7月 火柱

 その日、好美から久しぶりに電話があった。

「お久しぶりです。北海道はいかがですか?」

 京子が尋ねると、「うん、まあ、近所のスーパーで働いてる。それぐらいしか仕事がなくて」と元気のない声が返ってきた。

「それで、みつさんと三郎さんから連絡があってね。私もどうすればいいか分からなくて」

「はい?」

「みつさんと三郎さんね、元さんの家を出たのよ」

「ええ」

「でも、行き先がなくてね。それで結局、ホームレスの支援施設でお世話になってたらしくて」

「ええ!?」

「で、1か月は我慢したんだけど、耐えられなくなって、二人とも昨日から公園で寝泊まりしてるんだって」

「公園に寝泊まりって、それじゃあまるで」

「そうなの、ホームレスなの。施設に戻ったほうがいいって言っても、あんなところで死ぬのなら公園で死んだほうがいいって、みつさんが嫌がってて。でも、今は梅雨でしょ? 雨の中野宿してたら、肺炎で死んじゃうかもしれないし。北海道に行きたいって言われたけど、うちは二人を養う余裕はないし。もう、どうしようもなくて。京子ちゃん、何とかならないかな」

「何とかって言われても……」

「このまま放っておくわけにはいかないでしょ? 野垂れ死にするのを知らんぷりしているわけにはいかないし。でも、私も何もいい考えが思い浮かばないんだけど」

「……わかりました。とにかく、二人に会ってみます。今、二人はどこにいるんですか?」

 新宿の公園にいると聞き、京子は電話を切った。

「どうしたの?」

 そばで聞いていた邦雄が問いかける。

 そこは東高円寺の2DKのアパートだった。事務所として使う予定だった部屋に、京子は4月に越してきて自分の部屋として使っている。邦雄もすぐに越してきた。

 大吾と一方的に別れてから一カ月も経たないうちに、邦雄と肉体関係を持った。だが、京子はすでにこの3か月を後悔し始めていた。

 邦雄は京子のためにテレビや雑誌の仕事を取ってきてくれるが、そのお金は邦雄が作った口座に振り込まれ、仕事のための経費として使うことになっている。家賃は邦雄が払ってくれるが、食費や光熱費は折半しなければならないので、京子は弁当屋のバイトを始めて、生活費を稼ぐしかなかった。

 そのうえ、弁当屋の残り物をもらって帰ってくるよう口うるさく言うので、

 ――この人、こんなにケチだったんだ。

 とすっかり幻滅している。

 それでも、邦雄が持ち込むマスコミ関係の仕事は魅力的だった。親に掲載誌を送り、テレビの放映日を知らせると、「まあまあ、すごいのねえ」と感心される。親が親戚にも伝えていると知り、少し誇らしい気分になっていた。そのためだけに邦雄と一緒にいるようなものだった。

 京子がざっと電話の内容を話すと、

「そりゃ大変だな。俺も一緒に行く」

 と邦雄は腰を上げた。

 「いいよ、一人で大丈夫」と京子は断ったが、邦雄はいろいろと理由をつけてついてきた。

 電車に乗ると、邦雄は中吊り広告に目を走らせる。

 都議選が終わったばかりで、週刊誌の広告は、圧勝した都知事のつくった政党や都議のスキャンダラスな話題ばかりだった。

 今回の都議選はメディアが連日報道したので盛り上がり、それまで与党だった自由連合が野党に回り、都知事の東京ファーストの会が大躍進した。いつの間にか老人ホームの連続放火事件の話題は下火になり、報じられなくなっていた。

 邦雄は広告を見ながら、「あの政治家にインタビューしたことがある。あいつは偉いよ。物腰が柔らかくてさ」「あのタレント候補は、最悪だったな」と大声で話しだした。あきらかに、周りの人に聴こえるように話している。その“自慢したがり”なところに嫌悪感を抱いていた。

 ――これだから、一緒に行きたくなかったのに。

 京子はげんなりした。

 


 みつと三郎は、新宿中央公園のパーゴラの下にあるベンチに腰かけていた。

 今日は青空が広がり、日差しが強いので、二人とも帽子をかぶって流れる汗をしきりに拭っている。三郎は文庫本を読み、みつは何をするでもなく、ただぼんやりと座っている。二人とも、3月に会った時より一回り小さくなったように見える。顔色は悪く、皺も増えている。三郎の髪はかなり薄くなり、みつの髪はますます白くなっていた。

「児玉さん、横村さん」

 京子が声をかけると、二人は同時に京子を見て、決まりが悪そうな表情をした。

「好美さんから話を聞いたんです。二人がここにいるって」

「何日もお風呂に入ってなくて。臭わないかしら?」

 みつが発した第一声はそれだった。

 京子がベンチの端に腰かけると、みつは体をわずかにそらした。

「大丈夫ですよ、全然臭いませんよ」

 京子は微笑んだ。

 みつも三郎も、風呂に入っていなくても身ぎれいにしているのは、やはり自尊心が許さないのだろう。

「二人でここに座っていたら、ホームレスだとは思われないんじゃないかって思って。昨日も、ずっとここで一日中座ってたの。夜は芝生で眠ったの。夜でも暑いから、外で寝ても平気なのよね」

 みつは後ろの芝生を指さした。ベンチの下には隠すようにボストンバッグが置いてある。

「ここの人たちは親切でね。こっちは最初は声をかけられるのも嫌だと思って、目も合わせないようにしてたんだよ。でも、年寄り二人で寝ているのを見て、気の毒に思ったみたいでね。ダンボールと新聞紙を分けてくれたんだ。この本も、どっかで拾ってきてくれたんだよ」

 三郎が穏やかな声で言った。

「でも、私は嫌よ、まだあの人達とは話す気になれない」

 みつは首を振った。

「そんなこと言っても、俺らと同じじゃないか。家がないんだから」

「でも、乞食にはなってないじゃないの」

「あの人たちも、乞食ではないよ。旦那さま、お恵みください、ってやってないだろ?」

「同じことよ。ごみ箱から残飯をあさって食べてるんだから」

「昨日は、賞味期限が切れたコンビニのおにぎりをくれたじゃないか。おいしいって食べてたくせに」

「それは残飯をあさるのとは違うでしょ」

「あの」

 京子は二人の会話に割って入った。二人は暑さと疲れのせいか、苛立っているのがよくわかる。

「二人とも、朝から何も食べてないんじゃないですか? とりあえず、ご飯でも食べに行きましょう。ここは暑いし」

 京子が促すと、二人は顔を見合せて、小さく頷いた。

 みつはベンチから立ち上がるのがひどくつらそうなので、京子が支えてあげた。

「ところで、そこの男の人は?」

 三郎が少し離れたところに立っている邦雄を見た。

「あ。彼は安藤さんといって、今日は手伝いに来てくれたんです」

「京子ちゃんの彼氏かい? 年下の彼だったっけ」

「いえ、違う人ですよ。友人です」

 京子は即座に打ち消した。邦雄は聞こえなかったようで、不自然なほどの笑みを浮かべて歩み寄り、「こんにちは」と会釈した。

「お二人とも、荷物をお持ちしますよ」

 二人の荷物を持って、邦雄は先頭に立って歩き出した。

「親切だねえ。京子ちゃんの友達は」

 三郎が杖をつきながら後に続いた。みつは杖をついてもやっと歩けるという状態だった。

 ――最後に会った時より、悪化してる。まずいな。もし、ここで寝泊まりしていて起き上がれなくなったら、大変だ。介護する人は誰もいないし。

 京子は今更ながら、事の重大さを痛感した。



「すごいぞ、これは」

 帰り道、邦雄は興奮気味に呟いた。

 二人はみつと三郎とファミレスで食事をした後、都庁に出向き、事情を説明して二人の生活保護の申請をした。何度切羽詰まった境遇を話しても、都庁の担当者は「手続きがあるからすぐに支給するわけにはいかない」と難色を示すばかりだった。邦雄が「目の前に困っている人がいるのに支給しないなんて、お役所の怠慢だ。一体、何のための税金なんだっ」と声を荒げる場面もあった。その芝居がかった様子に、京子は頼もしく感じるどころか、白けてしまった。

 その後、二人を公園に戻すわけにもいかないので、安いビジネスホテルにつれていき、泊まる手配をした。さらに京子は数日分の食料を買ってきて二人に渡したのである。二人は何度も「ありがとね、すまないね」と頭を下げた。

 ――私にもそんなにお金はないし。いつまでも二人の面倒は見てあげられない。どうしたらいいんだろう。

 ため息をついたとき、ふと京子は大吾と二人で貯めたお金のことを思い出した。つきあいだして3年目に、将来の結婚資金として毎月貯金していこう、と話し合って口座を大吾名義で開いたのである。その後、京子は夜間の専門学校に通い、老人ホームに勤務することになったので、お金を入れられない状態が続いた。すっかり忘れていたが、自分が入れたお金だけでも返してもらったら、少しは足しになるのではないかと思い至った。

