えている京子を見て、有紀は「大丈夫ですか? 何か飲みますか?」と心配そうに顔を覗き込む。京子が頷くと、有紀は早足でスタジオを出て行った。
――どうしよう。二人が襲われたら、私のせいだ。私が責められる。
京子は自分の体をさすって、震えを止めようとしていた。
「びっくりしたわよ、いきなり警官が来るんだから」
みつは何度も、そう言った。
京子が武道館に着いたとき、入り口には何台ものパトカーが停まっていた。
武道館は普段アリーナ席になっているエリア一面に、高齢者が寝泊りするスペースを設けている。簡単な間仕切りを設けてあるが、ほとんどプライバシーがない状態で、そこに集う人たちは明らかに疲労していた。階段席に寝転がって眠っている人もいる。
みつと三郎は、端のほうで二人分のスペースを確保し、寝具のマットレスを座布団代わりにして座り、お茶を飲んでいた。
「テレビに出てた時に、放火犯から電話があって。二人に危害を加えるようなことを言ってたから」
「そうだってねえ。警官から話を聞いて、もうビックリした。今はテレビがないから、見たくても見れないし」
京子は二人の無事な姿を見て、その場にへたりこんだ。
「まあまあ、今お茶を入れるから。忙しいのに来てくれて、大変だったでしょ?」
みつが立ち上がろうとするのを有紀が制して、「お茶を持ってきますね」とレストランに向かった。
そのスペースには小さな折り畳み式のテーブルが置いてある。端には布団を畳んで重ねてあり、間仕切りと間仕切りの間にロープを渡して、洗濯物が干してある。
三郎は、
「警察が、今、保護してくれる施設を探してるみたいだよ。ここでずっと見張りをしているわけにもいかないからってさ」
と、のんびりした口調で言った。
「えっ、また別の場所に移るんですか?」
「まあ、相変わらずバッグ一つで移動すればいいから、楽だよ。ここよりはマシかもしれないしね」
三郎はそう言いながら、お茶を飲んだ。
「それにしても、何のために老人を殺すんだろうねえ、その人は。知らないやつにカネのために殺されるなんて、たまらんな」
「核家族化が問題じゃないかって、さっき来てた刑事さんが言ってたわよ」
みつが言った。
「犯人は自分の祖父母と交流がなかったから、高齢者に対する尊敬の念やいたわる気持ちを抱けなかったんじゃないかって。だから高齢者をゴミ扱いして殺するんじゃないかって」
「関係ないだろ、そんなの。うちの子だって、俺を引き取るのを嫌がったんだから。長年一緒に暮らしてたって、尊敬や愛情なんてわかないもんなんだよ。ある意味、うちの子たちもその犯人とやってることはおんなじだよ。俺の存在を無視しようとしてるんだから。俺はもう、この世にいないのとおんなじなんだから」
「そんなこと」
「ない」と京子は続けようとしたが、単なる気休めにしかならないと気づき、言葉を切った。重い沈黙が三人を覆う。
「やっぱり、あの火事で死んどいたほうがよかったんだろうなあ。焼かれる間は苦しいかもしんないけど、その間だけガマンすりゃいいんだし。生きてこんなつらい目に遭うぐらいなら、あのとき死んだほうがよかったんだよ」
三郎の言葉に、京子は思わず、「とよさんもそんなことを言ってましたけど……」とつぶやいた。
「えっ、最後にとよさんと会話したの?」
みつに聞かれて、京子は我に返った。
「い・いえ、生前にそんなことを言ってたのを、聞いたことがあるんですよ。何かあっても家には戻りたくないって」
「そうなの? 息子さんと一緒に暮らしたいのかと思った」
「よく息子さんを自慢してたからなあ。一流大学を出て、大企業の重役になったって。でも、全然会いに来ないんだから、薄情な人だよなあ」
「そうそう。会いに来たとき、私が挨拶しても何も返さないし」
「あそこは嫁さんも嫌々来てるってのが丸分かりだったもんな」
とよについて、それ以上何も聞かれなかったので京子はホッとした。
――危なかった。とよさんを最後、置き去りにしたことがバレたらまずいから、気をつけないと。
「この声、小峰君の声に似てない?」
ふいに名前を呼ばれて、雄太は顔を上げた。
勇蔵が部屋の隅のテレビを見ながら、扇子でしきりに顔を仰いでいる。経費削減のため、事務所のエアコンの温度を上げているのだ。寒がりの道子には好評だが、雄太は汗をかきながら仕事をするはめになった。今も氷をなめながらパソコンに向かっている。
