2月 燠(おき)

 鈍いバイブ音で、小峰雄太は目を覚ました。

 ジーパンのポケットをまさぐり、スマフォを取り出すと、自分のではなく隣のブースにいる人のスマフォが鳴っているのだと気づいた。

 スマフォで時間を確認すると、朝の7時30分だった。

 今日は朝9時から新橋で、イベント会場設営のバイトをすることになっている。起きるのにちょうどいい時間である。

 ネットカフェでの生活も既に3カ月になる。

 あちこち泊まり歩いた結果、新宿のビルに3フロア入っているネットカフェが一番快適だという結論に達した。1フロアしかないようなネットカフェだと、個室が狭くて落ち着けない。喫煙席と禁煙席で分かれていても、タバコの煙が充満するので、タバコを吸わない雄太には苦痛だった。その点、新宿のネットカフェは喫煙席と禁煙席でフロアが分かれているので、気に入っていた。

 雄太はブースを出て、ドリンクコーナーでホットコーヒーを入れた。ブースに戻り、朝食用に買っておいたパンを取り出す。コンビニで売っているバターとアズキ入りのコッペパンは、1つ食べるだけで結構腹もちがする。高カロリーなので体を動かす仕事の前に食べておくと、それなりに力が出るのだった。

 泥のようなコーヒーで、甘ったるいパンを流し込むように食べる。食事を味わいながら食べていたのは、はるか昔のような気がする。

 食べ終えると、洗面所で歯磨きをした。鏡に移る自分の姿は、数年前の自分からは想像もできないほど、醜く太り、頬には吹き出物が広がっている。空腹を抑えるために、チョコレートやキャンディーをバクバク食べているせいだろう。板チョコを一枚ペロリとたいらげることもある。体重は80キロを超え、今ではジーパンのボタンをはめられなくなり、ベルトで何とか押さえているような状態だった。

 ――何をやってもうまくいかない。

 ――何をやってもうまくいかない。

 鏡を見ながら、もはや呪文のようになっている文句を心の中でつぶやく。

 ――こんな人生に、意味があるのか?

 何度自問しても、答えなど出ない。舌がヒリヒリする歯磨き粉を吐き出し、口をざっとゆすいだ。顔を洗って、黒縁のメガネをかける。

 ――だったら、何も考えるなよ、俺。

 ブースに戻ると身支度をし、リュックとボストンバッグを持って外に出た。歩道に出ると、軽く伸びをする。革張りの椅子はリクライニングできるものの、硬いのでいくら眠っても疲れはとれない。肩と首を動かすと、ボキボキ音が鳴る。

 ――せめて今週末はカプセルホテルに泊まりたい。そのためには、今週は休まず働かないと。

 新宿駅の改札付近で、数人の中年女性が円になって立っていた。これから高尾山にハイキングにでも行くのだろう。みなリュックを背負い、帽子をかぶり、トレッキング用のウェアを身につけている。朝の混雑している改札付近で談笑しているので、人の流れがそこで止まってしまう。みな迷惑そうによけているのに、本人達は気付かない。

 雄太は脇を通るときに、ボストンバッグを肩に担ぐふりをしながら、わざとそこにいた女にバッグをぶつけた。

「いたっ」

 女は小さく声を上げたが、雄太は振り向きもせずに人の流れに紛れて改札に入る。本当は後頭部を殴りたいぐらいだった。

 ――たぶん、あいつらは『今時の若いもんは、ぶつかっておきながら謝りもしない』とか言って、憤慨してるんだろな。世の中に迷惑かけてるのは、お前らのほうだっちゅーの。まったく、世の中には役に立たないゴミみたいなやつばかりが、ウジャウジャいやがる。掃いて捨ててやりたいよ。

 階段を下りると、ちょうど山手線がホームに滑り込んできたところだった。目の前に止まった車両からは大勢の客が吐き出され、雄太はほかの客に押されるようにして車内に乗り込んだ。

 ――久しぶりだな、こういうラッシュも。

 暖房がかかっている車内は、熱気がこもって息苦しい。雄太は人々の頭の間から顔を突き出し、少しでも新鮮な空気を吸おうとした。

 そのとき、少し離れたところに見慣れた顔を見つけた。

 ――あっ、茂木じゃないか。

 それは大学時代の同級生だった。グレーのコートを羽織っている茂木は、いかにもサラリーマンといういでたちである。学生時代に比べると少し額が広くなり、痩せたようである。背後から押す人に負けないように、必死に吊皮を握って体をそらしている。

 雄太は慌てて顔をそらし、体の位置を変えて顔を見られないようにした。

 改めて自分の姿を見てみると、茶色の革ジャンはあちこちがすれて、すっかり色あせている。膝と尻に穴の開いたジーパンは黒ずみ、毛玉だらけの緑のセーターはあちこちにシミができている。きちんとした職についていないのが一目で分かる姿である。

 ――確か、茂木は公務員になったんだよな。大学時代は、『公務員なんて、何が面白いんだ』ってバカにしたっけ。それが、今では……。

 渋谷に着くと、降りる人に巻き込まれて雄太は茂木が立っているところまで押されそうになった。あわてて吊り革につかまり、足を踏ん張る。雄太が人の波をさえぎる形になり、降りる人達は迷惑そうに舌打ちし、睨みつけていった。

 乗り込んでくる人達によって、雄太は再び通路の奥まで押し戻される。茂木が立っていた辺りをチラリと見ると、姿が見えない。どうやら渋谷で降りたらしい。

 雄太はホッと息をついた。

 ――こんな姿、知っているやつには絶対に見られたくないよな。

 ふと、「負け犬」という言葉が頭に浮かんだ。

 雄太は卒業と同時にとあるITベンチャー企業に就職した。システム開発をするその会社は、入社して最初の3年は飛ぶ鳥を落とすような勢いで急成長していた。雄太は実力を認められ、取締役の一人になった。

 その3年間に雄太は高級マンションと高級車を買い、高いブランド服に身を包み、グラビアモデルと結婚をして子供もつくった。同級生の倍以上の給料をもらっていたので、勝ち組として羨ましがられていた。

 だが、急激な事業拡大が裏目に出て、あっという間に経営は苦しくなってしまった。転落を始めると、勢いは止まらない。とうとう2年前に社長は夜逃げし、倒産してしまった。

 一夜にして職を失った雄太は、マンションや車を売り払い、妻からは離婚届を突きつけられ、養育費まで請求されるはめになった。天国から地獄、勝ち組から負け組へと180度生活が変わってしまったのだ。

 前の会社と同じような待遇を求めて転職活動をしたものの、どこの企業からも相手にしてもらえなかった。その後、バイトを転々として今のような生活を送るようになった。

 ――何をやってもうまくいかない。

 ――何をやってもうまくいかない。

 ――何をやってもうまくいかない。

 湧き出てきた感情に、急いでフタを閉める。

 意識をそらせるために窓の外を見ようとしたとき、ドアの上の液晶画面に映し出されているニュースに気づいた。

『奥多摩老人ホーム放火事件 犠牲者さらに増える

 今日未明、意識不明で重体だった坂本一平さん(73)が、入院先の病院で息を引き取った。これで、放火事件での犠牲者は19名となる。犯人の手がかりは今のところつかめていない』

 ――これで19ネンキンか。

 雄太は最後の文章を繰り返し読み、安堵した。

 ジーパンのポケットに入れていたスマフォが震えて、LINEメッセージが届いたのを知らせた。取り出してチェックすると、発信者は「胸焼け」だった。


 胸焼け

 おはようございます。今日会う約束は大丈夫ですか?


