3月 埋み火

 美園ホームの園長の元から連絡があり、京子は青梅駅の近くの喫茶店で待っていた。

 放火事件が起きてから、二か月が過ぎようとしている。その後、捜査は何の進展もないという話を聞いている。

 葬式が終わった後、生き残った入居者をほかの施設に預けるために、元たちは奔走していた。系列のホームも既に入居者でいっぱいで、家族の元に引き取られた入居者以外は、自治体が手配したスポーツ施設やコミュニティセンターで寝泊まりしていた。

 京子も、初めは手伝いに行っていたが、職員すべてに給料を払える状態ではないので、当面は好美など古参の介護士だけで世話をすることになった。京子は自宅待機となった。

 系列の他のホームで働くのは、場所が遠すぎて難しい。京子は次の仕事を見つけようと求人誌を見たり、ハローワークに通っている最中だった。

 現場検証の後、久しぶりに会う元は、一回り小さくなったように感じた。ところどころ黒髪が残っていたのが総白髪となり、髪の量はかなり減っている。顔には皺がやけに目立ち、頬はすっかりこけている。ほんのしばらく会わない間に人はここまで変わるのかと、京子は愕然として見つめた。

「ケガの具合はどう?」

「一月の終わりに抜糸したんです」

 京子は右腕をさすった。そこには、まだ傷跡がくっきりと残っている。

 その傷跡を見るたびに、とよを思い出す。とよに突き飛ばされたこと、涙を流してここで死ぬと訴えていたこと、置き去りにしてしまったこと……「ああするしかなかった」「つれて逃げるべきだったのでは?」と今でも、自問自答する日々が続く。

 ――これは、私が一生背負っていく十字架なのかな。

 最近はそう思うようになった。

「傷跡、残っちゃったの?」

「お医者さんは、いずれ薄くなるだろうって言ってました」

「そう、ならよかった」

 それきり、元は頼んだコーヒーが運ばれて来るまで口をつぐんでしまった。目の焦点は合っておらず、心ここにあらずという様子である。京子は話しかけるのをためらい、黙って窓の外を見ていた。

 コーヒーが来ると、元は機械的に砂糖とミルクを入れ、スプーンでかき混ぜた。京子はブラックのまま一口飲んだ。

「うちの会社は倒産する」

 元はつぶやくように言った。

「明日、民事再生を申請することになったんだ。遺族に賠償金を払うとなると、他のホームの利益でも賄えないってことになってね。元々、他のホームもカツカツだったし。破産手続きをとるしかないってことになった」

「それじゃ、他のホームの入居者はどうするんですか?」

「今、他の老人ホームを経営しているところに話を持ちかけてるんだ。一括で引き受けてもらうのは難しいかもしれないから、個別に売却するかもしれない。売却先さえ決まれば、入居者はそのままいられることになる」

「そうですか……」

 ある程度予想はしていたので、ショックは受けなかった。

 元は、掠れた声で淡々と続ける。

「それで、もしかしたら、先月と先々月分の給料を払えないかもしれないんだ。自宅待機にしておいて、申し訳ないんだけど。退職金も払えないと思う。入居者の遺族へ支払うお金を最優先しようっていう話になっていてね。せめて、京子ちゃんには、直接会ってそれを伝えておこうと思って。火事のとき、体を張ってみんなを守ってくれたからね」

「いえ、そんな……」

「ただ、会社都合で失業保険をもらえるよう、手続きはちゃんととるから。まあ、うちは給料安いから、もらえるのはわずかな額だろうけど。次の仕事が見つかるまで、生活が厳しくて申し訳ないんだけど」

「大丈夫です、何とかなります。貯金が少しはあるし」

 京子は元に心配かけないよう、努めて明るい声を出した。

 しばらく、二人は無言でコーヒーを飲んでいた。

 やがて、元が「これ、少ないんだけど」と、スラックスのポケットから封筒を取り出した。

「せめてお見舞金でも渡したくて」

「そんな、いいですよ。これから大変なのに」

 京子は封筒を押し返した。

「これは理事長からなんだ。京子ちゃんはあの夜、大変な思いをしたんだから、せめてこれぐらいは渡してほしいと預かっていて。退職金にもならないわずかな額で、申し訳ないんだけど」

 元の目は潤んでいた。京子はそれ以上断るわけにもいかず、

「……そういうことなら、分かりました」

 と受け取った。

「ほんっとうに、申し訳ない」

 元はテーブルに両手をついて、京子に向かって頭を下げた。

「そんな、元さんが悪いわけじゃないし、やめてください」

 京子はあわてて顔を上げるよう促した。

「いや、事件の後、今までほったらかしてたし」

「それは、後の処理とかで忙しかったからで」

「いやいや、経営者として、働いてもらっていた社員に何も連絡を入れないなんて、やってはいけないことなんだよ。本当に、情けなくてねえ。みんなには迷惑ばっかかけちゃってねえ」

 元は大きなため息をついた。自分を責めている元に何か慰めの言葉でもかけたかったが、適当な言葉を思いつかない。京子は無意味にコーヒーをスプーンでかきまぜていた。

「あの、好美さん達はどうなるんですか」

 京子の問いかけに、元はつらそうに、

「好美ちゃん達には、これから会って話をしなきゃいけないんだ。彼女達はずっとうちで働いてくれていたからね、ショックも大きいと思う」

「そうですよね」

 京子が自宅で待機している間、好美から何度か電話があった。

 好美は、「系列のホームで働くことになるかも。同じ系列なら、そんなに環境は変わらないだろうし」と話していたのだ。美園ホームで自分の居場所をつくりあげてきた好美は、居場所を失うことになる。あの年齢だったら、なおさらショックが大きいのではないかと、京子は思った。

「ああ、そうだ、忘れるところだった」

 元はジャケットのポケットから、一枚のメモを取り出した。

「京子ちゃんに会って話がしたいって、出版社から本社に連絡があったんだ」

「出版社?」

「今回のことで取材をしたいのかな。まあ、気が向いたら、連絡をしてみればいいんじゃないかな」

 元はメモを京子に渡すと、

「それじゃ、短い間だったけど、京子ちゃんにうちで働いてもらって、助かったよ。本当にありがとう」

 と、深々と頭を下げた。

 京子も、あわてて頭を下げて

「こちらこそ、色々と教えていただいて、ありがとうございます。お世話になりました」

 と返した。

「それじゃ、元気でね」

 元は最後に少しだけ微笑むと、伝票をつかんで立ち上がった。

 店から出て、その後ろ姿が見えなくなるまで、京子は見送った。

 ――もう会うことはないのかな。

 そう思うと寂しくなり、思わず涙がこみあげてくる。

 目元に浮かんだ涙を指で拭いながら受け取ったメモを見ると、連絡先が走り書きしてあった。

『平和堂出版 編集部 田口さん

 03―××××―××××』



「ねえ、ちょっと」

 突然、肩を叩かれて牧野香織は驚いて顔を上げた。見ると、太った老婆が、険しい顔つきをしている。

「あなた、なんでここに座ってんの?」

「はい?」

 香織は老婆の質問の意味が飲み込めず、首をかしげた。

「なんで座ってるのって、聞いてんのっ」

「なんでって……受付の方から、ここで待つように言われていて」

「よく見なさいよ、立って待ってる年寄りが多いのに、なんで若いあなたが堂々と座ってるわけ?」

 香織は改めて待合室を見渡した。

 小さな個人病院の待合室。20人ぐらいの老人がソファに鈴なりになり、大声で談笑している。壁際には、具合悪そうに床に座り込んでいるビジネスマンらしき男や、真っ赤な顔をしてマスクをしている女子学生、「もうちょっとだから、ガマンしてね」と子供をなだめている母親がいる。

 香織は昨晩高熱が出てしまい、朝になっても熱が下がらないので、この病院を訪れた。8時半から受付なので、10分前に行けば余裕だろうと思っていたが、ソファにぎっしりと座っている老人を見たときは、思わず「ウソでしょ」とつぶやいた。

 驚いている香織を見て、受付の女の子は小声で、「7時から来てる人たちなんです。毎日、こんな感じなんですよ」と教えてくれた。

「近くに、すぐ診てくれそうな病院はありませんか?」

 香織が尋ねると、

「どこ行っても同じですよ」

 と、気の毒そうな顔をして女の子は答えた。

「どれぐらい、かかります?」

「そうですねえ、1時間半ぐらいかかるかもしれません」

「そんなに……」

 香織はめまいがした。問診表を書き、熱を測ると、39度を超えていた。

「先生に相談して、なるべく早く診てもらえるようにしますね」

 女の子は席がすべて埋まっているので、パイプ椅子を出して香織を座らせ、さらに自分のひざかけを貸してくれた。香織は何度もお礼を言う。

 香織は会社に電話し、「午前中には行けないかもしれない」と事情を説明しなければならなかった。

 ――点滴を打ってもらうなりなんなりして、午後には会社に行かないと。3時からのプレゼンには絶対出なくちゃ。その後は倒れてもいいから、プレゼンだけは乗り切らないと。もー、なんでこんな大事なときに熱が出ちゃうんだろ。

