6月 火影

 武山久美子は、趣味は何かと問われたら、間髪入れずに「ガーデニング」と答える。

 レンガ色の家を取り囲むように、エントランスにも庭にも、四季折々の鉢植えを飾っている。素焼きの人形も鉢の周りに並べ、にぎやかな風景をつくるのが大好きだ。道行く近所の人が足を止め、「丹精込めて庭造りをしているんですねえ」「見ているだけで楽しくなります」と声をかけてくれるのが、何よりの楽しみだった。

 ――植物はいい。何も文句を言わないし、丹精込めて育てれば、きれいに花を咲かせてくれるから。

 久美子はいつも心の中でつぶやいていた。

 結婚して娘と息子を授かり、丹精込めて育てたつもりだが、現実には思い描いていたのとはまったく違う結果になってしまった。

 息子の透は武山家の長男なので、大切に育てた。

 小学校からエスカレーター式の私立に通わせ、将来は東大に入れるために家庭教師もつけた。英会話やバイオリン、公文など、習い事にも力を入れ、同級生に引けを取らないようにしたのだ。

 ところが、高校に進級するといじめに遭い、ひきこもりになった。そのころは毎朝透の部屋の前に立ち、なぐさめ、怒りの言葉を吐き、懇願したり、泣いたりもした。どんなに訴えかけても、部屋のドアが開くことはなかった。高校二年で中退し、それから7年間もひきこもっている。成人しても働くそぶりすら見えない。夫の隆太郎のコネで知り合いの企業に就職できるよう手配しても、面接をすっぽかす始末だった。

 透より10歳上の長女には、あまり愛情を注げなかった。久美子は大学時代にミスコンの候補に選ばれるぐらいの美貌だったが、長女は美男とは言い難い夫の隆太郎に似てしまった。だから連れて歩くのが嫌で、小学校に上がるころから一緒に外出することを避けるようになったのだ。

 隆太郎はかわいがっていたが、久美子はどうしても冷たく当たってしまい、長女も早い段階でそれに気づいていた。さらに、透が生まれてからはすべて弟のほうを優先させたので、溝はさらに深まった。短大に入ると同時に家を出てしまい、それ以来、家に帰って来ない。

 ――しょうがないじゃない。私に似なかったんだから。

 隆太郎が長女のことで久美子を責めても、心の中でそう言い返していた。

 隆太郎は、大手食品会社の本部長である。いずれ社長になるのも夢ではない。お金に不自由したことはなく、透が欲しがるものは子供の頃からすべて買い与えてきた。

 透がいじめに遭っていると知ったとき、久美子はショックを受けた。クラスを替えてもらえばいいと担任や教頭に訴えかけたが、「学年の途中で別のクラスに移ったら、却って目立って、またいじめの対象になりますよ」と言い聞かされ、断念した。

 それならば、いじめている相手を聞き出して親に注意しようとしても、透は何も教えてくれない。学校に「いじめている相手を退学させて欲しい」と抗議もしたが、「お宅の息子さんを転校させたほうがいい」と一蹴されてしまった。

 そんな騒動の最中も、隆太郎は「いじめられて泣き寝入りしているほうが悪い」と非協力的だった。久美子は精神的に追い詰められ、当時は病院で精神安定剤をもらって飲んでいたぐらいである。

 ――私はこんなに透のために頑張っているのに。どうしてみんな分かってくれないんだろう。

 久美子は今でも当時のことを思い出すと、歯軋りをしたくなるぐらい悔しくなる。

 その日も、久美子は庭に出て、ガーデニング作業にいそしんでいた。

 そろそろ関東も梅雨入りする。

 アジサイが涼しげな青い花を咲かせ、久美子の大好きなクレマチスが白、紫、ピンクの鮮やかな色で庭を華やかにしている。

 ――きっと、秘密の花園はこんな感じだったんだわ。

 時々、久美子は庭を見ながらウットリするのだ。

 汗をぬぐいながら花壇の雑草を抜いていると、「すみません」と誰かに呼びかけられた。見ると、門扉の外に、スーツを着た男が二人立っている。歳のころ40代の男と、その部下と思われる20代ぐらいの男で、二人とも初めて見る顔だった。

 ――何かのセールスかしら。

 久美子はとっさに身構えた。

「武山さんの家の方ですよね」

 年長の男のほうがにこやかに話しかける。

「はあ」

「私、浦安署の品川という刑事です」

「えっ、刑事?」

「ええ、1月にこの近くの公園でお婆さんが殺された事件がありますよね。あの件で、近所に一軒ずつ聞き込みをしているところなんです。ちょっとお話を伺えませんか」

「ちょ・ちょっとお待ちください」

 警察の者だと分かり、久美子は動揺して家に駆け込んだ。 

 今日は土曜日なので、隆太郎が家にいる。二階に駆け上がると、隆太郎はゴルフ練習場に打ちっぱなしに行くのか、出かける準備をしていた。

「あなた、刑事さんが来ているの」

 久美子は荒い息をしながら隆太郎の背中に呼びかけた。

「はあ? 刑事?」

 隆太郎は眉間にしわを寄せて振り向いた。

「1月に、公園で起きた殺人事件について話を聞きたいって」

「何で、うちに聞きに来るんだ。関係ないだろ」

「それが、近所にも一軒ずつ話を聞いて回ってるんですって」

「面倒くさいな」

 隆太郎はチッと舌打ちをして階段を降り、外に出た。

 二人は隆太郎に会釈をした。年長の男が、「浦安署の品川です」と再度挨拶をした。

「1月の末に、バス停の近くの公園で殺人事件が起きたのはご存知ですよね」

「まあ、えらい騒ぎでしたから」

「そのことで、2・3伺いたいんです」

 品川は、1月28日の深夜に犯行が行われた可能性があると説明し、そのころ付近で不審者を見なかったかと聞いた。

「さあ……そんな時間に出歩きませんから」

「そうですか。奥様は」

 隆太郎の後ろにいた久美子はおずおずと、

「私も、そんな時間には出歩きませんから」

 と答えた。

「そうですか」

「それにしても、どうして殺されたんですか、そのお婆さんは」

「どうやら、そのお婆さんは性格がきつくて、よく人に怒鳴り散らしてたらしいんです。近所でも疎まれていてね。まあ、年寄り特有の偏屈な性格なんでしょうけど。だから、近所でも亡くなってホッとしたっていう人が結構多いようです」

「はあ」

 隆太郎と久美子は困惑して顔を見合わせた。

「そのおばあさんとは何の面識もありませんし、お答えできるようなことは何もありませんが」

 隆太郎が言うと、

「そのおばあさんはバス停の近くのコンビニに、よく顔を出していまして。それも夜中にね。まあ、軽い痴呆症だったようです。そこでも、店員や客を怒鳴るので、迷惑ババアって陰では呼ばれてたそうなんですけど。そのコンビニで、お宅の息子さんをよく見かけるという情報があるんですよ」