 雄太は電車に揺られながら、すばやくメッセージを打った。


 代表

 大丈夫です。今日の7時に、指定の場所に行きます。



 雄太は新宿駅近くのビルの地下にある喫茶店で、胸焼けを待っていた。

 喫茶店に入るのは久しぶりである。生活が苦しくなってからは、マクドナルドや立ち食いそばぐらいしか利用していないので、普通の喫茶店に入ると妙に緊張する。

 メニューを受け取り、コーヒー一杯1000円という金額に目を丸くした。

 ――まずい、こんなとこで1000円も使っちゃったら、カプセルホテルには泊まれないよ。コーヒー一杯のために、それはイタすぎる。

 店員から「ご注文は?」と聞かれても、雄太は「つれが来てから頼みます」と答えて水を頼んだ。もし、胸焼けが現れなかったら、「つれが来なかったので」と言い訳して、何も頼まずに店を出るというシミュレーションを頭の中でしてみる。恥ずかしいなどと言っている場合ではない。

 ――俺も、昔はこういう高い喫茶店で、ふつーにコーヒー飲んでたのに。人はあっという間に堕ちるものなんだな。

 待っている間にすることもないので、メニューに書いてあるコーヒーに関するうんちくを読んでいた。だが、さっぱり頭に入らない。1分が10分ぐらいの長さに感じられた。

 そのとき、ジーパンのポケットに入れていたスマフォが振動した。取り出して、雄太は「なんだよ」と思わず低くつぶやいた。画面には「ひかる」と表示されている。

 席を立ち、階段を上りながら「はい」と不機嫌そうに電話に出た。

「ねえ、何度も電話してるのに、どうして出ないのよ」

 いきなり尖った声が耳に刺さった。

「しょうがないだろ、忙しかったんだから」

「わざと出ないんじゃないの?」

 意地悪な聞き方に、雄太はため息で返した。

 ビルの外に出て、「それで、何の用だよ」とぶっきらぼうに尋ねた。

「だからあ、半年前から何度も言ってるじゃない。養育費が振り込まれてないって」

「だからさ、それは何度も言ってるだろ。会社が給料支払うのが、遅れてんだよ」

「半年も給料なしってこと? そんなのあり得ない」

「もらってるけど、お袋が入院してるから、仕送りしてんだってば」

「本当に入院してんの? どこの病院?」

 意地悪そうな声音でひかるは問う。

「そんなの聞いて、どうすんだよ」

「そこの病院に、本当に入院してるのか、聞いてみるから」

「バッカだなあ、お前。今はどこの病院も、そんなことを聞いても教えてくんないよ。個人情報を保護しなくちゃならないから、入院患者の名前も教えられないんだよ」

「えっ、そうなの?」

 ひかるは、明らかにうろたえている。

「……でも、いいから、教えて。そこに行って聞いてみるから」

「だからあ、行っても教えてくれないんだってば。自分で何号室の誰それに会いに来たって言わない限り、ダメなんだって。あ、見舞いに行くなんて言うなよ。お袋がお前のこと嫌ってたのは、お前も知ってるだろ? 絶対、言うなって言われてるから」

「……」

 珍しく突っかかってくるところを見ると、おそらく、誰かがひかるに入れ知恵をしているのだろう。だが、どんな入れ知恵をされていても、ひかるを言いくるめることぐらい、雄太には造作ない。

「それじゃあ、お金はいつ振り込まれんの。このまま養育費払えないんだったら、訴えてやるから」

「どーぞ、どーぞ。弁護士頼むのにカネがものすごくかかるって、知ってんのか? それに、裁判になったら、お前が育児放棄してること、俺言っちゃうからな。バラしちゃうから」

「イクジホーキ? 何、それ」

 その答えに、雄太は爆笑した。そばを通る人が驚いた顔で雄太を見るので、慌てて真顔に戻る。

 ――我ながら、よくこんなバカ女と結婚したもんだよなあ。

 元グラビアアイドルのひかるとは合コンで知り合い、つきあいはじめて3ヶ月で結婚した。そのころは六本木ヒルズに住んでいて、雄太は羽振りがよかった。ひかるはブランドものの服やバッグを買いあさり、絵に描いたようなセレブな生活を送っていたが、雄太の勤めていた会社が倒産したら、あっという間に実家に帰ってしまった。

 今はホームレスになっていることは、ひかるに伝えていない。小さい会社に就職したものの、半年で嫌気がさして辞めてしまったことは伏せてある。ひかるにそこまで堕ちたのだと思われるのは、わずかに残っているプライドが許さなかったのだ。

「ホーキって、掃除に使う箒じゃないから。子育てを投げ出してるってことだよ」

「そんなことないよ。綺羅羅をちゃんと、かわいがってるからっ」

「そっかあ? だって、綺羅羅を置いて、毎日男と遊びに行ってるって、俺は聞いてるけど。男ん家に泊まって、帰って来ないこともあんだろ? そういうのを、育児放棄って言うんだよ。お前の親も、孫をほったらかしてパチンコに行ってるって言うじゃないか。どの辺が、ちゃんと子育てしてるんだよ」

「……」 

 綺羅羅というのは、雄太の娘の名前である。

 何度聞いても、雄太はわが子の名前になじめない。ひかるがこの名前を考えたとき、雄太は「アニメのキャラクターじゃないんだから、もっと普通の名前にしてくれ」と全力で反対した。だが、「絶対これ以外、考えらんない」とひかるは一蹴し、勝手に出生届を出してしまったのである。

 まわりから「お子さんの名前は?」と聞かれて、「綺羅羅」と答えるたび、雄太は穴があったら入りたい気持ちになっていた。

 その綺羅羅は、今年で4歳になる。

 最後に会ったのは1年前。でも、我が子に会いたいという気持ちはまったく湧いてこない。離婚前から、一緒に過ごす時間はほとんどなかったのだ。

「だからさ、会社の経営がよくなって、お袋の具合がよくなったら、養育費もちゃんと払うよ。まあ、しばらくかかるかもしんないけど。お前んちは地主なんだから、生活に困るわけじゃないんだろ? 父ちゃんにカネもらえよ」

「……」

 ひかるは黙り込み、荒い息遣いだけが聞こえてきた。怒っているのだが、どう反論すればいいのか分からないのだろう。構わずに、雄太は電話を切った。

 そのとき、「あの、もしかして、代表さんですか」と男に声をかけられた。

「私、胸焼けです」


 

 喫茶店に入ると、胸焼けと名乗る男は雄太の前の席に腰を下ろした。

「何か注文しましたか……まだですか。ここは有機栽培のコーヒーが売りなんですよ。ここのコーヒーを飲んだら、ほかの店のコーヒーは飲めなくなりますよ」

「えと、じゃあ、ブレンドを」

「マスター、ブレンドを2つ」

 胸焼けと名乗る男は、見たところ60代ぐらいである。ロマンスグレーの髪はきれいに整えてあり、銀縁のメガネをかけている。髪の色に合わせているのか、渋いグレーのスーツは、いかにも高級そうである。

 切れ長の目は、男なのに妙に色気がある。おそらく、女にはモテるだろう。雄太は、祖母が杉良太郎のファンだったことを思い出した。雄太が小学生の頃、ビデオで歌っている杉良太郎を見ながら、「切れ長の目で流し目されると、弱いわあ」と言っていたのである。

 変な人物だったらどうしよう、と警戒心を抱いていた雄太は、俳優にでもいそうな男前が現れたので、却って困惑している。 

 同時に、60代ぐらいのいい大人がブログを見てまじめにコメントを寄せていることに、軽い違和感を抱いた。

「何かトラブルでもあったんですか。先ほど、電話でケンカをしてたみたいですけど」

 胸焼けは優雅に足を組みながら尋ねた。

「いや、あの、別れた妻から電話があって、ゴチャゴチャ言われたんで」

「養育費を払えとか」

「そ・そうなんです」

 雄太は言い当てられて、驚いて胸焼けの顔を見た。

「だいたい、別れた女房が連絡してくるときは、金の無心ですよ。僕も経験があるんでね」

「そうですか」

 コーヒーが運ばれてきた。雄太は勧められるまま一口すすり、

「これ、うまいっすね」

 と、思わずつぶやいた。

 ネットカフェでは泥のようなコーヒーしか飲んでいないので、まともなコーヒーを口にしたのは久しぶりである。

「そうでしょう。ここのオーナーはコーヒーにひじょうにこだわりを持っていてね、日本でもこれだけいいコーヒーを飲めるところは、なかなかないと思いますよ。香りからして、普通のコーヒーとは違いますから」