 大吾に連絡をする。そう思うと、胸がざわついた。

 そのとき、「すごいぞ、これは」と邦雄が興奮気味につぶやいたのである。

 京子は我に返り、「うん?」と邦雄に返事をした。

「これ、面白い記事になるぞ。老人ホームの放火で焼け出された老人が、ホームレスになっている。こんな悲惨な話、ないからなあ」

「記事にするの?」

 京子は思わず顔をしかめた。

「うん。これはスクープだよ。安心しなよ、京子から話を聞いたってことで、俺が記事をまとめるから。京子も記事に登場させるからさ。いいタイミングだよ。来週、本が発売されるだろ? それに合わせて週刊誌で記事を発表したら、話題を呼ぶのは間違いない。本の宣伝にもなる」

「そんな、本の宣伝なんて。二人にとっては、切実な問題なのに」

「確かにそうだけど。でも、問題提起するためにもこれは記事にするべきだよ。そうしないと、老人ホームの放火事件の後、何が起きているのか、世間の人はわからないだろ? 犯人も、いまだに見つかってないんだし。このまま世間に忘れ去られちゃうのは嫌だろ?」

「そりゃ、そうだけど」

「週刊文集の編集者に知り合いがいるから、話してみるよ。もしかしたら、ほかの放火に遭ったホームでも、同じことが起きてるかもしれないな。これは取材で忙しくなるぞ」

 ――最初からそのつもりで、ついてきたんだ。

 京子は脱力する思いだった。

 邦雄はさっそく編集部に電話をかけている。

「いいネタを得た」とばかりに自慢げに説明している邦雄を見て、京子は「先に帰ってる」と言い、早足で歩きだした。



 京子は非常階段の踊り場で、スマフォの画面に触れては指を離すのを繰り返していた。バイトの休憩時間に大吾に電話をしようと思ったのだが、どうしてもかけられない。

 ――大丈夫。電話をかける理由があるんだから。世間話なんかしなくても、用件だけ話せばいいんだから。

 何度も自分に言い聞かせ、ようやく電話をかけた。

 5回呼び出し音が鳴ったとき、

 ――やっぱり切ろうか。

 とスマフォを耳から離しかけた。そのとき、「ハイ」と大吾の声が流れた。

 京子は慌てて「もしもし」と返した。

「おう」

「ごめんね、今、忙しい?」

「いや、昼休みだけど」

「うん、そっか」

「何?」

 京子は動揺して、何を話すつもりだったのか、一瞬忘れてしまった。3か月ぶりに聞く大吾の声。いきなり怒られるのも覚悟していたが、普段通りの穏やかな声である。

「どうした? 仕事で、何かあった?」

 京子は深く息を吸い、三郎とみつのことを説明し始めた。

 何度も頭の中で話す内容をシミュレーションしたにも関わらず、話はあちこちに飛び、自分でも何を話しているのか分からなくなってしまった。

「うん、ホームにいた人がホームレスになりかけてるんだよね。それは分かった。それで、俺は何をすればいいの?」

 大吾は真剣に話を聞いている。

「あのね、二人で昔、お金を貯めてたでしょ。大吾の名義で口座開いて」

「ああ、あれ。そういえば、あのままほったらかしてるんだよな」

「そこから、私が入れたお金だけでも戻してもらいたいな、と思って。そうしたら生活保護が出るまで、二人をサポートしてあげられるんじゃないかと思って」

「京子がそこまでしてあげる必要はあるの?」

「他に方法を考えつかなくて。引き取ってくれる施設があればいいんだけど、見つからないし。お金を払って老人ホームに入ったのに、ホームレスの施設で生活するのも、確かにきついなあと思って」

「そうだよなあ」

 大吾はしばらく思案しているのか、無言だった。京子はほかの話題をしようにも何も思いつかず、黙っているしかなかった。

「わかった。じゃあ、そのお金は京子の口座に送るよ。口座番号教えてくれるかな」

「うん、後でLINEする」

「わかった」

 それからさらに沈黙が流れた。

「俺さ、実家に戻ることになった」

「えっ!?」

 京子は思わず大声を出した。

「親父の具合が悪いらしいんだ。母ちゃん一人で世話するのは大変だからね。それに、畑仕事も誰かやんなきゃいけないし。だから家に帰って農業手伝うことになった」

「それじゃあ、お店は……レストランは?」

「どうなるかわかんないね。家が落ち着いた時に、また考えるしかない」

「そうなんだ……」

 京子はどう答えればいいのか分からなかった。

「京子は、老人ホームの仕事はどうなの?」

「ああ、やっぱり今は放火事件のせいで、どこも人を雇うどころじゃないって。しばらくバイトしようと思って、今は弁当屋さんで働いてるの」

「そっか。それも大変だな」

 また沈黙が流れた。

「いつ……いつごろ、家に戻るの?」

「来月の頭」

「そっか。もうすぐなんだ」

「うん」

 また、沈黙。

 受話器の向こうで、誰かが大吾を呼ぶ声がする。

「ごめん、店に戻らないと」

「わかった。それじゃ、後でLINE送るから」

「うん。じゃ、大変そうだけど、頑張れよ」

「うん」

 電話が切れ、ツーツーという音がやけに大きく耳に響いた。

 ――大吾が東京からいなくなる。

 京子は後頭部を殴られたような衝撃を受けていた。大吾の実家は山形県の山間の小さな村にあると聞いたことがあった。

 ――今離れてしまったら、もう二度と会えない、きっと。

 京子は階段にしゃがんで、膝に顔をうずめた。

 ――もし別れていなかったら、大吾は実家には戻らなかったかもしれない。別れていなかったら。でも、もう遅い。もう、元には戻れない。

 じりじりと首筋を日差しが焦がす。汗が噴き出るのも構わず、京子はしばらく動かなかった。まるで、自分の体に罰を与えているかのように。



「いかがですか、仕上がりは」

 冬実が京子に微笑みかけた。京子は喫茶店で一冊の本を手にしていた。

 その本は『一歩だけ、前へ』というタイトルがついている。著者の名前は桂木京子――邦雄が書いた京子の本が、ようやく仕上がったのである。

「ええ……なんだか、自分の顔写真がこんなに大きく載るなんて、恥ずかしいです」

「桂木さんは美人だから、帯じゃなくてカバーに写真を使ったほうがいいだろうって、最初に会ったときから決めてたんです。この写真、編集部でも好評でした」

「そうですか……」

 カバーには、京子がきっと口を結び、まっすぐ前を見据えた顔をアップにした写真が使われている。撮影のときは緊張してしまい、冬実やカメラマンが必死に緊張をほぐそうとしてくれたのだ。

 帯には『もう一度、あのホームに戻りたい――奥多摩老人ホーム放火事件を体験した、介護士の初エッセイ』と書いてある。

 京子は何気なく本をめくった。

「えっ」

 前書きの出だしを読んだとき、思わず声を上げた。

『3月のある朝、私は衝撃的な電話を受けました。

 元さんが自殺した――。

 山本元さんは私が勤めていた老人ホーム、美園ホームの園長だった方です。

 この本のタイトルにもなっている「一歩だけ、前へ」は、いつも元さんが投げかけてくれた言葉です。

 足の悪い入居者さんに、「一歩だけ、前に出てみましょう」とやさしく呼びかける。

 人手不足でみんなが疲れきっていると、「休んだら、一歩だけ前に出て、できることをやってみないか」と提案する。

 私がミスをして「この仕事は向かないんじゃないか」と落ち込んでいると、「一歩だけ、進んでみようよ」と励ましてくれる。

「前に進もう」ではなく、一歩だけ前に出ようと言われると、それならできそうって思えたのです。

 みんなの心のよりどころでもあった元さんは、この世にはもういません。そのきっかけとなったのは、あの事件――奥多摩老人ホーム放火事件です。』

 食い入るように読んでいる京子を見て、冬実は不安そうな表情で「どうしたんですか? 何か間違いでもありますか?」と聞いた。

「いえ、この話……元さんの自殺の話を出すなんて、聞いてなかったから。ゲラの段階では、この話はなかったですよね。放火の話はニュースにもなったからいいんですけど、元さんの話は、ちょっと」

「えっ? ホントですか!?」

 冬実の素っ頓狂な声に、そばにいた人たちが振り返ってこちらを見た。

「うそうそうそ。安藤さん、桂木さんから『やっぱり入れたい』って言われたって、言ってましたよ。園長さんの遺族にも確認取ったって」

「えっ? そんなこと、言ってませんよ。元さんのご家族には、この本のことは何も話してないし。私が読んだときは、もっと普通でした。介護士になりたくてOLから転身したんだっていう話」

