4月 火花
森山幸輔は、青梅東警察署の階段を重い足取りでのぼっていた。
美園ホームの放火事件から3カ月が過ぎても、犯人について何の情報もつかめていない。山奥の老人ホーム、しかも深夜の火災という悪条件が重なって、目撃者がまったく見つからないのである。
山のふもとには民家もあるが、付近にはコンビニも何もないので、夜11時以降に出歩くような人はほとんどいない。消防車が到着するまでにかなり時間がかかっているので、その間に犯人は悠々と逃げていったのだろう。
おまけに、園長の元が先月自殺してしまった。事件の関係者の死は少なからず心にのしかかる。
幸輔が席に着くと、待ち構えていたように部下の神戸卓郎が、「警部、お話が」と緊張した面持ちで話しかけてきた。
「今朝、匿名でホームの放火事件についてのタレコミがあったんです」
幸輔は顔色を変えた。
「『もしも世界からロージンが消えたら』というブログを見たほうがいいって。それで、調べてみたんですよ」
「なんだ、そのロージンが消えたらって」
神戸が自分の机の上のパソコンの画面を「これです」と示した。
黒一色の背景に、白い明朝体で、『もしも世界からロージンが消えたら』とタイトルが書いてある。タイトルの下には、「僕らの払った年金は、今のロージンたちの生活を支えるために使われています。若い世代は年金をもらえない。そんな理不尽な制度をこのままにしておいていいのか、考えてみませんか?」というリードが書いてあった。その背景には、街を行きかう高齢者の画像が貼ってある。
ブログのカテゴリは、「年金問題」「医療制度」「高齢者のモラル」「害虫退治」といった見出しで分けられていた。
「あんまり読まれてないブログなんですけど……。最初のころは、まじめに年金問題や医療制度について書いてあるんです。でも、昨年の年末ぐらいからコメント欄で過激な内容が交わされるようになったみたいで」
「過激な内容?」
「えーと……この辺りからですね、読んでください」
J孫
なんで、日本は安楽死が認められていないんだろ。
安楽死したほうがいいロージンは大勢いるのに。
代表
ホントに。
役に立たないロージンはどんどん始末したほうが、日本はもっとスッキリするのにって思います。
胸焼け
それなら、やってみますか。
私たちなりの安楽死。
魔男
それなら、害虫駆除ってことでどうかな。
安楽死だと、あいつらには表現がキレイすぎるwww
代表
いいですね、害虫駆除。
一匹始末するごとにお金をもらえるとか?
それを俺らのネンキンってことにするとか。
胸焼け
面白いですね、ネンキン制度。
それじゃあ、害虫を退治した人には、私からネンキンをお支払いします。
害虫(ロージン)1人につき、1ネンキンってことで。
「……なんだ、これは」
幸輔は呆れた声を上げた。
「こんな感じで、高齢者を殺す相談になっていくんです」
「まさか、こんな誰が書いたのか分からないことを真に受けるようなバカはいないだろ?」
「それが、そうでもないんです。出会い系サイトを簡単に信じるようなやつらばっかりですからね」
神戸があるコメントを見るよう促した。
代表
手始めに、老人ホームに放火してみました。
これで何ネンキン稼げるかな。
胸焼け
代表さん、ニュース見ました。
ネンキン第一号ですね、おめでとうございます!
いきなり、かなりの額のネンキンになりそうですね。
僕のツイッターにDMください。
投稿した時刻を見ると、美園ホームで放火のあった日時の20分後である。
「……この時間帯なら、まだニュースとかでもやってないよな」
「ええ、消防車が来て消火活動を始めた辺りですから、誰も知らないはずです」
「犯人以外はな」
幸輔はパソコンから顔を上げた。興奮して顔が高潮している。
「おい、これを書いているのが誰か、調べてみろ。警察だとバレないようにコメントを投稿して、やりとりしてもいいかもしれない」
「分かりました」
「もしこれが本当なら、えらいことになるぞ。親父狩りじゃない、老人狩りじゃないか。金に困っているやつがこのブログを見たら……」
幸輔は声を震わせた。
土屋峰子はいつも苛立っていた。峰子が苛立ってない日はないのではないか、と周りの人が思うほど、しょっちゅう何かにイライラしている。
その苛立ちの原因の一つ目は夫。定年退職した夫は、ゴルフや写真撮影などで毎日どこかに出かけて上機嫌で帰ってくる。だが、峰子を誘って出かけることはほとんどない。
夫が働かなくなってからも毎日食事を作り、洗濯や掃除をしているというのに、感謝されるどころか、「毎日テレビを見てゴロゴロしてるから、そんなにコロコロ太るんだよ」と冗談交じりに言い放ったりする。無神経さをなじっても、涼しい顔をして「そんなにカリカリしてると、血圧が上がるぞ」とまともにとりあってくれないのだ。
苛立ちの原因の二つ目は息子の嫁。最初から気にくわない嫁だった。
初めて息子が家に連れてきたとき、「結婚したら仕事をやめるんでしょ」と尋ねたら、「いいえ、続けるつもりです」とキッパリと言い切った。女は結婚したら家庭に入るものだ、子育てに専念するものだと言い聞かせたら、みるみる表情が曇り、黙り込んでしまった。
苛立の原因の三つ目は、嫁の言いなりになっている息子の雅人。
雅人は自分と同じ考えかと思いきや、「今の子育てには金がかかるから、二人で働かなきゃやっていけないんだ」と嫁を庇ったのである。
峰子が「結婚を急がなくても、もっといい人がいるんじゃないの? あの子はうちの嫁にはふさわしくない」と雅人に意見すると、「なんてことを言うんだ」となじられた。そのうえ、知らないうちに籍を入れてしまったのである。いつから母親の言うことを聞かなくなったのかと、あの時はショックでしばらく寝込んでしまった。
結婚して3年も経つのに子供が産まれないのだから、やはり自分の直感は正しかったのだと、峰子は本気で考えている。
雅人のためを思って、嫁にそれとなく離婚するよう促したが、反対に雅人からこっぴどく叱られた。仕方がないから、せめて子供が産まれるよう食生活を改善してあげようという親心で料理を作りに行ったら、嫁には激怒され、雅人には絶縁を言い渡されてしまった。ここまで息子のためを思って行動しているのに、なぜ嫌がられるのかがわからない。峰子がどんなに「あんたのためを思って言ってるんだ」と説得しても、雅人は聞く耳を持たないのである。
合鍵も返すように言われているが、息子の家の鍵を持っていて何が悪いのか、まったく理解できない。