 と、品川の目が鋭く光った。

「は?」

 隆太郎は露骨に眉をしかめた。

「仰ってる意味がよく分かりませんが」

「近所で聞いたんですが、お宅の息子さん、なんでも高校のときから引きこもりで学校に通ってなかったとか」

「それが、何か関係あるんですか」

「いえ、まあ、別に。バス停近くのコンビニで、深夜に息子さんをよく見かけるという話を聞きまして、確認のために」

「誰がそんなこと言ったんですか? ひきこもってるんだから、外になんか出ませんよ」

 隆太郎は興奮して、徐々に声が大きくなっていく。

「そうですか? 奥さんも息子さんが夜中に出かけることはご存じない」

「は・はい……私、夜寝るのは早いので」

「そうですか。とりあえず、息子さんにお話を伺えませんか」

「話って、何を」

「ですから、1月28日の深夜に出かけたかどうかの確認を」

「そんな必要ありませんよ。うちの息子は何の関係もありませんから」

「そうでしょうか」

 品川は意味ありげな笑みを浮かべた。

「コンビニで防犯カメラを確認したところ、1月28日の深夜12時から1時ごろにかけて、男性がコンビニで立ち読みしている姿が映っているんです。立ち読みって言っても、やけにそわそわしていて、挙動不審なんですけどね。その日も、亡くなったおばあさんは来てるんです。その男性は、あきらかにおばあさんの後を追って店を出てるんですよね。で、コンビニから遺体が見つかった公園は目と鼻の先なんですよ」

「だから、何ですか? それが息子だとでも?」

 隆太郎は完全に頭に血が上り、顔が赤くなっていた。

「じゃあ、その映像を、ここに持ってきてくださいよっ。俺が息子かどうか、判断するからっ。それと、何か? コンビニでおばあさんと一緒に店を出たら、人殺しになるのか? そんな理由だけで、人殺しって決めつけるわけか? それでネチネチ尋問して、息子を犯人に仕立てようと? うちの子はおとなしいから、尋問なんかしたら、怯えてやってなくてもやりましたって言うに決まってる。そんなの、冤罪じゃないかっ」

「まあ、落ち着いて。まずは、参考のために署でちょっと話を聞かせてもらいたいだけですから」

「あんたら警察がどんな卑怯な手を使うのか、知ってるんだぞっ。こっちは弁護士を立てる。話はそれからだっ」

「まあ、お父さん、そう怒らずに」

「うるさいっ、帰れ! 警察を呼ぶぞ」

 隆太郎が怒鳴ると、品川と部下は顔を見合わせて苦笑した。

「私たちが警察ですが」

「いいから、帰れ!」

「ハイハイ、分かりました。それじゃあ、改めて伺いますから」

 二人は素直に辞去した。

 隆太郎は家に入ると、怒りを隠そうともせず、ドスドスと足音を立てて階段を上る。久美子は慌てて後を追う。

 寝室に入ると、

「あなた、どうしましょう」

 と、久美子は小声で言った。青くなって震えている。

「あの子、まさか」

「バカッ、透が人を殺せるわけないだろ。あいつは昔から、虫さえ殺すのを怖がるぐらい、臆病だったんだぞ」

「そうよね、そうよね」

 久美子は自分に言い聞かせるように頷いた。

「ったく、引きこもりってだけで、人の息子を異常者扱いしやがって。近所のやつも、何を考えてるんだ、失礼な」

「でも、あなた」

 久美子は言いづらそうに、隆太郎の顔を見た。

「なんだ」

「あの子、夜中にちょくちょく出かけてるみたい」

「はあ?」

 隆太郎は眉を吊り上げ、目を見開いた。

「出かけてるって……どこに?」

「たまに、コンビニでお菓子を買ってきて、食べてるみたい」

「だって、そんなカネないだろ? ひきこもってるんだから」

 久美子は気まずそうに顔をそらした。

「お前、カネ渡してるのか? 前、ひきこもりには小遣いは必要ないって言っといただろ?」

「でも、あの子、たまにアニメのイベントとかにも出かけてるのよ。そのときはお金が必要だろうから」

「お前、何考えてんだよ。ひきこもって働こうともしないやつに、遊ぶカネを渡すなんて、マヌケもいいところじゃないか。そりゃあ、一生働こうとしないだろうがっ」

 久美子は黙り込んだ。

 部屋にいる透にも聞こえているかもしれないが、構わないと隆太郎は思った。

 隆太郎は荒い息をしながら腕組みをしてしばらく考えた後、

「いいか、このことは誰にも言うなよ」

 と、声をひそめて言った。

「このことって?」

「透がコンビニに出かけてることだよ。変に誤解されたら、話がややこしくなるから、誰から何を聞かれても、知らぬ存ぜぬで通せ」

「……ハイ」

「それと、もうカネは渡すなよ」

「……ハイ」

 隆太郎は大きく舌打ちすると、ゴルフバッグを持って部屋を出て行った。ややあって、玄関のドアが閉まる音が響き渡る。

 久美子はベッドに座り込んだ。家の中は静寂に包まれている。

 


 透はそっと窓から離れた。外が騒がしいので、カーテンの隙間から外の様子を伺っていたのである。

 ――オレ、映ってたんだ、防犯カメラに。

 ベッドに寝転んだ。部屋中そこかしこに漫画やアニメの写真集、ゲームのパッケージ、お菓子やジュースなどが転がっているので、唯一ベッドだけがくつろげるスペースだった。

 ――つかまるかな、オレ。

 警察につかまる様子を想像してみたが、恐怖心も焦燥感も何も感じない。

 ――まあ、つかまったら、その時はその時か。しょうがないよね。 

 ボリボリと体をかいた。

 ――それよか、さっきの夢の続きを見たいな。

 そう思い、目を閉じたが、空腹で腹がグウウと鳴り、仕方なく起き上がった。

 隆太郎が家にいるときは、久美子は部屋の前に食事を置いてくれない。それを見るたびに、隆太郎が「こんなやつに、食事なんて与えるな! 甘やかすから、出てこないんだ」と盆をひっくり返すからである。

 こういうときのために、コンビニで食料を買いだめしてある。

 コンビニの袋から菓子パンを取り出し、ぬるくなった水で流し込みながら食した。

 ――いい夢だったのになあ。国がテロリストに侵略されそうになって、俺が銃撃戦でそいつらをやっつけてさ。みるき~に似たかわいい女の子を助けてさ。理想的な展開だったなあ。

 みるき~とは、透が気に入っているアニメのキャラクターである。

 こんないい夢を見られるのなら、いつまででも眠っていたい。起きる必要なんかないのに、と透はいつも思うのだった。

 夢の中では、自分は自分として生きていられる。

 仲間と楽しく会話できるし、笑ったり泣いたり本気で怒ったり、時には人とケンカすることもある。仲間に頼られ、尊敬されることも、人を愛し、人から愛されることもある。こんなに充実した世界は、現実にはない。夢の中でだけ、自分は自分らしく生きていけるのである。