勇蔵は、テレビのワイドショーを見ている。どこの局でも、昨日の討論番組で奥多摩の老人ホームの放火犯が電話をかけてきたことがトップニュースになっている。繰り返し、犯人の声が流された。
「この犯人の声、小峰君に似てるんじゃない?」
勇蔵がいたずらっ子のような表情を浮かべた。
本気で言っているわけではないと分かり、
「ええー、そうですかあ?」
と雄太はカン高い声を出しておどけてみた。道子が弾けたように笑った。
「もう、失礼ですよ、社長。雄太君が放火犯に似てるなんて」
道子は軽く勇蔵を睨んだ。雄太が働き始めて1カ月も経たないうちに、道子は「雄太君」と馴れ馴れしく呼ぶようになった。雄太は内心うんざりしていたが、自分も「道子さん」と名前で呼ぶよう心がけている。
「冗談だって。にしても、こういう声の人はよくいるから、これだけで探すのは難しいだろうねえ。もっと変わった声の人ならともかく」
「そうですねえ」
「でも、この犯人の言ってること、本当なのかなあ。老人を一人殺せばお金をもらえるなんて、信じられないね」
「きっと、頭がおかしいんですよ、こいつ」
雄太は適当に勇蔵の話に合わせた。そのとき、杖を突いた高齢の男が一人、ガラス戸を開けて入ってきた。
「ああ、中川さんどうも、こんにちは」
勇蔵が愛想よく声をかける。
「あんた、言ってくれたのか?」
老爺は不機嫌そうに聞いた。背中が曲がっているので、睨むように勇蔵を見上げる。
「え?」
「あそこの新しい店の店長に、町内会に入るよう、話をしてくれるってことだったじゃないか。でも、一向に入らんじゃないか」
勇蔵はしばらく首を傾げて、
「ああ、カフェのオーナーのことか。話はしましたよ。でも、自分の店のことで手いっぱいだから、町内会の集まりには行けない、だから参加しないって断られちゃってね」
と言った。
「そんな、向こうの都合なんて、どうでもいいんだよ。ここの商店街に入るからには、町内会に入るってのが常識なんだから」
「いやあ、昔はそうだったかもしれないけど、今はそんな常識、通用しないでしょ」
「そんなことはない。町内会に入らないのなら、ゴミ捨て場は使わせないって言っとけ」
「そんな無茶な」
勇蔵はあからさまに顔をしかめた。
「オレはそんなこと、言う気はありませんよ。言うなら中川さんが言ってくださいよ」
「会長はあんたじゃないか」
「それも、オレが仕事でいないときに、勝手に決めたことでしょ? オレはやりたくないって言ってんのに」
道子が老爺の前に冷たい麦茶を置いた。
すると、「なんで冷たいお茶なんだ。オレは温かいお茶しか飲まないんだ! 入れ直してこい」と老爺は声を荒げた。
「じゃあ、飲まないでください」
道子は冷静に返す。
「あなたはお客様でもなんでもないから、本当はお茶を入れてあげる必要はないんです。お茶を入れた人に感謝もできないなんて、随分心が狭いんですね」
「なんだと!?」
「まあ、まあ」
慌てて勇蔵が止めに入る。
「どうしたの、みっちゃん」
「いえ、今世間で襲われている高齢者って、こういう人なんじゃないかって思って」
「はあ? なに、なにを」
老爺は何か言おうとしたが、急に口を閉じた。
「襲われた老人の周辺を調べてみたら、元々周りから嫌われていた人が多いって分かったそうなんです。そうではない人も巻き込まれてるんだけど、殺される直前にもめごとを起こしていた人もいるそうですよ。今の中川さんみたいに」
「なっ、おまっ、そそそ」
老爺は動揺したのか、まともに反論できない。みるみる顔が赤くなっていく。
「みっちゃん、それはキツすぎないか?」
勇蔵が見かねて言うと、
「私、今起きている事件って、高齢者とそれ以外の世代とで分断されてしまったから起きたんじゃないかって思ってて。若者が高齢者を軽んじてるってのもあるけど、高齢者は高齢者で、自分は年上なんだから敬えとか、自分が正義なんだって感じで、若者を排除する。ゴミ捨て場を使わせないとか、ちっさなことを言ってね。若者だって、高齢者が素晴らしい人物だったら、普通に尊敬しますよ。でも、そんな人はあんまりいない。それって、高齢者側の問題でもあるんじゃないですか」