 冬実は絶句して、しばらく言葉が出ないようだった。

「どういうことだろ……。私は、桂木さんが『どうしても入れたい』って言ってたって聞いてるんですけど……」

「そんな、そんなこと言ってませんよ。取材のときも言ったように、これだけは触れてほしくなかったんです」

「ちょ・ちょっと、安藤さんに聞いてみます。安藤さんから詳しい話を聞いたら、桂木さんにも連絡しますね」

「え・ええ」

 冬実は二人がつきあっているのを知らない。

 ――なんだか、変なことになってきたな。

 京子の胸の奥でざわざわと何かがざわめいた。



「田口さんになんて言ったんだよ!」

 その晩、京子はバイトを終えて帰宅し、家のドアを開けたとたん、邦雄から怒鳴られた。京子は靴を脱ぐのも忘れて立ちすくんだ。

 目の前に仁王立ちした邦雄は、今まで見たことのない険しい表情をしている。

「今日、田口さんから連絡があって、桂木さんが園長さんの自殺のことは何も聞いてないって不安がってる、どういうことだって言われたんだよ。おかげで、忙しくて確認したつもりで忘れてたって平謝りしなくちゃなんなくて。これで信用失って、仕事なくしたらどうするつもりなんだよ!? フリーで仕事するのがどれだけ大変なのか、分かってないだろ、お前はっ」

「……」

「おかしいと思ったら俺に直接聞けばいいのに、田口さんに『私、知らない、聞いてません』なんて言うか? 俺が立場を失うって、考えなかったのかよ」

「だって、本当に知らなかったんだし」

 ようやく京子は口を開いた。

「だって、元さんの話載せるなんて、聞いてないよ? 私に何も言わずに、あの文章にしたんでしょ? 遺族にも了解をとったなんて、そんなの嘘じゃない」

「いいんだよ、そんなちっさいこと」

「ちっさいこと? ちっさくなんてないよ。自殺したって知られたくないから、お葬式だってひっそりとあげたのに。元さんの家族がこの本を読んだら」

「読んでも怒りゃしないよ。放火事件の犯人に対して『今すぐにでも自首してほしい』って言ってあげてるんだから。家族も同感して感謝するって」

「そんな問題じゃないよ」

「じゃ、どんな問題なんだよ? あのさ、お前は本に関しては素人だろ? だから俺が代わりにすべてを仕切ってやってあげたんだよ。編集者に任せてたら、おっそろしくつまんない本になるかもしれないじゃないか。だから、売れる本にしてやったんだよ」

 邦雄は顔をゆがめて「ハハッ」と短く笑った。醜い。こんなに醜い人の表情を見たのは初めてだと、京子は鳥肌が立った。

「お前も本が売れないと困るだろ?」

「売れるとか売れないとか、そこまで考えてないよ。そんなことより」

「だからさあ、今さらちっさいこと言っててもしょうがないって。本はもう店頭に並ぶんだし。それとも、本を出すのをやめるのか? 今から出版中止なんてことになったら、契約不履行でこっちが全額賠償しなくちゃならなくなるのかもしれないのにさ。そこまでするつもりあるの?」

「そこまでは考えてないけど……」

「じゃあ、いいじゃないか。俺が売れる本にしたんだからさ」

 いつも、邦雄にはこの調子で強引に押し切られる。反論したいのだが、専門的な話はさっぱり分からないので、最後には黙るしかない。 

 邦雄は、急に優しい声音になった。

「まあ、確かに、相談しなかったのは悪かったよ、謝るよ。お前もホームレスになったじっちゃんたちの世話で忙しそうだったしさ。でも、いい出来だろ。いい本になったろ?」

「……まあね」

 京子は力なく答えた。

「それよりさ、文集の編集者が、今回の記事はスクープ記事として冒頭に載せるって言ってきたんだよ。記事の中でこの本のタイトルも出してくれるよう、頼んどいたからな。いいタイミングだよな、売れるぞ、この本」

 興奮気味に邦雄はしゃべり続ける。京子は相槌を打つ気力さえなく、靴箱に凭れかかった。

 邦雄が京子を「お前」と呼ぶのは初めてだった。大吾にも「お前」と呼ばれることはあったが、親しみをこめて言う「お前」とは大違いだ。

 京子は、本当はドアを開けて駆け出したかった。大吾のもとへと走って行きたかった。

 だが、そばにいてくれようとする大吾を拒絶したのは、他でもない自分である。

 ――なんてことをしちゃったんだろう。一番大切な人を、なくしちゃった。一番、大切な、人を。

 京子は、のろのろと靴を脱いだ。



 数日後、京子は大吾から「お金、振り込んどいた」というメッセージを受け取った。

 入金を確認すると、30万円ほど振り込まれている。京子は驚いて大吾に電話をした。

「ああ、俺が積み立てた分も一緒に振り込んだんだ。京子がどれぐらい振り込んだのか、調べるの面倒だったし」

 大吾は電話の向こうでさらりと答えた。

「でも、大吾だってこれからお金が必要になるでしょ? 仕事辞めて実家に戻るんだったら」

「実家に戻ったら何とかなるから。うち、農家だから食べ物にだけは困んないからねえ」

 大吾はおどけた口調で言った。

 京子はふっと心が緩んだ。

「ありがとう。児玉さん達のために、使わせてもらうね。でも、必要になったらいつでも言ってね。返すから」

「俺は大丈夫だから、心配すんなって」

「うん、ありがとう」

「そうだ、お礼に食事でも」と続けて言おうとしたとき、大吾が「そうだ、俺さ、来週実家に戻ることになったんだ」と言った。

「えっ? 来月じゃなかったの?」

「親父の具合、かなり悪いみたいで。母ちゃん一人で大変そうだから、今週いっぱいで仕事辞めて、来週帰ることにした」

「そうなんだ……急なんだね」

 京子は胸がいっぱいになり、それ以上何も言えなかった。

「お前も大変だろうけどさ、頑張れよ」

「うん。大吾もね」

「ああ。ごめん、今、店の準備で忙しくて」

「そっか、そっか。ごめんね、それじゃ、元気でね」

「ああ」

 電話はあわただしく切れた。

 ――これで、終わり、か。

 京子はしばらく電話をオフに出来ずにいた。ボタンを押した瞬間、すべてが本当に終わってしまうのだと思うと、指が動かなかったのである。



「ハイ、本番30秒前です」

 スタジオに声が響きわたる。京子は思わず胸に手をあてた。緊張のしすぎで、息がまともにできない。

 頭上には無数のライトが輝き、スタッフがそこかしこであわただしく動き回っている。その熱気と緊張で、京子はすでに脇の下に汗をびっしょりかいていた。ハンカチを握りしめる手が震えている。

「桂木さん、大丈夫ですよ。もし言葉に詰まっても、私がフォローしますから」

 番組の司会者・新藤太郎が京子に向かって微笑んだ。

「新藤さん、若くてかわいい女の子が相手だと、ずいぶん態度が違うんだねえ」

 京子の向かいの席に座っている初老の政治評論家が軽口を叩き、その場にいた出演者はどっとわいた。

「桂木さん、このオレンジジュース、なかなかおいしいですよ。テレビ局の中で、ここのが一番おいしいかもしれない。果汁100%かな」

 隣に座っている小太りの経済評論家が、そう言いながらジュースを飲んだ。その経済評論家はテレビでよく見るので、京子も知っていた。京子もつられてジュースを一口飲む。その冷たさが心地よかった。 

 その日、京子は朝8時から放送のワイドショーにコメンテーターとして出演することになっていた。今まで何度かテレビに出演したが、生放送は初めてである。

 この10日間ほど、京子の身辺はあわただしくなっていた。京子の初めての本は新聞の書評でも取り上げられ、発売後1週間で重版になるという快挙を成し遂げた。冬実は電話口で、「この手の本でこんなに早く重版かかるのは、異例のことですよ」と興奮していた。

 そのきっかけとなったのは、邦雄が書いた週刊文集の記事である。

『悲惨! 放火事件の犠牲になった高齢者たちがホームレスに』

 そんな大見出しがついた記事は、瞬く間に評判となった。邦雄が放火のあった各地の老人ホーム周辺を調べたところ、同じように公園に寝泊まりしている高齢者が見つかったのである。邦雄は自治体や厚生労働省にも取材をかけ、政治家や官僚の批判をしている。

『大金をつぎ込んだにも関わらず、終の棲家で暮らせなくなった高齢者がいる。こんなときこそ税金を使って救済するべきだろう。政治家や官僚たちは税金で建てた議員宿舎や高級住宅でのうのうと暮らし、自分の老後さえ安泰であればいいと思っている。行き場を失った高齢者を放置する‘姥捨て山’になったこの国の未来は、絶望的である。』