 遅い朝食を食べ終えると、久美子が階段を下りる音が聞こえた。ドアを開け、誰もいないのを確認してから、向かいのトイレに滑り込む。

 透の一日は、6畳の部屋で始まり、その部屋で終わる。

 部屋の外に出るのは、トイレに行く時と歯磨きする時、ごくたまにシャワーを浴びる時ぐらいである。それも、なるべく親が出かけている間に済ませているので、数ヶ月間親と顔を合わせないこともざらにある。最近は、隆太郎や久美子の顔をよく思い出せなくなっていた。

 透は隆太郎がなぜ透を責めるのか、理解できなかった。

 ――親に暴力ふるってるわけじゃなし。家でじっとしてるだけなのに、何がいけないんだろ。

 引きこもりを始めた日のことは、今でもよく覚えている。

 いじめが始まったのは、高校に進級してからだった。中学の時はアニメやマンガの話題で盛り上がれる仲間がいたが、高校でクラスがバラバラになり、一緒に行動する友人がいなくなってしまった。

 高校では、周りのクラスメイトは女子高の生徒と合コンを繰り返し、「この間、●●高のコとヤッた」と自慢げに話すような輩ばかりだった。自然と周囲から浮いてしまい、イジメの対象になるまで時間はかからなかった。

 それでも一年間は我慢したのである。

「大学に行けば、楽しいことがあるに違いない。卒業まで我慢しよう」と思い、いじめられても気にしないふりをしていた。

 だが、それも限界だった。

 高校2年になったばかりの頃、体育の時間の出来事だった。サッカーをしていた時、透の背中にボールがぶつかった。蹴ったボールが反れたのかと思ったが、振り向くとクラスメイトがニヤニヤしていたので、わざとぶつけたのだと気づいた。嫌な予感がした。

 案の定、また背中にぶつけられた。今度は、透は振り向かなかった。すると、「ゴール!」という掛け声とともに、強烈な一打が背中に当たった。前のめりに地面に倒れこむと、頭上を笑い声が飛び交う。

 透は無言で体を起こした。そこをまたボールが襲う。今度はあちこちから立て続けにボールをぶつけられ、透は頭を腕でかばいながら地面にうずくまった。それが余計に格好の的となり、ボールが次々と降り注ぐ。

 ボールをぶつけながら、みんなは笑って罵っていた。

「キモいんだよ」

「死―ね、死―ね」

 実際は、数分の出来事だったかもしれない。体育の教師が止めに入るまで、透は数十分もボールの嵐を浴びせられているような気がした。一言も発せず、砂の中に頭を隠すダチョウのように、ひたすら嵐が通り過ぎるのを待つだけだった。

 体育教師は「大丈夫か?」と心配することもなく、透を助け起こそうともしなかった。

「お前もなあ、なんで黙ってやられてるんだよ。情けないだろ、男のくせに」

 フラフラと起き上がった透に向って、あきれた口調でそう言い放ったのである。

「だって、こいつ、男じゃないし。チンコないっすから」

 誰かが言って、その場はどっとわいた。体育教師も一緒になって笑っていた。

 透はみんなに背を向けたまま、力なく歩き出した。涙すら出ない。

「おい」

 体育教師に声をかけられたが、振り返らなかった。そのままグラウンドを突っ切り、学校の外に出た。

 ――死にたい。

 ちょうど、前をトラックが走ってきた。その前に身を投げ出そうかと思ったが、体は無意識に避けてしまう。

 ――俺は、死ぬ勇気さえないんだな。

 透は「ハハ」と乾いた笑い声をたてた。

 それが学校生活最後の日だった。

 翌日から、透は学校を休んだ。ドアの向こうで隆太郎や久美子が何度も呼びかけ、ドアを叩き、久美子が泣きながら懇願しても、ドアを開けなかった。理由を尋ねられても、話す気になれなかった。

 透は自分でも意外だったが、ひきこもることで開放感を味わっていた。敗北感や挫折感もなく、わずらわしいものすべてから逃れられた自由を噛みしめていた。

 ――もっと早くにひきこもればよかったな。外に出なければ、人と会って話すこともないし、傷つくこともない。なんで、みんなわざわざ外に出ようとするんだろう? みんな、ちょっとしたことでムカついたり、傷ついたりしてんのに。誰とも会わなければ、ムカつかないし、傷つかないし、信じて裏切られたりもしない。人と話さないほうが、ずっと楽なんだな。

 透はトイレから戻ると、パソコンを立ち上げた。机の上もマンガやキャラクターグッズなどが散乱していて、マウスを動かすわずかなスペースだけ確保してあった。

 透はブログで日記をつけていた。ブログのタイトルは『生まれてきたのが罪』。ここ3年ほど、不定期に更新している。実名は非公表で、プロフィール欄には「男、高校中退、ひきこもり」と簡単に書いてあるだけである。

 ブログを始めた頃は、コメントがちらほらと書きこまれていたが、今は誰も訪れない。

 透は思いつくまま日記を書き、更新した。 


 ブログの更新10日ぶりになる一日中家にいて何も起きないから書くこともない。

 みるき~うぇいの最新刊も読んじゃったしダンジョンレジェンド5もクリアしちゃった。

 今日は緒悪の根源と無邪気な悪が朝から騒いでいて起きちゃった。

 せっかく夢の中でみるき~とセックスしようとしてたのにさあああああ。

 なんか警察が来て1月にあった殺人事件をいろいろ聞いたらしい。

 そういや、この前無邪気な悪に廊下で会って風呂に入れってうるさく言われた。

 ふけがひどい匂いがきついこれじゃまるでホームレスだって泣いてた。

 家にいるのにホームレス(爆。

 あいつは俺の顔を見るたびにあれこれ文句言うしどうしてこんなことになっちゃったのって泣くしマジうざい。

 お前らのせいだってのに。

 


 透が隆太郎を「諸悪の根源」、久美子を「無邪気な悪」と心の中で呼び始めたのは、中学校に入った頃である。

 人前でも怒鳴りつける威圧的な父親。自分のことしか考えていない母親。なぜこの二人の元に生まれてしまったのか。自分の人生の最大の失敗はそこにあると考えていた。

 幼稚園の頃から、二人が大嫌いだった。小学校に入る前、補助輪付きの自転車を買ってもらい、大喜びしていた透はすぐに憂鬱になった。補助輪なしで乗れるよう、隆太郎の特訓が始まったのだ。

 真夏の暑い日だった。隆太郎のお盆休みの間に乗れるようになれと、5日間朝と夕方の2時間ずつ、公園で特訓をした。バランスが取れずに、何度も転んだ。そのつど隆太郎に怒鳴られ、透は泣きながら自転車を起こしたのである。