と、淡々と道子は持論を述べる。老爺は何も言い返せない。
「もういいっ」
老爺は吐き捨てるように言って、出て行った。
「やるねえ、みっちゃん。助かったよ、あの人しつこいからさ」
勇蔵は大きく息をついた。
「別に、社長を助けたわけじゃないですよ。社長も、いつも中川さんの言うことを真剣に聞かずに『ハイハイ分かりました』って流してるから、いっつもトラブルになるんじゃないですか。嫌なら嫌だって言えばいいのに」
「まあ、そういうけどさ、町内会のつきあいも複雑なんだよ」
勇蔵は言葉を濁し、「お昼に行ってくる」と逃げるように出て行った。
道子はお茶を片付けている。
雄太はニヤニヤして、
「さっきの、カッコいいっすね。オレもあんなジジイ、襲われちゃえって思いましたよ」
と声をかけると、道子は眉をひそめた。
「別に、襲われちゃえなんて思ってないんだけど……高齢者を襲うなんて、卑怯じゃない」
道子の一言に、雄太は内心ムッとした。
「卑怯ってどういうことですか?」
「だって、相手は体力もないし腕力もない高齢者なんだよ? そんな弱い人を襲うなんて卑怯じゃない。言葉で反論すればいいだけだって思うけど」
道子の言葉は正論すぎて、雄太は「まあ、そうかもしれないけど」と弱くつぶやくのが精一杯だった。
時々、道子は毅然とした態度でしっかり反論することがある。弱いのか強いのか、分からない。
雄太は何も言い返せないと、ジワジワと悔しさがこみあげてくるのだった。
その日の夜、雄太は新宿の喫茶店で胸焼けと待ち合わせをしていた。
雄太が10分ほど遅れて着くと、胸焼けはいつも通り優雅にコーヒーを飲んでいた。
「すみません、遅れて」
雄太は頭を下げた。
「いいんですよ。仕事、忙しいみたいですね」
「いえ、そんなに忙しくはないんです。ただ、社長の話が長くて、話が始まると途中で抜けられないんですよ」
「ああ、いますね、そういう人。サラリーマンは上司の機嫌をとるのも仕事ですからね」
雄太もコーヒーを頼んだ。
「これ、先月の横浜での作業の分です。ご苦労様でした」
胸焼けは封筒を雄太に渡した。
「あの、横浜のあの作業って、年金基金の職員宿舎を襲った荷物だったんですよね」
雄太は声をひそめて尋ねた。
「さあ、どうでしょう。何とも言えませんが」
胸焼けは涼しい顔をしている。
「すっごい高そうなものばっかでしたよ。売ったらすごい金額になりそうな。官僚って、オレらの税金であんないい暮らしをしてるのかって思いましたよ。あの荷物、どうしたんですか? 中国に売り飛ばしたとか」
胸焼けは雄太の質問には答えず、
「昨日の電話はよかったですよ。名演技でした」
と話題を変えた。雄太は得意満面、という顔になり、
「あれだけで10万円ももらえるなら、いくらでもやりますよ」
と、運ばれてきたコーヒーをブラックのまま口に運んだ。
「まあ、これで当分世間は大騒ぎになるでしょう」
「でも、わざわざネンキンのことを話す必要はあったんですか?」
「ロージンにはもっと不安がってもらわないと、ゲームとしては面白くないでしょ」
「まあ、そうですね」
雄太は大げさにため息をつき、
「でも、あまり怖がると家を出なくなるから、それも困るんですよ。電車に乗ってもロージンは見かけないし、老人ホームはもう狙えないだろうし、巣鴨もロージンはいなくなっちゃったし。退治したくても、ロージンが集まる場所がないんですよ」
とぼやいてみせた。
「そうですねえ。家にいるところを狙うとか」
「ロージンがいるかどうか確かめてから、一軒ずつ放火していくのは、ちょっとリスキーですよね。時間かかるし」
「放火じゃないとダメなんですか?」
「オレ、血を見るのが苦手なんで、刺したりするのはダメなんです。放火なら、血を見ないから」
「なるほどね」
「だから、この間のクジョレンジャーの小学校の放火は羨ましかったですよ。オレも呼んでくれればよかったのに。学校に害虫が集まってるのを見て血が騒いだから、ガマンできなかったって言ってましたけど。害虫駆除はまた解禁ってことでいいですよね」
「そのことなんですが……」
胸焼けは優雅な動作でコーヒーカップを置いた。
「私はネンキン活動からは抜けます。本業が忙しくなってきたんでね」
「えっ」
雄太は危うくコーヒーを吹き出しそうになった。