 胸焼けもブラックのままゆっくりとすする。

「代表さんは、何のお仕事をされてるんです?」

「……前はパソコン教室のインストラクターをやってたんですけど」

「ブログのプロフィールにも書いてありましたね」

 胸焼けは足元に置いてあるリュックとボストンバッグにチラリと目を走らせ、

「もしかして、ネットカフェで寝泊りされてるんですか」

 と尋ねた。

「あー、まあ、今はそうですね……たまに、ですけど」

 雄太はあいまいに答えた。

「あの、胸焼けさんは、何のお仕事をしているんですか」

「その前に、胸焼けさんはおかしいですよね。むねおさんとでも呼んでください」

「はあ」

「僕は、多くの人を幸せにするような仕事をしているんです。今は具体的には言えないんですが、いずれ私の活動も分かると思いますよ」

「はあ」

 ――怪しい、この人。

 雄太の中で警戒心のランプが点滅した。それでも、表情には出さずに涼しい顔でコーヒーを飲む。今日の目的を果たすまで、席を立つわけにはいかなかった。

「それにしても、あの犯行現場の画像にはシビれましたね。よくあれだけの犯行を思いついたものだと、感心しました。ホームを狙えば、一度に大勢の害虫を殺せますからねえ。あの大胆な犯行で弾みがついて、みんな勇気をもらえたんでしょうね。あれから害虫駆除があちこちで始まりましたから」

 胸焼けにほめられ、雄太は誇らしいような、けれども人を殺してほめられるのも妙だと、複雑な気持ちになった。

「害虫を刺したり、電車のホームから突き落としたりする勇気がないから、放火を選んだだけですよ。苦しんでいる様子が見えないし」

「なるほどねえ。確かに、私も直接手を下すのはためらいますからねえ。ホームまで、どうやって行ったんですか?」

「バイクを借りて行きました」

「なるほど。山奥のホームだし、深夜だし、目撃者もいないでしょうね。完璧な計画だなあ」

 胸焼けは感嘆した声を上げた。

「いえ、それほどでも」

 雄太はどう答えたらいいのかわからず、コーヒーをチビチビと飲んだ。

 胸焼けはスーツの胸ポケットから封筒を取り出した。

「これ、19ネンキン分です。今朝、一人亡くなったので、その分も入ってます。ご苦労様でした」

「どうも」

 今日の目的はこれだった。

 雄太は封筒を受け取り、思いのほか分厚いことに気づき、そっと中を見た。

「えっ、こ・こんなに?」

 思わず声が上ずってしまった。

 胸焼けから「シッ」とたしなめられ、雄太はあわてて口を押さえた。

「あの、これ、何かの間違いじゃ」

「いえ、これで19ネンキン分ですよ。いくらもらえると思ってたんですか?」

「一人につき1万円もらえれば、ラッキーだな、って」

「1万円じゃ安すぎるでしょ」

 胸焼けは苦笑した。

「本当は一人10万円でも安いとは思うんですけど。今後も払っていくことを考えると、それが限界なんです。それで足りますか?」

 雄太は何度も頷いた。

「これでアパートにも住めます」

 思わず、ホームレス状態であることをポロリともらしてしまった。

「それはよかった」

 胸焼けはにこりと微笑んだ。

「今後も、一人につきネンキン10万円をお支払いしますよ。もし続ける気があるのなら、ですが」

「もちろんです。またホームを狙います」

「そうですか。それは頼もしい」

 胸焼けはコーヒーのおかわりを頼んだ。雄太も「飲みます?」と聞かれ、大金を手にしたせいか急に気持ちが大きくなり、「ええ、紅茶をお願いします」と頼んだ。

「そういえば、ほかのメンバーには会ったんですか?」

 雄太の問いに、

「ああ、クジョレンジャーの人たちですか? 先週会いましたよ、ネンキンを渡す時に」

 と、胸焼けはコーヒーをゆったり飲みながら答えた。

「本当に5人で活動してるんですか?」

「5人いましたね。ただ、クジョピンクは男性でしたが。元々、他のブログのオフ会で知り合ったって言ってましたよ」

「へえ。どんな感じなんですか」

「どうって……普通ですよ。代表さんと同じように。普通にその辺を歩いてそうな」

「はあ」

 雄太は意外な気がした。自分のことを棚に上げて、平気で老人を殺害するような人は、一目でどこかおかしいと分かるようなタイプではないかと考えていたのである。

「そういえば、代表さんはどうしてあのブログを始めようと思ったんです?」

「ああ、あれはパソコン教室のインストラクターをやっていたときに、気分転換で始めたんです」

「気分転換?」

「教室に来ているジジイやババアに、困ったヤツが多くて。ほんっと、今のジジババはおかしなヤツ多いですよ。何度同じことを教えても覚えられないのはしょうがないんですけど、それでキレるジジイがいるんですよ。こんな複雑なことできない、もっと簡単なことを教えてくれって。ファイルを保存する方法に難しいも簡単もないのに。それでも覚えられないと教え方が悪いって怒るし」

「代表さんが悪いわけではないのにねえ。そういうジジババはイライラするでしょ」

「そうなんですよ」

 雄太は身を乗り出した。

「それに、必要な操作だからって教えようとしても、私には必要ないって絶対に教わろうとしないババアもいるんです。何もできないから一から教えようとしているのに、必要なことだけ教えてくれって言うヤツもいるし」

「それは厄介だなあ、確かに。何を教わりに来てんだか」

 胸焼けは軽く顔をしかめた。

「きわめつけが、色目を使うババア。もう60過ぎてるのに、やたらと厚化粧で香水ぷんぷんさせて、俺から見たらただのババアなのに、自分はほかの人とは違うってアピールしていて。趣味の悪いプレゼントくれたり、車で家まで送るって言ったり、キモいんですよ。俺、食われちゃうんじゃないかって、マジで怖かったし。そんなやつらが年金をもらってぬくぬくと暮らすなんて、理不尽でしょ。俺なんか、給料ものすっごく安いのに、そこから税金を引かれ、年金も払わなきゃいけないのに。その自分が払った年金は、今目の前にいるジジイやババアが使ってるんだって考えたら、ほんっと腹が立って」

「確かにねえ」

 胸焼けはあいまいな笑みを浮かべた。雄太が熱弁を振るい始めたので、持て余しているようだった。雄太はあわてて口を閉じ、紅茶を飲んだ。

「あの、ちょっと聞きづらいんですけど」

 雄太は声を潜めて、胸焼けのほうに体を傾けた。

「どうしてこんなことにお金を出すんですか。しかも、こんな大金を。むねおさんにとって、何のメリットもないですよね」

 胸焼けは微笑んで、

「メリットはありますよ。僕が今やっていることは、将来的に大きな見返りがくると確信しています。どんな見返りがあるのかは、もう少ししないと分かりませんが」

 と答えて、腕時計を見た。

「そろそろ行かないと……あ、ここは僕が払いますから」

「えっ、でも」

「いいんですよ。忙しいところ、足を運んでもらったんですから。これからも活躍を楽しみにしてますよ」

「分かりました。これでパソコンも買い替えられるし、助かります」

「パソコンが必要なんですか? なら、私のほうで調達しますよ。知り合いにパソコンショップをやっている人間がいるから、安く調達できますよ」

「えっ、本当ですか?」

「欲しいパソコンがあるなら、LINEで知らせてください」

「ハイ、ありがとうございます!」

 喫茶店を後にし、ビルから出たところで二人は別れた。

 ――やっとオレにも運が向いてきたかな。

 雄太は久しぶりに気持ちが弾んでいた。

 ――こんな生活から、やっと抜け出せるんだ。このカネがあれば、アパートを借りて、職も探せる。夢なんかじゃない。やっと抜け出せる。やっと抜け出せる。

 革ジャンのポケットに入っている封筒をそっと手で押さえた。

 ――人生は変えられる。人生は自分の力で変えられるんだ。

 雄太は目頭が熱くなり、そっと指先で涙を拭った。夜の街の灯りが、優しくにじむ。



 古川源一郎は、その日もいつものように卵を軽トラックに積み、近所に配達して回っていた。

 源一郎は養鶏場を営んでいた。源一郎の売る卵は近所では「源さんの卵」と呼ばれ、ほかの卵にはないコクがあると、評判だった。赤い殻の卵は割ると黄身がこんもりと盛り上がり、新鮮さを物語っている。