 久美子は見かねて、「もういいじゃない」「そこまでしなくても」と何度か止めたが、隆太郎は聞く耳を持たなかった。そのかいがあったのか、5日目にはよたよたと漕げるようになった。

「やればできるじゃないか。トロい子でもできるようになるんだな。やっぱり、教え方がいいんだな」

 隆太郎は満足そうに何度もそう言った。

 いつもこの思い出とセットで思い出すのが、夏休みに隆太郎の実家に泊まりがけで遊びに行ったときのことである。

 4歳にして初めて会う祖父と祖母は、嬉しそうに透を出迎えた。

「透ちゃん、こういうの好き?」

 祖母はアニメのキャラクターが描いてあるTシャツを見せてくれた。そのキャラクターを知らなかったので、透は答えに困ってモジモジした。

「まあ、かっこいい。わざわざ買ってくださったんですか? よかったねえ、透ちゃん。ありがとうって言いなさい」

 久美子に促され、透はよくわからないままお礼を言った。翌日、久美子にそのTシャツを着せられた。その姿を見て、祖母は嬉しそうにしていた。

「よく似合うわよ。さすが、お義母さんはセンスがいいから」

 久美子はそう言い、朗らかに笑った。

 だが、旅行から帰るなり、久美子はそのTシャツを捨ててしまったのである。

「ダサいわよねえ。こんな頭の悪そうなTシャツ、着たくないでしょ、透ちゃん」 

 久美子の心底嫌そうな表情を見て、結構気に入っていたのに言い出せなかった。

 透は祖母の嬉しそうな顔を思い出し、しばらくの間、罪悪感に苛まれた。それから3年後、祖母は病気で他界してしまった。葬式の時、透は心の中で何度も「Tシャツを捨てちゃって、ごめんなさい」と謝った。あの世でそれを知った祖母が怒って幽霊となって出てくるのではないかと、しばらく一人では眠れなかったぐらいである。

 今までの人生は、振り返ると胸がひりひりと痛むような思い出ばかりを重ねてきた。懐かしく思い出すような、胸が暖かくなるような思い出は何一つない。家族で遊園地に行った時も食事をしに出かけた時も、いつも隆太郎や久美子の言動に傷ついた思い出ばかりが鮮烈な映像とともに残っている。

 諸悪の根源と無邪気な悪。この絶妙なあだ名を思いついた時、透は考え込んでしまった。

 ――二人の悪から生まれたんなら、俺は生まれたこと自体が罪なんだな。

 それ以来、ずっと自分はこの世にいてはいけない存在のような気がしていた。



 その日、久美子が買い物から帰ると、リビングのソファに透が座っていた。何日ぶりに姿を見たのか、もう思い出せない。

 テーブルには空の皿が置いてある。食べ終えた皿を一階まで持って来るのは、おねだりするときだと決まっている。

「お金ちょうだい。3万円ほど」

 透は着古したTシャツとジャージに身を包み、長い髪は寝起きでボサボサのままである。鼻には大きな吹き出物ができ、運動も何もしないので、ぶくぶくと肥っている。久美子は、この息子に対して今でも自分が愛情を感じているのか、時々分からなくなる。

「いいけど、何に使うの?」

「東京ビッグサイトの」

「ああ」

 また? と言いかけて久美子は口をつぐんだ。おそらく、アニメかマンガ関係のイベントだろう。出かける時はいつも小遣いを所望する。透にとって、そういう場所は唯一開放感を味わえる場所なのだろう。ずっと家にこもりきりでいるよりはまだマシだと久美子は自分に言い聞かせ、いつも金を渡している。

 久美子は財布から5万円を抜いて透に渡した。

「その服、古くなってるから、新しいの買ったら?」

 透は無言で5万円を受け取り、自分の部屋へ戻ってしまった。

 久美子が食器を洗っていると、階段を下りる足音に続き、玄関のドアが閉まる音が響いた。

 時計を見ると11時を回っている。おそらく、夕方までは戻ってこないだろう。

 久美子は急に開放的な気分になった。数時間ではあっても、頭を悩ませる息子が家にいない。そういう時は、「何をしようか」とウキウキした気分になるのだ。

 久美子はまず掃除を済ませようと、掃除機を持って2階に上がった。すると、透の部屋のドアがわずかに開いていることに気づいた。

 普段は中から鍵をかけ、久美子や隆太郎が足を踏み入れないようにしている。透がいないときに部屋に入ると、ものすごい勢いで怒られるので、めったに入らないようにしていた。

 急いでいたのか、ドアをきっちり閉めるのを忘れたのだろう。

 ――ちゃんと掃除してるのかしら。ダニでもわいてたら困るし。

 久美子はそっとドアを開けた。

 部屋の中は、まさに足の踏み場もない状態になっている。

 壁にはアニメのキャラクターのポスターやポストカードがベタベタ貼られ、マンガ本やイラスト集などが机や本棚だけではなく、床にも積み重ねられている。テレビの前にはゲームソフトが山積みとなり、スナック菓子の袋や空のペットボトルが散乱していた。

 部屋の隅には、ホコリをかぶったバイオリンケース。それを見るたびに、胸が締め付けられる。

 すえた匂いが立ち込め、久美子は思わず顔をしかめた。

「こんなところに籠ってたら、病気になっちゃうじゃないの」

 しばらく空気でも入れ替えようと部屋に足を踏み入れた時、足元にあったマンガの山にぶつかってしまった。マンガの山は雪崩のように床に崩れ落ちた。

「いけない」

 久美子はあわてて拾い集めた。元通りにしておかないと、部屋に入ったことがバレてしまう。マンガの表紙は、胸が強調されていたり、下着が丸見えになっている少女が描かれている。久美子はため息をついた。

 ――いつまで、こんなのに入れ込んでいるのかしら。まさか生身の女性とは一生セックスしないまま、年老いていくわけではないでしょうね。

 久美子は、ふとベッドの下にゴミ袋が押し込んであるのに気づいた。

「ヤダ、まさか生ゴミが入ってるんじゃないでしょうね」

 引っ張り出すと、ゴミ袋は持ち手の部分をしばってあった。

 ――カビだらけの食べ物が出てきたら、どうしよう。

 恐る恐る持ち手をほどくと、中からもう一枚ゴミ袋が出てきた。

 久美子は何も考えずに、そのゴミ袋も開けてみた。

「あら、ジャンパーをこんなところに入れて」

 中には緑色のジャンパーとジーパンが入っていた。取り出してみると、ジャンパーの胸からお腹にかけて、ジーパンも太ももの辺りに赤いものがこびりついている。

 それが血液だと気づいたとき、久美子は全身に鳥肌が立った。

 しばらく息を止めて、それらを見つめていた。



 隆太郎は、その日は朝から取引先と打ち合わせをしていた。

 冷凍食品のメニューに関して、なるべく国産の食材を使えないかと大手スーパーから要請を受けたのである。

「国産の食材を使うなら、やはり値段はそれなりに高くなりますな。高くなると、果たして消費者が購入するかどうか。もともと、この値段で買えるものだから消費者は手を出していたんでしょう。安全性など何も考えずにね。安かろう、悪かろうというのは当たり前の話。値段をとるか、品質をとるかの話なんですよ」