「抜けるって、どういう」
「もう私からはネンキンを支払わないってことです」
「えっ、そそそんな、ちょっと」
「我々の計画は次の段階に移ってるんでね。あなたも相当稼いだでしょう」
胸焼けは澄ました顔で微笑んでいる。
「それって、ネンキン制度はもう終わりってことですか」
「それを決めるのは私じゃありませんよ。もともと、代表さんが立ち上げた活動だし。続けたいのなら、続ければいいでしょう」
「続けるったって、むねおさんのほかにカネを払うやつなんていないじゃないですか」
「どうでしょうね。まあ、クジョレンジャーの5人は、お金をもらえなくても続けるって言ってますし。お金がもらえなくてもやりたい人だけで続ければいいんじゃないですか」
「そんなこと、突然言われても」
「まあ、後のことは、代表さんにお任せしますよ」
胸焼けは伝票をつかんで立ち上がった。
「それじゃあ、今までお世話になりました。別途、ほかの仕事で声をかけるかもしれませんが、今日はこれで」
「えっ、ちょ・ちょっと待ってくださいよ」
「急いでるんで、これで」
胸焼けは料金を払うと、さっさと店から出て行ってしまった。雄太は口を半開きにしながら、胸焼けの姿を目で追うしかなかった。
突然のゲームの終わり。いつかは終わりが来ると思っていたが、あまりにも早すぎる。
雄太は動揺しながら、コーヒーを飲んだ。
――もうジジババを殺しても意味はないってことか。あー、それなら先月の小学校の放火、やっぱりオレもやっておきたかったなあ。最後に大金を稼げたのに。
雄太は足元からじわじわと焦燥感がこみ上げてくるのを感じていた。
――どうしよう。これぐらいのカネ、すぐになくなっちゃうよ。こうなったら、あんなショボイ不動産屋で働いてらんないな。まともな仕事を見つけないと。またネカフェに逆戻りになる。それだけは、絶対避けないと。
コーヒーを飲み干したものの、もはや味わう余裕はなくなっていた。
――こんな世の中、やっぱクソだわ。
その日、順二は池袋の居酒屋で人と会うことになっていた。
9月下旬になっても、残暑はまだ続いている。順二は店を探しながら、鼻の頭に汗をかいていた。
指定された居酒屋を見つけて入り、客席を見回していると、背後から「順二さん」と肩を叩かれた。
振り向くと、榊原が立っている。
「こっちです」
個室に案内されて入ると、テーブル席に5人の男が座っている。やけに目つきが鋭いチンピラっぽい男もいれば、椅子がつぶれそうになっている太った男もいる。
「みなさん、この人が、年金基金機構の職員宿舎を襲った方です。
榊原が順二をグイッと前に押し出した。
「えっ、ちょ、待って」
順二が慌てていると、
「ホントっすか?」
「おおー、この人が!」
と、男たちは感嘆の声を上げた。
「この方達は、あなたの行動に感動してね。絶対会ってみたいというから、今日お連れしたんです」
「無理言って、すみませんね。でも、榊原さんがあの襲撃のリーダーだった人を知ってるって言うから、それなら会わせてくれって、お願いしたんです」
細身で丸い眼鏡をかけた男が、にこやかに順二に片手を差し出した。
「いいいや、それはオレじゃ」
「僕も最初は驚いたんですよ、あの襲撃の計画を聞いて。でも、これは正義の怒りだなって思って。今どき、社会正義なんてないでしょう? 世の中の悪を正そうって真剣に考えて、そのために自分を犠牲にしてまで行動するなんて、幕末の志士みたいだなって感動しましてねえ。それで、私もトラックを貸したり、できるだけお手伝いさせていただいたんです」
榊原は順二を遮って、ペラペラとしゃべった。微笑みながら順二を見るその目は、少しも笑っていない。
――こいつ、俺を犯人に仕立てやがった。
順二は背筋が冷たくなった。
「いや、そうですか、正義の怒り。じゃあ、それで呼ばせてもらってもいいですか? 我々もみんな、ハンドルネームで呼び合ってるんです。僕は鉄拳5っていいます」
丸い眼鏡の男が、再度右手を差し出した。握手を求めているのだと気づき、順二もおずおずと手を差し出す。鉄拳5は順二の手を強く握りしめた。
「お会いできて光栄です、正義の怒りさんっ」
「は・はあ。どうも」
座るように促されて、隅に腰を下ろそうとすると、
「正義の怒りさんは真ん中に来てくださいよ!」