 邦雄の力強い文章は評判がよく、「今回の記事は自信作だ」と邦雄も満足そうである。

 京子は、記事の中で三郎やみつの窮状を訴える役で登場していた。その週刊誌が発売された翌日から、平和堂出版経由で京子に取材の申し込みが相次いでいる。

 そして、今回のテレビ出演の話も舞い込んだ。

 生放送はさすがに無理だと躊躇したが、邦雄に「俺が何を話せばいいのか考えるから、大丈夫だって」と説得されたのだ。

 事前に邦雄も交えてプロデューサーや司会者とは打ち合わせをしていたので、京子が緊張して話せなくなっても番組は進行できる状況になっていた。

「何も話せなくなったら、泣くふりでもすればいいって。京子が泣いたら、視聴者も同情するだろうから」

 邦雄は京子の緊張をほぐすためか、こっそりと耳打ちした。

 そのとき、京子はなぜか「絶対に話してやる」と強く思った。

「おはようございます。サタデイ・モーニングです」

 番組が始まり、新藤が流暢に話を始めた。

「今日のコメンテーターの皆さんを紹介します。まず、政治評論家の宮田信久さん」

 一人ずつ紹介され、頭を下げていく。京子は6番目に呼ばれた。

「それと、桂木京子さん。桂木さんは、今年1月の奥多摩老人ホーム放火事件が起きた時に、燃え盛る炎の中で高齢者を逃がそうと救助活動にあたった介護士の方です。今日は冒頭の事件簿で放火事件のその後を追っています。桂木さん、よろしくお願いいたします」

「よろしくお願いします」

 京子はハッキリと答えてペコリと頭を下げた。

「それでは、井森レポーターが現地に飛んでいます。井森さん?」

 新藤が呼びかけると、目の前にあるモニターに若い男が映し出された。

「ハイ、こちら福岡市内にある公園です。今年の福岡は雨が多くて肌寒い日が続きますが、今日も朝から小雨がぱらつき、肌寒い一日となりそうです。実は、今来ているこの公園で、1か月ほど前から異変が起きているのです」

 井森と呼ばれたレポーターは話しながら歩き、水飲み場で服を洗っている男の前で立ち止まった。

「おはようございます」

 話しかけられると、その男は振り向いて、軽く会釈した。頭は禿げあがり、やせほそっている。

「あの、何をしていらっしゃるんですか」

「服を洗ってるんですわ」

「服を洗ってる……公園でですか?」

「まあ、今はここに住んでるから」

「公園に住んでる?」

「老人ホームが放火に遭いましてな、追い出されてしまったんですわ。ここに寝泊まりするしかないんですわ」

「えっ、家に戻るとか……」

「家はないんです。女房を亡くした後、家を売って老人ホームに入ったんですわ」

「そうなんですか……それなら、どこか別の施設にでも」

「そりゃあ、市役所にも県庁にもみんなで頼みに行きましたわ。でも、どこもいっぱいで入れないって言われたんですわ」

「老人ホームの経営者は、何も対処してくれなかったんですか」

「ホームは倒産ですわ。経営者の山根さん、いくつもホーム経営しててね、二つか三つか。そこを狙い撃ちされたんですわ。すべて放火。山根さんの家も放火に遭ったって聞いたけど、踏んだり蹴ったりですわ。あんないい人に、誰があんなひどいことをするのか、世も末ですなあ」

「他のみなさんはどうしてるんですか」

「あそこのテントで眠ってる人もいるし、ホラ、あそこでみんなでごはん食べてるでしょ。みんな、この公園に住んでるんですわ」

 カメラは男が指さした方角を映し出す。すると、パーゴラの下で5・6人の高齢者がビニールシートを敷き、円座を組んで食事をしていた。

「でも、皆さんどうしてるんですか、眠る場所とか食糧とか」

「見かねた近所の人が差し入れしてくれるんですわ。テントとかビニールシートとか貸してくれて、食べもんも持ってきてくれてね。そんなときは、世の中まだまだ捨てたもんじゃあないって思いますわ」

「でも、雨の日はどうするんですか」

「テントを張ってこもるか、屋根のあるところで雨宿りするしかないんですわ」

「井森さん、井森さん」

 新藤がスタジオから呼びかけた。

「井森さん、いったいそこで何が起きてるんですか」

「ハイ、今年1月から全国で老人ホームの放火事件が相次ぎましたよね。ここにいらっしゃる皆さんは、その被害に遭った方々なんです。3カ月前にここ福岡市の老人ホーム福寿園が放火されまして、12名の方が亡くなられて、30名以上の方が重軽傷を負いました。まだ入院している方もいらっしゃいます。その後、今のお話にもあったように、福寿園は倒産してしまい、ホームを閉鎖することになりました。多くの人は身内に引き取られたんですが、戻る家がなかったり、身寄りがいない方は、こうして公園で寝泊まりするしかなくなってしまったんです」

「自治体はどうなんですか。何も対応してくれないんですか」

「ハイ、今もお話しにあったように、皆さんは何度も市役所や県庁に出向き、窮状を訴えかけたそうなんです。市役所や県庁もあちこちに問い合わせはしたそうなんですが、多くのホームはすでに入居者でいっぱいだから引き取れないと断られたそうなんです。こうやって公園で寝泊まりしている方々は、老人ホームに入居する際に多額のお金を払っているから、手元にお金はないんですね。新たにホームに入ろうにも、お金を払ってもらえないならお世話はできない、と断られたところもあったそうなんです」

「倒産した福寿園ですか、そこの経営陣は入居者の方々にお金を払い戻そうとはしていないんですか。入居する際にかなりお金を支払っているにも関わらず、その契約を反故にされたようなものですよね」

「ハイ、おっしゃる通りです。けれども、福寿園もですね、経営していたホームをすべて放火され、経営者の自宅も放火されたそうなんですね」

「それ、本当の話なんですか」

「ハイ、本当なんです。一カ月前に自宅が放火されて、経営者の山根さんご夫妻は何とか逃げられたんですが、同居していた山根さんの母親が逃げ遅れて亡くなられているんですね。そういう事情もあって、お金の交渉をする状況ではないんです」

「なんていうことだ」「むごすぎる」と、スタジオにいるコメンテーターから憤りの言葉が漏れる。

「それ、同一犯なんですかね、ホームを放火した犯人と、山根さんの自宅を放火した犯人と」

「警察は同一犯ではないかという見方を強めて、今捜査をしている最中です」

「分かりました。ありがとうございます」

 映像はスタジオに切り替わった。

「福岡で老人ホームの放火事件で被害にあった高齢者がホームレスになっているというレポートだったんですが、実はそれは福岡だけで起きているわけではないんです。全国的に起きているのだという、信じがたい話があります。週刊文集でそのスクープ記事が載ったんですが、そこでコメントされていたのが、今日スタジオにいらっしゃる桂木京子さんです」

 京子にカメラが向けられた。京子は自然と背筋が伸び、顔をまっすぐに上げた。

「桂木さんは、最初に起きた奥多摩老人ホーム放火事件の、美園ホームの職員だったんですね」

 新藤の言葉に、京子は頷いた。

「そうです」

「放火されて、美園ホームも倒産してしまったそうですが、その後、何が起きているんですか?」

「ハイ」

 京子は軽く息を吸い込んだ。

「私は今月の初めに、ホームにいた入居者さんの二人が、新宿の公園で寝泊まりしているという話を聞いたんです。その二人は、ホームが倒産してから施設を転々としていたんですが、どこも長期的には預かってもらえなかったんですね。ホームレスの支援施設に入るしかなかったんですが、最期をそこで迎えたくないと本人たちが言っていて。だから新宿の公園で寝泊まりするしかなかったんです」

「なるほど。年金はどうなんですか。年金を受け取っているのなら、そのお金でアパートに入るという選択肢もありますよね」

「年金は確かに受け取ってるんですが、貯金がまったくない状態なので、アパートに入ろうにも敷金礼金を払えないんです。それに、連帯保証人になる人がいないからという理由で断られることも多くて。仮にアパートに入ったとしても、年金は数万円なので、それだけで生活するのは難しいと思います」

「生活保護は申請してないんですか」

「申請していますが、今は順番待ちになっている状態なんです」

「こんな悲惨な話はありませんよね。年金をもらえるということは、今までずっと働いてきて、定年を迎えて、よしこれからは悠々自適の生活を送ろうと思っていたわけですよ。それでホームに入って穏やかに暮らしていたのに、放火で住む場所を奪われて、公園で寝泊まりするしかないなんて。とても先進国で起きていることだとは思えません」