 隆太郎はスーパーの担当者二人に向かって、持論を展開していた。

「大丈夫ですよ、今の消費者はすぐに忘れますから。牛肉偽装なんて話、今はもう忘れちゃって、みんな国産と書いてあればどこのか分からない肉でも買っているでしょ? 中国産の食品は危険だってあれだけ騒いでたのに、今はみんな忘れて中国産の食品を買ってるじゃないですか。危険だって騒ぐのはブームのようなものなんですよ。一々過剰反応していたってしょうがない」

 スーパーの担当者らは顔を見合わせて、困ったような笑みを浮かべていた。

「そういうことではなく、食料自給率の観点からも、私達は国産の野菜を使った商品を目玉にして展開しようと」

 担当者が話し出したとき、隆太郎の携帯が鳴った。

「失礼」

 手に取ると、液晶画面に『自宅』と表示されている。

 無視したが、数分ごとに何度も鳴るので、同席していた部下に「しばらく頼む」と言い、スーパーの担当者らに会釈をしてから、会議室を出た。

「もしもし」

 不機嫌な声で電話に出た。

「今、会議中なんだよ。仕事の時は、急ぎでない限り電話するなって言ってあるだろ?」

 声を荒げると、久美子は

「そうなんだけど、それどころじゃないの」

 とかん高い声でわめいた。

「なんなんだよ」

 イライラしながら問うと、

「それが、それがね」

 と久美子は興奮していてまともに話をできない。

「早く話せって。もう電話切るぞ」

「ちょっと、待って。透の部屋で、見つけたの」

「何を」

「服を」

「はあ?」

「血の付いた服を」

「――なんだ、それ」

「わからない、血のついた服が隠してあって……ねえ、あなた、まさかこれって、あの子、公園での殺人事件に関係してるんじゃ。どうしよう、警察に」

「わかった、とにかく落ち着け」

 隆太郎は思わず大きな声を出してしまい、我にかえって辺りを見回した。

 声のトーンを落として、

「透は?」

 と聞いた。

「出かけてる」

「わかった。とにかく、昼休みに家に帰るから。それまで、それは元の場所に戻しとけ」

 と久美子に指示した。

 電話を切ると、隆太郎は自分の手が震えていることに気づいた。

 廊下の窓から外を見ると、雨雲が空を覆い尽くしている。予報では、大気が不安定なため午後には雨が降りだすと言っていた。

 隆太郎は自分の心にも暗雲が立ち込めていくのを感じた。



 昼休みに「昼を食べたら、そのまま取引先に行く」と部下に言い残し、隆太郎は家に戻った。久美子が青い顔をして出迎える。

「透は」

「まだ帰ってきてない」

「そうか」

 二人は透の部屋に入った。部屋の様子を見て、隆太郎は「なんだ、ひどい有様だな」と顔をしかめる。

 久美子はベッドの下からゴミ袋を取り出した。隆太郎は結び目を解き、中からジャンパーとジーパンを取り出す。

「――確かに血だな」

「ええ」

「ほかには何も入ってなかったのか」

「ええ、それだけ」

「そうか」

 隆太郎は服をゴミ袋に戻し、元のように持ち手を結んだ。手が震えて、結び終えるまで時間がかかった。

「これって、やっぱり、この間公園で殺されたお婆さんの」

「さあな。怪我しただけじゃないか?」

「そんな、怪我したのなら、隠す必要ないじゃないの。それに、こんな血が出るほどの大怪我だったら、さすがに私も気づくわよ」

「ひきこもってるんだから、何が起きても俺には分からんよ」

 隆太郎はゴミ袋を久美子に渡した。

「警察には電話するの? それともこれを直接持って行く? この間来ていた警察の人、なんて名前だったかしら」

「警察? 冗談じゃない」

 隆太郎は目を吊り上げた。

「凶器があるわけじゃないし、これだけじゃ何とも言えんだろ。思い込みだけでそんなに騒ぐなって」

 久美子は目を見張った。

「あなたまさか、このままにしておくつもり?」

「当たり前だ。透の血だったら恥かくだけだぞ」

「だから、こんなに大量の血が出てたら、普通は気がつくでしょ? それに、ベッドの下に服を隠してるなんて、おかしいじゃないの。一度警察に相談したほうが」

「お前、今の状況が分かってるのか?」

 隆太郎は苛立ち、声を荒げた。

「俺は数年後には常務になれるかもしれないんだぞ。常務になれば、ゆくゆくは社長にもなれる。ここまで来るのに、どれだけ苦労したと思ってるんだ。ここでもし、息子が殺人犯だなんて話になってみろ、昇格どころか地方に飛ばされるぞ。それどころか、リストラされるかもしれない」

「そんな、だって、それじゃ殺されたおばあさんの家族はどうなるの? 犯人を探してるんじゃないの?」

「この間の話じゃ、嫌われてたみたいじゃないか。家族もいなくなってホッとしてるんじゃないか? むしろ犯人に感謝してるかもしれないし」

「そんなの、分からないじゃないの」

「そんなに責任取りたけりゃ、お前が一人で取れよ。オレは関係ないからな。何も見てないし、知らないと言い張るからな」

「関係ないって、何よそれ。それじゃ、あなたは人殺しと一緒に住んでいられるって言うの? 私は、嫌。今じゃ、あの子、何考えてるのか分からないじゃない。自分も狙われるかもしれないのに」

 久美子は隆太郎に詰め寄った。

「私は警察に言うから。このままにしておくなんて、怖くてできない」

 隆太郎は思わず久美子の頭を拳骨で殴った。久美子は「痛っ」と頭を押さえる。

「お前な、もっと現実を見ろよ。もし透が捕まったら、ここにはもう住めなくなるんだぞ。近所からは好奇な目つきで見られて陰口を叩かれ、それでも平気で暮らしていけるか? まだローンも残っているこの家を売り払って、どこに行くつもりだ? それに、俺が仕事を干されたら、どうやって生活していくんだよ。お前はそこまで考えて警察に言うなんて言ってるのか? ガーデニングなんて、もう一生できなくなるんだぞ」

 久美子は頭を押さえたまま、俯いている。

「それに、今さら警察に行ったところで、なんで今まで隠してたんだって疑われるかもしれないんだぞ。俺らも共犯にされるかもしれない。冗談じゃないよ、そんなの。お前は捕まってもいいのか? 刑務所暮らしをしてもいいと思ってるのか?」