近所の友人に話しても、「それは嫁が悪いわ」「今時の人は、非常識ね」と同意してくれる。自分には何も問題ないと周りの人は認めてくれているのに、息子夫婦と夫には理解してもらえない。
息子を産んで育ててきたのは自分である。その息子が自分よりも嫁を優先するのは、どうにも許せない。それは正当な怒りだ、と峰子は心の底から思う。
――やっぱり、あの嫁がいけないんだ。うちに嫁に来たんだから、旦那の親の意見に従うのが常識なのに。昔は、嫁に来る前にそういう教育を叩き込まれたものなのに、あの嫁の親はどこかポーッとしていて、世間知らずなところがあるから。実の親が何もしないなら、私が教育してあげるしかないでしょ。世の中の常識を教えてあげてるんだから、感謝されてもいいぐらいなのに、あの嫁は性格が捻じ曲がってるんだろうね。
峰子は、考えれば考えるほど、自分の行動は正しいとしか思えない。今日も片道2時間かかる息子の家まで電車とバスを乗り継いで出向き、嫁に説教するつもりでいた。
合鍵を使って家に入ろうとすると、鍵が開かない。しばらく来ない間に、鍵を替えてしまったようである。何度も鍵を差し込んでノブをガチャガチャ回しても開かないので、庭に回って中を覗いていると、隣の住人から「どちら様ですか?」と不審がられてしまった。
鍵が開かないのだと説明すると、「前住んでた方ですか? 今は、若い夫婦が住んでるんですよ」とトンチンカンなことを言われた。その若い夫婦の親だと言うと、「それじゃあ、なんで鍵が開かないんですか?」と却って疑われたので、引き上げるしかなかった。
往復で4時間を丸々ムダにしてしまった。
帰りの電車の中では、苛立ったあまり、優先席に堂々と座っている学生に向かって、「ここは高齢者が座る場所。学生は立ってなさいっ」と怒鳴りつけた。すると、男性は無表情のまま、「黙れ害虫、殺すぞ」と言い放った。慌てて電車から飛び降りた拍子にホームで転び、膝をすりむいてしまった。
今、沸点に達した怒りを抱えて、峰子は家に向かっていた。
この怒りをどこにぶつければいいのか。夫に話しても、「そりゃ災難だねえ」と軽く受け流されるのは目に見えている。雅人に電話して文句を言っても、勝手に家に押しかけたと分かれば、逆に怒られるだろう。
やはり、嫁をやりこめるしかない。嫁の親に電話をして、「お宅では、どういう教育をしてきたんだ」と抗議するしかない。そうすれば、さすがに親も不出来な娘を嫁にやったことを詫び、娘を叱るだろう――怒られて改心した嫁の姿を想像して、「フン」と鼻先で笑った時。
「あのお、土屋峰子さんですか」
と、背後から声をかけられた。振り向くと、黒い髪を一つに結び、紺のスーツを着た女が立っている。手にはめた白い手袋がやけに目立つ。
こんなに若い女の知り合いはいない。峰子は眉をひそめ、不信感を顕わにした。
「私、はなまるデイケアサービスの新井静と申します。雅人さんからのご依頼で、お母様のお世話を担当することになっておりまして」
「お世話?」
「はい、お母様は日中一人でいることが多いので心配だと、話し相手になってほしいと言われておりまして」
そこで静は峰子の膝の怪我に気づき、
「どうなさったんですか、その傷」
と目を丸くした。
「ああ、これは、電車から降りるときに転んでしまって」
「えっ、大丈夫ですか? 血が出てますよ!?」
「まあ、たいしたことないから」
「私、絆創膏を持ってますよ。これをお使いください」
静はバッグから絆創膏の箱を取り出し、峰子に渡した。
「あら、こんなの持ち歩いてるの?」
「ええ、仕事で必要になることが多いので」
静は微笑んだ。その笑顔を見て、峰子の警戒心はすっかり和らいだ。
「まあ、そうなの。ええと、名前はなんて仰ったかしら」
「新井です。新井静です。あ、名刺をお渡ししていなかったですね」
静はバッグから名刺入れを取り出し、丁寧に峰子に渡した。
その名刺を見ると、『はなまるデイケアサービス 荒井静』と、連絡先とともに名前が刷られている。
「まあ、雅人がねえ、私の知らない間に、こんなことを頼むなんて」
――あの子、私のことをちゃんと考えてくれてるんだ。やっぱり、優しい子だった。
峰子は思わず目頭が熱くなった。
「あの、どこかで傷口を洗ったほうがいいんじゃないですか?」
「ああ、いいのいいの、これぐらい。たいしたことないわ」
「そうですか、私車で来てるんで、家までお送りしましょうか」
「えっ、いいの?」
「ハイ、そのおケガでは、歩くのはお辛いでしょう」
「助かるわ、ここからうちまで、歩いて10分以上かかるの」
峰子は感激して泣きそうになっていた。
――やっぱり、神様はいるんだ。嫁に冷たくされている私を不憫に思って、こんなごほうびを用意してくれたんだ。
静の車は、近くの公園の脇に停めてあると言う。
「公園を突っ切って行きましょうか、そのほうが早いから」
静は峰子に合わせて、ゆっくり歩いてくれる。
「雅人とは会ったの?」
「ハイ、ご依頼があったときに」
「そうなの。あの子、ぶっきらぼうだけど、優しい子なのよ」
「分かります。『僕は気持ちを伝えるのが下手だから、いつもお袋とは衝突してばかりいる。本当は心配なんだけど、それを言うのは恥ずかしいから、こんなことぐらいしかしてあげられなくて』って仰ってましたよ」
「そう、そんなことを。そうよね、あの子は本当はそういう心根の優しい子なの。結婚して変わったのかと思ったけど、そんなことはなかった。優しいままだった」
峰子の声が震え、涙がポロッと零れた。すかさず静はハンカチを差し出す。
「やっぱり、あの嫁がひどいことを吹き込んでたんだ」
「嫁って、円香さんのことですか」
「そうそう。雅人から聞いてるの? あの人が嫁に来ることは、私は最初から反対だったの。だってね」
峰子は公園の遊歩道を歩きながら、定番ネタの嫁の愚痴を嬉々として話し続けた。
峰子は気づいていなかった。なぜ、静が自宅でもない場所で、自分を「土屋峰子」だと分かったのか……。
住宅街の一角にある公園は、夕方以降は誰もいなくなる。
静が公園から出てきた時は、一人だった。砂場の横で、アイスピックを胸に突き立てて倒れている峰子が発見されるのは、それから3時間も後のことだった。
クジョレモン
クジョレンジャーさんからの任務、完了です。
害虫を板橋区の住宅街の公園で駆除しました。
今日、一日後をつけていたら、鬼嫁さんの家にも押しかけていました。
やっぱりゴキブリですね。
鍵がかわってたのか、入れないようでした(笑)。
これでゴキブリが再び侵入することはないですね!