 新藤がカメラをまっすぐ見ながら熱弁をふるう。

「そのお二人には家族はいないんですか」

 宮田が京子に問いかけた。

「います。ただ、ご家族の方は引き取れないと言ってるようなんですね。自分たちが生活するのに精いっぱいで、とても面倒は見切れないという理由で」

「それも切ないねえ。自分の育てた子供に見捨てられたようなもんだねえ」

「でも、ご家族も泣く泣く決断したと思うんです。引き取りたくても小さい子供の世話で精いっぱいというところもあれば、リストラで職を失ったというご家族もいるんです」

「なるほどね」

 宮田は納得したように頷いた。

「犯人はまだ見つかってないんですよね」

 新藤の横にいる若い女性アナウンサーが京子に問いかけた。

「ええ、まだ見つかってません」

「そのお二人はどうしてるんですか。公園でそのまま寝泊まりしてるんですか」

「いえ、今はビジネスホテルに泊まってます。でも、いつまでも泊まれるわけではないので、どこかの施設に入るか、安いアパートを借りるかしかないと思います」

「そのお金はどうしてるんですか。ホテルに泊まってるお金は」

「ご自分でも出してますし、私も多少は」

「そうなんですか、あなたがお金を出している。たいしたもんだ」

 宮田は大きく何度も頷いた。

「でも、桂木さんもいつまでも一人でサポートしていくわけにはいかないでしょう。やはり国や自治体のサポートが必要でしょうね」

 新藤が話を継いだ。

「今までに、老人ホームの放火事件は全国で16件起きています。それでは、老人ホームはどんな状況になっているのか、そちらもレポートしました」

 モニターの画面が切り替わる。

 京子は大きく息をついた。

 ――ちゃんと話せた。

 気がつくと、手の平には汗をびっしょりかいていた。

 スタジオの隅で邦雄が満足げに微笑みながら、京子に向って親指を立てた。京子も軽く微笑んで返した。

 ――私だって、やればできるんだから。

 心の中で、そうつぶやいた。



 テレビに出演した日、知り合いから続々と「テレビ見たよ」という電話やメールをもらった。

 母親にもテレビ出演の話は伝えてあったので、

「お父さんと一緒にハラハラしながら見てたのよ。立派なことしゃべってるから、お父さんも驚いてた」

 と電話がかかってきた。

 好美から電話があったのは、邦雄と二人で居酒屋でささやかな祝杯をあげているときだった。

「テレビ見たけど」

 好美は開口一番、不機嫌そうな声でそう告げた。

「そうですか、北海道でも放送されてたんですか」

 京子が無邪気に返すと、好美はしばらく沈黙した後、

「あんた、どういうつもり?」

 と低い声で切り出した。

「ハイ?」

「本も読んだけどさ。あの日宿直していたのはあんただけじゃないでしょ? 後藤さんや佐野さんだってみんなを逃がそうと手伝ったし、佐野さんは火傷で重傷で、しばらく入院してたじゃない。あんたは怪我してたから、後藤さんや佐野さんが先に逃がしてくれたんでしょ?」

「ええ、だから本でも火事のときには先輩と一緒に救助にあたったって、書きましたけど」

「でも、自分の手柄ばっかじゃない。それに、三郎さんとみつさんのことだって、私が連絡したんでしょ? 私が連絡するまで、あんた何も知らなかったじゃないよ。ホームの人の行き先には何の関心もなく、二人もほったらかしにしていたくせに。元さんのことだって、私が葬式の手配までしたのに、あんたはちょこっと手伝っただけでしょ? それなのに、すべて自分の手柄だったように本で書いてさ。何考えてんの?」

 好美はえらい剣幕でまくしたてる。てっきり「テレビ見たよ、すごいじゃない」と誉められるのだとばかり思っていた京子は、思いがけない展開に言葉を失った。

「みつさんや三郎さんにお金を出してあげてるのも、どうせ、誉められたいからでしょ? 優しいねえ、偉いねえって。あんたはホームにいた時から、自分だけ頑張ってる、自分だけえらいことしてますって感じだったし。何をやるにしても、私がやりましたって、アピールばっかしてたでしょ? 陰では、スタッフのみんなで笑ってたんだから。そんなのできて当たり前なのにって。どれだけ、私達があんたのフォローをしたのか、あんたは分かってないでしょ? あんた、たいして仕事できなかったんだから。OLの時もさ、仕事で頑張っても認めてもらえなかったって散々言ってたけど、自分が仕事ができなかっただけなんじゃないの? それで介護の仕事を選びましたーって来られても困るんだよね。自分探しをしてるだけじゃない、そんなの」

 京子がスマフォを握りしめたまま固まっているのを見て、邦雄は「どうした?」と声をかけた。

「ホームの時の先輩からの電話なんだけど、なんか怒っていて」

 通話口を押さえながら邦雄に言うと、「はあ? なんで?」と邦雄は眉をしかめた。

「みつさんや三郎さんのことは、その先輩が教えたのに、私が見つけたように言ってるから、手柄を独り占めにしてるんじゃないかって」

「スマフォ貸して」

 邦雄が手を伸ばした。

「え、でも」

「いいから」

 京子が渡すと、「もしもし?」と邦雄が電話に出た。

「いったい、何の用ですか? こっちも忙しいんですけど……いや、僕は関係なくないですよ。彼女の代理人ですから。え? 本で間違ったこと書いてるって、どこがですか? いやいや、僕も本に関わってるんですよ。どこが間違ってるのか、言ってみてくださいよ。……はあ? 一人で全員を救ったなんてどこにも書いてないでしょ。職員二人の名前を出してない? そりゃ、名前を出したらその二人は不快に感じるかもしれないでしょ? 配慮じゃないですか」

 京子はハラハラしながら成り行きを見守っていた。

「はあ? それは、テレビは時間が限られてるから、すべてを説明できないだけでしょ。それに、誰が最初に連絡をしたかなんて重要な問題じゃない。みつさんたちがホームレスになってることが重要なんじゃないですか。そんなちっさいことを細かく話してなんか、いられないんですよ。はいはい、要は、あんたは京子に嫉妬してるんでしょ? ねえ?」

 邦雄の声が段々大きくなっていく。まわりの客がこちらをジロジロ見ているので、京子は「ねえ、もういいよ」と電話を替わろうとしたが、邦雄はその手を振り払った。

「いいか? 今後、変な言いがかりをつけてきたら、こっちもそれなりの手段をとるからな。京子に変な噂なんかたてようもんなら、名誉棄損で訴えるぞ。その覚悟をしとけ」

 最後に言い捨てると、邦雄は電話を切った。

「ったく、いるんだよな、人の成功を妬む輩が」

 邦雄は京子の膝の上にスマフォを投げて返した。

「気にすんなよ、そんなやつ。また電話がかかってきたら俺に言えよ。俺がそんなババア論破してやるから。俺が京子を守るからな、安心しろよ」

 邦雄はそう言って、満足そうにぬるくなったビールを飲んだ。まわりの視線を痛いほど感じて、京子は自分の顔が真っ赤になっているのを感じた。意気揚々とビールを飲んでいる邦雄とは対照的に、京子は恥ずかしくて顔をあげられなかった。

 ――大吾だったら、こんなことはしないのに。

 チラリとそんな思いが胸をよぎった。



 その夜、大吾からメッセージが届いた。


 大吾

 テレビ見たよ。

 本も読んだ。すごいね。頑張ってるんだなってわかって、嬉しかった。

 テレビ、かっこよかったよ。

 俺は京子の介護に対する思いをわかってあげられなかったんだなって思った。

 ごめんな。これからも京子のことは応援してるから、頑張れよ。


 絵文字入りのメッセージを、京子は何度も読み返した。

 ――介護に対する思い。本当に、私に、そんなのがあるのかな。人から誉められたくて、認められたくて、この仕事を選んだのかもしれない。

 京子は深いため息をついた。

 どこかで歯車がかみ合わなくなっている。

 だが、今さら自分に何ができるというのか。ここまで進んだら、もはや後戻りはできない。流れに逆らって泳ぐことなどできないのだ。



 上田律子は、洗濯室の水道でパジャマの汚れを落としながら、頭の中では次のスケジュールを何度も確認していた。

 ――えーと、金山さんと阿部さんと福田さんのおむつを取り替えて、お昼の介助をして、それから……。

 律子がやまと苑に勤務して、20年が過ぎていた。今ではチーフマネージャーとして、若い職員の指導をする立場である。若い子は仕事を覚える前に辞めてしまうので、仕事量はなかなか減らない。それでも、介護の仕事にやりがいを感じていた。