 なじみのケーキ屋は、「うちのケーキは、源さんの卵がないと作れないよ」といつも感謝の言葉をかけてくれる。そして、ロールケーキやスポンジケーキの切れ端を、「こんなもんで悪いけど、お孫さんのおやつにでも」と包んでくれるのだった。

「鶏も人間と同じで、安全なもんを食わせんといけん。工場で大量生産されるようなエサを食っとったら、不自然に太るだけじゃ。うちゃー昔からトウモロコシとか海草とか、自然なものしか食わせとらん。じゃけぇ、その鶏が産む卵も安全っちゅうわけじゃ」

 源一郎は、自分がいかに手をかけて鶏を育てているのかを話すのが好きだ。鶏の話をしだすと、30分は止まらなかった。

 その日も、いつも通り一軒の農家に卵を配達した。

「老人ホームの事件、まだ犯人は見つからんのじゃろ」

 農家の主人が卵を受け取りながら言った。

「そうらしいのう。人間の仕業じゃあないで、ありゃあ。玄関に火ぃつけて、非常階段のとこにも火ぃつけて、どっからも逃げられないようにするんじゃけぇ、生きたまま焼かれていくなんて、むごいのう」

 源一郎も応じる。

 農家の主人がタバコを源一郎に勧める。源一郎は軽く右手を挙げて受け取り、ライターで火をつけた。

「むごいのう、誰が何の目的でそんなことしたんじゃろか」

 農家の主人もタバコに火をつけ、煙を吐きながらつぶやいた。

「都会にゃあ、おかしなやつが多いでなあ」

「わしらぁ、まだ幸せじゃが。元気に働いてるし、家に住んでるし」

「まあなあ。うちの康太も、じっちゃんの卵以外は食べられんっていうんじゃ。康太んために死ぬるまで卵を作らんと」

 しばらく立ち話をした後農家を出ると、源一郎は次の配達場所に向かって軽トラックを走らせた。

 車2台がやっとすれちがえるような細い道路の脇には、田んぼが広がる。今は枯れた切り株に覆われ、荒涼とした風景になっているが、春になれば苗が植えられ、それが育ちだすと辺り一面緑に包まれる。

 ――こげなのどかな町はぁ、恐ろしいニュースも無縁じゃ。

 源一郎がゆったりとトラックを走らせていると、ふと道端に銀色の車が止まっているのが見えた。運転手らしき男が、こちらに向かって手を振っている。

 ――パンクじゃろか。

 源一郎は近くまで来ると、トラックを端に寄せて止め、車から降りた。

 黒いニットの帽子を深くかぶった若い男が、口の端に笑みを浮かべて、ペコリと頭を下げた。

 ――こげな田舎に若者が来よるなんて、珍しいのう。ドライブじゃろか。

「タイヤがパンクしたんかいの」

 源一郎は声をかけながらタイヤを覗きこんだ。

「ええ、先ほど、パーンという音がして。僕、一人でタイヤを交換したことないんで」

「スペアのタイヤはあるんかいの」

 源一郎は車の後ろに回り、しゃがみこんだ。

「どのタイヤぁ、パンクしとるのは」

「あっち側のタイヤです」

 源一郎は立ち上がり、前に移動しようとした。

 そのとき、背中に鈍い衝撃を受けた。

 振り向いて背中をみると、何かが刺さっている……それが包丁だと気づくまで、数秒かかった。

「なんじゃあ、こりゃあ」

 甲高い声をあげて男を見ると、男は無表情のまますばやく車に乗り込んだ。

「オイ、あんたぁ、なにしょーるん」

 車の窓に手をついて呼びかけても、男はこちらを見ようともしない。エンジンをかけると、源一郎をふりきるように車を急発進させた。源一郎はその勢いで道端に倒れ、猛スピードで走り去っていく車のエンジン音を聞いた。

「誰かぁ」

 助けを呼ぼうにも、かすれた声しか出ない。

 ――松本さんに卵ぉ、届けんと。康太もケーキ楽しみにしちょるし。

 源一郎はトラックまで這って行こうとしたが、途中で力尽きた。

 源一郎が吐くかすかな息は、冷たい空気に触れると白く煙る。やがて、かすかな呼吸の音も途絶え、冬の小道に静寂が訪れた。



「こちら、広島県の山間にある大里村です。大里村には450人の住人がいて、平均年齢は72歳という、まさに高齢化が進んでいる村です。そんな村に異変が起こりました。一週間前、80歳の古川源一郎さんが何者かによって殺害されるという痛ましい事件が起きたんです。古川さんは養鶏場を営んでいて、卵の配達に行く途中に襲われました。その2日後には73歳の柳沼スミさんが買い物に出かけたときに、やはり何者かに襲われて死亡。そして昨日、3人目の犠牲者が出ました。襲われたのは堀場照子さん78歳。白昼堂々、農作業に出かけたところを犯人は襲ったと見られています」

 女性レポーターが農道をゆっくりと歩きながら解説している。

 次に、映像は村長のインタビューに切り替わった。

「恐ろしいですよ、本当に。こんなのどかな村で、一週間で3人も殺されるなんて。何が起きているのか、さっぱり分かりません。みんな恐ろしがって、外に出られないって言ってます。これからみんなで対策を話し合うところなんです」

「おっそろしい世の中だなあ、本当に」

 テレビを見ながら、村野勇蔵は呟いた。

「うちは代々赤羽で暮らしていて、親父もお袋も一緒に住んでいるからいいけど。もし田舎に両親がいたら、気が気じゃないよなあ。小峰君のところは、どうなの」

 急に話をふられて、雄太はパソコンに向けていた顔をゆっくりと勇蔵のほうに向けた。

「はあ」

「小峰君は、両親はどこにいるの? 東京?」

「いえ、群馬です」

「それならまだ近いからいいよな。帰ろうと思えば、いつでも帰れるし。そんなに田舎に住んでるわけじゃないんでしょ?」

「実家は宇都宮なんで、それほど田舎ってわけじゃないですね」

「それなら安心だ」

 そのとき、入り口のガラス戸が開いた。

「おっと、お客さんだ」

 勇蔵は禿げかけている頭をなでると、突き出たお腹をゆらしながら、客を出迎えた。

 赤羽駅から歩いて5分ほどのところにある、昔からあるような、街の小さな不動産屋。雄太は一週間前からそこに勤めていた。

 雄太はアパートを探していた時、たまたまこの不動産屋を見つけた。ショーウィンドウに物件の見取り図が数枚貼ってあるのを見つけなければ、気付かずに通り過ぎてしまいそうだった。

 ガラス戸を開けると、片隅に古びたソファセットが置いてあり、事務用の机が4つ置いてあるだけの狭い事務所だった。雄太は安いアパートを探していたので、「こういうところのほうがありそうだな」と迷わず中に入り、部屋を借りることにした。