クジョレッド
クジョレモンさん、ご協力ありがとうございます。
初の女性の駆除隊の活躍、心強いです。
これからもお願いしていいですか?
クジョレモン
もちろんです!
私の友達でも、やってみたいって人がいますよ。
胸焼け
やりましたね。ニュースの冒頭で出ていました。
1ネンキンをお支払いします。
これで鬼嫁さんの悩みがなくなって、幸せになることを祈っております。
鬼嫁
クジョレモンさん、クジョレンジャーさん、胸焼けさん、ありがとうございます!
今、旦那と警察に向かってるところなんです。
旦那は完全にテンパッてます。
姑の死に顔を見たとき、どんなリアクションをとろうかな。
涙流して喜んでしまいそうな……(笑)。
ホントに、ホントに、ありがとうございます。
では、姑の死に顔を見に、行ってきます♪
その夜、幸輔は自宅で刺身を肴にしながら日本酒を飲んでいた。
晩酌は毎晩の習慣である。妻の正子は嫌な顔をせず、どんなに幸輔の帰宅が遅くなっても晩酌用の肴を用意して待っていてくれる。若いときは愛人をつくったりもしたが、50歳を過ぎたころに腰を痛めてから、性欲は少なくなっていった。今は仕事が終わるとまっすぐ帰宅する毎日である。
――俺も、歳をとったもんだ。
幸輔は、自分の体の変化を寂しく受け止めている。
正子は平々凡々でたいした面白みもない女だが、長年警官の妻として献身的に仕えてくれた。不在がちな父親の代わりにしっかりと二人の子供を育て上げ、息子は父親と同じ道を歩み、娘は海外に留学中である。
まさに幸輔が理想として思い描いていたような家庭である。定年を迎えたら、今までの罪滅ぼしに、正子と二人であちこちに旅行に行こうかと最近は考えている。
「ただいま」
息子の直行がダイニングに顔を出した。
「おう、お帰り。先にやってるぞ」
幸輔は軽く猪口を掲げた。
直行は立川市内の警察に勤めている。最近は盗難事件が相次いでいるので、日中のパトロールが以前よりも多くなったと聞く。
「ご飯、食べるんでしょ」
正子が尋ねると、「うん、着替えてくる」と直行は二階に上がった。
直行はジャージに着替えてくると、幸輔の前に座った。幸輔はお酒を勧めた。
「もうさ、くだらない通報ばっかだよ。ピアノの音がうるさいって隣の人に嫌がらせされたとか、近所に飼い犬に何日もエサをあげない人がいる、動物虐待じゃないか、とかさ。そんなこと、自分たちで解決しろよって感じ」
直行はお酒を注いでもらいながら、ため息混じりに報告する。
「まったくだ。何でもかんでも警察が解決してくれると思ってるんだから、始末におえねえよなあ。昔は自分たちで解決してたようなことまで、警察に頼もうとするんだから」
正子が直行の分の刺身と煮物、味噌汁、ご飯を運んできた。
「あら、ご飯はよかったのかしら」
「いいよ、すぐに食べるから」
直行は箸を取り、刺身に手をつけた。
「そういえば、お前、最近インターネットを見てるか」
幸輔は自分の猪口に酒を注ぎながら聞いた。
「まあ、たまに見てるけど」
「『もしも世界からロージンが消えたら』ってブログ、知ってるか?」
「何それ。本のタイトル?」
「いや。それがさ、今朝タレコミがあったんだよ。奥多摩の老人ホームの放火は、そのブログと関係があるって。調べてみたら、とんでもねえこと書いてあるんだよ。老人を一人殺したら、1ネンキンあげますって」
「1ネンキン? 何それ」
「さあな。カネのことだろう。そんなバカなことを真に受けるやつがいるわけねえだろうって思ったら、奥多摩の老人ホームに放火したホシが、事件が起きた直後にそこに投稿してるんだよ。『老人ホームに放火した、これで何ネンキンもらえるかな』って」
「へえ。本当にホシなの?」
「おそらくな。犯人しか事件を知らない時刻に投稿してるからな」
「へえ、すごいネタじゃん」
直行が身を乗り出した。
「それだけじゃない。今、全国で老人が大勢コロシにあってるだろ? それも、そのネンキンとやらをもらうのを目当てに、殺してるらしいんだよ。そのブログにいくつか殺害の依頼があるって、神戸が今、調べてくれてる」
「じゃあ、みんな同一犯?」
「いや、そうじゃなさそうだな。奥多摩のホシは代表っていう、そのブログを書いてるヤツで、後はクジョレンジャーとかいうヤツらが請け負ってる。つまり、全国にカネ目当てで老人を殺してるやつがゴロゴロいるってわけだ」
「へええ、本当ならとんでもない話だなあ」
「まあ、どこまで本当かはわからんけどな。1件ずつ調べてみないことにはわからん。でも奥多摩は確実じゃないかなあ」
「もしそれが本当なら、警察功労賞もんだよね。もう上の人には報告したの?」
「いや、もうちょっと調べてみないと、わからんから。いたずらかもしれんし」
「ふうん。俺もそのブログ、見てみよう」
直行は食べ終わると食器をキッチンに運び、自分の部屋に消えた。
「警察功労賞」
幸輔はつぶやいた。
――考えてもみなかった。確かに、あのブログをやってるヤツらがホシだとわかったら、えらい功績になるな。全国を揺るがすニュースになるだろうし、警察の面目躍如ってとこだ。功労賞どころか、勲功賞かもしれんぞ。そうなれば、俺も昇進間違いなしか。
「ようやく運がめぐってきたってことか」
震えるような興奮が込み上げてきた。
報道陣のフラッシュを浴びるなか、老人ホームの連続放火のホシがわかったと報告する署長たち。その席には、自分も座っているかもしれない。署長たちには答えられないような質問に、「それについては私から説明させていただきます」と話を始めれば、カメラは自分に集中するだろう。それが全国放送される……そんな光景を思い浮かべ、幸輔はニヤニヤした。