 今は入居者の一人が部屋で嘔吐したので、洗濯機に入れる前にパジャマやシーツの汚れを簡単に落としているところだった。

「上田さん、大変、ケンカ」

 声をかけられ、律子は顔を上げた。

 老婆が一人、洗濯室の入り口に立って律子を手招きしている。

「またあの人たちとですか?」

 律子がうんざりした表情をすると、老婆は

「早く早く。正木さんが、あの人たちと殴りあってるのよ」

 と早口で訴える。

「ええ?」

 律子はすばやく手を洗い、ロビーに向かった。ロビーには老人の人だかりができ、怒号が飛び交っている。

「もう、やめなさいって」

「ケガするよ、そんなに引っ張ったら」

「警察を呼べ、警察をっ」

 人だかりを割って入ると、中央で老爺が二人、真っ赤な顔をして取っ組み合っている。

「もう、何してるんですか」

 律子は二人を離そうとしたが、逆に肘鉄を胸に食らってしまった。律子は胸を押さえて蹲る。

 そこへ、男性職員が三人駆けつけ、何とか二人を引き離した。

「いったい、何があったんですか」

 痛みが治まり、律子を呼びに来た老婆に尋ねると、

「この人たち、ロビーで寝転がってるから、ジャマなのよ。正木さんが足で軽く蹴ったら、あの人が怒って正木さんを叩いたの」

 と、嫌悪感を顕わにした表情で、正木と取っ組みあっていた老人を指差した。指差された老人は歯をむき、

「だって、仕方ないだろ? 他に寝る場所はないんだから。蹴ることないじゃないかっ」

 と吼えた。

「ここに寝転がっていたらジャマだって、昨日、職員さんから言われたばっかりじゃないかっ」

 正木も職員に羽交い絞めにされながら叫ぶ。

「じゃあ、外にいろって言うのか? こんな大雨が降ってる中、外に行けって言うのか?」

「ロビーでなくても、ほかのところに行けばいいじゃないか」

「行き場所がないから、困ってるんだよっ。俺たちだって、好き好んでここにいるわけじゃないんだから」

「だったら、もっと遠慮しろよっ。トイレにも風呂にも勝手に入ってきて、迷惑なんだよっ。あんたら、お金を払ってここに入ったわけじゃないんだからっ」

 正木は律子に向かって、

「早く、こいつらを何とかしてくれっ。お金を払ってないのに飯まで食って、ずるいじゃないかっ」

 と唾を飛ばしながら怒鳴りつけた。

「今、市役所に相談しているところなんです。でも、受け入れ先が見つからなくて、当分ここで預かってくれって言われて、こっちも困ってるんですよ」

 律子はなだめるように言い聞かせた。

「そんなん、こっちで世話する必要ないだろ? さっさと追い出せばいいじゃないか」

「何をっ」

 正木の言葉を聞き、取っ組み合いをしていた老人がまた正木に殴りかかろうとするのを、そばにいた職員が必死で抑えた。

「ねえ、ひどいじゃない。少しは思いやりってものを持たないの? 私たち、放火で焼け出されたんだから、普通は同情してくれるんじゃないの? 私たちが悪いわけじゃないのに、どうしてこんなに責められなきゃならないのよ」

 そばで見ていた老婆の一人が涙声で訴える。

「お金を払ってここにいるならいいよ。ここの人たちはみんな、お金を払ってここに住んでるんだから。でも、あんたらはお金も何も払わずに、勝手にその辺で寝て、食事をして、洗濯までしてるじゃないか。図々しいんだよ」

 正木は容赦なく切り捨てる。

「だから、そんなお金があるなら、ホテルにでも泊まるって。元いたホームにお金をつぎ込んでるから、ほとんど残ってないんだって、何度説明すれば分かるんだよ」

 老人の一人が反論する。

「分かりました。とにかく、ケンカはやめましょう。お互い、こんなことでケガしたくないでしょ? 今、園長たちも対応を考えているところなので、ずっとこの状態が続くわけじゃないと思います。もう少しの辛抱ですから」

 律子が手を叩き、声を張り上げると、ようやく老人たちは口をつぐんだ。

「つつじ園の皆さん、昨日もお願いしたように、玄関付近で寝るのはやめてもらえませんか? 出入りする人がいるので、危険なんですよ」

 律子の言葉に、正木と取っ組み合いをしていた老人が、

「そうは言っても、どこにも休む場所がないから、こっちも困ってるんだよ」

 と反論する。

「それじゃあ、集会室に」

 言いかけたとたん正木が目をむき、律子の発言を遮った。

「ダメだ、ダメだ! 集会室にそいつらがウロウロしてたら、ジャマだろうがっ。あんたらの事務室でいいじゃないか」

「いえ、あそこは狭いので、これだけの人数は入らないんですよ」

「それじゃ、食堂とか」

 男の職員が意見すると、

「ダメダメ、食事のときにジャマだっ」

 たちまち正木が反対する。

 やりとりを見ていた老婆二人が、ひそひそと何かを話し合い、靴箱から靴を取り出した。

「あれ、山野井さんたち、どこ行くの?」

 そばにいた老婆が声をかける。

「外に行くわ。ここにいたら、邪魔者扱いされるだけだから」

「そんな、こんなに雨が降ってるのに、外に出たら肺炎になって死んじゃうじゃない」

「いいの。この人たちは、そうして欲しいんでしょ?」

「なんだよ、その嫌味ったらしい言い方はっ。俺はかまわないよ、さっさと外に行けば?」

 正木が嫌味を言うと、「ひどい言い方」「人殺しっ」と批難が降り注ぐ。

 また言い合いが始まり、律子はため息をついた。

 やまと苑と同じ市内にあるつつじ園が何者かに放火されて3か月が経つ。幸い、死者は出なかったのだが、建物の半分が焼け、経営を続けられる状況ではなくなってしまった。入居者のうち、半分は家族に引き取られたり、別の施設に移ったが、他の施設に移る金もなく、引き取る家族も、戻る家もない入居者は、閉園後も焼け残った建物で暮らしていた。

 だが、水道は出なくなり、食料も底をつき、そこにいると飢え死にするのは時間の問題だった。1カ月ほど前から、やまと苑に一人、また一人とつつじ園の入居者が現れ、助けを求めたのである。

「私たちはお金がないから、部屋に入れてくれなくてもいい。駐車場か、庭で寝泊りするから。水だけでもくれないか」

 最初は、みな遠慮がちにそう訴えていた。

 園長をはじめ、律子たち職員は気の毒に思い、集会室に簡易ベッドを運び込んで休ませた。食事や水も与え、介助が必要な老人はなるべく手助けしていた。

 どこから情報が伝わっているのか、やまと苑に来る入居者は10人、20人と日を追うごとに増えていき、30人を超えてさすがに律子たちも対処できなくなってしまった。ベッドも寝具も足りず、食事も用意できない。最初は遠慮がちだった老人たちは、今では平気で館内をぶらつき、食堂にあるお茶を勝手に飲んだり、集会室のテレビを観たり、断りもなく洗濯をする人や入浴する人まで現れた。律子たち職員が自宅で作ってきたおにぎりを配ると、「またおにぎり?」と不平を言う人もいる。

 最初は好意的だったやまと苑の入居者も疎ましく思うようになり、しょっちゅう小競り合いが起きていた。

 今は、つつじ園の入居者は玄関ホールや廊下に座り込んだり、毛布をかぶって寝転がっている始末である。廊下を行き来するたびに、律子はテレビのドキュメンタリーで見た野戦病院の光景を思い出す。

 老人たちをなだめているとき、園長が「上田さん、ちょっと」と律子を呼びに来た。

 園長について園長室に入ると、

「今日、民衆党の市議会議員がここに様子を見に来てくれるって。やっと動いてくれたよ」

 と、ソファに座りながら安堵のため息をついた。

「なんでも、ほかの老人ホームでも同じような苦情があるみたいで、まとめて都内の廃校に移そうっていう話になってるらしい。国は何もしてくれないと思ってたけど、都知事が動いてくれたらしいよ」

「どんな事情でもいいですよ。ここからいなくなるのなら、助かります」

「なあ。でも、その間にかかった経費はこっち持ちになりそうなんだよ。食事代とか、水道代とか、バカにならなかったろ? それを肩代わりするのはキツすぎるって言ったんだけど、元の老人ホームの経営者に請求したらどうかって、他人事なんだよね」

「あの人たちに話して、お金を払ってもらいますか?」

「そうだねえ。年金もらってる人もいるから、手持ちの金がゼロってわけでもないだろうし。それ、上田さんがやってくれる?」

「えっ、私がですか?」

 律子は露骨に顔をしかめた。 

「私がそんなことを言ったら、あの人たち怒りますよ。私、もう何度も何度もあの人たちに注意して、うるさがられてるんですから。勘弁してください」

「分かった、分かった。じゃあ、それは俺から話すから」

「そうしてください」

「おとなしくお金を出してくれるといいんだけどねえ」

「出してくれなければどうするんですか?」

「学校に移すったって、どうせすぐにやってくれっこないんだから。それまでの間は、お金を出さない人には食事を出さなくていいよ。お茶を飲むのもダメ。洗濯も風呂も禁止。こっちもカツカツなんだから、そうするしかないな、もう。下手に同情したら、図に乗るしさ。もう手に負えないよ」