 香織は朦朧とした頭で、熱が出た原因をあれこれ考えていた。

 老人たちは、みな思い思いに、おしゃべりに興じている。ふと、老人たちの会話が耳に入った。

「今日は、後藤さんは来てないの?」

「具合悪いから行けないって、さっきメールが来てた」

 ――ちょっとちょっと。どういうことですか? 具合が悪いから病院に行けないって……すごいなあ、コントの世界だわあ。

 香織は力なく笑った。

 9時を回って診察が始まると、さらに患者は増え、壁にかけられたテレビの音がまったく聞こえないぐらいに賑やかになった。香織はガンガン痛み出した頭を抱え、必死でこらえていた。

 9時半を過ぎたとき、病院に入ってきた老婆が香織を見て、目を吊り上げて突進してきたのである。

「あなた、なんでここに座ってんの?」

「はい?」

「なんで座ってるのって、聞いてんのっ」

「なんでって……受付の方から、ここで待つように言われていて」

「よく見なさいよ、立って待ってる年寄りが多いのに、なんで若いあなたが堂々と座ってるわけ? 私はね、7時過ぎにはここに来て、診察券を出したんだからっ。私のほうが先なのよっ」

「吉田さん、この方は40度近い熱があるんです、だから椅子を出したんですよ」

 見かねて受付の女の子が事情を話すと、

「私だって膝が痛いんだから、立って待ってらんないわよっ」  

 と老婆は一喝する。

「いえ、この方は40度もの熱が」

「床に座ればいいでしょ?」

「そんなわけには」 

「牧野さーん、お入りくださーいっ」

 そのとき、年配の看護士が診察室のドアを開けて香織を呼んだ。香織は

 ――助かった。

 と、腰を浮かしかけた。

「ちょっと待って。私のほうが先に診察券を出したのに、なんでこの人が先に呼ばれるわけ?」

 吉田と呼ばれた老婆は、すかさず看護士に食ってかかった。

「牧野さんは高熱を出してるんだから、早く診ないとって先生が」

「そんなの関係ないわよ、こっちは7時に来てるんだからっ。今日の順番は7番目だってちゃんと数えて、時間を合わせて戻って来たんだから。後から来た人が先に診てもらえるなら、順番は関係ないってことじゃない」

「吉田さんは点滴を打つだけですよね? 牧野さんの後にちゃんと診ますから」

「私も忙しいんだから、待ってらんないのっ。今日は午後から出かけなくちゃいけないんだからっ」

 ――うわあ、これがモンスターペイシェントってやつか。初めて見た。

 香織はさぞほかの患者も呆れているだろうと待合室を見渡して、驚愕した。老人たちはみな香織を睨みつけているのだ。老人以外の患者だけ、気の毒そうに香織を見ている。

「吉田さん、先に来てたんでしょ。入っちゃえば?」

「そうよ、入っちゃえ、入っちゃえ」

 ソファに座っていた仲間らしき老婆たちが、吉田という老婆を煽る。

「静かにしてくださいっ」

 看護士が一喝する。その隙に、老婆は診察室に入ってしまった。

「あー、ちょっと」

 看護士は慌てて連れ戻そうとする。

「よくやった」

 仲間の老婆が拍手をしているのを見て、香織は頭がクラクラした。

 ――どうしよ、この調子じゃ、プレゼンに間に合わないかもしれない……。

 数秒後、香織は椅子から床に崩れ落ちた。受付の女の子が悲鳴を上げる。

 倒れた香織が診察室に担ぎこまれている最中、床に座っていた男はすばやくメッセージを打っていた。


 クジョイエロー

 今、近所の病院に来てる。クジョすべき害虫を発見。

 ってか、ここにいるロージン、みんなクジョしたい。


 数秒後、メッセージが届く。


 クジョレッド

 了解。朝から任務、ご苦労様です。

 クジョ、ゴー! 



 吉田稲子は、太った体を揺らしながら、歩道橋を上っていた。一段上るたびに、右膝に響く。上から降りてくる人が、迷惑そうに体をそらせて稲子の横を通り過ぎる。稲子は脇によけようともしなかった。

「やれやれ。この歩道橋、エレベーターでもつけてくんないかしらねえ」

 ブツブツ独り言を言いながら上りきり、一休みをする。

 ――今日は、余計なことで時間をくっちゃった。

「あの子、病院で倒れるなんて、バカよねえ。あれで時間くっちゃって、こっちは1時間も待たされたんだから。最近の若者は弱っちいんだから、ホントに。私が若いころは、熱が出ても家事をきちんとやってたんだから。寝込んでる暇もなかったんだから」

 大きな声で独り言を言っていると、赤ん坊を抱いた若い母親が、怪訝そうな顔で稲子を見て追いこしていく。稲子は睨み返してやった。

「こんな風が冷たい日に、あんなにちっちゃい赤ちゃんをつれて外をウロウロ歩き回るなんて、赤ちゃんがかわいそうだね。風邪をひかないといいけど。私が若いころは、もっと気を遣ったのにねえ」

 若い母親に稲子の声は届いたろうが、振り向かなかった。いつものことだ。若い人に稲子が話しかけても、たいてい嫌な顔をされるか、無視される。稲子は随分前から、「若者」という存在を激しく憎んでいた。

 稲子は太った体を揺らして歩き出した。

「正輝の嫁も、まったく気遣いがないんだから。それでいて、私がアドバイスしてあげたら、嫌そうな顔をするんだからねえ。人の話を聞くっていう、謙虚な心がないんだから、あの嫁には。だから孫も生意気だしねえ。あれは教育が悪いよ。親の教育が悪い」

 聞く相手は誰もいないのに、壊れた機械のように稲子はしゃべり続けた。

 若い男が足音をしのばせながら階段を上り、少し距離をとって背後を歩いていることに、稲子は気づかなかった。

「よっこいせ」と掛け声をかけながら、階段を一歩ずつ降りていたとき。

 背中に衝撃を受けて、稲子の上体は前のめりになった。足が体を支えきれず、「わっ、わっ、わっ」と声をあげながら、稲子の体は宙に舞った。大きな体は、まるでボールのように一度大きくバウンドし、階段を勢いよく転げ落ちた。

 コンクリートの道路に叩きつけられ、稲子はしばらくうめいていた。

 誰かが顔をのぞきこむ。きっと助けに来てくれた人だろう、と稲子は意識が薄れていくなかでぼんやりと考えた。

「クソババア、さっさと死ね。害虫め」

 その男はそう吐き捨てて、早足で立ち去った。

 稲子の頭から流れ出た血が、路上を染めていく。

 稲子が発見されたのは、それから30分後である。完全に体は冷たくなっていた。



 クジョイエロー 

 西武線の井荻周辺で、害虫駆除完了。

 病院に点滴を打つためだけに毎日通う、アブラムシ系の害虫。

 体格はお相撲さん級。

 その存在だけでCO2の排出量が人より多い、環境破壊系の害虫。

 病院で40度の熱がある女の子にからんでいた。

 井荻方面の人、これで一人害虫が減って、住みやすくなりますた。


 胸焼け 

 夕方のニュース見ました。

 どうやら、事故で片付けられそうですね。

 お相撲さん級、環境破壊系という表現に爆笑しました。

 相変わらず、クジョレンジャーの皆さんの鮮やかな仕事ぶりと、ブラックジョークは秀逸ですね。

 1ネンキン、ご用意します。


 代表 

 オレも近くの病院で害虫を見つけたら退治します。

 社会貢献、乙です。



 京子はホテルのロビーにある喫茶店にいた。そわそわと辺りを見回し、何度も腕時計を確かめるが、約束の時間までまだ10分以上ある。

 ――早く来すぎちゃったな。

 ほかにすることもないので、ウエイトレスが運んできた水を口に運ぶ。

 京子は三日前の電話でのやりとりをもう一度、頭の中で再生させた。

「桂木さんが美園ホームのHPでブログを書いていらっしゃるのを拝読しまして、ぜひそれを素材にして、本をつくれないかと考えているんです」

 平和堂出版の編集者である、田口冬実という女性はやわらかな口調で切り出した。

「えっ、本ですか?」

「ハイ、単行本なんですが、一冊にまとめられないかと考えておりまして」

「でも、3か月分しか書いてませんよ」

「本にする際は、ブログをそのまま掲載するのではなく、普通の本のように1章ごとにテーマに沿って文章をまとめる形で考えています」

「えっ、そんな、私文章書くのは苦手なんです。ブログは、友達にメールを打つような感覚で書いてみてって園長から頼まれて、気楽に書いていただけですから」

「そうですか。もしご自分で書くのが難しいようでしたら、プロのライターさんに書いてもらうこともできますから」

「プロのライター?」

「いわゆる、ゴーストライターということです。いずれにせよ、一度詳しい説明をさせていただきたいんです。近いうちにお会いできないでしょうか」

 そういうやりとりがあって、京子は田口冬実に会うことになったのである。出版社の人間と会うのは初めてなので、緊張していた。

 やがて、約束の時間の5分前に、女と男がつれだって喫茶店に入ってきた。女は銀縁のメガネをかけ、髪を後ろで1つに結び、黒のパンツスーツを着ている。電話で聞いていた特徴と同じだったので、京子は席から立ち上がった。相手も京子に気づき、近寄ってくる。