「どうしたの、嬉しそうね」
皿を下げに来た正子に指摘され、「いや、ちょっと思い出し笑いをしてな」とごまかし、残りの酒を一息に呑んだ。
直行は自分の部屋で、一心不乱にLINEをしていた。
クジョレッド
警察がブログを突き止めたらしい。
代表さん、即刻サイトを閉鎖してください。
みんなも、ツイッターのアカウントをすぐに削除したほうがいい。
これからは、LINEだけでやりとりするってことで。
しばらく害虫駆除はやめたほうがよさそう。
「なんてこった、ちくしょう」
幸輔は、何度目かわからないセリフを口にした。
パソコンを前にして、頭をかきむしる。
何度『もしも世界からロージンが消えたら』で検索しても、ブログはヒットしない。ほかのキーワードで検索しても、一向に出てこない。ブログは、たった一夜にして消えてしまったのである。
「昨日、家に帰ってからあのブログを見ようとしたんです。その時には、すでになくなっていて……」
「何時頃だ」
「えーと……11時過ぎですね」
「なんで、よりによって昨日でなくなっちゃうんだよ」
「分かりません……」
「お前、どんなコメントを送ったんだ」
幸輔は神戸を睨みつけた。
「え、あの……近所にうるさいババアがいて困っている、害虫退治してほしいって投稿したんです」
神戸はうろたえながら答えた。
「そのコメントに対する反応は」
「クジョレッドってヤツが、相談して後で連絡するってコメントで言ってました。怪しがられている雰囲気はなかったんですが……」
「じゃあ、なんでブログがなくなったんだ?」
「さっぱりわかりません」
「あー、もう」
幸輔は、そばにあったゴミ箱を蹴飛ばした。ゴミ箱が倒れて、中のゴミが散らばる。神戸が慌ててかき集めた。
「それで、どうしますか」
「どうもこうも、消えうせたんなら探しようがないだろ」
――警察功労賞は、もろくも消え去ったな。
幸輔は気持ちを切り替えるために、大きく息を吐いた。
「あそこに書いてあった案件を調べてみて、どうだった?」
「かなり量が多かったので、途中までなんですが……放火事件のほかに、一致するだろうと思われるコロシは、8件ありました」
神戸が資料を手渡した。
「でも、本当にお金が取引されていたかどうかまでは分かりません」
「そうだよな」
幸輔は資料をパラパラとめくり、ふと手を止めた。
「これ、隣の日の出町で起きてるな。2ヶ月前か」
幸輔は資料に目を通した後、担当者に話を聞くために受話器を取った。
「おまわりさん」
子供の声に、直行は振り向いた。
見ると、4・5歳ぐらいの幼女が、折りたたみの傘を持って立っている。その後ろでは、幼女の母親らしい女が笑みを浮かべて見守っている。
「これ、落ちてたの」
幼女が折りたたみ傘を直行に差し出した。
「ありがとう、偉いね」
直行は腰をかがめて、両手で傘を受け取った。幼女の顔を見て、微笑みかける。
「横断歩道を渡ったところに、落ちてたんです」
母親が、拾った場所を指し示した。
「わかりました。こちらで預かります」
幼女は母親に手をひかれ、直行に手を振りながら去って行った。直行も笑顔で手を振る。
立川の住宅街近くの交番。直行は入口前に立ち、通行人を見張っていた。
直行はこの任務が好きだった。制服を着ているだけで市民よりも格上のように扱われ、年配の人でも敬語を使って話しかけてくる。なかには、直行と目が合うと、気まずそうな顔をする者もいる。直行が睨むと、こそこそと逃げるように立ち去るのだ。自分の権威を実感できるので、直行は喜んで見張りに立っていた。
「森山、そろそろ見回りに行こうか」
先輩に呼びかけられ、直行は「ハイッ」と元気よく答えた。
「北小のあたりを見回ってくれる? 昨日の夕方、不審者がいたって通報があって行ってみたんだけど、誰も見つからなくてさ。今日もいるかもしれない」
「わかりました」
直行は自転車にまたがり、住宅地に向かって漕ぎだした。
住宅地の中には、小さな公園がある。幼稚園ぐらいの子供たちが5・6人、駆け回って遊んでいる。母親たちはベンチでおしゃべりに興じている。
直行は自転車を止め、周囲を見回した。とくに怪しそうな人物は見当たらない。
「あら、おまわりさんだ」
母親の一人が直行に気づき、指さした。直行は軽く会釈して公園に入り、母親たちに挨拶した。
「昨日、北小のあたりで不審人物を見たっていう通報があったんです。この辺で、不審人物は見かけませんでしたか」
「ええー、北小で?」
「うそお、やだあ」
「うちすぐ近くだよ、どうしよう」
直行の言葉に、母親たちは動揺した。直行はベンチ近くの砂場で遊んでいる少女二人をじっと見つめた。
「何作ってんの?」
少女たちに声をかけながら近寄った。
「えるさちゃんの家」
「まおちゃんはね、プール。けろちゃんとえるさちゃんが泳ぐの」
「ふうん」
一心不乱に砂の山を作っている二人の横に、少女の人形とカエルのぬいぐるみが転がっている。おそらく、それがえるさちゃんとけろちゃんなのだろう。
直行はしゃがみこみ、しばらく遊んでいる二人の様子を観察していた。
「おまわりさん、不審者ってどんなやつなんですか?」
母親の一人に尋ねられ、直行は腰を上げた。
「実は、まだよく分かってないんです。通報を受けて現場に行っても、誰もいなかったので」
「そうなんだ、怖いなあ」