「そうですよねえ……」

 園長と律子は深いため息をつくしかなかった。つつじ園の入居者がいなくなっても、追い出したようなものなのだから素直には喜べないだろう。

「俺たちは何も悪いことしてないのに、なんでこんな目に遭わなくちゃならないんだろな」

 園長のつぶやきに、律子は深く頷いた。



「テレビの出演依頼が3件、雑誌の取材が5件、本の出版依頼が2件か。まずまずだな」

 邦雄はスケジュール表を眺めながら満足そうに微笑んだ。

「やっぱり、あそこで生放送に出たのは正解だったよな。一週間でこれだけの仕事が舞い込むんだもんな」

「……」

 京子は何も答えなかった。

 その日も朝からテレビに出演し、ホームレス化した老人問題についてのコメントをしてきたところだった。

「それにしても、野宮さんは間近で見ると、ほんとパワフルな人だよな。毎朝、あんなテンションでよくテレビに出られるよなあ」

 朝の通勤ラッシュと重なり、地下鉄は込み合っている。

 今年は雨が多く、梅雨が明けても夏らしい日は少ない。人の熱気と雨の匂いとが車内に立ち込め、京子は少し気分が悪くなっていた。

 邦雄は、ほかの乗客に聞かせるかのように、大声で話し続けている。まわりの乗客が野宮という司会者の名前を耳にし、こちらをチラチラと見る。

「でもさ、京子、今日の番組はカタかったよ、全体的に。野宮さんの迫力に圧倒されてたのかもしれないけど、まるで疲れてるみたいな答え方だったよ」

「仕方ないでしょ。実際、疲れてるんだし。昨日はバイトで遅番だったのに、今日は5時起きなんだもん」

 京子は小声で答えた。

「だから、バイト休めばよかったのに。もうバイトなんてやめちまえば? マスコミの仕事で忙しくなってきたんだから、弁当屋で働いてる場合じゃないって」

「……」

 京子には邦雄に反論する気力は残っていなかった。早くこの話を終えたい、邦雄と離れたい。その一心だった。

 電車が駅に着いた。

「あ、私、児玉さんたちの様子を見てくるから、ここで降りるね」

「えっ、なんだよ、いきなり」

「先帰ってて」

 邦雄の顔を見ないまま京子は言い、降りる乗客の波に乗ってホームに降り立った。気分が悪いと告げたら、邦雄も一緒に降りるだろう。邦雄から逃れる言い訳としては上出来だと、京子は内心自分を誉めた。

 自動販売機でポカリスエットを買い、ベンチに腰をかけて飲んでいると、徐々に気分は回復していった。邦雄と離れ、開放感も全身に広がっていった。

 ――私、何やってんだろうな。あの人のこと、好きになったかと思ったけど、全然違った。今では体を触られるのも嫌だし、一緒の部屋にいるのも嫌。何か理由をつけて、早く部屋を出よう。

 セックスを拒み続けているので、邦雄も薄々京子の気持ちの変化に気づいているかもしれない。ここ数日は、前ほど口うるさく言われなくなったように感じる。

 別れようにも邦雄は京子を売り出すことで仕事を得ているし、京子もマスコミの仕事を邦雄経由で得ている。しばらくは一緒に仕事するしかないだろう。

 ――今日会った評論家さんは、芸能事務所に所属してマネージャーがついてたよね。ああいうの、いいなあ。私のところにも、芸能事務所からオファーが来ないかなあ。

 考え事をしていると、目の前を足早にビジネスマンやOLたちが行き来する。

 ――私も、ほんの一年ちょっと前まではOLだったんだよなあ。

 あのころ、毎朝通勤ラッシュの電車に乗りながら、「私はこんな人生を送りたいんじゃない」と心の中で叫んでいた。つまらないことで怒鳴る上司、愚痴ばかりこぼす同僚、すぐにサボる後輩……自分を取り巻くすべてのものにイライラしていた。

 ――今、私はあの生活から抜け出してここにいる。なんか夢みたいな、不思議な感覚……。

 そのとき、「すみません」とスーツ姿の若い男が話しかけてきた。

「ハイ?」

「あの、今日のテレビに出ていませんでしたか? 野宮さんの番組に」

「ええ、はい」

「あの、僕、本も買いました。感動しました! これからも頑張ってください」

 男は片手を差し出した。握手を求めているのだと気付くまで、数秒かかった。

「……ありがとうございます」

 京子は慌てて背筋を伸ばし、精一杯の笑みを浮かべながら男の手を握った。

 男は強く京子の手を握り返す。その手は少し汗ばんでいた。

「頑張ってくださいね、応援してますから」

 男は照れくさそうな笑顔を浮かべて、さわやかに立ち去った。

 ――もしかして、私のファン?

 京子は男の後姿を見送りながら、じわじわと気恥ずかしさや嬉しさがこみあげてきた。

 ――誰に見られてるか分からないから、しゃんとしないと。

 椅子から立ち上がり、背筋を伸ばしてモデルのような歩き方を意識して、京子は改札に向かった。



 翌日、冬実から電話があった。

 冬実は興奮した口調で、「今、東京ファーストの会の事務局の人から編集部に連絡があって」とまくしたてた。

「東京ファースト?」

「そうなんです、桂木京子さんに緊急でお話したいことがある、と言われて。都知事が会いたがってるそうなんです」

「えっ、都知事がですか?」

「とにかく、早く連絡したほうがいいと思います。向こうの連絡先をお伝えしますね」

 京子は復唱をしながら冬実が伝える連絡先をメモし、電話を切った。

 ――なんだろ。児玉さんたちの話を聞きたいのかも。

 緊張しながら、伝えられた連絡先に電話をしてみた。

「都知事が一度、桂木さんとお会いしてお話をさせていただきたいと言っているので、本部に足を運んでいただけないでしょうか」

 事務局の男性が、丁寧な口調で応対した。京子は緊張のあまり、「はい」「ええ」ぐらいしか言えなかった。明日でも大丈夫かと尋ねられ、「大丈夫です」と即座に答える。電話を切ったときには、手や脇の下に汗をかいていた。

 ――このこと、あの人には言わないでおこう。

 ふと、京子は思った。

 話したら、邦雄はきっとついてくるだろう。自分をおいて話を進めてしまうのは確実なので、京子は黙っていることにした。



 応接室で待っている間、京子は落ち着かずにそわそわしていた。

 政治家と会うときはスーツのほうがいいだろうと思い、OL時代によく着ていた水色の無地のワンピースとジャケットの、ワンピーススーツを選んだ。

 若い女性が緑茶を運んできて、京子の前に一つ、向かいの席に三つ置いた。

 ――話をするのは一人じゃないんだ。

 緊張して自然に背筋が伸びる。

 ――大丈夫、最近はテレビ局で有名な人に会って、話をしてるし。少しは慣れてるはず。

 ややあって、二人の男が入ってきた。最初に入ってきた男を見て、京子は思わず立ち上がった。

「今日は雨の中わざわざお越しいただいて、恐縮です」

 にこやかに話しかけたその男は、細井健一郎だった。テレビでよく見る若手政治家で、都議選の後に民衆党を離党したと、最近報じられている。長身でイケメンなので、京子は舞い上がりそうになるのを感じた。

 その隣にいる男は、京子に電話をくれた人物らしい。

「事務局長の舟崎和也」とにこやかに名乗った。30代ぐらいの、こちらもなかなかのイケメンである。その左手の薬指に指輪が光っているのを、京子はさりげなくチェックした。

「あら、素敵な色のワンピース。涼しげでいいですね」

 最後に入ってきた女が京子に笑いかけた。都知事の小谷桜子だった。元アナウンサー出身ということもあり、華やかなオーラを醸し出している。

 3人がそれぞれ名刺を差し出して挨拶をした。

「あの、私、名刺がないんです」

 京子は恐縮しながら受け取った。

「今、桂木さんは老人ホームに勤めているわけではないんですか」

 細井が笑顔で問いかけてきた。

「ええ、美園ホームが放火に遭った後、ほかのホームに移ろうと探したんですけど、今はどこのホームも人を雇うどころではなくなっていて」

「放火事件の影響で、警備員を雇ったホームが多いって聞きましたけど」

「そうなんです。それで従業員を雇う余裕がなくなって」

「そうですか」

 それから、老人ホームに勤めていた時のことを尋ねられて、京子は可能な限り答えた。途中、何度も言葉につまってしまったが、桜子は優しくフォローしてくれた。

 30分ほど経ち、最初にお茶を持ってきた女性が、ケーキとコーヒーを持って部屋に入ってきた。

「このケーキ、うちの近所にあるおいしいケーキ屋さんで買ってきたの。桂木さんは、ケーキお好きですか」 

 桜子が朗らかに話しかける。

「ええ、大好きです」

「そう、よかった」

「俺、甘いの苦手なんだよね」

 細井がぼやいた。

「ここのは、そんなに甘くないのよ。甘さ控えめで、男性にも人気があるんですって」

「へえ、それならいただこうかな」

 細井がケーキのセロファンの端を探している様子を見て、桜子は「ここよ、ここ。もう、男は目の前のことは全然見えないんだから」とツッコミを入れていた。その言葉に、京子は思わず笑ってしまった。大吾が冷蔵庫を開けて、「バターどこ行った?」と、目の前にあるのによく探し回っていたのを思い出したのだ。

 しばらく四人でケーキを食べ、「おっ、これおいしいなあ」「そうでしょ」などと言い合っていた。

 ケーキを半分ほど食べると桜子はおもむろに、「桂木さんは、政治に興味はありませんか」と尋ねた。

「ハイ?」 

 京子はフォークを置いた。

「単刀直入に申し上げますと、東京ファーストの会から立候補していただきたいんです」

「えっ、わた、わた、私がですか!?」

 京子は素っ頓狂な声を上げてしまった。顔がみるみる紅潮していくのが、自分でもわかる。

「テレビで桂木さんを拝見して、ご著書も読んで、若いのにしっかりと福祉や日本の将来のことを考えている姿勢に感心しました。そういう人こそ、この国を変えるために必要なんです。今の日本は末期症状だと思いませんか。保育園落ちた、日本死ねなんて言われてるし、高齢者の方も放火事件が起きる前から老人ホームに入れない人は大勢いたでしょう? 学生さんは学費が払えなくて学校を辞めてしまう人も多いし。やっぱり、根本的な税金の使い方を見直さなくちゃいけないって思うんですね。桂木さんのお考えは、東京ファーストの会の考える政策と一致しているところが多いんですよ」

 桜子は、京子の目をジッと見ながら語る。京子は相槌を打つことさえできず、自分の呼吸が速くなっているのを感じていた。

「これは、ここだけの話にしていただきたいんですけれど……」

 桜子は、声を潜めた。

「今、与党が解散総選挙に打って出るんじゃないかって言われてますよね。年内に解散するか、来年になるかは分からないんだけれど、私たちの党も、国政に打って出たいって考えてるんです。そこで、桂木さんにもぜひうちの党から立候補していただきたいんですね」

「そんなこと、急に言われましても……私、政治のことは分からなくて」

「そうですよね、急に言われても戸惑いますよね。今すぐに決めていただきたいわけじゃないんです。まずは、私たちが開いている研究会に参加していただけませんか? そこで私たちの党の理念や政策を知ることもできるし、政治の現状についても学べますし……どうかしら?」

「ハ・ハイ」

 京子は上ずった声を上げた。

「研究会、参加させていただきます」

「本当に? よかった」

 桜子は笑顔になった。女性初の都知事である桜子は、批判も多いが、実際に会って話してみると物腰はやわらかく、「いい人そうだな」と京子は感じた。

 細井も、

「政治家になる人のみんながみんな、最初から政治の玄人ではありません。むしろ、政治の世界にいない人のほうが、国民目線で物事を考えられますから。今の日本は、そういう人材を求めてるんです。何を勉強すればいいのかは、私たちがアドバイスします。桂木さんには、福祉の現場にいておかしいと思った点、改善したほうがいいと思った点を我々に教えていただきたいんです。国民も、私達のような中年オヤジからあれこれ言われるより、桂木さんのような若い女性から福祉に目を向けるよう言われたほうが、共感できるでしょう」

 と熱弁をふるった。

「分かりました。頑張ります」

 京子はそう答えるので精一杯だった。



 東京ファーストの会の本部のビルから出て、すぐに京子は電話をかけた。

 今日も朝から雨が降っている。京子は近くのビルの軒先に入り、祈るような気持ちで呼び出し音を聞いていた。

「もしもし」

 受話器から穏やかな声が聞こえて、

 ――よかった、出てくれた。

 と京子は安堵した。

「私」

「ああ、うん。どうした?」

 大吾は不審がることもなく、普段どおりの調子で尋ねた。

「ちょっと相談があって」

「うん、ちょっと待って」

 電話の向こうでガサガサと音がする。

「ごめんね、忙しかった?」

「いや、引っ越しの準備が終わったところ」

「そっか、もう山形に帰るんだっけ」

「うん、明日ね」

「そう……」

「それで、どうした?」

「うん……」

 しばらく言い淀んでから、京子は

「私、政治家にならないかって、都知事に言われたの」

 と切り出した。

「えっ、何?」

「だから、都知事に今会ってね、政治家にならないかって、東京ファーストから立候補しないかって誘われたの」

「マジで? すげえなあ」

 大吾は素直に驚いている。

「でも、どうしようかって思って。私、政治なんてまったく分からないし」

「そう言ったの? 都知事に、政治は知りませんって」

「うん、言った。そしたら、まずは研究会に出てほしいって」

「へえ、すごいじゃん。そこまで京子に期待してるんだ」

「どうなんだろう……」

 大吾はしばらく黙りこんだ。

「あのさ、それ、どうして俺に話すのかな」

「えっ」

 不意の質問に、京子は言葉に詰まってしまった。

「別に、責めてるわけじゃないんだけど。俺は、京子が福祉の仕事をしたいって気持ち、分かってあげられなかったからさ。年下だから、京子も俺に対して真剣に相談できなかったのかもしれないけど。何か相談されても、俺にはちゃんと答えてあげられそうもないし。それに、政治の世界なんて全然分かんないし、京子が今何を目指してるのかも知らないし」

 しばらく二人とも黙りこんでしまった。その沈黙が重い。

 京子はスマフォを握り締めた。

「そうだよね。ごめん、いきなりこんな電話して。困っちゃうよね」

 ようやく絞り出した声は、少しかすれていた。大吾は何も答えない。

「ほかに相談できる人がいなくて。ごめん」

「いや、いいんだけどさ」

 また、沈黙の時間が流れた。

 ――お願い、何か言って。何でもいいから、私を怒ってもいいから。俺たち別れたんだろ、誰のせいだよって。

「ごめんな、力になれなくて」

 ややあって大吾が言った。

「ううん。ごめん、急に電話して」

「いや、いいよ。それじゃ」

「うん、それじゃね」

 あっけなく電話は切られた。

 ――私、大吾に電話して何を言ってもらうつもりだったんだろう。

 京子は乾いた唇をなめた。

 冷たい雨が街に降り注ぐ。京子は雨の中を歩きだす気分になれず、ぼんやりと雨に濡れる街並を見つめていた。



 その二日後、京子は再び東京ファーストの会の本部を訪れた。ちょうど研究会が行われるので、みんなに紹介したいと細井から言われていたのだ。

 事務所で受け付けを済ませると、舟崎が、「ちょっと確認したいことがあるんですけれど、よろしいですか」と京子を廊下の隅に招いた。

「一昨日は、都知事の前で話しづらかったんですが……桂木さんは独身ですよね」

「ええ」

「結婚のご予定は」

 邦雄のことがチラリと頭をよぎった。

「いえ、それはありません」

「そうですか。お付き合いしている方は」

「――います」

「そうですか。テレビ局によく一緒に行っている男性ですか」

 京子はハッと顔を上げた。

「いや、詮索するわけじゃないんだけど、うちの議員で、桂木さんと一緒にテレビに出た議員が、一緒にいる男性を見かけたって言っていてね。プライベートな問題だから、私達があれこれ口出しする筋合いはないんだけど、もし立候補するとなると、マスコミがその辺嗅ぎつけるとうるさいから。あらかじめ確認しておこうと思っただけなんです」

 京子は俯いて唇を固く結んだ。

 それが答えになっていたらしく、

「その議員からも話を聞いたんだけど、桂木さんがその男性から厳しく叱られているところを見かけたって。かなりつらそうだった、って話していて、ちょっと気になったんですね。どうですか、もし悩み事があるなら、話していただけたら、私達に協力できることもあるかもしれません」

 と舟崎が穏やかな声で続ける。

「協力?」

「率直に言いますと、その男性はあなたの足を引っ張る存在なんじゃないですか。もし、立候補をきっかけに新たな人生を始めたいと考えているのなら、私達にできることなら、全力でサポートしますよ」

 舟崎は穏やかな笑みを崩さないまま言った。

 ――あの人から、離れられるかもしれない。

 京子は迷うことなく、「お願いします」と頭を下げていた。

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