 5年前に父親から会社を任されたという勇蔵は、「もう少し会社を大きくしたい」と考えているようだった。勇蔵と話をしているうちに、「パソコンが得意なら、うちのホームページをつくってくれないか。顧客の管理も、本当はパソコンでしたいんだけど、俺にはわかんなくて」と勧誘されたのである。時給は安いが、次の仕事が見つかるまで引き受けることにしたのだ。

 胸焼けにもらったお金を元手に、ようやくネットカフェの生活から脱した時は、このうえない幸せを感じた。さっそく理髪店に行って肩まで伸びていた髪を短くし、服をユニクロで買い揃えて身なりを整えた。体重だけはすぐには落とせないが、まともな食生活をしていたら、そのうち元通りになるだろう。

 ――少しずつ、人生が上向きになってきたな。

 ジワジワと腹の底から喜びがこみ上げてくる。雄太は中古のパソコンに向かい、軽やかにキーボードを叩いた。

「わあ、すごい」

 お茶を客に運ぶ途中の女性社員が、雄太に声をかける。

「こんなに簡単にHPを作れるなんて、すごいね。さすが、カッコいいホームページ」 

「そうですか?」

 その女性社員は武山道子という名前の、30代前半の独身女性である。

 短大卒業後、経理として入社し、今は営業や物件管理もこなす。

 勇蔵は雄太が入社した日に、「短大出たばかりのころ、俺、みっちゃんに手を出しそうになったんだよ。今はああだけど、若い頃はブスでもそれなりにかわいく見えるもんなんだから。若い子なら、ブスでも体はよさそうだしさ。でもさあ、みっちゃんはまじめだから、すんごく怒られて、しばらく口もきいてくんなかったんだよ。今は、愛人にしなくてよかったってつくづく思うけどね。してたら、行かず後家になったのは俺のせいだって、慰謝料請求されてたかもしんない。ブスの恨みは怖いからさあ。危ない、危ない」と語り、カラカラと笑った。雄太はさすがに気の毒に感じ、勇蔵の話を聞いても笑えなかった。

 道子は雄太が入社した日から親切にしてくれる。素直な性格なのだとは思うが、たまに鬱陶しく感じる時があった。

 ――どこがカッコイイんだよ。面白みも何もないホームページじゃねえか。

 雄太は心の中で毒づいた。

「そうそう、小峰君、今日のお昼はどうするの?」

「お昼ですか?」

 時計を見ると、そろそろ12時になる。

「外に食べに出ようと思ってるんですけど」

「私、夕べ夕飯を作りすぎちゃって。一人では食べきれないし、二日続けて同じのを食べるのも何だかな、と思って、持って来たの。よかったら食べない?」

「はあ」

「小峰君、休憩に入っていいよ。みっちゃんも」

 客に勧める物件をファイルから探している勇蔵が、意味ありげな笑みを浮かべて雄太に声をかけた。道子の思惑を分かっていて勧めたのは明らかである。

「それじゃ、休憩に入ります」

 道子がいそいそと事務室の奥にある小さなキッチンに向かった。雄太は断る理由もないので、仕方なく「休憩します」と席を立った。

 キッチンに入ると、

「ちょっと待ってて」

 と、道子は紙袋からプラスチック製のケースをいくつも取り出し、テーブルの上に並べた。

 道子は、紺のカーディガンに白いブラウス、紺のタイトスカートという、いつ買ったのかわからないほど、時代遅れの格好をしている。小太りでタイトスカートからのぞく足は太く、「女を捨てている」としか思えない。ボブカットの髪形は丸顔を強調しているだけであり、化粧も下手で赤い口紅は完全に浮いている。

 ――こんな女に好かれるようになっちゃ、俺もおしまいかな。早く痩せないと。こんな女と同レベルと思われちゃ、たまらんよなあ。

 雄太は思わず小さくため息をついた。

「お口に合うか、分からないんだけど」

 道子は料理を並べ終えて、雄太に食べるよう促した。

 おにぎり、鶏肉のからあげ、さばの味噌煮、卵焼き、かぼちゃの煮物、切干大根の煮物、おしんこと、明らかに食べきれないほどのメニューが並んでいる。

 ――これ、夕べの残りじゃないだろ。あきらかに、オレのために作っただろ。

 心の中で突っ込みを入れながら、「うわあ、すごい。これ全部、武山さんが作ったんですか?」と感心したような声をあげた。

「そうなの。料理は好きだから、毎日作ってるんだ」

 道子はいそいそとお茶を入れた。

「どうぞ、好きなだけ食べて」

「それじゃ、いただきます」

 ――まあ、ただでご飯食べられるんだから、いいか。

 雄太はまず、からあげに手をつけた。見たところ、それが一番まともそうだったのである。煮ものは煮すぎて崩れているので、見るからにおいしそうではない。

 からあげを一口食べると、

 ――かたっ。

 と、雄太は心の中で叫んだ。

 ――この人、あんまり料理うまくねえな。ひかるといい勝負だよ。これじゃ、大戸屋の定食のほうがずっとうまいよ。煮もの系が多いのは、おふくろの味を狙ってんだな。俺が20代で独身で貧乏そうだから、おふくろの味でコロッといくんじゃないかと。でも、バブリーな生活してた時に、散々うまいもん食ってるから、相当なレベルじゃないとコロッといかないんだな、これが。これじゃあ、いかず後家になるはずだよ。

 心の中では悪態つきながらも、「おいしいっすね」「久しぶりに、まともなご飯食べました」と雄太はしきりに誉めた。

 道子はあきらかに舞い上がり、「ねえ、小峰君は何が好きなの? 今度、好きなものを作ってきてあげる」とまで言い出した。

「オレの好物ですか? そうだなあ、うな重ですね」

「うな重……」

 道子は複雑そうな表情をして、黙り込んでしまった。

「うなぎなら、おいしい店を知ってるから、今度行ってみる?」

 めげずに道子は誘いをかけてくる。

「へえ、いいですねえ。教えてくださいよ」

 ――この分なら、うな重をおごってくれるかも。

 雄太はニッコリと笑った。微笑むだけならタダである。タダ飯を食べられるなら、ブス相手でもいくらでも微笑んでやる、と雄太は思った。



 その日の夜、帰宅すると真っ先にブログをチェックした。それがここ一年ぐらいの習慣になっている。

 コメント欄を見ると、新たに書き込みがあった。


 鬼嫁  

 お願いです。

 うちの姑も害虫なので、駆除してもらえませんか?

 結婚して3年になるけど、子供が産まれない私に向かって、「昔だったら、子供が産めない嫁は離縁されたのよ」って真顔で言う姑。

 旦那からも怒ってもらうんだけど、まったく効果なし。

 それどころか、勝手にうちの合鍵を作って、家に入り込む始末。

 この間、仕事から帰ったら姑がいて、「いいものを食べてないから子供が産まれないのよ」ってにこやかに料理を作ってました。

 ちなみに、その料理は激マズ。

 さすがに大泣きして旦那に「堪えられない、離婚する」って言ったら、旦那も激怒して絶縁を言い渡していました。

 それでも、何やかやと理由をつけて、うちに来る姑。

 本気で死んで欲しいと思ってます。


「新たな依頼か」

 雄太が今後の対応を思案していると、新たなコメントの投稿があった。


 クジョレッド 

 クジョレンジャーのクジョレッドです。

 鬼嫁さん、ひどい目に遭っているようですね。

 害虫に我慢する必要はありませんよ。

 その姑は、家に勝手に入り込む害虫の王様、ゴキブリのようですね。

 追い払うだけじゃ、またやって来るので完全に撲滅しないと。

 僕らがさっくり退治しますから、ご安心を。

 レンジャーで相談してから、連絡しますね。


「クジョレンジャーはやっぱ、仕事が早いなあ」

 雄太はニヤニヤしながらコメントを読み、自分もコメントを投稿した。


 代表  

 みんな、この調子でサクサクと害虫退治をしましょう。

 この活動は、社会貢献と言えるかもしれません。

 ロージンなんて、医療費をメチャクチャ高くして長生きできないようにすればいいんです。

 毎日、病院でムダに群れてるロージンの医療費を、なんで俺らが負担しなくちゃいけないのか?

 年金だって、今のロージンは自分たちが払った以上のお金をもらってるんです。

 俺らがロージンを食わせているようなもんです。

 今、定年を伸ばそうという議論もあるけれど、冗談じゃない。

 ロージンたちの席が空かないと、新入社員は雇ってもらえません。

 結局、俺ら若者にしわ寄せがくる。

 ロージンが減れば、少子化でも何とかやっていけるんだから、日本の将来のためになるんです。



 暇つぶしとストレス発散のために一年前に始めたブログ「もしも世界からロージンが消えたら」は、常連のフォロワーが今では20人ほどつくようになった。

 雄太はロージン撲滅の会の代表と勝手に名乗っている。

 日々、ロージンにどれだけひどい目に遭っているのか、国は高齢者を優遇して若者には冷たいのではないかと、自論を書いて鬱憤を晴らしている。それに賛同する人が増え、胸焼けやクジョレンジャーが現れ、実際の活動へと発展していった。

 今では、たまにこのブログを偶然読んだ人から、害虫退治の依頼がある。雄太は応じていないが、胸焼けとクジョレンジャーは連絡を取って請け負っているらしい。

 雄太はスーパーで買ってきた唐揚げ弁当をレンジで温めた。

 ――昼にまっずい唐揚げを食べたら、まともなのを食べたくなっちゃった。弁当のほうが、数十倍うまいよな。

 バランスを考え、きんぴらごぼうと冷奴、味噌汁も買ってきてある。それらを交互に食べていると、スマフォが震えた。見ると胸焼けからメッセージが届いている。


 胸焼け

 パソコンの件、知人に聞いてみました。その機種なら、7万円で売ってくれるそうです。

 それと、今使っているパソコンも、よければこちらでその店に売りますよ。もちろん、売ったお金は代表さんにお支払いします。


「おおっ」

 雄太は唐揚げを頬張りながら、小さく歓声をあげた。

 すぐにメッセージを打ち、送信する。


 代表

 ありがとうございます! それを買いますので、よろしくお願いします。

 中古パソコンの買い取りもお願いします。


 ――中古のが1・2万円で売れたら、5万円で新品のノートパソコンが手に入るってことだもんな。この人、いいネットワーク持ってんなあ。

 上機嫌で食べていると、またメッセージが届いた。


 胸焼け

 了解しました。商品が手に入ったら連絡します。

 今使っているパソコンは、データは削除しておいてくださいね。


 雄太は、『ありがとうございます。お願いします』と短いメッセージを返信した。

 ――いいぞ、運がどんどんよくなってくる。ホント、長かったよなあ、極貧生活。何度も死のうかと考えたけど、死ななくてよかった。

 味噌汁を飲みながら、しみじみと今までの生活を振り返った。

 ――でも、190万ぐらいのカネじゃ、すぐになくなっちゃうよなあ。年内に500万稼げば、来年はもっとましなアパートに移れるかも。

 今住んでいるのは、家賃3万円の築30年は経つ古いアパートである。ワンルームで、トイレと風呂がついている。蕨駅から歩いて15分ぐらいかかるが、それでもネットカフェで生活していた頃と比べると、天国のようだった。

 ――やっぱ、そろそろ第二弾を決行しないと。いつまでもこんな生活を続けるつもりはないし。今週末ぐらいに、行ってみるか。

 夕食を終えるとパソコンに向かい、ネットで検索を始めた。

「都内はやめたほうがいいよな。関東圏内で、田舎にあるようなホームがいいか」

 独り言を言いながら、1時間ほど検索を続け、メモに数件のホームの名前を書き込んだ。

 神奈川 大山 ハッピーライフ大山

 群馬 水上 せせらぎの郷 

 茨城 潮来 グリーンヒル潮来

「よっしゃ。明日、地図を買ってくるか」

 満足そうに雄太は呟いた。



 朝目覚めたとき、雄太は一瞬ここがどこだか分からなくなる。

 実家なのか、IT企業に勤めていた時に住んでいた高級マンションなのか……高級マンションであってほしいと願っても、意識がハッキリするにつれ、そこはボロアパートの一室なのだと思い出す。茶色い天井が自分を見下ろしている。

 雄太はため息をついてから、身を起こす。

 受け入れたくない現実。いつになったら抜け出せるのか、元の生活に戻れるのか――。

「こんな生活に慣れたら、おしまいだ」

 洗面所の古びた鏡を見ながらつぶやく。

 ――オレは、もっと上を行く。こんな生活から、すぐに抜け出してやる。オレはもっと上にいるべき人間なんだから。



 その日、雄太は道子が客を物件に案内するのに同行することになった。

「うちでどんな物件を扱っているのか、知っておいたほうがいいでしょ」

 勇蔵はもっともらしい理由を述べたが、勇蔵の愛人らしい女が訪ねてきたから提案したのは見え見えである。近くの商店街でブティックを経営しているというその女は、厚化粧で黒いワンピースを着て、香水の臭いをプンプンさせている。初対面の雄太に対してもやけに馴れ馴れしい態度をとるので、辟易していた。

 ――いるんだよな。若者と同じレベルで会話できるってアピールして、自分は若いんだと思い込んでるようなおばさん。

「あの女の人、社長の愛人ですか?」

 道子にこっそり尋ねると、

「まあね。すっごく図々しくて、コーヒーを入れろとか、お菓子はないのとか、うるさいの」

 とうんざりした様子で答えた。 

「社長も趣味悪いなあ」

 雄太の言葉に、道子は「ハハ」と声だけで軽く笑った。

 数秒後、勇蔵は昔、道子に手を出しかけたという話を思い出した。

 ――やべ。この人のことも趣味悪いって言ってるようなもんだな。

 雄太はそっと道子の表情を伺ったが、怒っているようには見えない。

「ねえ、みっちゃん、何か飲むものなあい?」

 愛人に聞かれると、

「これから外に出るんで。何か飲みたかったら、台所で好きに入れてください」

 と、道子はキッパリと言った。

「私、車持ってくるから、お客様と一緒に外に出て待っていてくれる?」

 と雄太に声をかけ、道子は車のキーを持って出て行った。

「行ってらっしゃあい」

 雄太が事務所を出る時、社長の愛人は甘ったるい声を投げかけた。雄太は聞こえないフリをした。

 客は、40代後半の男だった。「ガリガリ」という表現がふさわしいほど痩せていて、顔色は悪い。白髪が目立ち、60代ぐらいに見える。眼鏡の奥の目は暗く淀み、何かに脅えているようにキョトキョトと目を動かす。ふと手を見ると、指先が真っ黒だった。何日も風呂に入ってないのだとすぐにわかる。

 ――この人、ネカフェ難民どころか、ホームレスすれすれの生活だったんだろうな。俺のほうが、ネカフェに毎日泊まれるだけ、まだマシだったのかも。

 雄太は話しかける言葉を何も思い浮かばず、二人で寒さに震えながら、黙って車を待っていた。

 数分後、道子は「村野不動産」と車体に書かれた、白い軽自動車を二人の前に止めた。助手席に客が乗り込み、雄太は後部座席に乗り込む。

「井上さんは、埼玉に住んでたことはあるんですか?」

 道子が運転しながら、男に尋ねた。

「いえ」

「そうですか。川口は便利ですよ。一駅で都内だし。京浜東北線で上野や横浜まで一本で出られるし、赤羽で乗り換えれば池袋や新宿にも出れるし。環境もいいから、穴場なんですよ」

「はあ」

「これから案内する物件は、駅からは遠いんですけど、静かで環境はいいんですよ。近くに安売りのスーパーもあるし。コインシャワーやコインランドリーもありますから」

「はあ。まあ、住めればそれだけで十分です」

 消え入るような声で男は答えた。

「そうですよね、住めば都って言うし。川口の格安物件の中では、私はここが一番お勧めなんですよ」

 道子は男の様子に気づかないのか、気づかないふりをしているのか、明るく話し続ける。男はたまに「はい」「ええ」「まあ」と短く相槌を打つだけだった。

 15分ほどで物件に着いた。

 駅から歩いて20分ほどの住宅街にあるそのアパートは、見るからにボロボロで赤い屋根の色はすっかり剥げ落ちてしまっている。外階段はなく、玄関に入ると、正面に2階に上がる階段があった。

「トイレはここですから」

 道子はほかの住民の迷惑にならないよう、声を落として説明した。

 家賃1万5000円というそのアパートは、風呂なし共同トイレの四畳半の物件だった。雄太は二人の後をついて、珍しいものを見るような気分で内覧につきあった。

 アパートを見た後、道子は周辺を車で回り、スーパーやコインシャワーの場所などを教えた。

「帰りは、川口駅まで出てみましょうか」

 道子がやけに親切なので、内心雄太は驚いていた。

 ――俺に色目を使ってるんだと思ってたけど、男なら誰にでも優しくするタイプなのかな。

 男も徐々に打ち解けてきたのか、ポツリポツリと話すようになった。話をつなぎ合わせると、男はホームレスの支援をしているボランティア団体の力を借りて、ようやく仕事を見つけたらしい。ここ2年ほど、日雇いの仕事でしのいでいたので、定職を見つけられただけでも奇跡のようだ、というような内容だった。

「よかったですね。まさに新天地で、新しい生活のスタートですね」

 道子の言葉に、男は無言で頷いた。肩がかすかに震えている。鼻を頻繁にすすっているので、どうやら男が泣いているらしいことに雄太は気づいた。

「小峰君、そこにあるティッシュを取ってもらえるかな?」

 道子に言われ、後部座席に転がっていたティッシュケースを男に手渡す。

「すみません」

 小さく言い、男は鼻をかんだ。

 道子はラジオをかけた。女性ボーカルのアップテンポな曲が車内に流れる。90年代に大ヒットした曲だった。重い雰囲気に不似合いな曲に、雄太は救われたような気がした。

 ――バラードや演歌だったら、余計にしんみりしちゃうよな。俺もネカフェ難民のときは、バラードをまともに聞けなかったし。

 男は、ぼんやりと窓の外を見つめている。

 懐かしい曲を聴き、過去を思い出しているのかもしれない。もう戻れない、幸せな頃のことを――。



「あの人、かなり悲惨ですね」

 事務所に戻ると、入れ替わりに勇蔵と愛人の女は出かけた。客の男が手続きを済ませて帰った後、道子と二人きりになり、雄太は感想を漏らした。

 道子は、「誰のこと?」と首をかしげた。

「さっきの井上さんとかいう人。48歳で独身みたいだし、今までホームレスだったみたいだし。あんな四畳半のアパートに、あんないい歳した人が住むなんて、悲惨じゃないっすか。学生ん時は、地方から出てきた友達が、ああいうアパートに住んでたけど。社会人でも住むものなんだなあって」

「まあ、今は非正規労働の人が多いから。いつどうなるか、わからないからね」

 道子はさらりと答えて書類に目を落とした。

「でも、20代ならともかく、40代であれじゃあ、やばくないですか? 問題に対処する能力がないっていうか。あそこまで堕ちる前に、普通は何とかするじゃないですか。何も考えずに生きてきたっていうか」

「ずいぶん、きついこと言うんだね」

 道子は表情を変えずに言った。

「うちは格安物件を主に扱っているから、昔からああいうようなお客さんばっかりだよ。60代や70代の人だっているし。みんな、それぞれ事情があって、安いアパートに住むんだから。何にも知らないのにそういうこと言うのは、どうかと思う」

 道子のやや厳しい言い方に、雄太は気圧されて黙った。

 しばらく沈黙が続いた。

「お茶でも入れようか」

 やがて、道子は笑顔で声をかけ、台所に消えた。

 ――ちょっと待て。何で俺が、あんなブスに説教されなくちゃなんねえんだよ。

 雄太の心に、じわじわと不快感が広がっていった。

 ――俺はお前とは違うレベルの人間なんだってば。あー、早く痩せないと、あんなブスにコケにされっぱなしなんて、耐えらんないよ。それこそ、生きてる価値ないって。

 雄太は足元にあったゴミ箱を軽く蹴った。



 一人の老婆が、電車に乗り込むなり、優先席に突進した。向かい合って8人は座れるスペースは、20代ぐらいの若者が既に席を埋めていた。

 スマフォを見ながら笑っている男二人――この二人は友人だろう。その隣には腕を組んで眠っている男、さらにその隣には本を読んでいる女。向かいの席には、スマフォで黙々とメールを打ち込んでいる男、ゲームをしている男、手鏡を見ながら化粧を直している女、イヤホンで何かを聞いている女が座っている。

 老婆はざっと見回し、軽く舌うちをして、一番おとなしそうに見える本を読んでいる女の前に立った。女は気づかないのか、本から顔を上げようとしない。

 老婆はよろけたフリをして女の足を踏んだ。女は驚いて顔を上げた。

「あら、ごめんなさい。でも、ここは高齢者専用の席でしょ。私は足が悪くて通院してるの。そこ、譲ってくださる?」

 早口でまくしたてると、女は本を閉じて、

「今、この人、私の足を踏んだ」

 と指差した。

 すると、優先席に座っていた7人が一斉に立ち上がり、

「それは立派な傷害罪だなあ」

「そもそも、ここは老人の専用席じゃねえよ。優先して座らせてあげてもいい席だから。座らせてあげるかどうかは、俺らが決めるから」

「お前今、早足で入って来たろ? 足、悪くないんじゃね?」

「踏まれた足の指が折れてたら、どうすんの? 責任取るんだよね」

 と口々に老婆に向かって意見した。

 老婆はさっと青ざめ、顔がひきつった。きびすを返すと、閉まるドアに挟まれそうになりながら電車から転がり下りた。

 その様子を見て、8人は手を叩きながら大笑いした。

「おもしろーい、本当にいるんだね、人を攻撃するロージン」

「そうそう。ああいうのを害虫って言うの」

「やっぱ、優先席はなくさないとダメだね。ああいうわがままなロージンを増殖させちゃうから」

「マナーの悪い若者には教えればいいけど、ロージンになったら教えても直せないからなあ。ロージンが一番マナーが悪いよ」

「ホント、ホント」

 すがすがしい表情で笑いあっている8人を、ほかの乗客は複雑そうな顔で見ていた。

 一人の男が、笑いながらメッセージを打っている。


 クジョピンク

 優先席撲滅運動のために、迷惑な害虫を一匹追い出しました。

 優先席を、みんなのために取り戻そう!



「こちらがパンフレットとスケジュールになります」

 雄太は受付嬢から封筒を受け取った。

 赤羽駅の近くにあるスポーツクラブに雄太は来ていた。その場で入会するつもりだったが、写真や身分証明書などが必要であると知り、出直すことにしたのである。

 ――手っ取り早く痩せるには、ジムに通うしかないよな。

 会社帰りらしいビジネスマンやOLが次々と奥に消えていくのを見ているうちに、雄太は痩せたいという思いがより強くなった。

 ――俺だって、ちょっと前までは引き締まったいい体してたんだから。ジムにも通ってたし。

 スポーツクラブを出た後、近くのファミレスで夕飯を食べることにした。

 途中のコンビニで暇つぶしにと買った週刊誌をパラパラとめくっていると、『IT長者の転落した人生 かつてのカリスマ経営者のみじめな末路』という見出しが目にとまった。そこに載っている顔写真を見て、思わず「あっ」と声をあげてしまった。

 小早川龍――雄太の勤めていたIT企業の社長だった人物である。写真は、経営がうまくいっていたときのものだった。

 雄太は食い入るように記事を読み、途中で料理が運ばれてきても気づかなかった。

 その記事によると、龍は覚醒剤を所持していたところを捕まったらしい。会社が倒産して夜逃げした後、家族はバラバラになり、龍は日雇いのバイトをしながら生活していた。やがて振り込み詐欺の首謀者と知り合い、犯罪に手を染めるようになってしまった。罪悪感から、薬に手を出すようになった――そんな経緯が記事には書いてある。

 逮捕されて既に10日ほど経っているらしい。

 ――昔は、カリスマ経営者って言われて、雑誌やテレビで引っ張りだこだったのに。今じゃあ、罪を犯しても2分の1ページで書かれる程度かよ。もう、そんな転落したやつの話なんて、珍しくもないんだな。どん底の生活でもがき苦しんでも、世間から見ればたったこんだけのボリュームにしかならないってことか。

 さば味噌煮込み定食が冷めてしまうことに気づき、雄太はようやく箸をとった。

 ――堕ちるところまで堕ちた人生。それは俺も同じだよな。薬に手を出さなかったのが、奇跡に思えるよ。俺の場合、ブログがあるから、それで何とか踏みとどまってるんだろうけど。

 黙々とさばの味噌煮込みを食べているとき、隣の席で「あー」と叫び声が上がった。見ると、子供がコップを倒してしまい、ジュースがテーブル一面にこぼれてしまっている。

 店員が飛んできて、テーブルを拭いた。若い父親は「すみません」と店員に何度も謝り、母親は洋服を濡らした子供に「あーあ、お洋服濡れちゃったね」と話しかけ、おしぼりで拭いてあげている。

 雄太は、離婚する前にひかると綺羅羅と一緒にファミレスに行った時のことを思い出した。

 ひかるは「なんでこんな店に来なくちゃいけないの」とブツブツ文句を言っていた。

「今はカネがないんだから、仕方ないじゃないか」と雄太がなだめても、ひかるはずっと不機嫌だった。

 そのとき、綺羅羅も同じようにジュースをこぼしてしまった。ひかるは「もう、何やってんのよ」と綺羅羅を怒鳴りつけ、綺羅羅が泣き出し、雄太はなだめるのに必死だった。

 その帰り道、「外食が嫌なら、お前が作ればいいだろ」と雄太もキレてしまい、大ゲンカになった。それが発端となって、ひかるは家を出て行ったのだ。

 ――俺たちは、あんな幸せそうな親子にはなれなかったな。

 そう思うと、心がずしんと重くなった。

 ――ファミレスで満足している人間は、一生ファミレス程度の人生しか送れない。

 そう言ったのは、龍だった。

 無理してでも高級レストランに行くべきだ、自分は学生時代から背伸びして高い店ばかりに通っていた、だから成功できたんだ、セレブな人生は目標の設定値さえ高くしておけば手に入れられるものなんだ……そんなことを、龍は会議やマスコミの取材のときに意気揚々と語っていた。

 ――成功なんか、しなきゃよかった。ファミレス程度の喜びしか知らない人間は、堕ちる時もそれほどダメージは受けないよな。てっぺんに上ってからどん底に堕ちると、落差が大きすぎて立ち直れなくなる。失敗するなら、成功なんてしないほうがマシだよ。

 雄太は昼間に会った井上という男を思い出した。

 常に不幸のどん底にいるような人生を送っている男。いつもどん底にいるのなら、求めるもののレベルは低くてすむ。四畳半に住めるだけで、風呂がなくても共同トイレでも、幸せを感じる人生。

 ――でも、そんな人生、クソみたいな人生だ。生まれてきた意味がないじゃないか。しょせん、人間なんて、みんなクソみたいな人生を送っているんだ。そうだよ。

 雄太は箸を置いた。

 店内を見回すと、テーブルごとにさまざまな客がいる。

 小さい子供づれの親子、友達とはしゃいでいる女子高校生のグループ、ママ友らしい集まり、孫と来ているらしい高齢者、一人で食べているOLやサラリーマン……。

 ――結論。人間は生まれながらにしてのクソだ。どれ一つ、マシな人生なんてない。オレの人生だって、そうだ。オレの人生だって、クソみたいなものなんだ。それに気づいているか、気づいてないかの違いだけなんだ。

 孫に話しかけている祖父母は、顔をほころばせ、至福の時を味わっているようである。

 その光景を見ているうちに、苛立ちが強まってきた。

 ――どうせ普段は、世の中からやっかいもの扱いされてるんだろ? 残り時間がわずかで付け足しみたいな人生なんだろ? 明日、オレは老人ホームに行って、放火する。それはクソみたいな人生を終わらせてあげるためなんだ。生きることに絶望する前に。いいや、もう絶望している人のために。オレが人生を終わらせてあげるんだよ。



 奥山ふみえは、ベッドに座り、せっせと編み棒を走らせていた。

「ふみえさん、そろそろ就寝の時間ですよお」

 部屋に入ってきた介護士に声をかけられて時計を見ると、既に9時を回っている。

「頑張ってますねえ。今日、ずっと編み物してましたよねえ」

「もうすぐ、娘の子供が生まれるの。赤ちゃん用のおくるみを作ってあげようと思って」

「赤ちゃん、男の子なんですかあ? 女の子?」

「産まれるまでの楽しみに取っておきたいからって、聞いてないんですって。だから、どっちでもいいように、ピンクと青の両方を使ってるの」

「すごいですよねー、ストライプになっていて。こんな手が込んだの、私には無理だなあ」

「あなたも、子供ができたら、作りたくなるわよ」

「その前に、まず彼氏を見つけなきゃあ」

 介護士は朗らかに笑い、「あんまり根つめないでくださいねえ」と言い残して、部屋を出ていった。

 ――私は幸せね。家族とは離れて暮らしているけど、ちょくちょく遊びに来てくれるし、ここのスタッフの人たちとは気が合うし。これ以上のことを望んだら、バチがあたるわね、きっと。

「さてと。ここまで編んだら、今日は寝ましょ」

 独り言を言って、再びふみえは編みはじめた。

 ふと、焦げ臭い匂いがするのに気づいた。

 ――こんな時間に、誰かが何かを燃やしているのかしら。

 その数秒後、火災報知機がけたたましく鳴り響いた。

「大変」

 ふみえはベッドから車椅子に移り、廊下に出た。すでに、廊下には煙が立ち込めている。

「火事だー!」

「みんな、起きろ、火事だああっ」

 大声をあげて走り抜けていく人や、部屋から出てきて呆然としている人もいる。

「大変、逃げないと」

 ふみえは車椅子を走らせようとして、ふと編みかけのおくるみをベッドに置き忘れたことに気づいた。慌てて車椅子を方向転換させようとするが、うまくいかない。

「ふみえさん、早くこっちに!」

 介護士がほかの人の車椅子を押しながら叫んだ。

「ちょっと待ってて。忘れ物」

 ようやく車椅子を方向転換させ、部屋に戻る。ベッドの上のおくるみをつかみ、再び廊下に出た時は、目を開けていられないほど煙が充満していた。咳きこみながら、車椅子を走らせる。どこに向かえばいいのか、見当がつかなくなっていた。



 神奈川の大山にある老人ホーム「ハッピーライフ大山」で起きた火災は、死者25人、重傷者57人を出し、戦後最悪の老人ホームでの事件だと、メディアで騒がれた。

 奥多摩の老人ホームの放火事件を教訓に、そのホームでは数日前に防災訓練を行ったばかりだった。

 だが、訓練も実際の火事の前には役に立たなかった。

 寝たきりの老人や車椅子の老人を職員や元気な老人達で運び出そうとするうちに、却って多くの人が煙を吸い、動けなくなってしまったのである。

 ふみえが動かない状態で見つかった時は、その手にはしっかりと編みかけのおくるみが握られていた。のちに、美談としてこの話はメディアで繰り返し報じられることになる。

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