「誰か見かけたら、警察に連絡をください」
「ハーイ、わかりました」
母親たちは声をそろえて答えた。
直行が公園から出ようとすると、
「ねえ、あのおまわりさん、結構イケ面だね」
と囁き合う母親たちの声が耳に届いた。
直行は苦笑し、自転車にまたがって公園から去った。
「醜いブタたち」
直行は自転車をこぎながら、つぶやいた。
――女ってのは、何でああも年をとると汚くなるんだろ。メイクでごまかしきれないほど肌が荒れていて、体型も崩れてて。座り方もだらしなかったなあ。女を捨ててるって感じ。人妻がいいっていう先輩もいるけど、俺はぜんっぜん興味ないね。気持ち悪ぃ。それに比べて、あの少女たちの可愛らしさときたら。母親がいなかったら、キスしてあげたいぐらいだね。
小学校に着いた。体育の授業をしている最中で、校庭では体操着姿の子供たちが並んでいる。
直行は自転車でゆっくりと学校のまわりを廻った。とくに不審者らしき人物は見当たらない。
そのとき、ポケットでスマフォが震えた。自転車を止め、スマフォを取り出すと、メールが届いている。同期の友人からだった。
今週の金曜日、看護婦と合コンやることになった。お前も来る?メンツ足りないんだ
直行は鼻先で「フン」と笑い、即座にメールを打った。
ごめん、その日は用がある。また誘ってよ
――すれた看護婦なんか、興味ないってえの。
メールを送り、顔を上げると、校庭では子供たちが駆けっこをしている。直行はメールを打つふりをしながら、さりげなくそちらにスマフォを向けた。
金網越しに、何回かシャッターを切る。撮った画像を、すぐにチェックした。
体操着姿で座り込んでいる少女、走っている少女、友達とじゃれている少女……どれも少女の姿が映っている。
そのとき、またメールが届いた。さっきのメールの返事かと思ったが、知らない女からだった。
ユカです。一ヶ月前に国分寺で会ったの、おぼえてる? また会いたいな。メールちょーだい
絵文字入りで読みづらい。
――こいつ、誰だっけ?
はじめは迷惑メールかと思ったが、1ヶ月前に国分寺で会ったというのがやけに具体的である。しばらくメールを見ながら考えているうちに、思い出した。
「なんだ、あの中坊か」
直行は顔をしかめてスマフォをしまった。
それは、出会い系サイトで知り合った少女だった。
おそらくにきびを隠しているのだろう、不自然なほどファンデーションを厚く塗っていた。サイトには17歳と書いてあったが、体型的にはもっと下に見える。直行が問い詰めると、渋々「14歳」と白状した。
もちろん、少女はそれが初めてではなかった。直行は中学生とセックスしたのは初めてだったが、感動も何もなかった。おそらく、肉やジャンクフードばかり食べているのだろう。肌は荒れているし、体臭がきつく、閉口した。男の体に慣れているのも興ざめだった。途中で気持ちが萎え、3万円を渡して、さっさと別れた。
――また小遣い欲しさに援交かよ。二度と会う気はないけどね。
直行は再び自転車にまたがり、パトロールに出かけた。
――やっぱり、今の女はダメだ。中学生でダメになってるんだから、いいのは小学生までだろうな。小学生とはまだやったことないけど、どんなんなんだろ。すっげえ、いいんだろうな。
その夜、幸輔が風呂からあがると、直行は夕飯を食べていた。時計を見ると10時を回っている。
「夜勤明けなのに、今日は遅かったんだな」
「うん、友達と会ってた」
直行は漬物をポリポリと音を立てながら食べていた。
「この間話したブログ、見てみたか?」
「うん、ちょっとだけだけど。すごいね、あれ。ふざけて誰かが作ったわけでもなさそうだし」
「まあな。でも、それがさ、次の日の朝見たら、消えてたんだ。いや、正確に言えば、その日の夜かな」
「消えてたって、どういうこと?」
「ブロガーが閉じたんだろうって神戸は言ってた。神戸が探りのコメントをつけたから、警戒したのかもしれない。放火事件の証拠はたった一夜にしてなくなってしまったとさ」
「マジで? もったいないなあ」
直行は眉間にしわを寄せた。
「それじゃ、放火事件のホシの目星はつかないんだ」
「まあ、そうだな。目撃情報も全然ないし」
「そうなんだ」
「ああー、せっかくの証拠だったのに。くそっ。思い出すだけで腹が立つ」
幸輔はタオルで髪をゴシゴシとこすった。
「まあ、でも、まったく収穫がなかったわけでもないんだ。そのブログ絡みと思われる殺人事件がほかに8件もあってな、そのうちの1件が日の出町で起きてるんだ」
直行は箸を止めた。
「日の出町? あんな田舎で?」
「ああ。2ヶ月前にね。殺されたのは、散歩に出かけた住民で、元教師のじいさん。青梅の小学校と中学校で教師をやってたらしいから、お前の通ってた学校の先生かもしれんな。田所雄一郎っていうんだけど、知ってるか?」
「田所雄一郎? さあ、そんな先生いたかな」
「そのコロシも目撃者はゼロ。警察は怨恨の線を洗ったんだけど、そのじいさんは正義感が強くて、まわりの人からは親しまれていたらしい。現場の付近にはオートバイの跡があるだけで、手がかりは何もないんだとさ」
「それがそのブログと、どう関係あるの?」
「神戸が調べたとき、2ヶ月ほど前に日の出町でじいさんを殺したっていう書き込みがあったらしい」
「へえー、そうなんだ」
「でも、管轄外だしなあ。ブログがなくなったら、手がかりもなくなったわけだし」
「じゃあ、お父さんたち以外に、あのブログを知っている人はいないわけ?」
「たぶんな」
「ふうん。もったいないねえ」