と目つきの鋭い男に手招きされた。どう見ても20代なのに、その男は学ランを着ている。順二は気乗りしなかったが、促されるまま真ん中に座った。
ビールを頼むと、すぐに運ばれてきた。
「それじゃあ、正義の怒りさんが来たところで、改めて」
鉄拳5はビールジョッキを持ち、
「今日は、ブログ‘ニッポン改造論’のオフ会に参加していただき、ありがとうございます。えー、堅苦しい話をしても仕方ないんで、さっさと始めちゃいましょう。それでは、乾杯!」
とジョッキを掲げた。
「乾杯!」
みんな、ジョッキをカチンと鳴らし合った。順二もビールを渡され、流されるままジョッキを鳴らし合う。
鉄拳5が、そこにいるのは自分が立ち上げたブログに普段よくコメントを寄せている人たちなのだと説明してくれた。
「ニッポン改造論」というブログでは、国の政策の問題点を中心に論じているのだという。そこで日本年金機構の職員宿舎の襲撃を称賛したところ、そこにいるメンバーが賛同したのだ。
「うちのブログでは、正義の怒りさんのパフォーマンスで盛り上がってるんですよ。またどこかを狙わないかって」
「いや、それは、ちょっと……」
何を話せばいいのか、榊原に聞こうと振り向くと、いつの間にか姿を消している。
――マジかよ。どうすればいいんだよ、これ。
「じゃあ、正義の怒りさんのために、再度自己紹介をしましょうか」
鉄拳5が順二の隣りに座っている男に、「こばけんさんからどうぞ」と促した。
長い髪を後ろで結び、口ひげを生やし、作務衣を着ている男が立ち上がった。
「ハンドルネームこばけんです。本名は、小林けんじなのか、小早川けんたろうなのか、どういう名前なのかは、皆さんの想像にお任せします。年齢不詳です。ニッポン改造論のオフ会に参加するのは、これで3回目です。今日も飲みまっす」
既に酔っているらしく、顔が真っ赤になっている。聞いていたメンバーが「よっ」「飲め飲めえ」と声をかけ、拍手をする。
次に、こばけんの向かいに座っている、太った男が立ち上がった。伸びきっているTシャツは、どうやらビールの懸賞で当てたものらしい。ロゴマークが大きく入っている。銀縁の眼鏡をかけ、大きな目でギロリと見渡してから、なぜか「フフン」と鼻先で笑った。
「僕は夜青龍です。えー、某機関の非常勤職員で、相談員をしてます。ハローワークに相談に来るやつらの相手をするのに、もう毎日ヘトヘト……あ、名前を言っちゃった。ま、いいか。そんなわけで、よろしく」
こもったような声で自己紹介し、腰を下ろした。まわりのみんなは盛大に拍手したが、順二は何となくこの男の態度が気になり、拍手しなかった。
順二の向かいに座っている眼鏡をかけた痩せぎすの男が立ち上がり、
「最近コミュニティに入ったばかりの、ホームレス中年です。私は昨年末にリストラに遭って、もう住む場所もなくて、最近まで公園で寝泊まりしてました。それを救ってくれたのは、ここにいる正義の怒りさんです。命の恩人にお礼を言いたくて、今日は参加しました。正義の怒りさん、本当にありがとうございます!」
と、順二に頭を下げた。
「え? 何のことですか?」
順二が戸惑っていると、
「池袋の公園で寝ていたら、10万円がポケットに入っていたんです。その10万円で安いアパートに入り、なんとか次の職が決まったところなんです。本当に、なんてお礼を言ったらいいのか。あなたのしたことは、ほんっとうに素晴らしい」
と、ホームレス中年は涙ぐんだ。
順二は、先月末、都内のホームレスにお金が配られたという話を思い出した。配った主は誰か分からず、『現代版幸福の王子か?』というような見出しで週刊誌が取り上げていた。日本年金機構の職員宿舎を襲った後の出来事なので、その首謀者がお金を配ったのだとネットでは騒がれている。
順二は「ああ、ええ、まあ」と曖昧に答えた。ここまで感謝されているのに、自分とは無関係だとは言いづらい。
――もう会わないだろうから、適当にごまかしとけばいいか。
と嘘をつくほうを選んだのである。
次に順二の隣に座っていた学ランの男が立ち上がり、
「自分はっ、憂国ですっ。学ランを着てますが、28歳ですっ。某大学を留年中ですっ。応援団に入ってますっ。よろしくっす」
と声を張り上げた。