 隆太郎がまくしたてると、久美子は体を震わせて泣きだした。

「そんなに、責めること、ないじゃない」

 嗚咽を漏らしながら、隆太郎に抗議する。

 その様子を見ると、隆太郎は一転して、優しい声音でゆっくりと言い聞かせた。

「いいか、黙っていれば、誰にも分かりゃしないんだから。透にもな。透も、外では人を傷つけたのかもしれないけど、俺たちには何もしてないだろ? 知らんふりしてりゃ、今まで通りですむんだから。そのばあさんには、気の毒だけどな」

 久美子は涙に濡れた瞳で隆太郎を見上げた。昔は、久美子が涙を見せたら隆太郎は慌てふためき、必死で慰めて抱きしめたものだった。だが、今はうっとうしいという感情しかわいてこない。

「な、黙ってれば、誰にも分かりゃしない。大丈夫だから」

 隆太郎は久美子の肩を軽く叩いた。

「悪かったな、ついカッとなって、殴っちゃって」

 久美子はなおもしゃくりあげる。隆太郎は腕組みをして黙り込んだ。壁にかかっている時計の音が、やけに大きく響き渡る。

「それじゃ、私たちは何も知らないってことにすればいいのね?」

 ややあって、久美子が涙を拭きながら低い声で呟くように言った。

「ああ」

「あなたが、そう決めたんだからね。私はどうなっても知らないから」

 久美子は口をへの字に結び、ゴミ袋をベッドの下に押し込み、部屋から出て行った。

 隆太郎は大きく息をついた。

 ――まったく。あいつは、目先のことしか考えられないんだから。いつかあいつも、この決断が正しかったってことに気づくだろう。

 隆太郎も床に積み上げた本を崩さないように、部屋の外に出た。

 ――親不孝者め。なんで、あんな息子が生まれちまったんだ。本当に俺の子かよ。ったく、久美子の子育ての仕方が悪かったんだろうな。

 窓の外では大粒の雨が降り始めていた。雨粒を見ながら、もう二度と透とは関わりあいになるまいと隆太郎は心に決めた。

 ――就職なんかさせたら、会社で何するかわからんな。もう、あいつは一生部屋に閉じこもっていればいいんだ。それが一番、世間に迷惑をかけずにすむ方法なのかもしれんな。



 松金フミは、町田から友人4人と共に、巣鴨に遊びに来ていた。 

 雨が強くなってきたが、今さらスケジュールを変えるわけにはいかない。傘をさし、横一列に広がってのんびりと歩きながら、高岩寺に向かっていた。早くとげぬき地蔵に行って、甘味屋であんみつでも食べようとみんなで話していた。

「それにしても、何の罪もない老人が襲われるなんてねえ。老人ホームに入れないなんて、今は元気だけど、何かあった時に困るわよね」

 傘をさし、とげぬき地蔵に向かいながら、フミは友人に話しかけた。

「ほんと、恐ろしい世の中になったわ」

「昔は、もっと世の中がのんびりとしていたのにねえ」

「そうそう、車もこんなに走ってなかったしねえ」

 友人が口々に話し出す。

「お地蔵様に守ってくださいって、しっかりと拝まないとね。後、赤いパンツを買うの。今年のお正月に来たときに買ったら、すごく履き心地がいいのよね、暖かくて。東洋医学では、赤い色は体を温めるって言うでしょ。だから、赤いパンツをはくだけで丹田に力が自然と集まって、健康になれるんですって」

 フミがもう何度話したか分からないパンツの話をすると、友人はみなうんうんと頷き、「その店に行くのが楽しみねえ」「早くお参り済ませないと」と応じた。

 高岩寺に着くと、年寄りが数人、傘を差しながら、洗い観音をタオルでこすっていた。

「斉藤さん、とげぬきに来るの初めてなんでしょ、こっちこっち」

 フミは友人の一人を洗い観音の前に連れて行き、「これでこするのよ」とタオルを渡した。

「あら、たわしじゃないの?」

 その友人がタオルを受け取りながら尋ねると、

「昔はたわしでこすってたんだけど、観音様がすりへっちゃって、お顔がなくなっちゃったのよね。だから、これは二代目なの」

 とフミは教えた。

「へえ、そうなの」

 感心する友人の様子に、フミは満足した。

 フミと友人達は丁寧に観音をこすり、フミは観音様に向かって手を合わせた。

 ――最近は老人が狙われる怖い事件が相次いでいます。どうか、何事もなく寿命をまっとうできるよう、お守りください。それから、娘夫婦の家族もお守りください。孫は今年大学受験で……。

 数分間、祈っていただろうか。祈りを終え、目を開けると、友人達の姿は消えていた。フミのお祈りが終わるのを待ちきれずに、どこかを見に行ってしまったのだろう。

 ――もう、何も分からないのに、勝手に行動して。

 心の中で舌打ちをし、歩き出した時、レインコートを着た若い男が前から歩いてきた。

 ――アラ、珍しい。こんなところに若い男の子が来るなんて。

 フミは何気なくその男の顔を見た。野球帽を深くかぶっているので、表情までは見えない。背は低めで、かなり太っているのはレインコートの上からも分かった。フミは、その男も観音様をこするのだろうと思った。

「あの」

 すれ違いざまに、話しかけられた。フミは立ち止まり、振り返った。

 その時――。

 胸の辺りに衝撃を受けた。何かがぶつかったのだろうと胸を見ると、包丁が突き立っている。男は素早くその場を立ち去った。

 フミはそのまま動けずに固まっていた。

「フミさん、ねえ、あっちに」

 呼びに来た友人がフミの姿を見つけ、近寄ってきた。そして、フミの胸に突き刺さっている包丁を見た。

「えっ、やだっ、ちょっと、フミさん」

「何、これ」

 フミは呟き、友人の顔を見て、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。傘が手から滑り落ちる。

 友人の叫び声が辺りに響き渡る。

 ――赤いパンツを買いに行かないと。隣の大木さんにも、二丁目の原田さんにも頼まれているから、全部で5枚。大木さんには2枚、原田さんには1枚、私の分は……。

 薄れゆく意識の中で、フミは最期に「……パンツ」と呟いた。



 その日、透は6時過ぎに戻ってきた。玄関の鍵を開けて家に入り、階段を静かにあがって自分の部屋に入ろうとした。

 二階の廊下にいた久美子はギクリとして足を止めた。

「……ああ、ビックリした、暗かったから」

 久美子は慌てて壁のスイッチをつけた。廊下が明るくなる。

 透はアニメのキャラクターが書いてある紙袋と、コンビニの袋を持っていた。

 久美子はコンビニの袋を見て、「ご飯、買ってきたの?」と小さな声で尋ねた。平静を装おうと思っても、声に震えが出ている。あわてて咳をしてごまかした。

「うん」

 透は短く答えた。

「そう」

 それきり久美子が黙っていると、透はドアを開けて部屋に入った。久美子は全身で息をついた。いつの間にか、脇の下に嫌な汗をかいている。

 ――大丈夫、あの袋を見つけたことには、気づくはずはないんだから。大丈夫よ。

 自分に言い聞かせて、階段を下りた。



 透は部屋の電気をつけると、かすかな部屋の異変に気づいた。

 ――なんかおかしい。

 あちこちを見回し、ベットの脇に積み上げられているマンガの山に目をやった。

 ――順番が違ってる。オレは『みるき~うぇい』を一番上にしていたはずなのに。

 同じように積み重ねてはあるが、順番がバラバラになっていた。

「あいつ、部屋に入ったな」

 透は舌打ちした。

 そして、「もしかして」と床に張り付き、ベッドの下を確認した。そこには、ゴミ袋が押し込んである。引きずり出し、中を確認してみる。

「これには気づかなかったんだな」

 つぶやき、またベッドの下に押し込んだ。

 透はスマフォでLINEにコメントを打ち込む。


 みるき~   

 報告遅くなりました。

 巣鴨で一人やってきました。

 とげぬき地蔵に来ていたババアです。

 紫の髪の色の派手な害虫でした。

 包丁を刺したまま逃げてきました。

 これで証拠になりますか?