「まったくだよ。まあ、神戸はほとぼりが冷めたころに活動を始めるんじゃないかって言ってたから、当分は様子見だな」
「そっか」
直行は夕飯を食べ終わると、「ごちそうさま」と席を立った。
正子が「お風呂、わいてるわよ」と声をかけると、直行は「わかった」と返事をし、二階に消えた。
「本当に、最近はわけわかんない事件ばっかり起きて、怖いわね。出会い系サイトとか、あんなわけのわからないものを簡単に信じちゃってねえ」
話を聞いていた正子が、直行の皿を片付けながら言った。正子は、幸輔が抱える事件について首を突っ込むようなマネはしない。話の内容から、適当に当たり障りのない話をするだけである。
「まあな、やっぱり教育のせいだろうなあ。怪しいものには近寄っちゃいかんって、人間として基本の教育がなってないんだよ」
「うちは、お父さんを見習いなさいと教えてきたから、二人ともまっすぐに育ってくれたけど」
「そうだな、やっぱり親の教育だよ、人間がおかしくなるのも、真っ当に育つのも。真っ当に育てれば、真っ当に育つもんなんだよ、人間は。でも、今はおかしな親も多いからさ。本当に、嫌な世の中になったよなあ」
幸輔は大げさにため息をついた。
「森山、さおとめスーパーで万引があったって通報があったから、行って来てくれないか」
先輩に言われた時、直行は嫌な予感がした。
スーパーに着き、従業員室に入ると、その嫌な予感は当たっていた。
小柄な老婆が、うなだれてパイプ椅子に座っている。直行の姿を見ると、目をパッと輝かせて、笑顔になった。
「これで5回目ですよね」
うんざりした表情で直行は言った。
「そうかしら。またあなたが来てくれたのね」
「来てくれたって……」
直行は苦笑した。
「別に、あなただから来たってわけじゃないですよ。通報があったから、来ただけです」
老婆のそばに立っていた店長は、「すみません」と直行に軽く頭を下げた。
「で、今日は何を盗んだんですか」
「ネコ缶を3個です」
「あれ、ネコちゃんの食べるものだったのね。気づかなかったわ。だってねえ、国産とか、ホタテ味のパスタとか書いてあるんだもの。人が食べるものだって思うじゃない? ネコちゃんの絵が書いてあるから、かわいいなって思ったのよ」
老婆は早口にまくしたてる。
「人が食べるものにしろ、ネコが食べるものにしろ、盗んじゃいけないでしょうが」
直行がたしなめると、
「盗むつもりなんて、なかったの。ホントよ。カゴを持ってなかったから、バッグに入れただけなの。ちゃんとお金は払うつもりだったんだから」
と、懸命に老婆は言い訳をする。
店長は大きくため息をついた。
「もう、出入り禁止にするしかないですかね。来るたびに万引されて、通報していたら、こっちも仕事になりませんよ」
「その辺の判断はお任せしますよ。ここで逮捕したところで、罰金で済んだら、また店に来てやるでしょうし。あんまり効果があるとは思えないんですよね。こういう人たちは、懲りないでしょうから」
「まあ、一種の病気なんでしょうねえ」
店長が見下したような目で見ると、老婆の顔はみるみる赤くなっていった。
「病気じゃないっ、私は、万引きはいけないってことぐらい、わかってるわよっ」
「じゃあ、なんで何度も盗むの。毎回、もうやらないって泣いて頼むから、こっちも見逃してあげてたのに。もう限界だってば」
「今日は、本当に、盗むつもりじゃなくて、カゴを忘れちゃったから、カバンに入れただけなのっ」
「あー、もういいって」
店長が天井を仰いだとき、「店長、ちょっと」と細く開けたドアから店員が顔をのぞかせた。
「ちょっと、失礼します」
店長は直行に会釈して、出ていってしまった。
――頼むよ、こいつと二人きりにしないでくれよお。
心の中で直行は絶叫した。
「あの人はあんなこと言ってるけど、あなたはわかってくれるわよね? ね?」
老婆は懇願するように直行を見た。直行は視線をそらす。
「私もね、こんなことはしたくないの、ホントはね。でも、家にいても、誰もいないから寂しくて外に出ても、誰も私と話してくれないんだもの」
「その話、何回も聞きましたから」
「そうでしょ? だから、したくてするんじゃないのよ。子供の万引きとは違うの。子供は、本当にそれが欲しくてやるんでしょ? そういうのは悪質だけど、私はそうじゃないもの。人を困らせたくてやるんじゃないの」
「困らせてるじゃないですか。店長さん、すっげー困ってますよ」
「そんなことないわよ。店長さん、万引きする人の中には、開き直って全然謝らない人もいるって言ってたもの。私はすぐに謝るんだから、そんなに困ってないわよ」
「いやいや、そういうことじゃなくて」
直行は脱力した。
――これ以上、話してもムダだな。正論が通じる相手じゃない。害虫だ、こいつも。
「それより、この間ね、孫が高校に入学したの。お祝いに万年筆を贈ったら、今時そんなもの使わないって嫁にバカにされちゃって。じゃあ、何が欲しいのって聞いたら、現金が一番喜ぶですって。呆れてものが言えなかったわ。私が若い頃は、人からものをもらったら」
「あのさあ、そんなんで生きていて楽しい?」
直行は老婆の言葉を遮り、正面から冷ややかな目で見つめた。
「人から邪魔にされて、そんなんで生きていて楽しい?」
「えっ……」
「哀れだよなあ、身内から構ってもらえなくて、スーパーで万引きして話相手を見つけるなんて。俺なら耐えられなくて、自殺しちゃうね」
「……」