「桂木さんですね」

「ハイ」

「私、平和堂出版の田口と申します。今日は忙しいなか、ありがとうございます」

 田口冬実はショルダーバッグから名刺入れを取り出し、一枚の名刺を京子に手渡した。

 京子は名刺を受け取り、「すみません、私、今無職なので、名刺持ってなくて。桂木京子と申します」と頭を下げた。

 続けて、冬実は隣にいた男を、「こちらはライターの安藤さん」と紹介した。

「どうも、安藤です」

 30代後半ぐらいに見えるその男は、微笑みながら名刺を京子に渡した。口ひげを生やし、茶色いフレームのメガネの奥の細い眼が、京子をまっすぐ見据える。

 名刺には太く大きな字で『安藤邦雄』と印刷されている。肩書きは編集・ライター・企画となっている。

 3人は席に座り、コーヒーを頼んだ。

「無職ということは、やはり老人ホームは倒産したってことなんですか」

「そうなんです。系列のホームはどこかに買い取ってもらうって話を進めているようなんですけれど……」

「そうですか、それは大変ですねえ」

 冬実はおそらく、京子と同世代だと思われる。

 ――高校のときにクラスで本をよく読んでいた、文学少女ってあだなの子に雰囲気が似てるな。

 京子は緊張が少しずつほぐれていくのを感じた。

「それじゃ、桂木さんは別のホームに移るんですか」

「それを考えていて、今探してるところなんです。でも、なかなかうちの近くでは見つからなくて。美園ホームで働くために青梅に引っ越したばかりだったので、また引っ越すのはつらいんですよね」

「そうですか、それでは、今はそれほど忙しいわけではなく」

「ハイ、毎日ゴロゴロしているようなものなんです」

「そうですか。それなら、この話も進めやすいです」

 冬実は何冊か本を取り出して、

「これはうちの会社から出しているノンフィクションものです」

「あ、この『いつか、笑顔で』は知ってます。私、この本大好きなんです。ドラマ化もされましたよね」

「そうですか、ありがとうございます。これはベテランの介護士さんの話ですから、桂木さんにとって共感できる部分も多かったんじゃないですか」

「ええ、この本を読んだときはまだ介護士ではなく、会社員だったんです。この本を読んで介護士になろうと決めて」

「ええっ、そうなんですか? すごい、嬉しいです、本を読んで感化されたなんて」

「でも、一冊の本を読んだだけで介護士になろうとするなんて、ずいぶん思い切った決断ですね」

 邦雄が話に入ってきた。

「もともと、福祉関係の仕事には興味があったんです。でも、大変だからって親に反対されてあきらめたんです。だけど、会社で事務の仕事をしているうちに、このままでいいのかなって思うようになって。その時にこの本を読んで、大変だけどやってみたいと思うようになって」

「作者の水谷さんは、楽しんで介護士の仕事をしていますからねえ。本でも、その様子が伝わってきますよね」

 冬実の言葉に、京子は頷いた。

「そうなんです。それで、夜間の専門学校に通って福祉の勉強をして資格を取ってから、会社を辞めてホームに入ったんです」

「すごい、努力家ですねえ」

「いえ、そんな」

 京子は照れて俯いた。

「今の話だけで、本になりそうですね」

 邦雄が話を継いだ。

「介護士になってからだけではなく、介護士になる前の話も入れたら、共感する読者も多いでしょうね。今は、自分が何をしたらいいのか分からず、漠然と悩んでいる社会人が多いから。そういう人に向けての生き方のヒントになるんじゃないかって、思います」

 その後、冬実はどんな本を作りたいのかをざっと説明した。

 新米の介護士が、悪戦苦闘しながら老人介護の現場に関わる様子を、生き生きと描きたい。楽しい体験ばかりではなく、苦しかったことや悲しかったことなどもありのまま描きたい。そして、放火事件についても触れたい。放火事件のときの様子やその後の経緯、それを通して京子自身は何をどう考えたのか――。

「最近、老人を狙った殺人事件が多いですよね。先日も別のホームが放火されたし。桂木さんがそういった事件について感じた怒りや憤りなどを伝えれば、強いメッセージになると思うんです」

「はあ」

 京子はしばし考えた後、

「でも、それなら勤続年数が長い、ほかの介護士さんのほうがいいんじゃないですか。私、美園ホームで半年しか働いてませんし。あの夜はほかにも宿直担当の人達がいて、私より経験がある人ばっかですよ」

 と提案した。

「働く長さは関係ないと思いますよ。僕も桂木さんのブログを読みました。率直に嬉しかったことや自分ができなくて悔しかったことを綴っているでしょう。それは仕事を始めたばかりの新入社員や、転職したばかりの人も共感すると思うんですね。悩んだり壁にぶつかったりしながら、自分の夢を実現するために一歩ずつ前進している、それは昔から本にもよくあるテーマだけど、今の時代はみんなすぐに成功できると思っているでしょう。今の時代だからこそ、コツコツ努力をしている人の話は、逆に新鮮じゃないかなって思いますね」

 邦雄は穏やかに自分の考えを述べ、微笑んだ。京子は少しどぎまぎしながら、「あの、さすがライターさんだけあって、表現が上手ですね」と返した。

「そうなんですよ、安藤さんはこの手のノンフィクションものに強くて、人間を描くのを得意としているんです」

 すかさず冬実は付け加えた。

「この企画を提案してくださったのも、安藤さんなんですよ」

「そうなんですか」

 京子が邦雄を見ると、「いやいや」と照れたように鼻の頭を掻いた。

「それで、私は何をすればいいんですか」

 京子が尋ねると、

「介護士になる前と、なってからのことを話してくれればいいんです。僕が色々聞きますから、それに答えてくだされば、それをもとに僕が文章を組み立てます」

 と邦雄が答えた。

「そうですか……」

 京子はコーヒーカップを置くと、

「あの、こんな私の話でよければ、いくらでもお話します」

 と、ペコリとお辞儀をした。

「本当ですか? よかった」

 冬実は嬉しそうな声をあげた。

 邦雄も「ありがとうございます。よろしくお願いします」と笑顔で返した。

 京子はその笑顔を直視するのが気恥ずかしく、俯いてコーヒーを飲んだ。



「あれ、今日はずいぶん早いね」

 大吾が眠たそうに目をしばたたかせながら、リビングに入ってきた。京子は出窓に置いてある小さな鏡台の前に座り、ファンデーションを塗っていた。

「うん、今日は面接」

「そうなんだ。言ってくれれば、朝ごはん作ったのに」

「いいよ、大吾、夕べ来るのが遅かったじゃない。朝ごはん、作っといたから。っていっても、目玉焼きだけど」

「サンキュ」

 大吾はあくびをしながら、じゅうたんに座り込んだ。

「で、どこまで行くの?」

「埼玉の秩父」

「秩父ぅ!?」

 大吾は目を丸くした。

「そんなとこ、決まってもこっからは通えないだろ? どうすんだよ」

「それは決まってから考える」

「決まってからって」

「だって、ようやく条件に合うところが見つかったんだよ?」

「それは分かるけど。仕事がないからって焦るのは分かるけどさ、また引っ越すのはつらいって言ってたじゃん」

「そうだけど、近場では見つからないんだから、仕方ないでしょ」

 口紅を塗りながら京子は返した。

「仕方ないって言ってもさあ。もし決まったら、どうするわけ?」

「だからあ、それは決まってから考えるって」

「それって、決まる前に考えることでしょ? 何で、相談してくれないんだよ。荻窪と秩父じゃ、さすがに会えなくなるじゃんよ」

「だって、大吾、私がホームを探してると、ブーブー文句言うじゃない。また前の会社に戻れば? とか、そんなに焦って介護の仕事をしなくてもいいじゃん、とか」

「だって、そうじゃん。ホームの放火事件で混乱してるから対応できないって、どこでも言われてるんでしょ? もう少し落ち着いてから探せばいいんじゃないの?」

「だって、介護の資格を取るために夜間の専門学校にまで通ったんだから、続けて仕事しないと、もったいないんだもん。それに、本のこともあるし」

「何それ。本とどういう関係があるの?」

「本では介護福祉士で紹介されるんだから、介護の仕事してなかったら、なんかおかしくない?」

「なんだよ、それ。だったら、本出すのを遅らせてもらえば?」

「そんなわけにはいかないの。向こうは早く出したがってるんだから。ホームの放火事件が忘れ去られないうちに出したいんだって、出版社の人が言ってた」

「なんで向こうの都合に合わせなきゃいけないんだよ。おかしいよ、それ。本で紹介されるから介護の仕事を探すって、おかしいと思わないの?」

「……」

 京子は段々不機嫌になってきた。

「それに、放火事件を本のネタにするなんて、いいの? ホームの人に確認したほうがいいんじゃないの?」

「そんな必要ないよ。ニュースで散々流れたんだし、今さら確認とらなくても大丈夫だよ。それに、前の会社に勤めてたときの話も書くのに、そこにも一々連絡しなきゃいけないわけ?」

「それとこれとは状況が違うでしょ。遺族と裁判になるってニュースに出てるじゃないか。それなのに、本を勝手に出しちゃって、大丈夫なわけ? 京子だって、テレビに取材されたときは嫌がってたのに、なんで本で書くのはいいの? 意味わかんないよ」

「……」

 ――あれは、泣きはらした顔を写されたくなかったから……。

 なんてことを言ったら、確実に大吾に呆れられる。

 京子は何も言い返せなくなり、鏡の扉を力任せに閉めた。バッグに乱暴にコンパクトやメイク道具を詰め込む。

「すーぐそうやって怒るんだから」

「大吾が怒らせるようなこと、言ったんじゃないの」

「俺、そんなにおかしいこと言ったつもりはないけど」

「取材はもう始まってるんだから、今さらやめるわけにはいかないのっ。何も事情をわかってないくせに」

「確かにわかんないよ。そんな、本当に出るかどうかわかんない本のために仕事を探すとか、訳わかんない」

「出るかどうかわからないって、出るんだってば」

「どーだろ。うちの店長も本を出すって話が何回かあったけど、立ち消えになってるし」

「それはその店長さんに問題があるんでしょ?」

「京子だって、そんなにたいしたことしてないじゃないか。ホームに勤めて半年しか経ってないのに」

「それでいいって、出版社の人が言うんだもん」

「まあ、何がいいのか俺にはわからんけど。でも、本が出るにしても、その時1回だけでしょ? 会社は何年も勤めなきゃいけないんだから、そっちを真剣に考えるべきなのに」

「真剣に考えてるってば」

「そうかなあ」

「もう、いいよっ」

 京子は半ば叫ぶように言うと、椅子の背もたれにかけておいたコートをつかみ、パンプスを履いて外に出た。ドアを力任せに閉める。

 ――あっ、まずい。朝早いのに、近所迷惑だったかも。

 肩をすくめ、足音を忍ばせて階段を下りる。大吾が追ってくるかと思ったが、そのような気配はない。道路に出て、自分の部屋の窓をチラリと見上げても、大吾の姿は見えない。

 京子はため息をついた。

 ――なんか、最近、ケンカばっかり。私が本を出すって話をしたときも、喜ぶどころか、書くことあるの? とか、その出版社大丈夫なの? 後でお金を請求されるんじゃないの? とか、疑うようなことばっか言って。こんなラッキーな話、めったにないんだから、喜んでくれてもいいのに。

 コートを着ながら、駅に向かう。

 ――これから面接なのに、嫌な気分になっちゃった。あーあ。

「あーあ」

 声に出して言ってみたら、ますます気持ちが沈んでしまう。京子は「もうっ」と小さくつぶやいた。 




「今日で2回目の取材ですね。少しは慣れましたか?」

 邦雄はやわらかく微笑みかけた。

「ええ、少しは。この間はボロボロでしたよね、私。原稿にするのが大変ですよね」

「そんなことないですよ。桂木さんの言いたいことは、よく分かりました。ただ、一緒にいた田口さんの質問が、ちょっと答えづらいようなのばっかりだったでしょ。日本の福祉の問題点についてどう思っているのかなんて、いきなり大きなことを聞かれても、すぐには答えられないだろうし」

「そうなんです」

「田口さんは今まで医療関係の硬い本を担当していたから、ああいう聞き方になっちゃうみたいなんだな。ま、今日からは僕一人で取材することになったんで、気楽にいきましょう」

「ハイ」

 京子は邦雄と話しているうちに、心が和んでくるのを感じた。邦雄はすぐに打ち解けて話せるような独特の雰囲気がある。

 ――こういう人柄の人って、いいな。

 京子は初対面の時から、邦雄に好印象を抱いていた。

「実は、昨日、面接だったんです。秩父の老人ホームまで行ってたんです」

「へえ、秩父まで。桂木さんなら楽勝でしょう」

「それが、そうでもなくて。一週間前も長野で老人ホームの放火がありましたよね」

「ありましたね。これで老人ホームの放火は8件目でしょ、確か」

「ええ。それで、警備員を24時間配置しようって話が出てるそうなんです。それだと人件費にお金をかけられないから、正社員では雇えないって言われて……しばらくバイトで通ってほしいって言われたんです。それだと電話で聞いた話と違うから、断るしかなくて」

「せっかく秩父まで行ったのに。大変でしたね」

 先月末の大山での老人ホームの放火事件の後、上信越で1件、関西で2件、東北で1件、九州で1件老人ホームが襲われ、全国に飛び火している状態だった。入居を取りやめる老人や、契約を解除して家に戻ろうとする老人が相次ぎ、各地の老人ホームはパニックになっているという。京子が職探しのために電話をしても、「それどころじゃない」と即座に断られることが相次いだ。

 邦雄は腕組みをして考え込んだ。

「どこのホームも元々人手不足なんでしょう? それなのに、訳のわからんやつに放火されるから、警備員を雇わなきゃいけない。それじゃあ、入居している人たちは満足なサービスを受けられない。かといって、警備員を雇わなきゃ安心して眠れない。なんのために高額のお金を払って老人ホームに入ったのか、ってなりますよね」

「でも、家に戻れない人も多いんです。子供に同居を拒まれている人は、家に戻るとつらい立場になってしまうし。それに、痴呆が進んでいる人は、やはり家でも引き取りづらいし。そんなに簡単な問題ではないんですよね」

「今の時代、歳をとるって、こんなに不幸なことなのかなって思っちゃいますよ。老老介護で絶望して心中する親子とかもいるでしょ。今まで一生懸命生きてきた老人に未来のない国って、こんなに残酷な話はないですよ。まともに生きられるのはせいぜい60代まで。それ以降は国にも子供にも見捨てられ、世間の隅の隅に追いやられてしまう。これじゃあ、早く死ねって言ってるようなもんですよね。やっぱり、政治が劣化してるんだろうなあ。与党は高齢者寄りの政策ばっかり考えてるって言われてるけど、実際は老人の生活って苦しくなるばかりだし」

 京子は邦雄の言葉を少々驚きながら聞いていた。

「おっと、ちょっとしゃべりすぎちゃったかな」

 邦雄が慌ててカバンの中から取材道具を取り出した。

「いえ、あの、私の周りにはなかなかこういう話をする人っていなくて。老人ホームでは、園長とかはそういう話をしていたんですけど」

「まあ、取材で色々な人に会ってますからね。受け売りです」

 邦雄は照れくさそうに鼻の頭を掻いた。

「それじゃあ、今日は会社を勤めながら専門学校に通っていた話から始めましょうか」

 京子は「ハイ」と微笑んだ。


 

 元に会って2週間ほど過ぎたころ、好美から電話がかかってきた。

 好美は沈んだ声で、「元さんがね、自殺したの」と切り出した。

「ええ!?」

「入居者を別の施設に移すのに、かなり苦労してんのよね。元さんや理事長の昔からの知り合いがいるところに、何とか頼み込んで何人か入れてもらったんだけど、なかなか引き受けてくれる施設がなくて。引き取りたくないっていう家族も多くて、話し合いをしようにもできない状態でね。自治体からも『いつまでも施設で預かってられない』って言われて、相当悩んでいたみたい」

「そんな……」

 京子は絶句した。最後に会った時の元の後ろ姿が脳裏をよぎる。

 ――あの時も、かなり思いつめていたのかもしれない。

「自宅に電話したら、奥様も相当取り乱してるのよね。で、お葬式のお手伝いをしようかって思ってるんだけど、京子ちゃんはどうする?」

「行きます、私もお手伝いします」

 京子は即座に答えた。



 好美から元の自宅の住所を教わり、京子はすぐさま昭島に向かった。

 元の家は、昭島駅からバスで20分ほどの、畑に囲まれたのどかな住宅地にあった。いつの間にか風が強くなり、京子は目に砂埃が入らないよう、俯いて歩いた。

『山本』という表札を見つけ、チャイムを押すと、出迎えてくれたのは美園ホームの入居者の児玉みつだった。

「あらあ、京子ちゃん、お久しぶり」

 みつは顔をほころばせて、杖をつきながら門まで出てきた。

「児玉さん、お久しぶりです」

 京子は軽く頭を下げた。

「お葬式のお手伝いに来られたんですか?」

「違うのよ。私たち、ここの家に住まわせてもらってるのよ」

「ええ!?」

 とりあえず中に入るよう促され、玄関で靴を脱いでいると、みつは「京子ちゃんが来たわよ」と中に声をかけた。すると、好美と、同じく入居者だった横村三郎が奥から顔を出した。

「いらっしゃい」

「元気そうだねえ。少し痩せたんじゃないか」

 事情が分からずに戸惑っている京子を、好美が「詳しいことを話すから」と招き入れた。

 好美は最後に会った時より白髪が増え、顔の艶がなくなり、目元のしわが増えて一気に老けこんだように感じた。

 ――やっぱり、ホームが閉鎖されるのがショックだったんだ。

 京子は心中を察した。

 和室に入り、京子は腰を下ろした。みんなで昼食を食べていたらしく、テーブルの上には煮物や漬物、茶碗やみそ汁が入った椀などが並んでいた。

「京子ちゃん、お昼まだでしょ? 今、京子ちゃんの分も持ってくるからね」

 みつが台所に立った。

「あの、元さんの奥様は」

「今、二階で横になっているの。とても起き上がれるような状態じゃなくて」

 好美が声をひそめて言った。

「息子さんはNPOの活動でアフリカに行ってるし、娘さんは四国に嫁いでて、小さいお子さんが二人もいるから、こっちに出てくるまで時間がかかるらしいの。だから、私達で通夜やお葬式の準備をしようと思って」

「恩返しにね」

 三郎がポツリとつぶやいた。

「あの、児玉さんがここに住んでるって」

「みつさんだけじゃなく、三郎さんもね。今、二人のご家族が、一緒に住むかどうかで話し合ってるの。最初は都の施設に入ってたんだけど、ずっとは面倒見られないって追い出されちゃって。ほかのホームに入居しようにもお金がないし。それで、元さんが、行先が決まるまで自分の家にいてくださいって提案したんだって」

 好美が事情を説明している時、みつが京子の分の料理を運んできた。

「うちらはまだ元気なほうで、つきっきりで介護しなくていいからね。元さんはね、子供がいなくなって部屋はあいてるから、うちに来ませんかって言ってくれたの。自分たちが2階に移って、私たちには1階のこの部屋を使わせてくれて。自分の部屋のようにくつろいでくれって、言ってくれてねえ」

「まさかこんなことになろうとはねえ」

 みつと三郎は深いため息をついた。

「一昨日の夜、散歩に行ってくるって出かけたきり、帰ってこなかったのよ。だから、昨日、警察に捜索願を出したらね、森で首をくくっているのを見つけて」

 みつはそこで辛そうに言葉を切った。

「私達も、ここを出て行かなきゃね。奥さんしかいないのに、私達が居座っていたら余計に心労がかさんじゃうし」

「とはいうものの、どこに行けばいいんだか。息子も、本当に引き取ってくれるのか分からないしねえ。それにしても、実の子供に引き取ってもらうなんて考えること自体、めげるよねえ。犬や猫じゃないんだからさ」

 三郎は長いため息を吐いた。重い沈黙が部屋を覆う。

 京子はとよの最期の言葉を思い出していた。

 ――私には帰る場所がない。

 涙ながらに訴えていたとよ。

 ――とよさんは、こうなることがわかっていたんだ。やっぱり、あの火事で亡くなってよかったのかもしれない。ううん、そうするしかなかったんだ。

 京子は箸に手をつけられなかった。

 風が窓を激しく叩く。その音が静まり返った部屋に高く響いた。



 元の通夜は、自宅でひっそりと行われた。本人が遺書でそうしてほしいと書き残したのだという。

 近所の人がちらほらと焼香に訪れた以外は、元の妻とみつと三郎、京子と好美とで老僧が読み上げるお経を聴いていた。元の妻は見るからに憔悴しきっていて、痛々しい。声をかけるのも憚られるほどだった。

「私、北海道に帰るわ」

 好美は通夜が始まる前に、ポツリとつぶやいた。

「東京では働く場所がないからね。私ぐらいの年になったら、普通の企業に就職するのは無理だし、コンビニでバイトするのも、今更だしねえ。お母さんは兄ちゃんの家族と一緒に暮らしてるんだけど、戻って来いって兄ちゃんも言ってくれたから。北海道で畑仕事でもするわ。まあ、田舎では40代の独身女性は肩身が狭い思いをするんだろうけど、仕方ない。こうなっちゃね」

 京子は何も返せずに黙って聞いていた。

 お経を聞きながら、京子は元の遺影に向かってひたすら祈っていた。

 ――お願いします。もうこれ以上、ここにいる人達が苦しまないように、天国から見守ってあげてください。もうこれ以上、誰も苦しまないように。



「ババア、どけよ」

 老婆は、自分が言われたのだと気付かず、本から顔を上げなかった。

「どけってば、バ・バ・ア」

 頭の上から声がして、見上げると、茶髪の若い男と、小さい子供を抱えた金髪の女が、老婆を睨んでいる。

 老婆は戸惑いながら、振り向いて窓に貼ってあるマークを確認した。ここは間違いなく優先席である。

「あの、これ」

 男たちが気づいていないのかと思い、マークを指すと、

「だから、こっちは子供を連れてるんだからさ、譲るべきだろ?」

 と、男は言った。 

「子供をつれてるって……私は高齢者だけど」

「だから何? あんたは数年後にはお亡くなりになるけど、子供はこれから社会を背負っていくんだから。こっちが優先されるべきだと思わん?」

 老婆は驚き呆れ、返す言葉がなかった。優先席に座っている他の乗客は、関わり合いたくないように寝たフリをしたり、新聞を読むフリをしている。

 老婆は迷ったが、無視することにした。本に視線を戻すと、

「無視すんじゃねえよ、害虫がっ」

 と男は激昂した。

「害虫?」

「お前ら、害虫じゃん。世の中の役に立たないのに、年金で養ってもらって。俺らがその金を払ってんだぞ? せめて邪魔にならないように生きろよっ」

 老婆はワナワナと震えだした。今まで生きてきて、ここまで侮辱されたのは初めてだった。それも、見ず知らずの男に。

「もう、手がしびれたよお」

 二人のやりとりをニヤニヤ見ていた女は、あろうことか老婆の膝に子供を立たせた。老婆のスラックスには、子供が履いている靴の跡がくっきりとついた。

「ちょっと、何するのっ?」

 老婆が声を荒げると、

「あっ、ごめーん。手がすべっちゃってえ」

 と、女はヘラヘラ笑い、子供を抱えあげた。

 老婆はたまらずに立ち上がり、二人を押しのけるようにして車外に出た。目には涙がにじんでいる。同時にドアが閉まり、電車はガタンと大きな音を立てて動き出した。

 すかさず、女は子供を抱えて席に座った。

「ホント、面白いね。ババアをいじめるのって」

「まあね。優先席撲滅運動のためにも、ジジイやババアはこまめに追い出さないと」

 男はニヤニヤ笑いながら、スマフォを取り出した。


 クジョピンク

 優先席撲滅運動のため、ババアを一人優先席から追い出しました。

 ネンキンもらうほどの悪党じゃなかったのが、ちょっと残念。



「ここに来るまでに、気づいたことはありませんでしたか」

 邦雄にふいに尋ねられて、京子は首を傾げた。

「そうですね、桜がそろそろ咲く頃かな、って思いましたけど」

 邦雄は苦笑して、

「そうじゃなく、街を歩くお年寄りの数が少ないと思いませんか」

 とコーヒーを飲みながら言った。

「そういえば」

 京子は電車の中もすいていたことに気づいた。

「今、お年寄りが外出を控えてるんですよ」

「そうなんですか? やっぱり、老人ホームの放火が怖くて」

「それもあるんでしょうけど、最近、優先席に座っているお年寄りが狙われるらしいんですよ」

「優先席に座ってる人が?」

 京子は眉をひそめた。

「ついこの間、ツイッターで優先席撲滅運動をしよう、というコメントを書いたやつがいたらしいんですね。すぐにそのツイッターは削除されちゃったらしいけど。1月に代々木上原でお爺さんが殺された事件がありましたよね。あれもどうやら、優先席でトラブルがあったらしいんです。そのお爺さんは、電車で優先席に座っている若者を見つけると、嫌がらせをするので有名だったらしいんですね。殺された日も、妊婦さんを怒鳴って立たせたそうなんです」

「へえ、それは知りませんでした」

「まだ犯人はつかまってないみたいだけど。もしかして、優先席撲滅運動にも関係してるかもしれないな」

「何なんですか、その運動は」

「わがままな年寄りをなくすために、優先席をなくそうっていう運動らしいですよ。優先席に座っているお年寄りに嫌がらせをするらしいです」

「ホントですか? 何をしたいのか、意味がわかんないですね」

「今、地方でも老人を狙った事件が相次いでいるでしょう。だから、買い物に出かけるときも近所で連絡しあって、みんなでスーパーに行ってるって、この間テレビでやってましたよ。それで、新潟のどこかの町で、85歳のおじいさんが運転する車に5人で乗り込んでスーパーに向かう途中、雪でスリップして田んぼに車ごと落ちちゃって、乗っている人全員が大怪我をしたって」

「そんな……ひどいですね」

 京子は思わず胸に手を当てた。

「なんでそんなに、老人ばっかり狙われるんですかね」

「警察も専門家も首をひねってるんですよ。お金目当てではないし、怨恨でもないし。これだけあちこちで起きているんだから、単独犯ではないだろうし。おかしいやつが多いって言っても、こんなに同時に多発するわけないですからね」

「怖いですよね、本当に」

「まあ、人が少ないほうが電車も座れるし、それはそれでいいんですけどね」

 邦雄は話しながら取材の道具を片づけ始めた。

「今日の取材はこれで終わりということで。お疲れ様でした」

「ハイ、お疲れ様です」

 京子は背筋を正して頭を下げた。

「ところで、桂木さん、テレビに興味はありませんか?」

「え? テレビは、最近は時間があるから、結構見てますけど」

「そういう意味じゃなくて、出演してみないかって話です」

「出演!?」

 京子は驚いて声が裏返ってしまった。

「僕の知り合いに、テレビの制作会社に勤めている人がいるんです。その知人が、福祉や介護をテーマにした番組を作ることになって、介護の現場で働いてる若い人を探してるらしいんです。桂木さんがピッタリなんじゃないかって話したら、ぜひ話を聞きたいって乗り気になって」

「そんな、私、今は失業中ですよ」

「2か月前までは働いてたでしょう。今も仕事を探してるわけだし、まだまだこの仕事をやる気はあるんですよね」

「でも、何を話せばいいのかわかんないです」

「それは大丈夫ですよ。実際に自分が体験したことを話せばいいだけですから。事前に、どんな話をしてもらいたいのか、プロデューサーから話があると思うし」

「でも、うまく話す自信はないです。今の取材でさえ、メタメタなのに」

「それも大丈夫。スタジオで大勢の前で話すわけではないから。たぶん、会社の会議室でも使って撮るんじゃないかな。言い間違えても撮り直しができるし、編集もあるし、何とかなりますよ。僕もそばでフォローしてもいいし」

「本当ですか?」

「もちろん。本を出すなら、少しは顔を売っておいたほうがいいと思うんですよね。それも戦略の一つです」

「その……安藤さんにフォローしていただけるのなら、出てもいいです」

「そうですか? よかった」

 邦雄は顔をほころばせた。

「それじゃあ、さっそくプロデューサーに話をしてみます。彼も喜ぶな、きっと」

 京子は体が汗ばみ、鼻の下に軽く汗をかいているのを感じた。ハンカチを取り出し、そっと汗を拭う。降ってわいた話にすっかり興奮していた。

 本の出版、テレビの出演。予想もしなかった話が次々と舞い込んでくる。

 ――次の仕事が見つからなくて落ち込んでたけど。こういうの何ていうんだっけ。捨てる神あれば、拾う神あり、だっけ。だとしたら、幸運の神様に拾ってもらったのかもしれない。大吾に話したら、ビックリするだろうな。

 面接のことで言い争いをして以来、大吾とは会っていない。元の自殺の件を伝えたときは、店のスタッフが一人抜けて当分その穴埋めをしなければならないので、会えそうもないのだと、すまなそうに話していた。その代わり、電話はひんぱんにくれるし、LINEでもやりとりしているが、何となくギクシャクした感じが拭えない。

 ――テレビの話をしたら、喜んでくれるかも。確か、前に大吾の店がテレビで紹介されたとき、大騒ぎしてたもんね。



「はあ? テレビ?」

 電話の向こうで、しばらく大吾は考え込んでいるようだった。

「それって、京子が出るってこと?」

「そう」

「なんで、急にそんな話が出るわけ?」

「だから、安藤さんの知り合いがね、テレビの制作会社に勤めてるんだって。介護の番組をつくることになって、現場で働いている若い人で、インタビューできる人を探してるんだって」

「でも、京子は今、働いてないじゃん」

「うん、私もそう言ったんだけど。二か月前までは働いてたから、大丈夫だろうって」

「よく分かんないな。ほかにも、介護の仕事してる若い人はいるのに。なんで、京子なんだろ」

「それは、私も分からないけど……」

 京子は次第にイライラしてきた。てっきり大吾は、「すげえ、テレビに出んの?」と驚いて喜んでくれるのかと思っていたのだ。喜ぶどころか、大吾の声は訝しげである。

「その人、大丈夫なの?」

「え?」

「その、安藤って人。本の企画もその人が持ち込んだんでしょ? テレビの話だってさ、何で京子を推薦したのか、怪しいんだけど」

「別に、怪しい人じゃないよ。テレビは本の宣伝になるからって」

「だとしたら、そいつは自分が儲けるために京子を利用してるんじゃないの? そいつにも印税が入るんでしょ? 宣伝して、本が売れれば自分も儲かるからって、勝手に京子を売り込んでんじゃないの?」

「そんなひどい人じゃないよ」

 思わず京子は声を荒げた。

「大吾は会ってないから、わかんないかもしれないけど。人の話をよく聴いてくれるし、私の印税の半分を前払いしてくれるよう、出版社の人に相談してくれたんだから」

「はあ? そんなことまで頼んだの? まずいよ、そういうの」

「なんで?」

「たいして親しくもない人に金銭的なことを頼むなんてさ」

「別に、安藤さんがお金を貸してくれるわけじゃないよ? 出版社の人に頼んでくれただけだから」

「でもさ、出版社の人と契約してるのは京子だろ? だったら、自分で頼むべきなのに。なんで、そいつにそんなことをお願いするんだよ」

「私から頼んだわけじゃないよ。生活が大変だったら、僕から相談してみましょうかって言ってくれたから、それならお願いしますって言っただけで」

「向こうから言い出したの?」

 大吾の声が大きくなった。

「そいつ、怪しいぞ、なんか。下心があるんじゃないか?」

「そんなことないよ」

「話を聞いてる限り、怪しい臭いがプンプンするんだけど」

「勝手に決めつけないでよ。大吾は会ってないから、そう感じるだけだってば。ホントに、いい人なんだから」

「京子は、そうやってすぐ騙されちゃうんだから。肩書きに弱いんだよな」

「何よ、それ」

 京子の声がとんがった。

「テレビ見てても、この人はテレビに出てるから、偉い人なんだっていつも言ってるよね。料理番組見てて、俺がこの料理人の料理はまずそうだって言っても、そんなことない、NHKに出てるぐらいだから、おいしい料理を作るから選ばれたんだって、よく言うじゃないか。俺が、そばにキムチを入れちゃ、そばの風味がまったくしなくなるって言っても、そういう食べ方もアリなんだとか言ってさ」

「それと安藤さんのこととは、関係ないじゃない」

「いや、関係あるよ。京子は、そいつがマスコミの人間ってだけで、騙されてるんだよ」

「騙されてないっ」

「とにかく、そいつの話は聞かないほうがいいよ。本の取材だけで、後は適当に受け流しといたほうが安全だって」

「大吾には関係ないよ、これは私の仕事なんだからっ」

 京子はそれ以上話したくなくなり、電話を切った。

「もうっ」

 ――最近、ケンカしてばっかだから、久しぶりに明るい話ができると思ったのに。台無しになるようなことばっか言って、信じらんない。

 スマフォをベッドに放り投げ、自分も身を投げ出した。

 ――もう、終わりなのかな。

 こういう場面になると、いつもそんなセリフが胸に浮かぶ。分かり合えない、もどかしさや寂しさ。それは、今まで付き合ってきた人にも感じていた。

 ――大吾とは、分かり合えると思ったのに……でも、今は一人になりたくない。仕事がないのに、別れて一人ぼっちになったら、立ち直れなくなりそう。

 京子は目を閉じた。大吾から電話がかかってくる様子はない。以前は、ケンカをして京子が一方的に電話を切ると大吾はすぐに電話をかけてきて、「話し合おう」と提案してくれた。それから意見をぶつけあい、最後には仲直りするのだった。

 最近は、ケンカの後に大吾から電話がかかってこなくなっていた。かといって、京子から電話をかける気にもなれない。それは大吾の役割だ、と心の底で京子は思っていた。

 ――テレビの仕事は引き受けよう。大吾が何と言おうと。 

 京子は天井をにらみながら、そう決意した。



「ハイ、お疲れ様でした」

 プロデューサーの声に、京子は我に帰った。

 テレビの取材を承諾した翌日に邦雄から電話があり、制作会社はすぐに取材をしたがっていると伝えられた。そして、三日後の今、制作会社のオフィスにある会議室で、京子はカメラの前に座っている。

 ライトを当てられ、カメラが京子に向けられている。最初は緊張して顔がこわばり、声も震えてしまった。プロデューサーは気さくな性格で、京子の緊張をほぐそうと冗談を言ったり、答えやすい質問を投げかけてくれたので、撮り始めて10分もすると、自然に話せるようになった。

「最初はどうなることかと思ったけど、途中からすっごくいいインタビューになったねえ」

 プロデューサーは禿げあがった頭を手で何度もなでた。

「桂木さんは美人だから、テレビ映えもするし。もしも興味があるなら、今後もちょくちょく出てみませんか。うち、今この手の高齢者関係の番組を任されることが多くて。桂木さんのようにしっかりと意見を持った人なら、安心してインタビューを頼めるなあ」

「ありがとうございます。よろしくお願いします」

 京子は頭を下げた。部屋の隅では、満足そうに邦雄が微笑んでいる。

 急な取材に応じたことに何度も感謝し、

「放映日が決まったら、お知らせしますね」

 とプロデューサーはにこやかに言った。

 京子と邦雄は制作会社を後にした。

「私、ちゃんとしゃべれてました? もう、もう、頭の中、真っ白で」

 京子は興奮冷めやらぬまま、何度も邦雄に尋ねた。

「しゃべれてましたって。大丈夫ですよ」

 邦雄は、そのつど笑いながら答えていた。

 駅に向かう途中、「ちょっとお茶していきませんか」と、邦雄は喫茶店の前で立ち止まった。京子は頷き、邦雄の後について古びた喫茶店に入った。

 喫茶店に入ってからも、しばらくは今日の撮影についての感想を言い合っていた。

「彼も言ってたけど、桂木さんはテレビ向きですよ。自分の思いを伝えるのが上手だし」

「そんなことないですよ。大吾からは……あっ、大吾は彼氏なんですけど、よく落ち着いて話せって言われます。パニックになると、単語しか出てこなくて」

「それじゃあ、今日の撮影は、冷静だったんじゃないですか」

「そんな、編集するのが大変ですよ、きっと」

 頼んでいたコーヒーが運ばれてきたので、二人はしばし口を閉じた。

 ややあって、邦雄は急にマジメな顔つきになり、

「桂木さん、一緒に事務所を始めませんか」

 と切り出した。

 突然の話に、京子は「は?」と返してしまった。

「介護の分野にいる若い人を、多くのメディアで探してるんじゃないかっていうのが、僕の読みで。今後、取材が増えていくなら、きちんとした事務所を構えるべきじゃないかって思って。今は桂木さんには連絡をとる窓口がないでしょ。僕は、今はフリーランスで活動していて個人事業主みたいなもんなんだけど、仕事が増えてきたから、きちんと事務所を開いてバイトでも雇おうかと考えてて。せっかくだから、一人より二人で事務所を開いたほうが、色々と便利なんじゃないかって考えてるんです」

「急にそんなことを言われても……」

「すぐに返事が欲しいわけではないですから。考えておいてください」

「でも、取材とか、そんな来るとは思えないし」

「そんなことないですよ。事務所をつくってホームページも作って公開したら、あちこちから取材が来ますよ。みんな、桂木さんのような人にコメントをもらいたいんですよ」

「私、そんなに話せないし……」

「さっき、彼が美人だからテレビ映えするって言ってたでしょ。その通りだって思いますよ。桂木さんのように清楚な美人は、絶対に人気が出ますから。だって、ネットでも話題になったんでしょ?」

「ええと……」

 邦雄から顔を誉められて、京子はどう反応すればいいのかわからなかった。

 ――もしかして、この人、私のことを好きなのかな。

 そう思い至ったら、体中が熱くなった。男から好意を寄せられるのは、大吾とつきあってから、ほとんどなかった。久しぶりで、こそばゆい感じがする。

「ごめん、ちょっと、先走りすぎちゃったかな」

 邦雄がトーンダウンしたので、「あ、いえ、ちょっと考えてみます」と京子は微笑んだ。 



 その日、京子は大吾の店に寄ることにした。

 さすがに、事務所の話を相談もしないで進めるわけにはいかない。

 大吾の勤めている店は西荻窪にある。

 西荻窪駅で降り、商店街の一角にあるイタリア料理の店に着くと、店の前に並べられた椅子には既に客が4人座り、順番を待っていた。4人とも若い女性で、みなおしゃべりに興じている。

 ――相変わらず混んでるな。狭い店だから、すぐいっぱいになっちゃうんだよね。

 京子は店の外から中の様子を伺った――大吾の姿は見えない。

 奥の調理場にいるのだろうと、京子は行列の最後に立って待つことにした。

「ねえ、大吾君、今日は遅番だって言ってたよね」

 ふと、隣に座っている二人の会話が耳に飛び込んだ。

「うん。だからラストオーダーまで粘ってさ、その後終わるの待って、カラオケに行こうよ」

「るみは克也君狙いでしょ」

「まあね。大吾君は優に任せるよ」

「大吾君ね、最近彼女とうまくいってないんだって」

 京子は思わず息を止めた。

「年上の彼女だっけ」

「そうそう。なんかね、その彼女がこの間の放火事件に巻き込まれたんだって」

「えっ、何それ」

「奥多摩だったかな。老人ホームでいっぱい死んでたでしょ?」

「あー、あったあった」

「彼女がそこで働いていて、ケガしちゃったんだって。そのときは、毎日彼女のところに通って、ご飯作ってあげてたんだって」

「ウソォ、優しすぎるぅ」

「ホントだよね。でね、なんかね、今、介護の仕事がないんだって。それで、落ち着いてから探せばって言ってるのに、彼女が話を聞いてくれなくて、秩父とか、すっごい遠い場所に通おうとするんだって。それでケンカになるって言ってた」

「ふうん。大吾君は、その彼女のことを思って、言ってんのにねえ」

「ねえ。ってか、バカじゃないの、その彼女」

 京子は、爪先がジンとしびれるような感覚に襲われた。

 ――なんなの、この子たち。

 京子はチラリと横目で隣の女の子達を見た。

 どうやら、優というのは右側に座っている、茶髪で毛先がカールしている女の子らしい。コンパクトを取り出し、しきりに髪やまつげの先をいじっている。今時の女の子のメイクに、今時のファッション。まだ20代前半かもしれない。

 コンパクトを見ながら、そわそわと順番を待つ女の子の顔は、恋をしている女の子特有の輝きに満ちている。

「優、チャンスじゃんよお」

 隣の友人も、鏡を見てメイクを直している。

「そうかな、やっぱ。今日はね、勝負下着はいてきちゃった」

「え~、やる気満々じゃん。頑張ってよお」

 京子は思わず目を閉じた。

 ――なんで、大吾は私のことを、こんな子に話したんだろ。

 動悸が激しくなり、呼吸が荒くなる。

 ――口が堅いと思っていたのに、こんな子に、私のことをペラペラ話してたなんて。しかも、私の知らないところで、こんな子と会ってるなんて!

 京子は列を離れ、駅に向かって歩き出した。

 ――私の仕事のこと、なんであんな子に話すの? 介護の仕事をすることの、どこがバカなのよっ。大吾はあんな子と一緒に私のことを笑っていたわけ? 

 目頭が熱くなり、涙がにじむ。

 ――うまくいってないって、話すなんて。他の子にそういうのを話すってことは、もううちらの仲は終わりってことじゃないの。あの子の気を引きたくて、そんな話をしてるとか? ……ああ、だから本の話やテレビの話をしても、喜ばないでネチネチ絡むようなことを言ってたんだ。もうどうでもいいんだ、私のことなんて。

 京子は指先で涙を拭った。

 ――私から、別れを言おう。フラれるなんて、嫌。別れても安藤さんがいるし、一人になるわけじゃない、きっと。



「はあ? 事務所?」

 大吾はパスタをフォークに巻きつけたまま、京子の顔をまじまじと見た。

 三月最後の休日、京子は大吾と会い、オーガニックレストランで夕飯を食べていた。大吾のアパートの近くにあるその店は、素材を厳選し、産地直送の野菜や魚を使った料理がウリになっていた。オープンしてまだ一カ月ほどだというが、こじんまりした店内は満席になっている。

 大吾から、「うちの近くによさそうな店ができたから、食べに行こうよ」と誘われ、断る理由もないので、荻窪まで出てきた。

 会えば、大吾の店の前で会った女の子の話をしないわけにはいかないので、正直気が進まなかった。だが、いつまでも先延ばしにするわけにはいかない。

 今までも、大吾は客に好かれることが度々あった。京子が店で大吾と話しているときに、鋭い視線を投げかけてくる女の子もいたし、ひんぱんにプレゼントをくれる女の子も、店が終わるまで待っている〝出待ち〟をする女の子もいた。大吾はそのつど隠さずに教えてくれるので、浮気はしていないのだろうと京子は思っていた。

 だが、この間の優という女の子の話は聞いていない。あの日、何か連絡があるのかと待っていたが、何もなかった。

 ――お店が終わった後、二人でどっかに行ったのかも。

 京子はすっかり憂鬱になっていた。

 会話も弾ます、食事の味も分からない。

 大吾は京子の様子に気づかないのか、店の新メニューの話や、「この間、変なお客さんが来てさ」と客の話をしていた。京子は適当に相槌を打っていた。

「なんだ、食欲ないの?」

 京子がパスタにほとんど手をつけないのを見て、大吾は軽く顔をしかめた。

「言ってくれれば、別の日にしたのに」

 こんな時でも食べることしか考えていない大吾に、京子は苛立ちを感じていた。

「ちょっと最近、忙しかったから」

「忙しいって、本の取材?」

「それもあるけど、テレビの取材もあったし」

「――引き受けたんだ、その仕事」

 大吾の声のトーンが低くなる。

「うん。大吾が心配しているようなことはなかったよ。プロデューサーの人も、カメラマンさんもいい人だったし、ちゃんと取材協力費ももらえるし」

「俺が心配してるのはそういうことじゃなくて、安藤とかいうやつのことだよ。京子を利用しようとしてるから、あんまり近づくなって言ってんの」

「だから、そんな悪いこと考えてる人じゃないって。この間は、一緒に事務所開かないかって誘ってくれたし」

「はあ? 事務所?」

 大吾はワインを二口三口飲んだ後、ようやく次の言葉を発した。

「話がよく見えないんだけど」

「だから、安藤さんが一緒に事務所を開かないかって誘ってくれたの。この間のテレビ撮影もうまくいって、そのときのプロデューサーの人から、これからもちょくちょく声をかけるって言われて。これからそういう取材も増えるかもしれないから、窓口をつくっておいたほうがいいんじゃないかって言われたんだよね」

「窓口ったって、有名人みたいに毎日テレビに出るわけでもないんでしょ? 本が売れるとは限らないし、事務所をつくるほどのことでもないじゃん。その安藤とかいう人、明らかに京子を狙ってるじゃんよ」

 大吾は、見たことがないぐらい怖い顔になっている。本気で怒ったのだと気づいた。同時に、まだ嫉妬してくれるのだと、内心嬉しくなった。

「だから、安藤さんは私のためを思って言ってくれてるだけだから。事務所をつくったら、取材の申し込みをしやすいでしょ? それだけ。変な意味じゃないと思うよ」

「誰が京子に連絡するんだよ? そんなの、本が売れてから考えることで、今考えるなんておかしくない? なんかホントに、安藤とかいうやつ、キモいんだけど」

「キモいって……」

「じゃあ、なんで京子にそこまで執着するわけ? テレビの仕事を紹介したと思ったら、今度は事務所を一緒に開こうなんて。何年も一緒に仕事をした仲ならわかるよ。でも、そいつとはまだ数回しか会ってないんでしょ? ちょっと話の展開が急すぎるでしょ。京子のこと、何も知らないのに」

「そんなことないよ。私のこと、よく分かってくれるもん。取材でも、私がうまくしゃべれないと、こういうことですかって、ちゃんと言いたいことを代弁してくれるんだから」

「なんで、そいつのことばっか庇うの?」

「庇ってるわけじゃないけど」

「だって、俺の言うこと、全然聞かないじゃん」

「なんで、大吾の言うことを聞かなくちゃいけないの? 大吾だって、私のこと、何もわかろうとしてくれないじゃない」

「あの、お客様」

 店員に声をかけられ、二人は我に帰った。気がつくと、まわりの客の視線が集中している。知らず知らず、声が大きくなっていたらしい。

 店員が申し訳なさそうに、

「すみません、もう少し小さい声でお願いできませんか。周りのお客様に迷惑なので」

 と言った。

「すみません」

 二人は何度も頭を下げ、しばらく黙って冷めたパスタを黙々と口に運んだ。

「俺、京子が何をしたいのか、段々わからなくなってきた」

 大吾はため息交じりに言い、ワインを飲んだ。

「わからないって、何が?」

「だってさ、この前は老人ホームでまた働きたいって言ってたじゃないか。俺が介護以外の仕事をすればって言ったら、めちゃくちゃ怒ってたくせに。今京子がやってることは、介護とはまったく関係ないことだよね」

「だから、これは、老人ホームの仕事が見つかるまでのことだから」

「だったら、すぐに見つかるかもしれないのに、事務所を開く必要があるわけ?」

「すぐに見つからないんだってば。この間の秩父もダメだったし。今はどこのホームも、人を雇うどころじゃないって、大吾も知ってるでしょ?」

「じゃあ、やっぱり他の仕事をするしかないじゃないか」

 京子は反論できず、ワインを飲むしかなかった。

「何回も言ったけど、本を出すったって、その本が売れるかどうかわかんないでしょ? なんか京子、舞い上がってんじゃないの?」

「そんなことないって」

 京子はムッとして、グラスを置いた。

「舞い上がってなんかないよ」

「俺にはそう見えるけど。変なヤツのうまい話に乗っかっちゃってるって言うか」

「だからあ、安藤さんは変なヤツじゃないって。大吾は会ったことがないから、そう言うんだよ」

「じゃあ、今度会わせてよ」

「なんで。これは仕事なんだから、大吾には関係ないでしょ?」

「一緒に事務所開こうってヤツと、俺が会っちゃいけないの? 京子の仕事は、俺とも関係するんだから」

「関係ないよ。これは私の仕事で、大吾とは関係ないから」

「関係あるってば」

「あの、お客様」

 再び店員に声をかけられ、二人はハッと口をつぐんだ。オープンしたばかりの店で口論する客は、相当迷惑だろう。

 楽しそうに食事をする人ばかりなのに、なぜ自分たちはケンカをしているのか。

 京子は泣きそうになるのを必死で堪えた。

 それきり、二人とも何も話さずに、最後のデザートまで食べて店を出た。店を出たとき、京子は何の料理を食べたのか既に覚えていなかった。

「どうする?」

 大吾はぶっきらぼうに尋ねた。

「帰る」

 きっぱりと言い、京子は踵を返した。

「ちょっと待ってよ」

 大吾が後を追い、京子の隣に並ぶ。

「まだ話をしてる途中でしょ? ちゃんと話さないと」

「何を話すの」

「京子の仕事の話とか」

「それより、大吾のほうが私に話すことがあるんじゃないの? あの優って子のこと」

 京子は足を止め、大吾の目を見て言い放った。

 ――ああ、言っちゃった。

 言ったそばから後悔する。

「何? ゆうって?」

 大吾は眉間に皺を寄せた。

「誰のこと?」

「お店のお客さん。髪が茶色くて、毛先がカールしてて、目がパッチリしてる子。一緒にカラオケ行ったことあるんでしょ?」

 大吾は目を丸くした。

「ああ……なんで知ってんの?」

「この間、お店に行ったの、取材の帰りに。そしたらその子と友達が店の前で待ってて、大吾のことを話してたから」

「なんだ、なんで店に顔出さなかったの?」

「そんなこと話してるんじゃなくて」

 京子は苛立った。

「あの子に、なんで私のこと話したの? ホームで火事に遭って、その後仕事を探してるってこと、あの子に話したんでしょ? 大吾は別の仕事をすればって言ってるのに、私が聞かないから、私のことをバカみたいだって言ってたんだから、あの子」

「そんなこと言ってたの?」

「言ってた。私は一生懸命、仕事探してるのにさ、介護の仕事ってバカみたいなこと? なんでバカにされなきゃいけないのよ」

「俺はそんなこと、言ってないって」

 京子は段々感情が高ぶり、声が大きくなっていくのが自分でも分かった。横を通り過ぎる人が、好奇心満々の目でこちらを見る。

「克也にちょっと話したんだよ。最近ケンカが多いって、ちょっとぼやいただけだけどさ。それを克也があの子にペラペラ話しちゃったんだよ」

「なんで克也君にそんなこと話すのよ」

「俺がイライラしてたら、何かあったのかって聞かれたから、つい。悪かったよ。克也がおしゃべりなやつだってこと、忘れてた」

「それに、あの子と遊びに行ってるんでしょ?」

「あの子は、克也が気に入っているお客さんのダチなんだよ。店が終わった後、何回か一緒に遊んだけど、みんな一緒だったから」

「そんなこと、話してくれなかったじゃない」

「そんなの、よくあることだから。うちは店長がお客さんと遊ぶのが好きだから、毎回断るわけにはいかないんだよ」

 冷静に話しているところを見ると、どうやら嘘はついてないらしい。友人の克也が話してしまったというのは本当なのだろう。

 だが、京子の気持ちは治まらなくなっていた。

「あの子は大吾のこと好きなんでしょ? そう言われなかった?」

「まあ、そういうこともあったかな」

 大吾は初めて気まずそうに目をそらした。その様子が京子の気持ちを逆なでした。

「やっぱり、後ろめたいことがあるんじゃないっ」

「そうじゃないよ。京子、最近、不安定じゃないか。ホームの園長さんが自殺してショックも受けてたし、そんな状態のときに話すようなことじゃないでしょ」

「前は隠さずに話してくれたのに」

「だから、今は話す時期じゃないって思っただけで」

「いつも、そうやって、勝手に決めてっ」

 京子の目から涙が零れ落ちた。感情が高ぶり、自分ではコントロールできなくなっている。

 大吾は、「泣くことないじゃないか」とうろたえた。

「いつも、大吾は自分が正しいって思ってて。私の言うことなんか、聞いてくれないんだから」

「そんなことないよ。今だって、話し合おうって言ってるじゃないか」

「それだって、大吾が一方的に私のしてることをおかしいおかしいって言ってさ、私の話なんか、聞いてくれないじゃない」

 京子は涙が止まらなくなってしまった。涙を拭かずに、ボロボロこぼしながら大吾に訴えかける。

「……俺は、京子が心配だったから」

「もう、いいよっ」

 京子は涙を手で拭い、鼻をすすった。

「しばらく、会うのやめよう」

「なんだよ、急に」

「ケンカばっかりで、もう疲れた」

「ケンカでもしないと、何も解決しないじゃないか。それとも、俺に京子のやっていることはすべて黙って認めろとでも言うわけ?」

「そんなことないけど。私がやろうとしていることに一々反対されると、頭に来る」

「すべてに反対してるわけじゃないって。おかしいことにおかしいって言ってるだけじゃん」

「大吾はおかしいって思うことでも、私は真剣に考えてるのに」

「だったら、どう真剣に考えているのか説明すればいいじゃん」

「説明してるよ」

「説明になってないって。そうまでして事務所を開きたいなら、なんで必要なのかをもっと詳しく話してくれないと。さっきの話じゃ、わかんないって」

「もういいよ、この話は」

 京子は鋭く遮った。

「私が決めることだから。大吾には関係ない」

 そう言い放つと、駅に向かって歩き出した。大吾は大股で京子を追った。

「老人ホームで仕事するときもそうだったよな。なんでそうまでして介護の仕事をしたいんだって言っても、したいからしたいんだって言うだけで。俺がいくらじっちゃんの介護でうちの家族がどれだけ大変だったかって話をしても、聞く耳持たずでさ。俺の意見は必要ないわけ? 京子のことを考えて言ってるのに」

「……」

「なんでそうやって、人の話を聞こうとしないんだよ。自分がすべて正しいと思ってるのは、京子のほうじゃないの?」 

 京子は何も言わないまま、大吾を振り切るように改札口に入った。大吾は「ねえ、ちょっと」と呼びかけたが、振り返らずに早足で階段を上った。ちょうど電車がホームに到着したので、乗り込む。

「ドアが閉まります」

 アナウンスと同時に、ドアが閉まった。

 京子はドア越しに階段を見たが、大吾が駆け上がってくる様子はない。どうやら、追ってこなかったらしい。

 ――もう、いいや。

 ドアにもたれかかり、窓の外を流れていく夜の街をぼんやりと見つめた。

 やがてスマフォを取り出し、邦雄に電話をかけた。5回ほどコールすると、邦雄が電話に出た。

「あ、桂木です。すみません、お休みなのに。今、お時間大丈夫ですか? よかった。この間の事務所を開く話、引き受けたいと思って――そんな、こちらこそ、よろしくお願いします。そうですね、細かい話は会ってお話ししたほうがいいですね。ハイ、それじゃあ、また」

 小声で話し、用件だけ伝えると、電話を切る。

 ――もう、後戻りできない。

 急に疲れを感じ、椅子に崩れ落ちるように座った。手すりにもたれかかり、目を閉じる。

 ――これで、いいんだ。このままつきあっても、きっと大吾とはダメになる。お互いを責めて、ボロボロになる。今別れたほうがいいんだ。憎む前に離れたほうが、いいんだ。そのほうが、お互いに傷つかないですむ、きっと。

 閉じた目から涙がハラハラと零れ落ちる。京子はほかの乗客に気づかれないよう、静かに泣いた。

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