最後に鉄拳5が立ち上がった。
「鉄拳5です。ニッポン改造論の管理人です。オフ会はこれで3回目ですが、皆勤賞はこばけんさん、2回目が憂国さんと夜青龍さん、正義の怒りさんとホームレス中年さんはこれが初参加ですね。今日はとくに濃いメンバーの集まりで、ディープな夜を過ごせそうで、楽しみにしてます。よろしくお願いします」
「ディープな夜って、なんだよ、それ」
こばけんが突っ込みを入れる。
自己紹介が終わり、鉄拳5は海鮮サラダを小皿に取り分けてみんなに配った。
「いや、正義の怒りさんにお会いできるなんて、本当に光栄です。あのニュースを聞いたときは、興奮しました。官僚をやりこめるってのは、なんかスッキリしますね、ホントに」
「そうそうそう。ネットでも、よくやってくれたって感じの意見がほとんどだよね。みんな、国に対して怒りを持ってるんだよねえ」
こばけんも同意した。
憂国が、
「今度どっか襲うときは、俺も混ぜてくださいよ」
と、真剣な顔で言う。
「いや、あんな大がかりなことはもう無理でしょ」
「そうですね、ほかの省庁の宿舎も警備を強化したって話だし」
「かー、それにまた税金が使われてんでしょ? やってらんないねえ。守りたいなら、自腹を切れよって感じ。なんで俺らが守ってあげなきゃいけないんだよ」
「あの、どれくらい配ったんですか?」
3人が盛り上がっていると、唐突にホームレス中年は順二に尋ねた。
「え? 何を?」
「だから、あのお金です。何人ぐらいに配ったんですか」
「さあ、何人だったかな……100人ぐらいかな」
今さら、お金を配ったのは自分ではないと否定できずに、順二は適当に答えた。
「おおっ」と、メンバーから感嘆の声が漏れる。
「そうすると、1000万円使ったってこと? カッコいいなあ」
「官僚のやつらの持ちもんを売っぱらって、カネにしちゃったんすか。かっこいいっす。マジかっこいいっす」
「それをホームレスに配るなんて、どこかの政党のバラマキ政策よりも、よっぽど意義あることですよ」
メンバーは口々に賞賛の言葉を述べる。
「正義の怒りさん、あなたのしたことは、本当に正義ですよ。俺、前は省庁の仕事を請け負う会社で働いてたんだけど、あいつら本当にクズですよ。ものすごい上から目線で、無茶な要求ばっかして、でも天下りが中抜きするし。それでうちの会社は立ち行かなくなって、オレはクビを切られたんだから。年金もそうだし、保育園落ちた、日本死ねってのも厚労省のやつらが改善しようとしないから、こんなことになってんでしょ? 自分たちは天下りをしてのうのうと暮らしてるくせに。官僚相手に腰が引けてる政治家なんかより、正義の怒りさんは素晴らしい。ほんっとうに素晴らしいですよ」
ホームレス中年は順二の手を取らんばかりの勢いで熱弁する。その目にはうっすらと涙まで浮かんでいる。
順二は思わず、「まあ、確かに。うちの両親も介護問題で心中しちゃったし」とポロッと言ってしまった。
「えっ、どういうことですか?」
鉄拳5が身を乗り出す。
順二は「どうせ二度と会わない連中だし」と思いながら、両親と祖母が心中したことをかいつまんで話した。その場はしんみりとなった。
「そうですか……そんな大変な思いをしたから、正義の怒りがわいてきたんですねえ」
鉄拳5はしみじみと言った。
「いやあ……それはつらすぎる」
と、ホームレス中年は涙ぐんでいる。
「ホントなの、その話。ちょっと出来すぎてる気がするんだけど」
それまで黙々と料理を食べていた夜青竜が、口を開いた。どこかふてくされたような、不愉快な話し方をするので、順二はムッとした。
「できすぎも何も、俺の親は今年の5月に死んでしまって、うちはメチャクチャになってるんだけど」
順二は思わず強く言い返した。
こばけんが場の雰囲気を変えようと口を開いた。
「実は、俺は、犯罪を犯すようなやつってどんなんだろうって興味があって、今日は参加したんだよね。でも、正義の怒りさんは会っても、ふつーだなあって感じだよね。あんな大胆なことをしなさそうに見えるから、夜青竜さんが疑いたくなるのも分かるよ。でも今の話を聞いて、そういう思いが突き動かしたんだって、納得した」
「犯罪じゃないですよ。社会正義ですよ」
ホームレス中年が順二の目をまっすぐ見て言った。順二は思わず目をそらした。