 メッセージを送信してから、ベッドに横になる。

 久しぶりに遠出をしたせいか、疲れで体が重い。たちまち眠気に襲われた。

 目覚めると、8時を過ぎていた。いくつかLINEでメッセージが届いていた。


 胸焼け   

 巣鴨の事件、3時ごろには報道されてましたね。

 うちのメンバーじゃないかな、と思ってました。

 包丁は刺さったままという情報と、被害者の顔写真は、夜のニュースで出ました。

 確かに髪は趣味の悪い紫色ですね。

 みるき~さん、これで二人目ですね。

 前回のネンキンもまだお支払いしてないので、2ネンキンをお渡しします。

 都合がよくなったら、いつでも連絡してください。


 代表   

 すごいですね、真昼間の巣鴨で、よく顔を見られずに逃げられましたね。 

 みんな害虫駆除を控えていたから、久々の快挙です。


 クジョレッド 

 巣鴨で殺すなんて考えつかなかった。

 そうだよな、あそこはジジババがウジャウジャいるんだから、

 いっくらでも殺せるよなあ。

 でも、これだけ騒ぎになっちゃ、難しいか。くそ。



 透は読みながら口元がほころぶのを感じた。嬉しくて、何度もメッセージを読み返す。

 ロージンブログを見つけたのは、偶然だった。

 何を検索していたのかは忘れてしまったが、ロージンブログが検索エンジンの上位に表示されたのだ。興味本位で開いてみて、老人ホームを放火したことを報告するコメントに気付いた。

 ――マジかよ。別に殺さなくたっていいじゃん。

 最初は、そう思った。

 それから数日後、コンビニに出かけたときに、店員に抗議する老婆を目撃した。

「なんでいちいち袋を分けるの? もったいないだろうが」

「そういう決まりになってるんでえ」

 大学生らしき男が答えると、

「あんたは自分の頭で考えるってことはできないのか? お弁当とアイスを1つずつ買うのに、袋を別々に分けるなんて、そんなもったいない話、聞いたことないね。最近の人は、ものを大事にするって考えがないんだね。なんでもかんでも、過剰に包装して」

 ――それは、冷たいものと温かいものを一緒の袋に入れたら、溶けちゃうからじゃないか。

 透は漫画を立ち読みしながら、心の中で突っ込みを入れた。

 男はあきらかに迷惑そうな表情をして、老婆の言葉を聞き流し、後ろに立っていた客に「お待たせいたしました」と声をかけた。

 すると老婆は、

「なに、その態度。あんた、どこの学校? どうせ、三流大学だろ? 礼儀を知らないなんて、恥ずかしいねえ。この店では、店員に礼儀を教えてないらしい」

 と大声で罵倒した。

 男は老婆を無視して、後ろの客に「750円になります」と告げた。

 老婆は苦々しい表情になり、手押しカートに袋を入れるとレジのそばに置いてある机に手押しカートをわざとぶつけた。きれいに陳列してあったマンガ雑誌が崩れ落ちる。

「あー、何するんだよっ」

 男が怒鳴っても、老婆は意に介さず、カートを押しながら店を出て行った。

 ――ああいうのが害虫って言うんだろうな。ロージンブログなら、退治する対象にされてたかも。

 そのときは、透は他人事のように思っただけであった。

 それからしばらくして、深夜にコンビニに行き、いつものように雑誌を立ち読みしていると、足に衝撃を受けて透はよろめいた。

「邪魔っ」

 見ると、先日の老婆が透を睨みつけている。どうやら、カートを透の足にぶつけたらしい。

「邪魔っ」

 老婆は再び言い放ち、カートを透に向かって押し出したので、体をかわしてよけた。

「ったく、そんなところにボーッと立っていて」

 老婆はブツブツ言いながらレジに向かう。

 透は動悸が激しくなり、思わず胸に手を当てた。

 邪魔だと言われても、通路の真ん中に立っていたわけではない。透の後ろを人が通るだけのスペースはある。

 ――なんなんだ、あのババア。なんなんだ、あのババア。

「はあ? お箸なんていらないよ。ここに付いてるのが、あんたには見えないのかっ」

 老婆は、レジを打っている中年の男に怒鳴りつけている。どうやら、今日は特別に虫の居所が悪いらしい。

 ――あいつは害虫だ。

 透は老婆を突き飛ばし、蹴り飛ばしたい衝動を必死で抑えた。

 ――今すぐじゃ、ダメだ。ちゃんと、計画を練らないと。

 カートをぶつけられた箇所は、青あざができてしまった。それを見るたびに、「あのババア」と殺意がふつふつと胸にわいてきた。

 そして、1月28日の深夜に決行したのである。

 その日も、老婆はレジで店員を罵倒していた。透は立ち読みするふりをしながら、その様子をチラチラと見ていた。

 老婆が店を出ると、透もすぐに後を追った。

 老婆は「よちよち歩き」という表現がふさわしいほど、ノロノロと歩いているので、距離をとりながら後をつけるのに苦労した。歩きながら「まったく」「今時の若いもんは」とブツブツ文句を言っている。

 老婆は、コンビニの近くの公園に入った。

 ――ラッキー。

 透は興奮して鼻息が荒くなっていた。真冬なのに、手足には汗がにじむ。

 深夜の公園に人影はない。透はジャンパーのポケットから軍手を出してはめ、リュックから包丁を取り出し、足音を忍ばせて老婆に近づいた。

 ――ゲームでも、よくこんな場面が出てくるよな。気づかれないように、敵を倒さないと。

 老婆は文句を言うのに夢中なのか、背後の気配に気づく様子はない。

 ――1、2、3!

 心の中でカウントし、体当たりするように老婆の背中を包丁で刺した。刺したときの感触は、何ともいえない。老婆は振り向かずに、叫び声もあげずにゆっくりと崩れ落ちた。

 倒れた老婆は、目と口を大きく開き、しばらく痙攣していた。透は肩で息をしながら、老婆を見下ろしていた。やがて、老婆は動かなくなった。

 透は、老婆をそのままにして去ろうかと思ったが、

 ――すぐに見つかると、マズイかも。

 と思いとどまり、老婆の足をつかんで、トイレの後ろに引っ張り込んだ。包丁を抜こうとしたが、緊張で手の力が抜けてしまったのか、なかなか抜けない。「ふんっ」と掛け声をかけながら抜くと、とたんに血が大量に吹き出る。顔や胸に血が飛び散り、透は小さな叫び声をあげて後ずさった。

 ――マズい、マズい。

 うろたえながらも、返り血を浴びたジャンパーを脱いで顔を拭き、包丁をジャンパーでくるんでリュックに入れ、家まで小走りに帰った。途中で誰かに会わないかと気が気でなかったが、深夜だったので家に戻るまで誰とも顔をあわせなかった。

 包丁は台所で洗って、包丁立てに戻しておいた。料理好きの久美子は、道具の管理も怠らず、包丁はよく切れるように研いであった。今でも、久美子はその包丁で料理をしているだろう。それを想像すると、「ホラー映画みたいだな」と透は少し愉快な気分になった。



 透は上機嫌で、アニメの主題歌を歌いながら、コンビニの袋からハンバーグ弁当を取り出した。すでに冷めているが、気にせずに食べ始める。

 久美子の作る料理はやけに凝っていて、ハーブや独特の香辛料がたくさん入っている。

 ――そういうんじゃなく、もっと普通の料理が食べたいのに。

 透はいつもそう思っていた。時折、無性にコンビニの弁当やカップラーメンが食べたくなり、買ってくるのだ。

 たまに、料理と一緒に出されるハーブティーは飲めずにいつも残している。

「エキナセアは風邪の予防にいいのよ」「セントジョーンズワートはストレスに効くみたい」などと、久美子の手書きのカードが付いている。

 それを母の愛情だと感じたことはない。

 昔から、「これを食べれば頭がよくなるから」と色々なものを食べさせられた。納豆、サンマ、イワシ、マグロ……毎日のように食卓に並び、透はハンバーグやオムレツを食べたいと何度も訴えた。だが、透の希望は聞き入れてもらえず、食べ終えるまで部屋に帰してもらえなかったのである。サプリメントを飲まされることもあった。

 それと同じで、ハーブを食べればひきこもりが治ると思い込んでいるのだろう、と透は考えていた。

「俺のストレスは、お前らだっちゅーの。お前らがいなくなれば、ストレスなんてなくなるっちゅーの」

 突っ込みを入れて、いつもカードはごみ箱に捨てている。

 今日は一仕事終えた自分へのご褒美として、デザート用のショートケーキやプリンも買ってある。ジュースを飲みながら弁当を食べた。子供の頃は、「甘いものを飲みながら食事をするな」と隆太郎に叱られたものである。その反動か、今はジュースを飲みながら食事をするほうが多い。

 それだけではない。夜更かしや朝寝坊、テレビを一日中つけっぱなしにしたり、ゲームを何時間もやったり、昔親に禁止されていたことばかりを実行している。隆太郎の前で頭をかきむしってフケをわざと落とすこともある。

 ――あんたらの子育ては失敗だったんだよ。

 透は隆太郎と久美子が戸惑う様子を見て、小気味よく思っていた。

 ――俺を産んだことへの復讐なんだ。こんな世の中、生まれてきたくなんかなかったのに。お前らの子供にもなりたくなんかなかったのに。お前らの嫌がる生き方をしてやるからな。これ以上、お前らの望み通りの人生なんか、送ってやるもんか。

 夕飯を食べ終え、透はベッドに横になった。

 今日の犯行を思い返してみる。

 我ながら、巣鴨でロージンを襲うのは名案だった。ロージンが大勢いるところのほうが、ターゲットはいくらでもいる。

 今回は包丁は刺したまま、レインコートや野球帽は途中の駅のゴミ箱に捨てたので、荷物を何も持ち帰らないという身軽さも自分では気に入っていた。包丁は家の近くのホームセンターで調達し、指紋を残さないよう、軍手をはめて凶行に及んだ。犯行の後は新宿のアニメ関係の本やグッズを売っている店に行き、店員に「この本のバックナンバーありますか」と尋ねて、顔を覚えてもらえるよう、数分間やりとりをした。精一杯考えられるアリバイをつくり、自分では完璧な計画だと思っている。

 最初の犯行と違うのは、ターゲットにした老婆には何の恨みもないという点である。まったく見ず知らずの相手を殺すのはどうかと躊躇する思いもあったが、ロージンブログの連中とLINEでやりとりするうちに、

 ――そんなに難しく考えなくてもいいか。

 と思うようになっていた。

 実際に犯行に及んでも、罪悪感も後悔もまったくなかった。

 ――近所でやるのはヤバいかもしれないけど、遠出した先で殺すんなら、簡単だな。またやろうっと。

 透は、過去のLINEを読み返した。


 みるき~   

 近所の公園でババアを刺しました。

 浦安の公園で後ろから刺しました。

 包丁を抜いたら血がいっぱい出てビックリ。

 ババアをトイレの後ろに隠してきました。

 いつもぼろいカートをガラガラ引いて怒鳴っている迷惑な害虫です。

 これもネンキンになりますか。


 胸焼け 

 みるき~さん、今ニュースで流れてる、浦安の公園の殺人ですね。

 発見まで1日かかるとは、見事な手腕です。

 ご苦労様でした。

 もちろん、1ネンキンお支払いします。

 下記のアドレスにご連絡ください。

 munemune@×××.ne.jp


 クジョレッド  

 いいね、勇気があるよ、みるき~さん!

 俺の近所にもカートを押しながら歩いているババアが結構いる。

 お前はカタツムリか?って突っ込みを入れたくなるぐらい。

 そういうババアを減らしてくれたなんて、サンキュ!


 代表

「包丁を抜いたら、血がいっぱい出た」って、すっげえリアルでビビりました。

 ホント、自分じゃ絶対できないクジョの方法。

 今度は抜かないで、そのまま逃げたほうがいいかも。

 これからも、目が覚めるような害虫駆除をよろしく!


 透は、このやりとりを数えきれないほど読み返していた。

 ――こんなに人に誉めてもらったの、久しぶりだな。

 今頃、テレビのニュースでは、巣鴨の殺人についてきっと大騒ぎしているだろう。

 だが、透は事件の報道にはまったく興味がなかった。殺した相手の名前や素性を知りたいとも思わないし、捜査の進行状況を知りたいとも思わない。ネンキンも欲しいと思わない。

 ただ死んだと分かれば、それで満足だった。

 ――これが俺の使命なんだ。害虫を駆除するのが、俺の使命なんだ。 

 透は満たされていた。それはゲームをしている時や、アニメを見ているときには得られない充足感だった。

 ――生きがいって、こういうことを言うのかもしんないな。

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