「近所のほかのスーパーやコンビニでも出入り禁止になってんでしょ? これからどこで買い物する気? 電車に乗って、隣の駅まで行くとか? そんな元気があんの? ヨボヨボなのに。もっと考えて行動しないとさあ」
老婆は口を半開きにし、瞬きもせずに直行の顔を見つめている。その黒々とした眼を見ているうちに、もっと痛めつけたいという衝動に突き動かされた。
「もう老先短いんだからさ、最後ぐらい、人の役に立つことをすればいいのに。そうでないと、生きてる意味がないじゃん。今のアンタ、社会的に死んでるのと同じだよね。誰にも構ってもらえず、記憶にも留めてもらえず、もう死んでるようなものじゃん。みんなの迷惑にならないよう、さっさとこの世から消えたら?」
一気にまくしたててから、直行は鼻先で笑った。
そのとき、店長が部屋に戻ってきた。
「お時間をとらせて、すみませんでした。今日はちょっとバタバタしておりまして。そのおばあさんは出入り禁止にすることにします」
と、直行に頭を下げた。
「そうですか」
「おばあさんも、もう帰っていいよ。二度とうちの店には来ないでね。来ても、入らせないから」
店長にキツイ口調で言われて、老婆は涙目で俯いた。
店を出てから、直行は入り口近くの駐輪場で、老婆が出てくるのを待った。
ややあって、老婆は背中を丸め、トボトボと店から出てきた。直行に気づくと、顔を引きつらせてから、背を向けて精一杯の早足で歩き出した。
――ムダに生きてたってしょうがないだろ? お前みたいな害虫は、死ぬのが世のため人のためなんだよ。死ぬのが怖いんだろ? 大丈夫だよ、俺が代わりに殺してやるからさ。
直行は老婆の姿が見えなくなってから、消えた方向に向かって自転車をこぎだした。
――今まで、管轄内のロージンには手を出さないようにしてたんだけど。こいつは始末してあげないとね。こいつのためにもね。バレないようにしなくちゃな。まずは住んでるところを突き止めて、それからゆっくり計画を練ろう。
いつしか、口笛を吹きながら自転車をこいでいた。
「最近、電車の優先席に座っている高齢者が襲われる事件が続出しています。つい3日前も、ここ総武線の千葉行きの電車に乗っていた81歳の男性が、優先席に座っていた30代ぐらいの男に注意したところ、いきなり突き飛ばされ、腰を打って全治1週間のケガを負いました。突き飛ばした男は電車から飛び降りて逃走し、まだ捕まっておりません」
ゴールデンウィークも間近の週末、幸輔は家でくつろぎながら、テレビを見ていた。朝の報道番組では、若いアナウンサーが深刻そうな顔をして、駅長らしき人物にインタビューをしている。
「――対策として、車掌の車内の見回りと、鉄道警備隊の巡回も増やそうかと検討しているところです」
駅長が緊張した面持ちでインタビューに答えている。
そのVTRの後、スタジオにいたコメンテーターがもっともらしい顔で、
「いっそのこと、優先席ではなく、60歳以上の限定席として法律をつくったらいいんじゃないですか。60歳以下の人が座ったら罰則を受けるぐらいにしなければ、高齢者に席を譲ろうという精神は生まれないでしょう」
とのたまった。幸輔は「とんでもねえなあ」と苦笑した。
「優先席なんてなくても譲るってのが、本来の思いやりだろうに、本末転倒だってえの。老人ウケするコメントを言いやがって、こいつ、選挙にでも出るつもりか? 今年、都議選があるんだろ?」
テレビに向かって批判している幸輔に、正子はお茶を出しながら、
「ホントにねえ」
と簡単に相槌を打った。
「直行はもう出かけたのか?」
「ええ、朝5時ごろに出かけましたよ。休みに長野まで春スキーに出かけるなんて、まるで学生みたいね。休みぐらい、ゆっくりしてればいいのに」
正子は呆れながら言った。
「いいじゃないか、健全な証拠だよ。老人を傷つけてるヤツらは、どうせニートだとか引きこもりだとか、世の中のゴミみたいな連中なんだよ。自分からは何もしようとしないくせに、社会のせいにばかりしているようなさ。直行のように仕事もまじめにやっていて、趣味も楽しんでいるようなヤツは、人を傷つけようなんて思わないって。ストレス解消のために、遊びたいだけ遊べばいいんだよ」
「そうかしらねえ」
「それに、どうせ一人じゃないんだろ?」
「えっ、どういう意味?」
「どうせ女の子も一緒だろ。デートだよ、デート」
「そうかしら、そんな話聞いてないけど」
「そうに決まってるって。30過ぎた男が、休みの日にわざわざ男だけでスキーに行くわけねえだろ。今度、その女の子をうちにつれてこいって、言っとけ。そろそろあいつも、所帯を持たなきゃな」
「ちゃんとした女の子ならいいんだけど……」
「大丈夫さ、あいつならまともな子を選ぶさ」
幸輔は満足そうにお茶を飲み干した。
「お願い……その子はやめて」
金井ゆきは掠れた声を上げた。
「やめて、美香は、その子だけは」
ゆきの背中には包丁が深く刺さっている。立ち上がろうにも、体に力が入らない。体が急速に冷たくなっていくのを感じた
まるで悪夢のような出来事だった。
「すいません」と玄関で呼ぶ声が聞こえ、てっきり宅急便でも届いたのかと出てみたのがほんの15分ほど前である。
警察の制服を着た男が立っていた。この辺では見かけない顔である。
「どうしたんですか」
ゆきは警戒心を顕わにした。
その男は警察手帳を取り出してゆきに見せ、
「先ほど、この辺で不審な人物を見たという通報がありまして」
と事情を説明した。
「ええっ!?」
ゆきは動揺した。
「今、お一人ですか」