そのとき、料理が運ばれてきたので、みな口をつぐんだ。
――どうしよう。適当なところで抜け出さないと、変なことに巻き込まれそうだな。
順二が必死で策を考えていると、
「俺と一緒に、何かやりましょうよ、正義の怒りさん」
ふいに、憂国に肩を掴まれた。憂国の目は爛々としている。
「何かって、何を」
「職員宿舎を襲うだけじゃ、まだ生ぬるいっす。どうせなら、本丸を攻めなきゃ」
「本丸って」
「厚生省」
順二は思わず笑ってしまった。冗談かと思ったのである。
だが、憂国はニコリとも笑わない。
「冗談じゃないですっ、本気なんすよ。かの三島由紀夫先生も、陸上自衛隊の駐屯地を乗っ取り、割腹自殺を図りましたっ。俺たちも、敵の本拠地に乗り込んで、自決覚悟で戦うべきじゃないっすかっ。それこそ革命でしょう」
憂国は興奮してきたのか、テーブルをバンバンと叩く。
「いや、そこまでは、ちょっと」
順二が戸惑っていると、「憂国さんは過激だなあ」と鉄拳5はたしなめた。
「いや、私は、賛成ですよ。厚労省の襲撃。そこまでするべきでしょう。そこまでしないと、きっとあいつらは分からない。もっと痛みを味わうべきですよ。素晴らしい。その考えは、ほんっとうに素晴らしい」
ホームレス中年が憂国に賛同した。
「ホームレス時代の仲間も、正義の怒りさんには感謝してるんです。だから、襲撃に参加するよう呼びかけたら、きっと集まりますよ」
「いや、さすがに、厚労省を襲撃するのは無理でしょう。規模が大きすぎる」
鉄拳5が否定すると、ホームレス中年は身を乗り出した。
「人数さえ集まれば、できますって。大体、海外だったら暴動は普通ですよ。日本人はおとなしすぎるんです、私も含めて。私は、家も仕事もなくして、妻と娘にも愛想つかされました。それでも、何も文句は言わなかった。自分は運が悪いんだって、自分の要領が悪いんだってずっと思ってて……」
声が震えた。見ると、ホームレス中年は涙を流している。
「まじめに働いてたんですよ? 天下りなんか、会社になんてほとんど来ないんだから。高い給料もらってるくせにね。でも、まじめに働いているオレなんか、安い給料しかもらえなくて、しかも簡単にクビを切られて、何もかも失ったんです。おかしいじゃないですか。それもこれも、社会のシステムがおかしいからなんですっ」
涙ながらに熱弁をふるうホームレス中年を見て、順二はすっかり引いていた。
――ここにこれ以上いるのは、ヤバそうだな。
順二が逃げようと腰を浮かしかけたとき、
「その通りっ。社会のシステムがおかしいっ。ホームレス中年さんは何も悪くなんてないっす。悪いのは血も涙もない官僚だっ。官僚は高い給料をもらっておきながら、平気で国民を裏切りやがる。薬害エイズだって、C型肝炎だって、厚労省と製薬会社が招いた人災なんだっ。犯罪者なのにあいつら、ムショにも入らずにのうのうと暮らしてやがる。そんなの許されないっ、許すべきではないんだっ」
と、憂国がテーブルを叩きながら、店中に響き渡るほどの声で熱弁をふるった。何事かと店員が飛んできた。
店員に静かにするよう言われ、6人はしばらく黙って酒を飲んでいた。
順二はタイミングを見計らい、「俺、そろそろ」と席を立とうとすると、
「私、本気ですよ。私も今の社会を本気で変えたいんです。だから、やりましょう」
とホームレス中年が順二の腕をつかんだ。
「その通りっすよ。今何とかしないと、このままじゃ日本は崩壊しますよ」
憂国も順二の目を見据える。
「だからって、厚労省を襲うなんて、そんな無茶なこと」
順二がホームレス中年の手をほどこうとしていると、
「俺もやりたーい」
とこばけんが手を挙げた。
「正義の怒りさんなら、できますよ。一緒にやりましょうよ」
ホームレス中年は腕を握る手に力を込める。帰してもらえそうにもないと、順二は諦めて座った。それを了解の合図だと思ったらしく、
「よし、この最強メンバーで、厚労省を叩きつぶすぞっ」
と憂国が握りこぶしを小さく振り上げた。
順二が慌てて「いや、俺は、別に」と否定しようとすると、
「とにかく、勢いだけでできるわけじゃないから、やるならやるで計画を練らないと」
と、鉄拳5が冷静に提案する。
――おい、マジかよ? 反対するやついないのかよ?
順二が夜青竜を見ると、夜青竜も「まあ、みんながやるなら、俺もやってもいいけど」とまんざらでもない顔で同意している。順二は頭がクラクラした。
――冗談じゃないよ。俺はもう普通に暮らしたいんだよっ。
順二以外のメンバーはお酒が入っているせいもあり、テンションが高くなっている。順二は必死で、この場から逃げ出す方法を考えていた。
その日、原義男はいつものように母親を連れて散歩に出かけていた。
石神井川沿いの道を車椅子を押して歩いていると、近所の主婦とすれ違った。会釈をして通り過ぎようとしたとき、「気をつけてくださいね。最近、高齢者を狙った犯罪が多いから」と主婦に声をかけられた。
「ああ、老人を殺したら1ネンキンもらえるとか、テレビでやってますなあ」
「ねえ、怖いですよね。うちの親は神奈川に住んでるんですけど、怖くて外出できないって言ってるんですよ」
「はあ、そうですか。まあ、この辺は人通りが多くて強盗も入ったことないし、大丈夫でしょう」
適当に会話を交わし、主婦と別れた。
義男は今年60歳になった。母は81歳になる。母は5年前に病気で入院し、退院してから自宅でほぼ寝たきりの状態になってしまった。そのころから、痴呆の症状が現れたのである。
最初は妻に介護を任せていたが、精神的に追い詰められ、3年前に家を出て行ってしまった。息子と娘はそれぞれ家庭を持ち、子育ての真っ最中なので実家を顧みるほどの余裕はない。義男は意を決して役所を早期退職し、母の介護に専念することにしたのである。
最近は公務員に対する風当たりは強いが、義男は誠心誠意をモットーとして役所で働いたという自負がある。勤勉に、コツコツ働く者だけが幸せになれるのだと、両親からは言い聞かされて育った。
だが、最近は「なんで自分ばかりがこんな目に」と悲観するようになっていた。
母の症状は日ごとに悪化し、もはや自分のことすらも分からなくなってしまった。母は昔の思い出ばかりを語る。その思い出の中に自分が登場しても、今母のおむつを替えているのが誰かは分からないのである。空しい気持ちに苛まれて、眠れない夜が増えた。
「いっそ死のうか」
ここ数か月、そんな思いが頭を占めている。母の命を絶ち、自分も命を絶てば、誰にも迷惑をかけないし、責められることもないだろう。残された息子と娘は悲しむかもしれないが、少なくとも将来介護の負担をかけなくて済む。
――一生懸命、生きてきたのに。こんな末路だなんて、哀れだな。
そう考えると、泣けてくる。今も、石神井川の水面を見ながら、ふと虚無感に襲われて涙ぐんでいた。
「暗くなってきたから、そろそろ帰ろうか」
声をかけると、母は「桜、きれいね」とつぶやきながら、虚空を見つめるだけである。9月のこの時期に桜など咲いていない。母の昔の記憶の中で咲き誇っているのだろう。
家は石神井川沿いの住宅地の一角にあった。
40年前に建てた家はリフォームする余裕もなく、屋根の色は剥げ、壁には亀裂が入り、すっかり古びている。母が丹精込めて手入れしていた庭も、今はすっかり荒れ果てていた。
車椅子を門扉の前に止めて家に入り、そこに止めておいた室内用の車椅子の位置を整えていたとき。
母が叫び声をあげた。車椅子が倒れたのかと振り向くと、母の前に一人の男が立っていた。その男の顔は、見覚えがある。同じブロックに住む住人の一人息子で、仕事を辞めてからは、働きもせずにブラブラしているという噂を聞いていた。
口ひげが生え、髪はボサボサに伸び、よれよれのシャツを着ている。目が異様に光り、肩で荒い息をしている。
その男の手に包丁が握られていると気づくまで、数秒かかった。
母は胸を押さえて突っ伏している。男は母の背に向かって包丁を振り上げた。鈍い音とともに、母が悲鳴を上げる。
義男は、しばらく金縛りにでもあったかのように動けなかった。男は何度も包丁で母を刺し、「1ネンキン、1ネンキン」と呪文のようにつぶやいている。
「痛い」「やめて」と、母親は泣き叫んでいる。
義男はとっさに玄関に立てかけてあった杖をつかんだ。吠えるような声を上げながら、義男は男に突進し、杖で男の頭を打つ。男は頭を押さえながらしゃがみこんだ。男をさらに何度も杖で打ちながら、「誰かっ、助けてくれっ」と義男は近所に聞こえるように叫んだ。
母はあちこちから血を流し、前屈姿勢になってうめいている。
「母さんっ、母さんっ」
義男は叩くのをやめ、母の血を止めようと振り向いたとき、右足を男につかまれた。
「2ネンキン」
男はギラギラ光る眼で義男を見た。
義男は、つい先ほどまで母と心中しようと考えていたことなど、どこかに吹っ飛んでしまった。
――こんなやつに、殺されてたまるかっ。
杖を男の頭に向かって力いっぱい振り下ろす。男はうめき声をあげて崩れ落ちた。
騒ぎを聞きつけて、近所の人が家から飛び出してきた。血まみれの母を見て、悲鳴をあげる。
「救急車を呼んでくれっ、母さんが刺されたっ」
義男は叫び、噴き出ている母の血を手で押さえた。
「大丈夫だよ、すぐに救急車が来るから。大丈夫だよ」
何度も母に言い聞かせる。死なないでほしいと、生きてほしいと、義男は強く思った。
「ごめん、母さん、ごめん」
いつしか、義男は泣きじゃくりながら、母の傷口を押さえていた。
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