5月 飛火

 定岡順二は、自分は平々凡々な人生を送る、平凡な人間だと常々思っていた。

 まず、名前。とりわけ覚えやすい名前でも覚えにくい名前でもない。

「順一だっけ?」と聞かれて訂正することもあるが、「順番の順に一二番の二」といえば誰でもすぐに名前を書いてくれるので、説明では困らない。

 顔もいたって普通である。目は細く、鼻は低く、とりたてて特徴のある顔ではない。クラスではいつも「その他大勢」の一人で、顔でも勉強でもスポーツでもみんなから注目を集めた経験は一度もない。バレンタインにもらうのも、あきらかに義理チョコばかりだった。

 大学は偏差値50台の学校に入り、コンパやバイトに明け暮れるという普通の大学生活を送った。卒業後は中堅の食品会社に就職。給料はそこそこで、可もなく不可もない。一人暮らしを始めたときに選んだのも、家賃5万円台の普通のアパートである。加えて、今までつきあってきたのも、どこにでもいるような女ばかりだった。何から何まで普通で、個性のかけらもない人生だとしばしば落ち込むこともあった。

 そして、三人兄弟の次男である。兄の一博ほど親に期待されてはいないし、弟の裕三ほど親に甘えたわけでもない。

 そのうえ、親は小さな印刷会社を経営している。大企業の経営者でもなければ、とびぬけた技量をもつ職人というわけでもない。中小規模の出版社から依頼されたものを刷る、とくに特徴のない印刷会社である。

 ――俺は、すべてがそこそこのまま終わる人生なんだろうな。

 あきらめにも似た感情で、そう思っていた。

 あの日が来るまでは――。



 その日、勤務中に一博から電話がかかってきた。

「順二、いいか、落ち着いて聞けよ」

 そう話す一博の声は、今まで聞いていたこともないほど上ずっていた。ただならぬ様子に順二は息を止めて聞き耳を立てた。

「さっき、警察から電話がかかってきたんだ。親父とお袋とばあちゃんが、山梨で見つかったって……車の中で練炭をたいて、心中を図ったって」

 そこまでの記憶はあるが、その後一博が何を話し、自分はどう答えたのか、まったく覚えていない。ただ、道端に止めたトラックから荷物が次々と下ろされている光景だけは、なぜか記憶に残っている。そのトラックの赤が、不気味なほど鮮やかに映ったのである。



 斎場には、裕三の泣き声が響き渡っていた。

 3つ並べられた棺の前で、裕三はもう1時間も泣いている。

 涙を誘われた親戚が裕三の肩を抱き、なぐさめの言葉をかけても、裕三は一向に泣きやまない。やがて親戚もなだめるのを諦めて、別室に用意してある通夜ふるまいを食べに行ってしまった。

「じゃあ、元気出せよ」

「俺に何かできることあったら、いつでも連絡くれ」

 中学校のときのクラスメイト二人が、順二に声をかけ、去っていった。

 どこから聞きつけたのか、何年も会ってない旧友が次から次へと通夜に駆けつけた。みな気の毒そうな顔をし、順二をなぐさめ、励ましてくれる。なかには、好奇心満々でなぜ三人が心中を図ったのかを根掘り葉掘り聞いてくる無礼な輩もいた。

 順二は友人が帰るとどっと気疲れし、斎場の外にあるベンチに腰かけ、煙草を取り出した。警察で三人の遺体を見た時はさすがにショックで泣き伏したが、時間がたつにつれ冷静になってきた。

「なんだ、ここにいたのか」

 一博が順二の姿を見つけ、隣に腰をおろした。

「裕三は甘やかされて育ったから、しょうがないな」

 そう言いながら、一博も煙草を取り出して火をつけた。

「なんで教えてくれなかったんだよ。ばあちゃんの痴呆がひどくなってるって」

 順二はつぶやくような声で聞いた。

「親父もお袋も、お前と裕三には言うなって言ってたんだよ。心配かけたくないからって。それに、聞いたところで、何もできないだろ?」

「そんなことないよ。休みの日に帰って来て、介護を手伝うぐらい、できたのに」

「ばあちゃんのシモの世話、できるか? 親父もお袋も、相当参ってたぞ」

「まあ、それは厳しいかもしれないけれど……老人ホームの費用を負担するとかさ」

「お前にわずかなお金をもらっても、どうにかなる話じゃないんだよ。特養は空き待ちなんだから。有料老人ホームじゃ高すぎて、ずっと払っていくのはムリだし」

「ヘルパーは頼めなかったの?」

「頼もうとしたんだけど、それもダメだった。放火の事件で老人ホームから戻ってきた年寄りが多くて、そっちを優先するって言われちゃってさ」

「そうか……」

 順二はそれ以上何も聞けなかった。

「まあ、気にすんな。オレも昼間に徘徊するばあちゃんを探すのに疲れてたしさ。限界だったんだよ」

 一博は細く煙草の煙を吐いた。

「経理の溝口さんから、会社もかなり厳しいって聞いたけど……大丈夫か?」

「まあ、親父も最近はタダ働き同然だったからな。溝口さんも米村さんも加納さんも、みんな高齢で今さら再就職なんてできないから、親父はクビ切れなかったんだよ。俺らの給料を削って社員の給料を払うしかなくってさ」

「じゃあ、会社はどうすんの」

「オレが後を継いでも、厳しいのは変わりないからなあ。閉めるしかないんだろうな」

 一博は光を失った目でぼんやりと夜空を見つめている。その横顔にはしわが目立ち、白髪もかなり増えている。正月に会った時から数カ月で一気に老けこんだように見える。

「俺も、この歳になって再就職って言っても、難しいんだろうな。どうなるんかなあ」

 一博の吐く煙が、やわらかな夜風にかき消される。風の底には、初夏のみずみずしい香りが含まれていた。

「俺に何かできることがあったら」

「いいよ。お前は自分の心配だけしろ。お前に何かあっても、俺にはもう何もできないし」

 順二は黙り込んだ。確かに、自分は無力である。一博の家族を支えてあげられるほどの金銭的な余裕などない。

「借金も残ってるし、もしかしたら家を売ることになるかも。それを聞いたら、裕三はショック受けるよな」

 一博は短くなった煙草を揉み消しながらつぶやいた。

「ねえ、かずちゃん、ちょっと来てくれる」

 叔母が呼びに来たので、一博は「はい」と立ち上がると、会場に戻ってしまった。消えきらなかった灰皿の煙草から一筋の煙が立ちのぼる。

 順二は煙を目で追っていた。

 ――明日、親父もお袋も焼かれるんだな。

 そう思うと、急に涙がこみあげてきた。しばらく、流れる涙をぬぐいもせず、順二は煙草を吸っていた。



 両親の葬儀が終わって3日後、順二はアパートに戻った。

 葬儀には順二の勤めている会社の部長も参列し、しばらく有休をとるよう勧めてくれたので、有り難く休むことにした。

 ただ、遺品を整理した後は何もすることがなく、アパートに戻ることにした。

「もうこの家を見るのはこれが最後かもしれないから。覚悟しとけよ」

 帰り際に一博に言われた一言が、応えた。

 いつでも帰れるのだと思っていた家が、なくなる――順二が中学生の時に建てた、自宅兼作業場である。一階は作業場、二階が事務所、三階から五階までが自宅になっている。当時はビルに住んでいるのが誇らしかった。友人を招いたときに「カッコイイなあ」と言われると、「そうでもないよ。階段の上り下りが大変だよ」と照れ隠しで答えたものである。

 ビルを建てたときはバブル真っ盛りで、銀行からしつこく勧められて3億円もかけてビルを建てたのだと、ずいぶん後になって知った。バブル崩壊とともに、ビルは夢の城から借金の重石へと変わった。それ以降はメンテナンスをする余裕もなく、今ではコンクリートはあちこちひび割れ、階段の手すりは錆びつき、外観もみすぼらしくなっている。

 今は無性に、ビルを建てる前に住んでいた古い一戸建を懐かしく思い出す。あのころが一番、幸せだったのではないか――譲り受けたアルバムをパラパラとめくりながら、順二は感傷に浸っていた。

 そうしている間にも、スマフォにはメールがひっきりなしに届く。会社の同僚や上司のほか、あまり親しくなかったクラスメイトからも、「大変だろうけど、頑張って」といった励ましのメールが続々と届く。両親と祖母の心中は、ニュースやワイドショーで「老老介護の悲惨な結末」として取り上げられていたからだろう。何社かのテレビ局は、わざわざ自宅まで来て、近所の住民にインタビューをしたらしい。

「仲のいい親子でしたね。おばあさんを散歩につれて行っている姿を、よく見かけました」などと、インタビューに応じている人がテレビに映し出されていた。

「有名人でもないのに、ほかにネタはないのかよ」と一博はあきれていた。

 順二はメールをチェックするうちに、腹が立ってきた。

 ――なんだよ、こいつら、人の親の死に好奇心満々って感じでさ。もう何年も会ってないやつにメールもらっても、嬉しくも何ともないよ。あー、咲からも来てる。『今度、飲もうよ』って、何考えてんだ、こいつ。俺をフッてさっさと結婚したくせに。子供もいるくせに、飲もうよじゃないだろうが。

 返信メールを書こうとしたが、面倒になってやめた。

 ツイッターにもお悔みツイートがいくつか届いている。

 ――ツイッターで簡単に報告しておくか。会社や取引先の人もフォロワーになってるし。会った時にいちいち説明すんのも面倒だし。

 順二はツイッターにアップする文面を打ち始めた。


 一週間前、親父とお袋とばあちゃんが亡くなったって知らせがあった。練炭での心中だった。警察まで遺体を確認しに行った。三人並んで寝かされていた。つらかった。


 心中の理由は、老老介護。オヤジとお袋は60代で、ばあちゃんは80代。ばあちゃんは認知症になってた。正月に会ったときは、ちょっと物忘れがひどくなってるなって感じたけど、普通に会話もできてたから大丈夫だって思ってた。


 ここ数か月で、痴呆がかなり進んでたらしい。老人ホームに入れたくても、放火の件で新規は断られて、親父もお袋も相当悩んでたらしい。ばあちゃんは徘徊して、あちこちで迷惑をかけてたみたいだし。


 でも、死ぬことはないよな。家族みんなで力を合わせたら、なんとかできたかもしれない。でも、家業がうまくいってないこともあって、追い詰められてたらしい。遺書で何度も「ごめんなさい」ってお袋が謝ってた。泣いた。


 老人ホーム落ちた、日本死ね。36万人も、ホームに入れなくて困ってるんだろ?待機児童も大変だけど、数年経ったら小学校に入れる。でも、老人ホームに入れなかったら、家族は亡くなるまでずっと介護しなきゃいけないんだ。そっちのほうが深刻じゃないか。


 選挙のときは公約で待機老人ゼロを掲げる政治家もいるし、オレもそういう人に投票した。でも、待機老人の数が減っているのは、入居の条件を厳しくしたから。何の解決にもなってないじゃん。だから、日本死ね。オレの親とばあちゃんは死んだ。


 連続して投稿してから、畳に寝転んだ。

 何もしないでいると、両親の最期の姿が脳裏に浮かぶ。もう二度と開かない瞼。息をしない口元。体温をなくした体――。

 ――オレたち、これからどうなるんだろうな。

 天井を見上げてあれこれ考えているうちに、そのまま寝入ってしまった。



 スマフォのバイブが何度も震えていることに気付き、目を覚ました。

 見ると、「○○さんがリツイートしました」というメッセージが次々に届いている。

「えっ、えっ、なんだこれ」

 自分のツイートを開くと、さっきの投稿を2000人以上のユーザーがリツイートしていた。それをチェックしている間も、次々とメッセージが届く。

「これがバズるってことか」

 今までのツイートは、多くてもせいぜい10人ぐらいにしかリツイートされたことはなかった。たいてい、身内や知り合いである。

 それが、まったく知らない人たちが自分のツイートを読んでいるのである。コメントもたくさんついていた。


 SADAOKAさん、お悔やみ申し上げます。ご家族をこのような形で亡くされて、どんなにつらいことでしょう。どうか、無理をなさらず、ゆっくり休んでくださいね。


 うちのじーちゃんも待機老人です。ヘルパーさんの手を借りながら、なんとか自宅で介護してるけど……お袋がボロボロになっていてヤバい感じ。ホント、日本死ねよって感じ。


 お悔やみ申し上げます。待機老人ゼロは、民衆党も公約で掲げています。昨年は私の地元、埼玉で12軒の特養が新設されました。まだまだゼロにはできませんが、SADAOKAさんのような思いをするご家族を一人でも減らすために、今後も邁進します。


 テレビでよく見かける政治家もコメントをつけていたので、驚いた。

 それに対して、「こんなときに売名行為かよ」「埼玉の特養の情報、必要ないじゃん」と既にいくつもの批判コメントが集まっている。

「すげえ、すげえ」

 順二は興奮しながら、すべてのコメントに目を通した。

 ふと、あるコメントが目に留まった。


 誠にご愁傷様です。私も親を心中で亡くしているので、お気持ちはよく分かります。身内を心中や不慮の事故で亡くした人たちで家族会をつくっているのですが、一度会合に参加してみませんか?同じような痛みを抱えている人たちの話を聞けば、少しは心が軽くなるかもしれません。



 それは、「消化不良」という変わったハンドルネームの人からのメッセージだった。

「家族会か……」

 ――今すぐは参加する気になれないけれど、落ち着いたら出てみてもいいかもしれないな。他の人の話も参考になりそうだし。


 

 ゴールデンウィーク直後のうららかな日。

 蒲田駅近くの道路に大型の観光バスが停まり、乗客が集まるのを待っていた。

 すでに乗り込んでいる乗客は、まるで遠足に行く子供のようにはしゃいでいる。

「最近のバスはすごいわねえ」

「ねえ、サロンまでついていて、あそこでカラオケもできるんでしょ?」

「あら、柴田さんたち、さっそくビールを開けてる!」

「おーい、まだ出発もしてないのに、酒盛りには早すぎるでしょう」

 車内は笑い声で包まれた。

「ハイ、皆様、おそろいでしょうか」

 ややあって、女の添乗員が乗り込んできて、マイクを握った。

「私、今日、皆様のご案内をさせていただく、陣内理美と申します。色々不慣れな点もあると思いますが、よろしくお願いいたします」

 理美がぺこりと頭を下げると、とたんに拍手が起こり、「いよっ、理美ちゃん、かわいいねっ」「一緒にカラオケで歌おうよ!」と声がかかる。

「もう、やめなさいよ、みっともない」

 女性陣が眉をしかめると、

「理美ちゃん、みっともないおじさんばっかで、ごめんね! 今日は大変だよっ」

 と誰かが声をかけ、乗客はどっとわいた。

「ありがとうございます。出発に先立ちまして、いくつかのお願いごとがございます」

 説明を始めると、乗客のほとんどは理美の話を聞こうとせず、菓子をつまんだり、おしゃべりに興じている。理美は心の中でため息をつきながらも、にこやかに説明をした。

 その最中、無線で事務所とやりとりをしていたらしい運転手の顔が、みるみる険しくなっていく。

「えー、次はトイレ休憩についてですが」

「爆弾ってどういうこと」

「ハイ?」

 理美は運転手のほうを向いた。

「このバスに? 爆弾が? 本当に?」

 運転手の緊迫した声が、前の座席に座っていた乗客の耳に届いた。

「え、何? 何?」

「何だって?」

「ちょっと、聞こえないから、静かにして!」

 ただならぬ雰囲気に、乗客がようやく話をやめたとき、運転手は立ち上がり、

「今、事務所から無線で連絡があって、このバスに爆弾をしかけたという電話がかかってきたそうです。皆さん、落ち着いて、バスから降りてください」

 と車内に響き渡る声で伝えた。

 車内は水を打ったように静まり返る。理美は、突然の出来事にマイクを握ったままフリーズしていた。

 数秒後、ひきつった顔の乗客が乗車口に殺到した。

 運転手は突き飛ばされて運転席に転がり、階段の近くに立っていた理美は押されて、悲鳴をあげながら階段を転がり落ちた。道路に転がり落ち、うめいている理美の上を、乗客たちは踏みつけながら通っていく。なかには、理美の体につまずいて転ぶ乗客もいた。

「皆さんっ、落ち着いてっ、押さないでっ」

 運転手が必死に叫んでも、「どけっ」「早く降りろよっ」「やめて押さないでっ」という怒号にかき消されてしまう。

「ちょっと、押さないで、押さないで……あーっ」

 悲鳴とともに階段にいた乗客が将棋倒しになり、道路に頭から落ちる乗客もいた。

「た・大変だっ」

 運転手は、慌てて無線を取り上げた。



 クジョイエロー

 蒲田駅前で、スター観光の日帰り旅行に行くバスに爆弾をしかけたと電話した。

 ジジババがウジャウジャいて、いつもウザいんだよね。

 ちょっと脅かすつもりだったんだけど、なんだかすごい騒ぎになっちまった。

 救急車が何台も来てるよ。

 もしかして、ネンキン案件かも。


 胸焼け 

 ニュースを見ました。

 どうやら、大田区の職員のOB達の団体旅行だったみたいですね。

 添乗員の女性が巻き添えにあってるのが残念ですね。

 ただ、不可抗力ですから、ネンキンはお支払いしますよ。


 クジョイエロー 

 そうなんです。

 まさか、添乗員さんまで巻き込まれるとは思ってなくて。

 逃げようとするジジババに押されて階段から落ちちゃったみたいで。

 ジジババが、添乗員さんを踏んで逃げてた。 

 添乗員さん、助かるといいんだけど。


 クジョブルー

 ロージンが女の子を踏んで逃げたあ?

 そりゃあ、許せん。

 老先短い自分より、未来ある若者を先に逃がせよ。

 かわいそうに。


 胸焼け

 速報が出ましたね。

 乗客の女性、2名が死亡と出ています。

 とりあえず、2ネンキン確定です。


 

「――定岡さんのしたことは、社会に一石を投じることですよね。あの老人ホーム落ちた、日本死ねのツイートを読んで、そんな現状を知らない自分を恥じました、私は」

 目の前の男が、静かに順二に語りかけた。

「ご家族を三人同時に亡くされて、つらいなんて一言で言えるような状況じゃないでしょうけれど……今日は私たちに胸の内を話してくださって、本当にありがとう」

 男は深々と頭を下げた。

「いや、そんな」

 順二は顔が赤くなるのを感じた。

 その日、順二は会社帰りに新宿駅近くの貸会議室を訪れていた。

 ツイッターでコメントをつけていた消化不良と名乗る男から、「近々、家族会の集まりがあるので、参加してみませんか?」という誘いを受けたのだ。

 有給明けに会社に行くと、みんなから腫物扱いするような態度をとられた。

 ほとんど会話をしたことのない同僚から、「私に何かできることがあったら言ってね」と声をかけられたり、社長からも直々に「大変だと思うけれど、頑張ってくれ。我々も見守っているから」と激励の言葉をもらった。今まで怒鳴ってばかりだった上司にまで、「仕事、大変だったら言えよ」と優しい言葉をかけられ、最初は嬉しかったが、段々うっとうしくなっていた。

 同じような体験をした人なら、腹を割って話せるかもしれない。

 そう思って、家族会に参加することにしたのだ。

 会議室に集まっているのは、連絡をくれた消化不良のほか、若い女性や中年の男性など、7人いた。

 父親が借金苦で電車に飛び込んでしまった人もいれば、妻が不倫相手と練炭で心中したという人もいた。呼びかけてくれた消化不良は、一家心中の生き残りで、今でも胸と背中には傷が残っているのだという。

 ――俺より、よっぽど壮絶な人生を歩んでいる人がいるんだなあ。

 順二は自分の体験を話すのをためらったが、警察署で三人の遺体を見たという辺りで、何人かが涙を拭っていた。自分の体験と重ねあわせたのかもしれない。

 みんな、しばらくは周囲の反応が微妙で、気を使ってくれているのが却って重荷だったという。順二は、「そうそう、そうなんですよ!」と身を乗り出して頷いた。

 消化不良、本名は榊原だと名乗った男は、俳優にでもなれそうな美男で、切れ長の目が印象的だ。長身で、身のこなしも優雅なので自然と目を引く。周りの女も榊原をチラチラ見て意識していた。

「2、3か月に一度集まっているので、もしよかったら、また参加してください。もちろん、それ以外でも、何か困ったことがあったら、いつでも連絡してください。今日は定岡さんにお会いできてよかった」

 榊原に右手を差し出されて、順二は条件反射的に握手をした。大きい手だった。

 会議室を出てみんなと別れて駅に向かって歩いていると、「定岡さん」と呼び止められた。見ると、父親が電車に飛び込み自殺をしたと話していた、藤森という若い女性だった。みんなから、「南ちゃん」と呼ばれていた。

「よかったら、どこかで食事していきませんか? もっと色々、お話したくて」

「えっ……ああ、ハイ」

 南は、20代後半ぐらいに見える。色白で、肩にふんわりとかかる髪は明るい茶色をしている。ぽっちゃりした体型で、紺色のワンピースの胸元からは胸の谷間が覗いていた。

 順二のまわりにはここまでスタイルのいい女性はいないので、ドギマギしながら並んで歩いた。

「ええと、藤森さんは、今はお勤めですか?」

「旅行会社に勤めてるんです。小さな会社で、格安ツアー専門なんです」

「へええ、じゃあ、あちこちを旅して回って」

「そうなんです。でも、ツアーの先導は大変で。時間を守らない人もいるし、私が説明していたら、ウンチクを語り出して止まらないおじさんもいるし。ケンカをする人たちもいるんですよお」

 南は、鼻声で甘ったるい話し方をする。並んで歩いていると、甘いいい香りが鼻をくすぐる。香水をつけているのだろう。順二は、自然と鼻の下が伸びていた。

 南の勧めで、チェーン店の定食屋で食事をした。

 南は順二の緊張をほぐそうとしているのか、自分からあれこれ話した。

「定岡さんのツイート、私も読んだんです。お父さんのことを思い出して、泣けてきちゃって……。あのツイート、国会でも紹介されたんですよね」

「そうみたいですね、僕は中継を見てないんで、知らないんですけど」

「それだけ重要な問題だってことですよね。そのうち、定岡さんにインタビューの依頼が来たりして」

「いやあ……そこまでのことは書いてないっていうか」

「そんなことないですよ。多くの人が、あのツイートで考えされられたって言ってますよ」

「はあ」

「私、今日は絶対、定岡さんに会いたいって思って来たんです。榊原さんから、定岡さんが来るって聞いて、絶対行こうって思ってて。会えてよかった!」

 南はニコッと微笑んだ。順二は直視できずに下を向いた。

 ――オレ、今までの人生で、こんなにかわいい子から、こんなにやさしくしてもらったことなんかないよ! 親が心中で死んだら、こんな子にやさしくしてもらえるなんて、人生、悪いことばっかじゃないかも。

 南とは連絡先を交換して別れた。

 南は、順二の乗っている電車が出るまで、ホームで見送ってくれた。手を振ってくれる南に、順二も軽く手を振り返す。

 南の姿が見えなくなってから、しばらくニヤニヤしていた。

 ――どうすっかな。思い切って誘ってみたら、また会ってくれるかな。それとも、次の会合まで待ったほうがいいのかな。あー、今日は行ってよかった! 

 順二の乗った電車が去った後、南はスマフォを取り出し、電話をかけた。

「もしもし……うまくいったみたい。たぶん、向こうから次も会おうって連絡来るんじゃないかな。来なかったら、私から誘ってみるから……お金、よろしくね」



 平野清子は水から顔を出したとたん、鼻から大量の水を吐き出した。

「こいつ、しぶといなあ」

 と、そばにいた男が舌打ちをした。

「ねー、なかなか死なないねえ」

 小型のビデオカメラを回しながら、女が相槌を打つ。

「この方法、今度からやめような。時間かかるし、ひっかかれるしさあ」

 男はミミズ腫れができている左腕を恨めしそうに見た。

「ババアだから、おとなしいかと思ったけど、結構抵抗力あるもんなんだね」

「なあ、意外に面倒だったな。これじゃ、ネンキンを多めにもらわないと割が合わないよ」

 清子は遠くなる意識のなかで、二人の会話をぼんやりと聞いていた。

 30分ほど前、水道の点検に来たという二人連れがドアの外に立っていた。水道局の制服らしき服を着て、胸元には名札もつけているので、清子はためらうことなく二人を家に招き入れた。

「お風呂の水の出をチェックしますね」

 女が風呂場に行き、男は台所のシンクの下を開け、水道管を見ているようだった。

「ほかの部屋も今日点検だったの?」

「ええ。この団地、古いから定期的に点検しないと、知らない間に水が漏れてたりするんですよね」

「そうなのよ。この間、隣の部屋の人が蛇口を閉めても水が止まらないって騒いでたもの。ああなったら、大変よね」

「そうですね」

「うちなんか、去年、トイレがつまっちゃって、大変だったわよ。すぐに修理に来てもらったけど、つまったときに修理に来てもらうのも、嫌なもんよねえ。お宅は、そういうのも見てるの?」

「まあ、そうですね」

「そう、こんな汚い仕事をしているなんて、偉いわねえ。近頃の若い子は、汚れ仕事を嫌がるって言うじゃない? それで株とか簡単に金儲けに走っちゃってねえ。私が若いころは、働いて稼ぐのが当たり前だったのに。あんな、株なんて訳わかんないわよ。ニュースを聞いていてもさっぱり」

 清子がマシンガンのように話しているのを、男は作業をしながら適当に聞き流していた。

 15分ほど経ち、女が「風呂の水、入ったよ」と男に言いに来た。男は「了解」と立ち上がった。

「お風呂の点検が済んだので、確認していただけますか」

 女がにこやかに清子に話しかける。黒い髪を一つに結び、化粧はほとんどしていない、今時珍しく地味な女である。清子は好感を持ち、「ハイハイ」と喜んで二人について風呂場に行った。

 風呂場に入ると、湯船いっぱいに水が張ってある。

「あら、こんなに水を出して。止まらなかったの?」

 清子が眉をしかめると、

「蛇口の辺りを、ちょっと見てもらえますか」

 と女が背後から声をかけた。

 清子がしゃがんで蛇口を覗こうとしたとき、背後から頭をつかまれ、湯船の水に顔を沈められた。突然のことで、清子は混乱して鼻と口から思い切り水を吸ってしまった。顔を上げようとしても、しっかりと押さえ込まれているので動かせない。両手を振り回し、男の手を引っかくと、ようやく手の力が抜けた。清子は勢いよく顔を上げ、鼻と口から水を噴き出し、咳き込みながら床に倒れこんだ。

 ――何すんのよっ、死んじゃうじゃない!

 抗議しようと思っても、声を出す余裕はない。

「いってえ」

 男は舌打ちする。

「こいつ、ひっかきやがった」

「えー、大丈夫?」

 男は目を吊り上げ、清子の腹を蹴り上げた。清子は「ボグ」と奇妙な声を出し、おなかを押さえて体を丸めた。

「なんか、縛るもんない? ガムテでもいいから」

 男に言われ、女は「待ってて」と姿を消した。

 ――何、この人たち。

 清子は恐怖で体が震えていた。逃げようにも、ショックと痛みで体が動かない。タイルに転がり、震えながら、なぜ自分がこんな目に遭っているのかを必死に考えた。この二人には見覚えがないし、乱暴される理由も思いつかない。

 ――この人たち、誰かと間違えてるんじゃないの。

「私じゃ……ない」

 息も切れ切れに言うと、

「あん?」

 と、男が顔を覗き込んだ。

「誰かと、間違えてる」

「間違えてねえよ。あんた、平野清子だろ? 玄関で確認したとき、そうだって言ったじゃないか」

「……」

 確かに、そんなやりとりがあった。てっきり身元確認だと思い、何の疑問も持たずに「ハイ」と応えてしまった。

「俺達を恨むなよ。お前がいけないんだからさ」

 男はそばにあった浴室用の椅子に腰かけた。

「お前、嫁さんにひどいことばかり言ってるんだろ? 孫のしつけが悪いとか、男を産まないなんて欠陥品だとかさ。勝手に家にあがりこんで、嫁さんの大切にしてる服とか皿とか、趣味悪いって捨てたりしてんだって? 料理にも掃除にもケチをつけてばかりで、自分の家族からも嫌われてんだろ? 誰も同居してくれないから、こんなボロい団地で一人暮らししてるんだろ? あんたみたいのを、害虫って言うんだよね。んで、あんたの嫁さんから、お前を退治してくれって、それもできるだけ苦しめて、その様子を撮影してくれって頼まれててさ」

 ――嫁って、まさか。

「ほのかのこと?」

「さあ。嫁さんの名前までは知らないね」

 ――じゃあ、あんたたちは一体何者なの?

 尋ねようとしたとき、

「あったよ、ガムテ」

 と女が浴室に戻って来た。

 男は清子をうつぶせに転がし、背中を踏みつけた。全体重をかけたので、清子は「グエッ」と声をあげる。

「押さえてるから、口に貼って」

「ハイハーイ」

 女は陽気に答える。

 清子は「ちょっと、待って」とかすれた声をあげた。

 ――私の話も聞いて。お願いだから。私は嫁をいじめたりしてない。教育してただけなのよ。

 清子は女を見上げて訴えかけようとしたが、女は「ペタッ」と言いながら、清子の口にガムテープを貼った。

 ――あなた、女の子でしょ? あなたなら、こんなことしちゃいけないって、分かるでしょ?

 ガムテープを貼られた口でモゴモゴと訴えかけても、女は意に介さないようで、口元に笑みすら浮かべている。

 その隙に、両腕を背後に回された。

「早く、貼って」

 清子は腕を振り解こうとしたが、腕に爪が食い込むほどしっかりと押さえ込んでいる。女が手首をガムテープでグルグル巻きにした。次は足首を押さえ込まれ、そこもグルグル巻きにされた。

 いつしか清子は恐怖で涙を流し、失禁していた。

「こいつ、おしっこ漏らしてる。汚ねえなあ」

「ババアだから、ゆるいんじゃないの?」

 男と女は乾いた笑い声を立てる。

「さあてと。平野清子さん、お風呂の時間ですよお……って、重いなあ、こいつ」

「太ってるからねえ」

 男は清子の体を抱えあげて、再び湯船に顔を沈めようとした。そのとき初めて、女がビデオカメラで撮影していることに気付いた。

 ――おかしい、この人たち。

 抵抗する間もなく、放り出されるように湯船に身を沈められた。意識が薄れそうになったときに、引き上げられる。

「あっ、まだ生きてた」

 男はすぐに手を放す。清子は頭からざんぶと水に沈んだ。3・4回そんなやり取りが続き、

「こいつ、しぶといなあ」

 と、男が舌打ちをした。

「ねー、なかなか死なないねえ」

 ビデオカメラを回しながら、女が相槌を打つ。

「ガムテをとるか」

 口に貼っていたガムテープを剥がすと、清子は虫の息になっていた。

 女がカメラを清子に近づける。

「なんか、お嫁さんに対して言うことある?」

 清子は目を閉じ、かすかに息をするだけだった。

「ダメだよ、コメントもらうのなら、もっと早くにもらっとかないと」

 男が苦笑した。

「そっか。遅かったね」

「それじゃ、今度で最後でいいかな」

「いいんじゃない」

「ったく、ダイエットしとけよ、ババア」

 男は文句を言いながら脱力した清子の体を抱え上げ、引きずるように上半身を湯船に沈めた。

 水面に大きな泡がブクブクと立つ。やがて、その泡は途切れ途切れになり、プクンと最後に小さな泡を立てて静かになった。

「――逝ったかな」

 女は、ゆらゆら揺れている清子の後頭部と水面をズームで狙った。

「逝ったんじゃね?」

 ややあって、男は乱暴に清子をタイルに引きずり落とした。女は動かなくなった清子の姿を隈なく撮る。両目を苦しそうにつぶり、舌をダランと出している死に顔も、しっかりと撮影した。

「こんなもんでいいかな」

 女はカメラのスイッチを切った。

「これ、服を脱がすんだっけ」

「そうそう。風呂に入ってて死んだように見せかけなくっちゃね。でも、こんなババアの服脱がせたら、オレ、夢に見ちゃいそうだよ。もうぜってえ、勃たなくなる。ヤバイなあ」

 男はげんなりした表情でため息をついた。

「ネンキンのためだから、我慢するしかないって」

「まあね。仕方ない、やりますか」



「いいねえ、いいねえ」

 榊原は、書類を読みながら何度も声に出して頷いた。

 とある雑居ビルの一室。ドアの外には『ワイケイコンサルタント』と小さな表札が張ってある。

「この間、興信所に頼んでたやつ?」

 南がスマフォから目を離さずに聞いた。

「そうそう。愛しい順二君の情報。長男は親の連帯保証人になってて、借金を全部肩代わりして自己破産するらしい。妻と子供は実家に戻ってるって。弟は両親を失ったショックでウツになっちゃって、会社に行ってないみたいだね。社員寮を追い出されそうになってると。不幸の極みだねえ」

「ふうん」

 南は興味なさそうに相槌を打った。

「で、どうすんの」

「順二君には悲劇のヒーローになってもらうんだよ。彼ならピッタリだ。国民も彼になら共感するね、きっと」

 榊原は書類を置き、ウィスキーを飲んだ。

「それにしても、今回はずいぶん大がかりですね。いつもは南にカネを持ってそうな男をひっかけさせて、お金を巻き上げてるぐらいなのに」

 榊原のグラスにウィスキーを注ぎながら、隣にいた強面の男が言った。

「まあね、チマチマ稼いでるのもバカらしいから、大勝負に出ることにしたんだ」

「この間の家族会も、売れない役者を雇ってサクラにしたんですよね」

「そうそう。売れないだけあって、棒読みの人が多かったけれど、順二君に気づかれなくてよかったよ」

 榊原は軽く笑った。

「で、彼と連絡はとり続けてるだろうね」

 南は顔を上げないまま、

「まあね。LINEだけど」

 と答えた。

「それじゃあ、そろそろ次のステップに進んでもらうかな」

「私的には、順二って人より、元IT企業の金持ちのほうがいいんだけど。写真見たら、結構かっこよかったよね」

「今はそうでもないよ、貧乏になってブクブク太っちゃったから。彼はカネを稼いでいた時期に、相当女と遊んでたんだよ。だから南のような女は珍しくもないさ。グラビアモデルを嫁さんにしたぐらいだしね。今の彼には女じゃなく、カネが必要なんだ。順二君は今まで南のような女性と接点を持ったことすらないんだから、女をあてがうのが効果絶大なんだよ」

「まあ、それはわかるけど。この間もずっと胸を見てたし」

「頼むよ。彼を虜にして、言いなりにしてやってくれ」

「虜って、ふっるい言い方。いいけどさ。それで借金を帳消しにしてくれるんならね」

「もちろんさ。その役目さえ果たしてくれたら、借用書は破棄すると約束する」

「わかった。でも、あいつ、エッチは下手そうだよね。あんまり経験なさそうだもん」

 榊原は笑い声をあげた。

「まあ、順二君だけで満足しなかったら、俺が面倒みるからさ。その辺のアフターフォローも手を抜かないよ、俺は。こいつに相手させてもいいしね」

 隣の男を指さすと、「えっ、マジっすか」と男は興奮した。

「やめてよ、そういうの。キモいから」

 南は露骨に顔をしかめた。



「順二君、こっちこっちぃ」

 人ごみの中で、南が手を振った。

「ああ、ごめん。遅くなって。上司につかまっちゃって」

「ううん。忙しいのはいいことだよ。私の友達で派遣をしてた子は、派遣切られて大変だって言ってたし。仕事があるだけで幸せだよね」

 南は満面の笑みを浮かべた。

「早く食べに行こ。おなかすいちゃったあ」

 とたんに順二は目尻が下がり、鼻の下が伸びた。南にメロメロになっているのは自分でもよく分かっていた。

 南とはLINEでやりとりを続けて、勇気を出して食事に誘ってみたのだ。あっさりと、「行きたい!」とOKしてくれたので、順二はそのメッセージを読んで、「よっしゃー!」と雄たけびを上げてしまった。

 今日は5月最後の金曜日である。

 この一カ月は激動の日々だった。

「老人ホーム落ちた、日本死ね」のツイッターが拡散された後、国会で野党の議員が取り上げ、順二のツイッターのフォロワー数は5万人に達していた。

 それまで身の回りで起きた小さなことしかつぶやいていなかったので、意識して高齢者に関するニュースについてつぶやくようになった。そうすると、共感した何十、時には何百もの人からリツイートされる。それが嬉しくて、今は毎日、高齢者関連のニュースをチェックするようにしている。

 マスコミからも何件か、取材の申し込みがあった。だが、それほど話をできる材料はないと自分でも分かっていたので、丁重に断った。

 今までの人生で、こんなに人から注目を集めたことはなかったので、高揚した気分が続いている。今週は珍しく会議で発言して、上司から驚かれた。

 そして、南とのデートである。

 ――俺の人生、急に上向きになったのかもしれない。

「順二君、なにかいいことあった?」

 南が顔を覗き込んだ。LINEでやりとりを始めてから、互いを名前で呼び始めた。それも順二には嬉しい。

「あ、いやちょっと、部長に誉められたこと思い出して」

「へえ、よかったねえ。仕事でいいことあったんだあ」

 二人は予約していた居酒屋に入った。

「よっ。いらっしゃーい」

 ドアを開けたとたん、若い店員が一斉に声をそろえて出迎えてくれる。店はほぼ満員の状態で、賑わっていた。

「次の給料が出たら、もっといいお店に行こう」

 ビールで乾杯しながら順二が言うと、南は

「ううん、いいよお。お金大変でしょ? 一人暮らしは、なるべくお金かかんないようにしないと。この店は安いし料理がおいしいから好きなんだ」

 とビールをおいしそうに飲んだ。

 安い店でも喜んでくれる、その心遣いが順二には嬉しかった。

 二人は運ばれてきた料理を分け合いながら食べた。順二は最近会社で起きたことをあれこれ話し、南は「へえ、すごーい」「大変だねえ」と相槌を打ちながら真剣に耳を傾けてくれる。

 順二は「幸せ」という言葉をしみじみと噛みしめた。今まで味わったことのない幸福感だった。

 ――人生、捨てたもんじゃないよな。やっぱ、まじめに生きてきたから、神様がごほうびをくれたのかもしれない。つらいことばっかじゃないよって。父ちゃん、母ちゃん、オレ、何とか生きていけそうだよ。

 食事を済ませ、店の外に出ると12時を回っていた。道路のあちこちで、酔っぱらった人たちが騒いでいる。

 南は足がふらついている。

「大丈夫?」

「うん、これくらい、なんともなーい」

 南は完全に酔っぱらっている。

「タクシーを拾わなきゃ」

 大通りに向かって歩いていると、南は順二の腕にからみついてきた。豊満な胸が、腕に押しつけられる。

「ねえ、順二君の部屋に行っていいぃ?」

「えっ」

 順二は思わず立ち止まった。

「い・いいの?」

「うん、私の部屋、今散らかってるしぃ。順二君の部屋に行きたいなあ。迷惑ぅ?」

「ううん、迷惑なんかじゃないよ」

 順二は下半身が熱くなってくるのを感じた。

「じゃ・じゃあ行こうか」

 ちょうどそのとき、通りの向こうから空車のタクシーが来た。

 手を挙げて、止まったタクシーに乗り込む。

「高田馬場までお願いします」

 そういった声が、すっかり裏返っている。

 後部座席に乗り込むと、南がしなだれかかってきた。甘い香りが鼻をくすぐる。順二は逸る気持ちを抑えるために、窓の外に目をやった。道を行き交う人たちは、みな笑っている。

 ――ああ、みんな幸せそうだな。日本死ねって言っちゃったけど、やっぱ、そんなに悪くない国だよな。

 順二は、満ち足りた気持ちに包まれていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る