「ハイ……いいえ、孫もいます。今日は主人と娘夫婦は隣の町に出かけてまして」
「おばあちゃん」
そのとき、孫の美香が奥の部屋から出てきた。美香はこの4月に小学校に上がったばかりである。警官の目が怪しく光った。
「おまわりさんだあ」
美香が無邪気に駆け寄る。
「あのね、この辺にさっき変な人がいたんだって」
「変な人?」
「最近、老人を狙った犯罪が多発していて、物騒ですからね。念のために、裏口も確認させてもらっていいですか」
「ハイ、あ、どうぞこちらから」
ゆきはスリッパを並べて、警官を招き入れた。
「ねえ、おまわりさん、飯田署の人?」
美香は無邪気に尋ねる。
「そうだよ、よく知ってるね」
「この間ね、学校におまわりさんが来てたんだよ。交通安全で。お兄さんも来たの?」
「いや、僕はそのときは参加しなかったから」
「ふうん」
ゆきは「こちらです」と、廊下から台所に警官を招き入れた。美香が後をついてくる。
「ねえ、星野さんって知ってる?」
「星野さん?」
「交通安全のとき、お話してくれたおじさん」
「星野さん、誰だったかな。警察には大勢人がいるからね」
「じゃあ、写真持ってくるね。みんなで写真撮ったの」
美香は階段を駆け上っていった。
「すみませんね、若いお兄さんはこの辺にいないから、珍しいんでしょ」
「いえ、かわいいですね」
そのとき、居間で電話が鳴った。
「あら、きっとおじいちゃんからだわ」
ゆきは居間に入り、電話に出ようとした。そのとき、背中に衝撃を受けた。警官が背中にぶつかったのかと、一瞬思った。振り向いたとき、警官は二・三歩離れた位置から、冷たい眼でゆきを見ていた。
「電話に出られちゃ、困るんだよね」
警官は抑揚のない声で言った。
「え?」
ゆきは自分の背中を見て、包丁が刺さっているのに気づいた。
「え? え?」
何が起こったのかわけがわからないまま、ゆきは崩れ落ちた。
「あなた、何を」
警官を見上げると、口の端をゆがめてぞっとするような笑みを浮かべた。
「お兄さん、この人、知ってる?」
そのとき、美香が写真を持って居間に入ってきた。
そして、倒れているゆきを見て凍りついた。短く悲鳴を上げる。
警官がゆきを跨いで美香に歩み寄る。
「お願い……その子はやめて」
ゆきはうめくように呟いた。
「美香ちゃん、逃げて、早く」
次の瞬間、美香は弾かれたように駆け出した。警官がすぐにその後を追う。玄関に飛び降り、ドアに飛びついたところを、警官が後ろから腕をつかんだ。美香は大声を上げる。警官は慌てて口を塞ごうとする。
「痛い、痛い、やめてえ」
ゆきは美香の悲鳴を聞き、這いながら廊下に向かった。
「やめて、美香は、その子だけは」
美香が暴れまわっている音が聞こえ、ゆきは必死で腕の力だけで前進した。
「美香……美香……」
廊下にたどり着く前にゆきは力尽きてしまった。
だが、そのほうがよかったのかもしれない。孫の悲惨な最期を見ずに済んだのだから――。
直行は東京に戻る特急電車の中で、メッセージを打っていた。
車内は比較的すいている。直行は座席を倒し、靴を脱いですっかりくつろいでいた。
クジョレッド
長野の飯田で害虫を一匹駆除してきました。
ババア一人と、ついでに孫娘。
ネンキン制度がスタートして初、家の中での駆除です。
家族がいつ戻ってくるかわからないから、スリル満点でした。
これでしばらくおとなしくします。
金欠なので、最後に一匹だけw
送信して数分経つと、メッセージが届いた。
胸焼け
ちょっと待ってください。どうして孫娘も入ってるんですか?
直行は即座に返事を打つ。
クジョレッド
家の中にいたから。顔を見られたし、仕方なかったっていうか。
胸焼け
でも、ネンキンはロージンを始末した人にネンキンを支払う制度です。
子供は含まれてません。それはあまりにも残酷です。
顔を見られたからって、適当にごまかして殺すのをやめればよかったのでは?
クジョレッド
今さら道徳を語るんですかwww
胸焼け
今、ネットのニュースを見ました。
もしかして孫の女の子をレイプしたんですか?
孫娘の美香ちゃんが乱暴して殺害されたって書いてありますが。
クジョレッド
まあ、そんなところかな。成り行きで。
胸焼け
残念です。
この制度は害虫であるロージンを退治するのが目的で、単なる殺人ではありません。
よって、今回の殺人についてはネンキンは支払えません。
クジョレッド
ふざけんな、ババア一人殺してるだろ?
胸焼け
今後はロージン以外は殺さないように。
ロージン以外の殺人には、お金は払いませんから。
「くっそ、なんだよ」
直行は苛立って声を上げた。
通路を挟んで横並びの席に座っているサラリーマン風の男が、チラリと直行を見る。直行は顔を見られないように、窓に顔を向けた。
――まあ、いいか、一回ぐらい。今日は最高だったなあ。おいしい仕事だった。まさか、孫がいるとは思わなかったよ。おかげで、はじめて小学生とやったけど、最高だった。肌なんかスベスベでさ、胸がぺったんこなのは残念だけど、まだ男を知らないアソコがよかったな。
「またどっかでやりたいな」
小さくつぶやいた。
――今日の交通費だけで結構かかっちゃったし、やっぱ、近場でやるほうがいいよなあ。この間の万引きババア、さっさと退治してえな。
直行は、いつしかウトウトと居眠りを始めた。一仕事を終えた後の、気だるい疲れが全身を包み込んでいた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます