8月 火映

「順君、明日会社なのに、大丈夫ぅ?」

 南は布団の上で息を切らしながら言った。

 順二は仰向けになり、南以上に息を切らしながら「うん」と短く答えた。

 さすがに二回も続けてセックスをすると、マラソンをした後のように疲れる。だが、南の体は一回味わうだけではもったいない。何度でも味わいたいと貪欲になるのだった。

「あっ、明日朝から会議なんだ。途中で寝ちゃいそう」

 順二が言うと、南は笑いながら腕を首に巻きつけた。

「じゃ、今日はここで終わりね。明日起きれないと困るもんねえ」

「ああ。明日、起きれるかなあ。やばいな」

 それから数分後には順二は寝息を立てていた。南は順二から離れると下着とTシャツを身に着け、冷蔵庫からペットボトルの麦茶を出して飲んだ。

「あー、煙草吸いたい」

 バッグから携帯用灰皿と煙草、ライターとスマフォを取り出し、そっとベランダに出て煙草に火をつけた。ベランダといっても、人一人がやっと立てるぐらいの狭いスペースである。

 夜になっても昼間の熱気がたちこめていて、外に出ても少しも涼しくない。

 南は部屋に煙が入らないように、注意しながら煙を吐き出す。順二は、南が煙草を吸っていることを知らない。

「あー、めんどくさ」

 南はひとりごちた。

 LINEをチェックすると、榊原からメッセージが届いている。


 明日、事務所に来て。

 用意が整った。決行は今週末になる予定。


「やっとか」

 南はつぶやいた。

「遅すぎるっつーの」

 細い煙を長く吐いた。煙は闇に吸い込まれるように消えていく。



 お盆前の平日の夜、順二はいつものように安い定食屋で南と夕飯を食べていた。

 いつもは明るくて笑顔が絶えない南が、その日は沈んでいる。

「どうした、何かあった?」

 順二が聞くと、南は言いづらそうに、

「大学の奨学金の返済のことで、ちょっと……」

 と言葉を濁した。

 南が大学は奨学金をもらって、バイトをしながら通っていたという話は聞いていた。卒業後は毎月ずっと返済しているという。

 南の苦労話を聞くたび、「えらいなあ」と順二は感動していた。

 そして、「これからは俺が守ってあげよう」と心に誓うのだった。

「奨学金がどうしたの? 払えなくなったとか?」

 順二が尋ねると、南は小さくうなずいた。

「そっか……返済を待ってもらうわけにはいかないの?」

「うん。今までも何回か待ってもらったことがあって。もう無理だって言われた」

「そうなんだ。いくらぐらい残ってるの?」

「80万円ぐらい」

「それはちょっとキツイな」

「うん、うちの会社は給料が安いし」

 南は大きくため息をつく。

「それで、給料じゃ足りないから、キャッシングでお金を借りてたことがあったのね。そっちの借金が膨らんじゃったの」

「キャッシング? いくらぐらい?」

「160万円……」

「えっ、160万!?」

 南はうなだれて唇をかみしめる。

「それは……大金だね。どうするの?」

「分かんない。返済を催促する電話がよくかかってきて……どうしようって思ってて」

 涙ぐむ南を見て、順二は黙り込んだ。お金を貸そうにも、順二自身、貯金はほとんどない。ボーナスは、兄の一博が自己破産したと聞き、全額渡してしまった。

「最近、電車でよく、債務整理をやってる弁護士事務所の広告が出てるでしょ? ああいうところに相談するのはどうだろう」

「聞いてみたんだけど……払ってる年数が短すぎて、過払いに当たるわけじゃないから、何もできないって言われちゃって」

「そうなんだ……」

 順二は途方に暮れた。借金に関する知識は何もないので、アドバイスしたくても何もできない。

「とりあえず、ネットとかでどうすればいいのか探してみるよ。何か方法はあるんじゃないかな」

「そうだね……なんかね、なんか、キャッシングの会社の人から、副業やったらどうかって言われて」

「副業?」

「水商売はどうかって」

「はあ? 何それ」

 順二は頭に血が上るのを感じた。他の男に南の身体を触られるなんて、冗談じゃない。

「なんだよ、そいつ。オレが話をしようか?」

「ううん、怒らせたらどうなるか分かんないし。もう、ホント、どうしたらいいのか分かんない」

 南が涙をこぼしたので、順二は慌てて手を握った。

「とにかく、とにかく、落ち着こう。そんなことをしなくても、何とかする方法はあるから、絶対。オレが南には変なことはさせないから。ね?」

 南は何度もうなずいた。

 ――大変なことになった。南は、オレが守らないと。絶対に守ってみせる。

 順二は南の手を握りしめながら、自分に何度も言い聞かせた。



「ちょっと、あんた」

 寺田拓海は階段に腰をかけ、スマフォでマンガを読んでいた。マンガはちょうど佳境に入ったところだったので、声をかけられても気づかなかった。

「ちょっとっ」

 足を杖で軽く叩かれ、驚いて顔を上げると、険しい表情の老爺が睨んでいる。

「クーラーがないと眠れないんだって、何度言ったら分かるんだっ。夜でも30度を越す暑さなんだから、扇風機じゃ凌げないってことぐらい、考えれば分かるだろうがっ。まともに眠れないし、食欲ないし、これじゃあみんな死んじまうよ。大体なんだ、仕事の最中に電話なんかいじってっ」

 ここは都内の廃校になった小学校である。

 老人ホームの放火で焼け出された入居者を収容するため、都知事の桜子の決断で8月始めに開放された。全国から焼け出された入居者を集め、300人以上が集う大所帯となっている。世間では老人スクールと呼ぶ人もいた。

 老人を世話するために老人ホームで働いていた職員が再雇用され、清掃や洗濯、調理担当の者はバイトを募集した。ボランティアも参加している。この試みは世論でも評判はよく、「自由連合は何もしない」と与党への不満が募り、桜子の東京ファーストの会の好感度は急上昇している。

 全国から金や物品が寄付された。布団やタオル、洋服など、スタッフで手分けして老人に配ったときは、老人はみなありがたかった。

「世の中、捨てたもんじゃないねえ」と涙ぐんでいる老人もいたぐらいである。

 拓海は今年の4月に派遣先を解雇され、職を探していたときに老人スクールのバイトを知り、清掃員として働くことになった。昼食や夕食も分けてもらえるし、老人たちとも打ち解け、久しぶりに充実感を味わっていた。

 だが、真夏日が続くようになると、さまざまな問題が発生した。

 その学校では職員室や保健室、図書室、給食室など一部の部屋にしかクーラーがついてないのである。クーラーがついているところにみな殺到するので、大騒ぎになった。部屋に入れない人たちが「交代制にしろ」と抗議し、人数を決めて1時間ごとの入れ替え制にしたものの、「持病が悪化するといけないから」などと理由をつけて居座る人もいて、いざこざが絶えなかった。

 夜も3日に一度、クーラーが効いている部屋で眠れるよう話し合いで決めたが、クーラーなしの教室で眠る老人からは、毎朝不満が噴出する。

 運の悪いことに、長い間使っていなかったせいか、保健室と図書室のクーラーが壊れてしまった。スタッフからも都に修理を要請しているのだが、たらいまわしにされ、一週間も放ったままである。

 老人たちの苛立ちはつのり、怒りの矛先はスタッフに向かうようになった。

「オレ、昼休みなんですけど」

 拓海はスマフォをしまいながら、老爺に言った。

「はあ? それがどうした」

 老爺の偉そうな態度に拓海はムッとした。

「修理のことなんて、オレには分かんないっす」

「はあ?」

「ここの事務所に聞いてみれば?」

「なんだ、その態度は」

「だって、知らないんだし」

「だったら、あんたが修理しなさいよ」

「は? オレが? 無理無理、そんなことできないって」

「あんた、いい年した男のくせに、掃除しかできんのか? 何にもできないんだな。そんなんだから、仕事を切られるんだよ、役立たずがっ」

 老爺は拓海を罵倒すると、杖をついて「ったく」とブツブツ文句を言いながら去って行った。

 拓海は怒りで体中の血が沸騰するのを感じた。駆け寄り、老爺の背中に飛び蹴りを食らわしたい衝動を、必死で堪えた。

 ――なんだあのジジイ、さっさと干からびて死んじまえよ。

 拓海はふと、数か月前に友人が電車の中で優先席撲滅運動をしたと、得意げに語っていたのを思い出した。

 ――あいつに言ってみるか。何かいい撃退方法を教えてくれるかもしれない。

 拓海はスマフォを取り出し、熱心にメールを打ち始めた。

 


「順二君、明後日、手が空いてませんか?」

 お盆休みに入ったばかりの日、榊原から電話で連絡があった。 

「ある会社の寮を建て替えることになって、その引っ越しの手伝いを知人に頼まれてるんですね。でも、お盆だから、引っ越し業者も手が足りなくて……ちょっとでいいので、手伝ってもらえませんか。もちろん、料金はお支払いしますから」

「やります」

 料金を支払うと言われて、ためらうことなく順二は請け負った。南の借金を返すために、少しでも稼がないといけない。

 南の話を聞いてから、順二は自分のお金から何とか捻出できないかと、あれこれ計算してみた。食費を相当切り詰めれば月に2万円は浮かせそうだが、それだと焼け石に水だろう。

 ――オレが何か副業をするかな。

 と、真剣に考えていたところだった。

「ありがとうございます。品物が多そうなので、10万円はお支払いするようにしますよ」

「えっ、そんなにいただけるんですか?」

 順二の声は思わず弾んだ。

「ええ、お盆休みに働いてもらうんですし。詳しい場所と時間は、後でメールでお伝えします」

 電話を切って、順二は南に報告しようかと思ったが、やめた。

 ――お金が手に入ってから、渡したほうが喜びそうだよな。10万円を払えば、しばらく残りの返済は待ってもらえるかもしれないし。

 順二は少し明るい気分になり、大きく伸びをした。



 引っ越し当日、横浜のマンションの前に順二は立っていた。

 レンガ色の3階建てのマンションの前にはトラックが2台止まっている。

 順二はグレーの制服に帽子という、引っ越し業者の制服を着ていた。先ほど、榊原から、「他の社員さんもいる手前、一人だけ違う格好というわけにもいかないので、すみませんね」と手渡されたのだ。

 さらに、手には軍手をはめ、顔には大きなマスクをしている。これらもすべて榊原の指示である。

「そろそろ時間だな」

 榊原は腕時計を見てつぶやいた。午前10時である。

「そろそろか?」

 妙なアクセントの話し方をする男が、大声で話しかけてきた。おそらく、中国人だろう。順二は勝手に「陳」と名づけ、心の中で呼んでいた。

「私はこの年齢なんで、力仕事はできないから、お任せしてしまうんですが……直前でも引き受けてくださって、助かりました」

 榊原に頭を下げられ、順二も「いえ、こちらこそ。金欠なんで助かりました」と返した。

 榊原はトラックの運転席のドアを軽くノックした。ボディービルダー並に体格のいい男がドアを開けて降りてくる。ちなみに、順二はこの男のことを「ビルダー」と心の中で呼んでいる。

「よし、行こう」

 ビルダーがゴーサインを出すと、周囲に座り込んでいた作業員がみな立ち上がり、段ボールや梱包材を持ってぞろぞろとマンションに入った。

 ――どこの社員寮だろ。高そうなマンションに住んでるな。

 順二は玄関ホールの入り口に貼ってある表札を見た。

「日本年金機構 職員宿舎」

 ――あれ? どこかの会社の社員寮って言ってなかったっけ。

 思わず足を止めた。

 だが、すぐに、「前はそうだったってことかもしれない」と思い、みんなについてマンションに入った。

 玄関に入ると、すぐ横に管理人室があった。誰もいない。

 順二は指定されたように、101号室のドアの前に立った。

 一緒に組むことになっているビルダーがカギを開けた。

「あれ、誰もいないんですか?」

 思わず順二が尋ねると、ビルダーは一瞬、険しい表情で順二を睨んだ。

「どこの家も、先に新しいマンションに行ってるんだってさ。だから、カギを預かったんだよ」

 ビルダーはマスク越しにドスのきいた低い声で説明し、順二は、「そ・そうですか」と返した。

 ――この人、怖そうだから、話しかけないようにしよう。

 同じチームの陳も一緒に部屋に入った。

 部屋に入ると、玄関から広々としているので、いかにも高級そうな部屋であることが予測できた。

 廊下の突き当たりのリビングダイニングは、順二が今住んでいる1Kの部屋2つ分はありそうなぐらいに広い。大きなプラズマテレビがあり、高級そうな茶色い革のソファセットが置いてある。壁際の本棚には洋書や高そうな花瓶や壺が飾ってある。壁には、額縁に入った絵まで飾ってあった。

 順二は、違和感を抱いた。

 キッチンの流しに、朝食で使ったのであろう皿が洗い桶につけてあるのだ。

 ――いくら引っ越し丸ごとパックでも、こんなのまで片づけないまま、行っちゃうもんか?

 順二がキョロキョロしてると、ビルダーが「おい」と声をかけた。

「テレビ、梱包するぞ」

「ハ・ハイ」

 ――まあ、慌て者の家族が、片づけをしないまま行っちゃったのかもしれないし。オレは家電とパソコン担当だから、関係ないか。

 順二はテレビやDVDのコードを外し、コードをまとめてから、ビルダーと一緒に梱包材に包み、玄関に運んだ。

 寝室のドアが開いていたので、中を覗くと、陳が鏡台やタンスの引き出しを開けて、何かを探しているようだった。

 ――あれ、荷物を梱包しないのか?

 順二がその様子を観察していると、陳がこちらを見て、「見つからないよ。どこに隠してるのか」と肩をすくめた。

 順二が疑問を持つ前に、「おい、外に出すぞ」とビルダーが鋭く言った。順二を刺すような視線で睨んでいる。

 順二は慌ててテレビの端を持った。

 ――なんだかよくわかんないけど、オレは言われたことだけやればいいんだ。他の人がやってることに関わり合いになるのはやめよう。

 101号室の家電とパソコンを運び出したら、次は102号室。

 そこの部屋も、ついさっきまで住人がいた気配が残っている。おもちゃが床に散乱し、子供の脱いだ服がソファの上に置いてあった。

 DVDで何かを録画しているので、さすがに順二は「どういうことだ?」とためらったが、ビルダーは「予約を解除するのを忘れたんだろ」とサッサと梱包した。

 ――何かおかしい。

 ムクムクと疑問がわき上がってきたが、「10万円のためだ」と順二はその思いにフタをした。



 順二が担当したのは、20部屋だった。

 作業自体はそれほど大変ではないが、クーラーの効いてない部屋で作業をしているうちに、汗だくになった。

 最後の部屋のテレビをトラックに運び終えると、順二はマスクと帽子をとって、タオルで汗を拭いた。荷台には、梱包した家電がぎっしりと詰め込まれている。

「あら、引っ越し?」

 声をかけられ、振り向くと日傘を差した中年の女性が立っている。

 ――ご近所さんかな。

「どちらの部屋?」

 聞かれても答えられなくて困っていると、ビルダーが「個人情報に関することなんで」と短く答えた。

「そう」

 女性は日傘を閉じ、マンションに入って行った。

「あっ、そこの人たちは」

 順二が声をかけようとすると、ビルダーに腕をつかまれた。

「何も言うな」

 眉が吊り上り、射るような眼で順二の目を見据える。

「早く、トラックに乗れ」

「ハ・ハイ」

 順二は慌てて助手席に乗り込んだ。

「後ろ、乗るから、ドア閉めて」

 陳と数人の男が、荷台に乗り込む。荷物が倒れないよう、押さえるのだという。ビルダーは荷台のドアを閉め、運転席に乗り込んだ。

 トラックは鈍いエンジン音を立てて、走り出す。

 時計を見ると、もうすぐ12時だった。

 気がついたら、喉はカラカラだった。リュックからペットボトルの水を出し、一気に飲み干す。

 ビルダーは、まだマスクも帽子も取ろうとしない。

 ――暑くないのかな。

 とても声をかけられる雰囲気ではないので、順二は一言も発せずに、目的地に到着するまで窓の外を見ていた。

 30分ほど走り、トラックは国道沿いの倉庫が並んでいる一角で止まった。

「ご苦労様、暑かったでしょう」

 黒い車の中で待っていた榊原が出てきて、にこやかに声をかけた。

「順二君は、ここまででいいですよ。後は、プロの人たちに任せますから」

「はあ」

 ビルダーと一緒に車内にいるのは息が詰まるので、順二はホッとした。

「その制服、返してもらっていいですか? 知人に返さなきゃいけないので」

「あっ、ハイ」

 順二は自分の着ている制服を見た。

「洗濯して返しましょうか? 汗まみれだし、汚れてるし」

「それはこちらでやるからいいですよ。よければ、倉庫の陰で着替えてください」

 榊原の指示通り、倉庫の陰で今日着てきたTシャツとジーパンに着替えた。

 脱いだ制服を渡すと、

「これ、今日のお礼です」

 と、榊原は茶色い封筒を順二に手渡した。

「あそこに止めてあるハイヤーさんに、横浜駅に行くように伝えてありますから、あれを使ってください」

「ありがとうございます!」

 順二は深々と頭を下げた。

 ――これで、南にお金を渡せる。

「ただ、今日のことは、誰にも言わないでくださいね」

 榊原は、急に声を潜めた。

「家に入っていろんなものを見てるから、個人情報に関わるらしいんですよ。先方の会社から固く止められてるんで、社員寮の引っ越しを手伝ったって話もしないでください。誰かに何か聞かれたら、友達の引っ越しを手伝ったってことにしてもらえますか?」

「分かりました」

 順二はもう一度お礼を言って、ハイヤーに乗り込んだ。

 榊原はビルダーと何かを話している。

 ビルダーがこちらを見ているので、「最後に挨拶をしなかったのが気に食わなかったのかな」と思ったが、とても挨拶をする気になれない。

 ――ちゃんと言われたことはやったし、何も問題ないだろ。

 ハイヤーが走り出すと、開放感と充足感がわきあがってきて、順二は大きく息をついた。

 ――早く、南に会いたい。



 その日の夜、南のために懸命に働いた自分をねぎらうために、コンビニでちょっと豪華な弁当とビールを買ってきた。

 テーブルの端には、10万円が入った封筒が置いてある。それを見るたび、「南は喜ぶだろうな」と喜びが込み上げてくるのだ。

 南は今、ツアーのつきそいでハワイに行っている。ちゃんと会って話したいので、LINEでは当たり障りのない会話しかしていない。

 南の戸惑う顔や喜ぶ顔を思い浮かべて、順二はニヤニヤした。

 ――きっと、その日のセックスは盛り上がるだろうなあ。

 鼻歌を歌いながらビールを開け、テレビをつける。

 深刻そうな表情でアナウンサーが戸外で中継している映像が映し出された。

 アナウンサーの後ろに、レンガ色の見覚えのある建物が映っている。

「こちら、横浜にある日本年金機構の職員宿舎です。今日の日中、すべての部屋に強盗が入るというショッキングな事件が起きました」

 若い女性アナウンサーの言葉に、順二は画面に視線が釘付けになった。

「あっ、あっ」

 缶が手から滑り落ち、床にビールがぶちまけられる。それでも、そんなことを気にしていられなかった。

 ――あれは、今日、オレが行ったマンションじゃないか!

「今日の朝9時から12時ごろにかけて、こちらの日本年金機構の職員宿舎で、すべての部屋から金銭や宝石類、美術品や家電、パソコンといったものが盗まれていることが分かりました。なぜ、そんなことが起きたのかと言うと、本日、このマンションは害虫駆除のために午前中、薬品を散布するから建物から出るようにという通達があったそうなんです。また、お盆休みということもあり、帰省しているご家族も多く、マンションは空っぽの状態になったそうなんです。外出から戻ってきた住民が家に入って盗難に気付き、通報したところ、他の家でも盗難されていることが発覚したそうです」

 女性アナウンサーはマンション内を歩きながら、カメラに向かって話している。

 画面は住民へのインタビューに切り替わる。

「一週間ぐらい前ですね、害虫駆除をするから、午前中は外に出ていてほしいって、通達があったんです。そういう紙がポストに入ってたんですよ。だから、うちは家族で遊園地に行ってたんです。9時ごろには、業者っぽい人が来てましたよ。早く出てくださいって言われましたから。それで、夕方に帰ってきたらパトカーが何台も止まってるし、うちの中は荒らされてるし、もう、驚いたっていうか……どうしたらいいのか、わからなくて」

 若い女性が、顔を隠して声だけでインタビュ―に答えている。

「何を取られたんですか?」

 女性アナウンサーがマイクを向けると、

「テレビ2台とDVD2台と、預金通帳と印鑑と、銀行のカードと、ブランドのバッグやアクセサリーもなくなってました。もう、ホント、怖くて怖くて」

 とその女性は涙声で答えた。

 ――通帳とかアクセサリー? そんなん取ってないぞ。

 そう思ったが、陳が寝室をあさっていたのを思い出した。

 ――あいつら、もしかして、最初からそうだったのか。

 そのとき、順二はハタと気づいた。

 マスクと帽子を外した時、おばさんに話しかけられた。あのおばさんに、顔を見られている……。

 全身に鳥肌がブワッと立った。

 ――ヤバイ。ヤバイんじゃないか、これって。

 すると、画面に中年女性の姿が映し出された。

「ええ、マンションの入り口のところで、制服を着て荷物を運んでる男の人たちがいたんですよ。『どこが引っ越しなのか』って聞いたら、『個人情報で答えられない』って言われて。それで部屋に入ったら、部屋がめちゃくちゃになってるでしょ。もうビックリして、警察を呼んだんです」

「犯人の顔を見たんですか」

「ええ、一人だけ。他の人はマスクをしてたんだけど、一人だけ外してて……若い男の人ね、20代ぐらいの」

「他にはどんな特徴がありましたか」

「警察にも聞かれて、話してきたんです。それをもとに、似顔絵を作成するって言ってました」

「そうですか」

 そこで、別の映像に切り替わる。

「ヤバイ。どうしよう……」

 順二は寒くもないのに体が震えだした。

 ――どうしよう。警察に行くか? でも、何も知らなかった、引っ越しだと思ってたって言っても、信じてもらえるわけないよな。南に相談……するわけにはいかないな。巻き込んじゃうし。オレが強盗したって思われたら困るし。兄ちゃんに相談するか?

 だが、四十九日で家に帰ったとき、げっそりと痩せこけていた一博の姿を思い出すと、とてもそんな相談はできないと思った。

「管理人の50代の男性は、手足を縛られ、口にガムテープを貼られた状態で、管理人室で発見されました。今、病院で手当てをしているところですが、命に別状はないとのことです。現場からは以上です」

 スタジオにカメラが切り替わり、キャスターたちが沈痛な面持ちでコメントしている。

 そのとき、チャイムが鳴り、順二は飛び上がった。

 ――えっ、警察? 警察か?

 順二は立ち上がれなくて、じっとドアを見つめた。

 しばらくして、再びチャイムが鳴る。それでも息をひそめてジッとしていると、何度も何度もチャイムが鳴った。

 順二はよろめきながら立ち上がり、足音を忍ばせながら玄関に降り、ドアスコープを覗いてみた――榊原だった。

 慌ててドアを開ける。

「どうも。今日はご苦労様でした」

 にこやかに挨拶をする。

「ご苦労様って、それどころじゃないでしょう?」

 順二の様子を見て、「ああ、ニュースを見ましたか」と榊原は言い、「おい」と誰かに呼びかけている。

 誰かがアパートの階段を上がってくる音が聞こえてきた。ややあって、大柄な男二人が現れた。

「あっ」

 そのうちの一人は、今日一緒に作業をしたビルダーだった。

 マスクを外すと、あきらかに堅気の商売ではない世界の住人だというのが一目で分かるような顔立ちをしていた。目つきが鋭く、眉間に皺が刻み込まれている。道端で会ったら、絶対に目を合わせないようにして逃げるだろう。

「ちょっと失礼しますよ」

 榊原は順二を押し戻すように玄関に入り、強面の二人も玄関に入りカギを締める。順二は尻もちをついた。

「お邪魔しますよ」

 榊原はさっさと靴を脱いで、部屋に上がり込んだ。

「ああ、ちょうどニュースを見てたところですか」

 榊原が床にこぼれたビールを見つめていると、ビルダーがキッチンからタオルを持ってきて、床を拭いた。どうやら、強面の二人は、榊原の部下らしい。

 ビルダーに引きずられるようにして、順二は榊原の前に座らせられた。床を拭いても、ビール臭いニオイは消えていない。

「ああああの、こここれって」

 聞きたいことは山ほどあるのに、唇が震え、歯がカチカチと鳴るので、まともに言葉にできない。 

 榊原はうっすら笑みを浮かべている。

「まあ、テレビで報道された通りですよ。今日は引っ越しじゃなくて、強盗のお手伝いをしてもらったんです」

「なななんで、そそそんな」

「順二君、お金に困ってるんじゃないですか。南が借金してるでしょう」

「どどどうして、そそそれ」

「南とのつきあいは長いんでね。私のところにも相談してきたんですよ。でも、私も借金を肩代わりするのは厳しくてね。私も事業を失敗したばかりで、お金がないんですよ。だから、金目の物を盗んで、売り払おうって思いましてね」

「でもでも、そそそんな」

「そんな危険なことをする必要ないじゃないかって思うかもしれませんね。でも、手っ取り早くお金を稼ぐには、盗んで中国人に売り飛ばすのがいいんですよ。今日もいたでしょ、中国人が何人か。彼らのルートを使って売りさばいてるんです」

 榊原は、淡々と表情を変えずに語る。まるで犯罪を犯しているという感じがない。

「まあ、何も教えずに巻き込んだのは、申し訳ないと思ってますよ。だから、追加でもう10万円お支払いしようと思って」

 榊原はスーツのジャケットから、封筒を取り出して順二の前に置いた。順二は、首を横に振る。

「いらないんですか? まあ、そう言わずに」

 榊原は順二の手に封筒を押し付ける。順二はその手を振り払った。お札が床に散らばる。

「まあ、いいんですけれどね」

 榊原は小さくため息をついた。

「それじゃ、うちの事務所に一緒に来てもらいましょうか」

 二人の部下に合図すると、二人は順二の横に立った。

「えっ、ちょっ、何」

「これからしばらく、私の事務所で暮らしてもらいますよ。警察に行かれたら、困りますから」

 順二は首を勢いよく振った。

「言うつもりはないって? そんなの、信じられませんよ。そんなのを信じるほど、私はバカじゃないんでね」

 榊原は軽く笑い、立ち上がった。

「じゃ、順二君を車に乗せてくれるかな。ああ、丁重に扱うのを忘れないようにね。それと、荷物も適当に持って行くように」

 順二は今や歯の根が合わないほど震えていた。逃げようにも、腰を抜かして立ち上がれない。

 ――親父、お袋。

 部屋の片隅にあるカラーボックスの上に、家族が並んで笑顔で映っているスナップ写真が飾ってある。チラリとその写真が視界に入った。

 ――助けてくれ。お願いだから、助けてくれ。

 ビルダーに腕をつかまれ、順二は観念したように頭を垂れた。



「暑い」

 老婆がもう何度目か分からないその言葉を吐いたとき、

「暑い暑い言うなっ。ますます暑くなるっ」

 と、近くにいた老爺が一喝した。

「だって、眠れないんだもの」

 老婆は布団の上に起き上がり、うちわで扇いだ。

「扇風機だけじゃあ、何の役にも立たないわよ」

「そんなこと、分かりきってるよ。何度も頼んだのに、予算がないからってクーラーをつけてくれないんだからさ。どうしようもないんだよ」

 老爺が不機嫌そうに言い返す。

 ここは老人ホームを放火で焼け出された老人たちが集う廃校である。

 クーラーのない教室で、老人たちが20人ほど雑魚寝をしていた。扇風機が5台ほど首を回しながら頼りない風を送っている。ほとんどの老人が眠れず、暑さでうめきながら寝返りを打っていた。

「昼間、受付の子に夜が暑すぎて眠れないって言ったら、『戦争中もクーラーなくても眠ってたんでしょう?』だって」

「ええー、信じられない。あのメガネの男の子?」

「そうそう、あの子、いつも一言多いのよね。本人は悪気ないみたいだけど」

「そりゃあ悪気あるだろ、明らかに」

「あっ、蚊がいた」

「えー、蚊取り線香、効いてないの?」

 老人たちは口々に話し出す。深夜の教室に話し声が響いた。

「あれ、なんか焦げ臭くない?」

「蚊取り線香の匂いでしょ」

「蚊には効かないみたいだけど」

 そのとき、開いていた窓から、何かが投げ込まれた――燃えている新聞紙である。

 その新聞紙は、運悪く窓の近くで眠っていた老人のタオルケットの上に落ちた。

「あっ」

 老人たちは息を呑んでタオルケットに燃え移る炎を見つめていた。

「た・大変だっ」

 一人の老爺が立ち上がり、枕で炎を消そうと、叩きつけた。眠っていた老婆が目を覚まし、自分のタオルケットが燃えているのを見て、悲鳴を上げて飛び起きた。

 その叫び声で、ほかの老人たちは我に返り、

「火事っ、火事っ」

「水を誰かっ」

「係りの人を呼べっ」

 と廊下に飛び出した。

 すると、他の教室からも「火事だっ」「消火器、どこだっ」と飛び出してくる老人がいる。悲鳴もあちこちで上がった。

 あっという間に、1階の教室は火の海となった。

 小学校に消防車が何台も到着するのを、その5人は近くのビルの屋上から見下ろしていた。

「これで何匹ぐらい害虫を退治できたかな」

「同時にやったからねえ。逃げ場がなくなって、相当な数を退治できるんじゃねえの」

「ここ、ガードマンも何もいないんだもん。やりたい放題だよねえ」

「ネンキンはどうする? 山分け?」

「まあ、そうなるよね」

「半端な数だったらどうしよう。11人とかさ」

「そしたら、5人で2ネンキンずつもらって、1ネンキン分は経費として使うとか」

「そうだな、それがいい」

 5人はまるで花火でも見物するかのように、缶ビールを飲みながら校舎が燃える光景を見ていた。そのうちの一人は、マスクを外さないでいる。

「あっ、今外に出てきた人、倒れちゃったよ」

「おお~、これで1ネンキンかな」

「なあ、この調子で、ロージンを根絶やしにしよっか」

「そうしよう、そうしよう!」

 5人は缶ビールを掲げ、カチンと鳴らして乾杯した。おいしそうにビールを飲み干すその表情は、みな晴れやかである。

 やがて、一人が「代表さんに報告しないと」とスマフォを取り出し、メッセージを打ち始めた。


 クジョブルー

 クジョレンジャーより、久々の害虫駆除の報告。

 今日は、クジョレンジャー全員が結集しました!

 ホームのロージンたちが集まっている学校に、放火しました。

 今、炎上中です。



『日本年金機構の職員宿舎 襲われる』

 順二は一面の見出しを読んだだけで、すぐに新聞を放り出した。

 榊原は新聞を拾い上げ、満足そうに微笑みながら記事を読んでいる。

 ここは榊原の事務所である。

 鶯谷の古びた雑居ビルにある一室で、雑居ビルやマンションに囲まれているので、昼間でも日が差さずに薄暗い。ほかのフロアに入っている会社も、風俗店や実態があるのかどうか怪しげな会社ばかりである。

 玄関から入ると小さなキッチンとトイレがあり、10畳ほどのフロアを事務所と、順二が「ここでしばらく、暮らすように」と命じられたスペースとで区切っている。

 事務所には黒い革張りのソファセットと、パソコンが置いてあるデスクぐらいしかない。隣の部屋には、簡易式のベッドと小型のクローゼットが置かれていた。

「昨夜は、眠れましたか」

 榊原は、「朝食に」とサンドイッチと牛乳を勧めたが、食べる気など起きない。

 順二は無言でソファにぐったりと凭れかかっていた。

「まあ、環境が変わったら、慣れるまで時間がかかりますからね」

 涼しい顔で言って、榊原はツナサンドを頬張りながら、スマフォをいじっている。

「ツイッターでは、昨日のニュースは大騒ぎになってますよ。カッコいいって」

「えっ、何ですか?」

 順二はかすれた声で聞き返した。

「年金機構の職員宿舎を襲うなんてカッコいい、もっとやれって、盛り上がってんですよ」

 榊原はスマフォを順二に渡した。見ると、確かにツイッターでは「年金機構襲撃」と言うハッシュタグがついて、投稿が殺到しているようだ。


 すっげえ、カッコいい。だって、人を誰も傷つけずに、モノとカネだけ持ち出したんでしょ?プロだよなあ。


 ホントは、こんなこと言っちゃいけないんだろうけど……官僚を襲ったって聞いて、ざまあみろって思った。久しぶりにスカッとした気分。


 あいつら、人の年金でのうのうと暮らしてるんだろうな。俺たちが高齢者になるころは、年金なんてほとんどもらえないのに。だから、痛い思いをしたんだとしても、何とも思わない。


 好意的な意見が圧倒的に多くて、順二は驚いた。

「ね、やった甲斐があるってもんでしょ。一般の人はみんな、官僚に頭来てるんですよ。ムダな公共事業や天下りなんてなくす気配もないのに、増税とか言ってますからね。自分たちは高給取りだし」

 榊原はアイスコーヒーを飲みほした。

「まあ、今日はまだお盆休みだし、一日ここでゆっくりしててください。明日からは仕事でしょ?」

 ――なんで、そんなことを知ってるんだよ。

 順二はげんなりした。

「会社はここから通ってもらいますよ。もちろん、会社への送り迎えは、うちの者にしてもらいますから。くれぐれも、変な気を起こさないでくださいね。もし警察に行こうとしたら、あなたのお兄さんと弟がどうなるか、分かりませんよ」

「……え?」

「お兄さんは一博さんって言って、実家の印刷会社を畳んで、今は就活中でしょ? 自己破産もしたから、奥さんとお子さんは実家に帰ってしまってる。コンビニのアルバイトをして食いつないでるんですよね。弟の裕三さんは、親御さんが心中したショックで、会社に通えなくなってるんですっけ。お兄さんが面倒見てるんですよね。大変ですよねえ、本当に。お兄さんは偉いなあ」

 血の気が引くって言うのはこういうことなのか、と順二は思った。

 何もかも知られている。もう、逃げようがないのだ。

「南にも、しばらく会うのは難しいでしょうね」

「そ・そんな」

「まあ、おとなしく従ってくれるのなら、誰にも危害は加えませんよ。私も鬼じゃないですから」

 榊原は、カラカラと乾いた笑い声を立てた。

 順二は思わず天井を仰いだ。

 ――なんで、こんなことになったんだろ……。



 順二は、会社の食堂のテレビをぼんやりと見ていた。

 ざるそばを頼んだものの、まったく食べる気になれなかった。

 テレビでは、一昨日の深夜に起きた、老人ホームを焼け出された高齢者が身を寄せていた学校の放火事件を報じている。34人の死者を出し、78人が重軽傷を負って病院に運ばれたという。

 学校にはガードマンがいなかったので、東京都の管理が甘かったのではないかと、さっそく都知事がやり玉に挙がっている。今、テレビでは年金機構の職員宿舎の話より、放火の話題のほうを大きく取り上げているので、順二は少し安堵していた。

「元美園ホーム職員 桂木京子さん」とテロップで紹介されている女性が、焼け焦げた校舎をバックに、涙ながらにインタビューに応じている。

「私も、ここを開放してから、毎日来て、お手伝いしてたんです。私がいた、美園ホームの入居者さんも、ここで暮らしていて……。ホント、ひどいです。皆さん、行き場がなくなってここに来たのに」

「その、元のホームの入居者さんは、今どちらに」

「病院で手当てを受けてます。二人とも、2回も火事に遭うなんてって、すごいショックを受けていて」

 涙を拭いながらも、インタビューにはしっかり答えている。

「この子、かわいいよな。京子ちゃん」

 同僚の大野が、順二の前の席に座った。

「この子、本も出してたから、買っちゃった。読んでないけど」

「へえ」

 順二は力なく答えた。

「お前、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」

 大野が心配そうに言う。

「ああ……実家で、いろいろあって」

「そうか、大変だな。何かオレにできることがあったら、言ってくれ」

「ありがとう」

 大野は箸を割り、カツ丼定食を流し込むような勢いで食べ始めた。学生時代にラグビー部だったという大野は体つきががっしりしていて、いかにも体育会系という雰囲気である。その名残か、いまだに早食いから抜け出せないという。

「そういえばさ、一昨日の年金機構の職員宿舎の強盗事件、知ってるか?」

 大野は口の中に食べ物が入っているのに、構わずにしゃべる性格である。順二は軽く顔をしかめ、

「ああ、新聞で見た」

 と返した。

「あれさ、カッコいいよな。ニュース見て、しびれたよ。ネットでも、犯人たちを擁護する意見が多いんだよ。官僚なんて、オレらの税金から給料もらってさ、いい暮らし送ってるんだから。年金だって、自分たちはがっぽりもらえるんだろ? だから、ほかの年金機構の職員宿舎も、イタズラされてるんだって。落書きされたり、ゴミ捨てられたりしてるらしいぞ」

「へえ」

 順二は、意外な成り行きに内心、ものすごく驚いていた。

「でも、テレビでは昨日から放火事件ばっかやってるだろ? これ以上官僚が攻撃されたら困るから、強盗事件はなるべく報道するなってマスコミに言ってるんだってさ。ネットでの噂だけど」

「へええ」

 大野は高速で食べ終わり、席を立った。

「ごっそさん。ちゃんと食べないと、倒れるぞ」

「ああ」

 大野の後姿を見ながら、順二は信じられない思いだった。

 ――カッコいいだって? しびれたって? 俺のやったことが? 本当か?

 食堂を出て仕事に戻る途中、スマフォが震えた。着信の表示を見ると、一博からだった。

「元気か。なんだか、でっかい事件ばっか起きてるな」

 一博は、張りのない声をしていた。両親が亡くなってから、ずっとこんな調子である。

「ああ」

「年金の職員の職員宿舎を襲ったってやつ、ひさびさに胸がスッとするニュースだったよ。親父も公務員は大嫌いだって言ってたからな。税金泥棒だって」

「ふうん」

 順二は平静を装いながら、相槌をうつ。

 ――大丈夫。どう考えても、兄ちゃんに俺が犯人だとバレるわけないんだから。

 一博は改まった口調で、「ところで、仕事はどうだ」と尋ねた。

「ああ、まあ、なんとか」

 順二は曖昧に返した。

「あのさ、言いづらいんだけど、金を少し貸してくれないか。かみさんに渡す生活費がなくてさ。少しでいいんだけど」

 一博は、申し訳なさそうに言った。順二は榊原から追加でもらった金を思い出した。

「いいよ。どれぐらい必要?」

「そうだな、5万円貸してもらえると助かる」

「10万ぐらい貸せるよ」

「えっ、いいのか?」

「うん。最近、ムダ遣いしてないから、結構貯金があるんだ」

「悪いな、ほんと。この間借りた分も、余裕ができたら分割払いしてでも、必ず返すから」

「いいよ、いつでも」

 順二は電話を切った。

 ――あんな犯行、責められると思ったのに。なんで、みんな誉めるんだ?

 奇妙な気分だった。

 どうやら、世の中の人は想像以上に官僚を憎んでいるらしい。

 ――あいつは、それを分かっていて、あそこを狙ったのかな。

 だが、どう考えても、自分がやったことは取り消せない。順二は重いため息をついた。



 その日の夜、順二は榊原に封筒を差し出した。

 強盗した日、最初に榊原からもらった金である。

 榊原は不思議そうな顔をしている。

「この、このお金、南に渡してもらえませんか」

 順二は榊原の目を見られず、封筒を見ながら頼んだ。

「オレが南と会ったら、南に危害を加えるんですよね。だったら、あなたから、南にお金を渡してあげてください」

 そばで聞いていたビルダーが、「ブホッ」と変な声を出し、咳き込んだ。榊原は、ビルダーを睨む。

「分かりました。そこまで言うのなら、私から南にお金を渡しましょう。知人の引っ越しを手伝ってもらったってことにしておきますよ」

「南、借金で困ってるんで、早く渡してあげてください」

「分かりました。すぐに連絡して振り込みますよ」

 順二は軽く頭を下げて、隣の部屋に行った。

 ビルダーが堪えきれずに、口を手で覆いながら笑い出す。

「おい、声を落とせ」

 榊原が注意しながら、自分も「フフッ」と噴き出した。

「すみません、ガマンできなくて……だって、その金、南に渡さないでしょ?」

 ビルダーが声を潜めて言う。

「当たり前じゃないか。南は既にたくさんオレからお金を借りてるんだから。投資した金を即回収するという、この見事な手際、我ながらホレボレするねえ」

 榊原はニヤニヤしながら、スマフォをいじっていた。



 順二が簡易ベッドの上で横になっていると、スマフォが震えた。

 南からのメッセージだった。


 順君、榊原さんから聞いたよ。

 お金を送ってくれるなんて、ありがとう。

 10万円なんて大金、嬉しい!

 これで、今月は何とかなると思う。

 日本に帰ったら、すぐに会いに行くね!


 南からのメッセージを、順二は何度も読み返した。南の役に立てたのが、何よりも嬉しかった。


 南、会いたいよ。


 順二がメッセージを送ると、すぐに「私も。明後日には帰るね」と返って来た。

「明後日……」

 南に会いたい。会って、抱きしめたい。

 だが、榊原には当分会うなと言われているのだ。

「どうすればいいんだ」

 順二は頭を抱えた。

 部屋の中はうっすらとクーラーが効いているけれど、日中の暑さが残っていて、蒸し暑い。しかも、順二にあてがわれたスペースには窓がないので、余計に気が滅入る。

 ――頭がおかしくなりそうだ……。

「南ぃ」

 順二は力なく天井を見上げていた。



 年金機構の職員宿舎の襲撃事件から一週間後、首都圏の公園や地下道で、ホームレスに10万円ずつお金が配られるという珍事が相次いだ。寝ているときに体の下や服のポケットの中に、お金が入った封筒が突っ込まれていたのである。

「神様が恵んでくれたんだ」と感謝するホームレスもいたという。

 誰が、何の目的でお金を配ったのか。それが明らかになるのは、まだ先の話である。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る