12月 狂炎  

 陰鬱な空の色だった。厚く覆われた雲が、街を灰色に染めている。

 雄太はスーパーに買い物に出かけた帰りにパチンコに寄り、スロットで2万円ほどすってしまった。店から出たときは苛立ちのあまり、店のそばに置いてあった自転車を蹴とばした。数台止まっていた自転車は、次々となぎ倒されていく。通りかかった中年女性が、眉をひそめて雄太を見ている。その様子が神経を逆なでし、雄太は女をにらみ返した。途端に女は目をそらし、そそくさと立ち去った。

「あー、イライラする」

 いったい、何に対してこんなに苛立っているのか。

 先月末、ネンキンブログの閉鎖後も活動していたクジョレンジャーがつかまった。害虫駆除最終段階と称して団地を襲った際に、メンバーの一人が老婆に鉄パイプで撃沈され、芋づる式に他のメンバーもつかまったのである。ただ一人、リーダー格のクジョレッドだけがうまく逃げたらしい。

 クジョレンジャーが逮捕されると、便乗して団地を襲っていた面々も姿を消してしまった。ネンキン制度は既に機能していないと知れ渡り、老人を襲う事件は急速に減っていったのだ。雄太にはそれが面白くなかった。

 ――もう少し続くと思ったのにさ。これじゃ、ロージンの数はたいして減ってないんだろうな。また我が物顔でロージンが街を歩き回るのかよ。うっとうしいなあ。

 アパートに戻ると、自分の部屋の前に背広姿の男が二人立っている。どう見ても、訪問販売という感じではない。

 ――なんだ? 警察か?

 雄太は離れたところで立ち止まった。胸がざわつく。

 ――とうとう、俺のところにも、来たか。 

 クジョレンジャーが逮捕されたときから、嫌な予感はしていた。メンバーとは直接接触していないので、自分がネンキンブログの管理人だとバレるはずはないと言い聞かせても、ジワジワと不安が心に広がっていった。

 その予感が現実となった。

 部屋の前にいた男の一人が雄太に気づいた。雄太を指しながら、もう一人の男に何やら話している。踵を返そうとしたが、ここで逃げたら怪しまれると判断し、雄太は努めて無表情に男たちに歩み寄った。

「俺の部屋に、何か用ですか?」

「小峰雄太君ですか」

「ハイ」

 50代ぐらいの白髪交じりの男が、雄太に警察手帳を見せた。

「蕨署の刑事の田崎です。ちょっと聞きたいことがあるから、署に来てもらえますか」

「聞きたいことって何ですか?」

 雄太は身構えた。

「うん、ちょっとパソコンのことでね、話を聞きたくて」

「パソコン?」

「うちの署に、匿名でパソコンが届いたんですよ。それが小峰さんのものだという手紙が添えてあってね」

 雄太は首を傾げた。

「どんなパソコンですか?」

「見れば分かりますよ、きっと」

 刑事は意味ありげな笑みを浮かべた。

 雄太は、思わず声をあげそうになったのを、かろうじて堪えた。胸焼けに預けたパソコンのことだと気づいたのである。

「なんのことか、分からないんですけど。とりあえず、これを冷蔵庫にしまってきていいですか?」

 雄太はスーパーの袋を掲げて見せた。

「ああ、どうぞ」

 雄太は二人の刑事が見守るなか、鍵穴に鍵を差し込んだ。手がかすかに震えているのを気づかれないよう、体で隠しながら鍵を開けた。

 キッチンは玄関を入ってすぐのところにある。雄太は冷蔵庫を開け、野菜や納豆などをゆっくりと冷蔵庫にしまった。刑事が背後から自分の一挙手一投足を見逃さないように、凝視しているのが分かる。動揺しているのを悟られないようにしなければならない。

 そのとき、背後で携帯の着信音が鳴った。中年の刑事は舌打ちをして、「もしもし」とドアから離れた。

 ――今だ。

「ちょっと、トイレに行ってきます」

 若い刑事に断り、雄太はキッチン横のトイレに入った。

 ――落ち着け、落ち着け。

 言い聞かせながら、便座の蓋を閉め、上に登った。便器の背後にある窓を、音を立てないようにそろそろと開ける。窓は小さいが、雄太の体型なら何とか体は抜けられるだろう。タンクによじのぼり、音を立てないよう細心の注意を払いながら、後ろ向きになって窓に右足を入れた。

 雄太の住むアパートは駐車場と隣接している。駐車場の金網の上に両足を置き、窓から這い出る。両脇腹を窓枠でこすり、額をタンクの水洗金具で打ったが、痛みを感じている余裕などない。地面に降りたったときは、幸い駐車場には誰もいなかった。

 雄太は駆けだした。駐車場の砂利が靴下越しに足の裏に当たり、激痛が走る。よろけながらも、小走りで駐車場を出る。

 アパートを振り返ると、まだ刑事が気づいた様子はない。

 ――痩せといてよかった。太ったままだったら、あの窓は絶対に通れなかった。

 道路を全速力で駆けながら、雄太はチラリと思った。


 

 雄太は古びたマンションにたどり着いた。辺りを見回してから素早く中に入る。ポストで目当ての部屋を探し、狭いエレベーターに乗り込んだ。エレベーターが動きだすと大きく息をつき、壁にもたれかかった。走り通しだったので、全身汗だくである。

 7階で降り、708号室を探した。薄暗い廊下の隅に、その部屋はあった。

 チャイムを押すと、ややあってチェーンがかかったまま、茶色いドアが薄く開いた。

「――ハイ?」

「俺、小峰だけど」

 ドアの隙間から顔を見せると、道子は「雄太君?」と驚きの声を上げた。

 道子は一度ドアを閉じてチェーンを外し、「どうしたの?」と大きく開けた。

「ごめん、詳しく説明する前に、部屋に入れてもらってもいいかな? ほかに頼る人がいなくて」

 雄太は両手を合わせて頼んだ。

「いいけど」

 道子は戸惑いながらも雄太を部屋に招き入れた。



 雄太は熱い湯を全身に浴びていた。全身汗だくだったので、道子にシャワーを勧められたのである。

 走っているうちに靴下はボロボロになり、足の裏はあちこちが切れて血が出ている。傷口がしみるのを我慢して、石鹸で足の裏を洗った。

 シャワーを浴びながら、雄太は自分の身に何が起きたのか、頭の中で整理していた。

 ――胸焼け、あいつ、最初から俺を売るつもりだったんだ。親切そうにふるまっておきながら、俺をおとりにするつもりで近づいたんだ。古いパソコンを処分するふりをして、それを証拠として使いやがった。あれには俺の指紋がベッタリついてる。中に入っていたデータは消しておいたけど、復元させるぐらいのことはしてるかもしれない。それと、カネ。全部銀行に預けてある。まともに仕事してなかったなんてこと、調べればすぐに分かるよな。それなのに大金が振り込まれてるなんておかしいってすぐにバレる。パソコンと大金の二つがあれば、ロージンを殺して金をもらったのはバレバレだよな。

 蛇口をひねり、シャワーを止めた。そのとき、ふと1つの言葉が胸をよぎる。

 ――死刑。

 日本では、一人殺すだけでは死刑にはならない。だが、老人ホームを2件襲い、数十人殺したとなれば確実に死刑になるだろう。

 ――そんな。

 全身に鳥肌が立つ。寒いからではない、裁かれる立場になるという恐怖で鳥肌が立ったのである。

 そのとき、浴室のガラス戸を道子がノックした。

「あのね、着替えを買ってきたから、ここに置いとくね」

「あああ、ありがとう」

 道子がいなくなるのを見計らい、ドアを開けると、紺色のジャージ上下とTシャツ、下着、タオルが置いてあった。

 ――ずいぶん気がきくんだな。

 雄太はタオルで体を拭き、用意してもらった服を着込んだ。サイズも問題ない。

 道子の部屋は1LDKだった。リビングダイニングキッチンのほかに、6畳の和室がある。道子は雄太を見ると、「コーヒー飲む?」とダイニングテーブルに座るよう促した。濃い目のインスタントコーヒーにミルクと砂糖を入れ、半分ほど飲み干してから雄太はようやく人心地がついた。

「これ、いくらだった? 払うよ」

 雄太がジャージを指すと、「ううん、いいよ、それぐらい。安かったし」と道子は首を振った。

「これ、傷薬と包帯。足につけたら?」

「ああ、サンキュー」

 雄太は両足に薬を塗り、包帯を巻いた。

 ――ここに来てよかった。当たりだったな。

 傷口の治療をしながら、雄太は自分の思いつきに満足していた。

 道子とは最悪の別れ方をしたので、雄太のことを快く思っていないだろう。それを分かってはいたが、道子の性格から考えると、邪険に追い払えないのではないかと考えたのである。道子は部屋を探しに来た貧しい人にも優しく接しているし、勇蔵からセクハラまがいの冗談を言われても笑ってやりすごしていた。基本的に受身の性分であり、人を拒絶するような冷徹さを持っていない。案の定、ただならない雄太の様子を見て、道子はあれこれ世話を焼いてくれる。

 道子以外にかくまってくれる人は思いつかなかった。

 今の職場の仲間も、昔の仕事仲間も、面倒なことに関わりたくないと雄太を拒絶するだろう。親しい友人も恋人もいなかった。

 ――俺って、なんて空しい人間なんだろう。

 走りながら、雄太は何度も涙がこみあげてきた。

「靴はどうしたの?」

 道子は驚くほど冷静な声で尋ねる。何があったのか、根掘り葉掘り聞き出そうという様子はない。

「靴は履いている暇がなくて」

「履かずに家からここまで歩いて来たの?」

「走って来た」

「走って? へええ……」

 道子は足元を見つめる。

「それで怪我したんだ」

 道子はそれきり口をつぐんでコーヒーを飲んでいるので、雄太は自分から事情を説明するしかないと意を決した。

「俺さ、ヤバいんだ」

「ヤバいって?」

「うちに刑事が来てさ。俺、ハメられたみたいなんだよ。逮捕されるかもしれない」

「えっ、どういうこと?」

 雄太は、シャワーを浴びている最中に考えた作り話を、道子に話して聞かせた。

 知り合いがネンキンブログを開いていた。やめるように注意しても、聞いてもらえなかった。その知り合いは、海外の移住詐欺の首謀者でもある。雄太の指紋のついたパソコンを警察に送り、雄太をネンキンブログの犯人に仕立てたらしい。雄太を連行するためにアパートまで刑事がやって来たのだ――そんな筋書きを懸命に話すと、道子は真剣に耳を傾けている。

 聞き終わると、「ネンキン制度っていうのと、海外移住詐欺とどう関係があるの?」と尋ねた。

「ネンキン制度を流行らせて、老人の恐怖心をあおって、海外に移住するよう仕向けたんだよ」

「ふうん、ずいぶん手の込んだことをするんだ」

 道子はつぶやくように言った。

「それじゃあ、警察にそれを話せばいいんじゃないの?」

「ダメだよ、そんなの。だってパソコンには俺の指紋が付いてんだから」

「なんで、警察に相談しなかったの?」

「俺、そいつに金を借りてたんだ。だから、借りがあるっていうかさ。密告するのも悪くて」

「でも、相手は雄太君を陥れたってことなんでしょ? それなら、庇う必要はないんじゃないの?」

「……まあ、そうなんだけど」

「私が一緒に、警察に行こうか?」

「いやいやいや、そんなことはしなくていいから」

 雄太は慌てて、思わず大きな声を出した。

「警察が俺の話をまじめに聞いてくれるわけないから。日本の警察は怪しいと思った人物を犯人に仕立てるのがうまいんだって、聞いたことあるでしょ? 日本には冤罪がいっぱいあるんだから。いくら無実だって主張しても、無茶な取調べをして、相手を追い込むんだから。俺、意思が弱いから、厳しく取り調べられたら、俺がやったって言っちゃうかもしれない。そうなったら、おしまいなんだよ」

 道子は、じっと雄太の目を見ている。自分が犯人だと見透かされているようで、雄太は俯いた。

「じゃあ、弁護士に相談するとか」

「それも無理無理」

「どうして?」

「だって、話が複雑すぎて、弁護士にどう説明すればいいか分かんないし。多分信じてくんないし」

「それじゃあ、どうするの?」

 どうすればいいのかは、雄太にも分からない。雄太はしばらく考え込み、

「しばらく、ここにいてもいいかな。その間に、どうすればいいか考えるから」

 と頼んだ。

「ここに?」

「迷惑だったら、すぐ出て行くけど」

「そんなことないけど……うーん」

 道子は唇をキュッと結び、迷っている。

「……分かった。いいよ、しばらくいても」

「サンキュー。他に頼れる人がいなくて」

 それは本心から出た言葉だった。

 打ちのめされている雄太を見て同情したのか、

「昼間は私はいないし。好きに使っていいよ」 

 と、道子は優しい声音で言った。女性からそんな優しい声をかけてもらったのは久しぶりである。ひかると離婚してから、女性とはまったく縁がなかった。

 突然、雄太の眼から涙がこぼれおちた。道子は「大丈夫?」と眼を丸くした。

「うん、なんだか、急に。悪い」

 ――這い上がるつもりで、堕ちるとこまで堕ちたんだ。こんな人生、こんなみじめな人生。俺の人生なんかじゃない。俺の人生なんかじゃ。

「俺、本当に負け犬だよな」

 おどけて言ったつもりだったが、言葉にしたら余計に涙が止まらなくなった。

 雄太はタオルを顔に押し当て、しばらく声を押し殺して泣いた。

 道子は黙って雄太を見つめていた。壁の時計が、やけに大きく音を響かせて時を刻んでいる。



 その日の晩も、順二たちは東池袋中央公園に集まっていた。

 集まるメンバーは日ごとに増え、今夜は100人ぐらいの規模になっている。女性も参加するようになり、20人ほど男性に紛れておとなしく座っている。真冬にこれだけの人数で酒盛りをしていると、さすがに目立つ。スケボーやサッカーボールを置き、スポーツ仲間の集まりという雰囲気に仕立てていた。

「それじゃ、当日は日比谷公園の日比谷公会堂前の広場に集合。夜7時半に集合して、8時には出発するということでいいですか?」

 鉄拳5はメモを読み上げた。

「異議なーし」

 ビニールシートに座り、酒盛りをしながら、みんなは同意する。

「集まるメンバーは、今のところ117人。爆弾は憂国さんが用意して、鉄パイプやベニヤ板はホームレス中年さんと谷さんが調達してくれるということで。ペットボトルやドライアイスは、僕とこばけんさんで調達します。後、カモフラージュ用のキャンドルも、僕たちで用意します。食料は、正義の怒りさんが用意してくれます。飲み物は館内に水道や自販機があるから、何とかなるでしょう。それと、突入時に顔が見えないよう、マスクやバンダナを用意しておいたほうがいいと思います。これは各自で用意してください。こんな段取りでいいですか?」

「異議なーし」

 順二も小さく「異議なし」と同調した。

 もちろん、本当に参加する気などない。話を適当に合わせているだけだ。

 順二はそのどさくさに紛れて、榊原のもとから逃げ出す計画を立てていた。榊原の部下さえまければ、何とかなる。逃げ出したその足で夜行列車に飛び乗り、遠い場所に逃げてしまえば、簡単には見つからないだろう。

 それは一博や裕三に危険が及ぶことになるかもしれない。二人には、列車に乗る直前に「逃げろ」と言うしかない。自分の話を信じてもらえなくても、何とか逃げてもらうしかないのだ。 

 南には、逃亡先から連絡をすればいい。そうなった事情を話すかどうかは、南に会ったら考えればいいだろう。とにかく、南に会いたい。南と一緒にいたい。

 順二はそこまで考えていたが、逃げ出すタイミングをどこにするかを決めかねている。

 会社を出た段階で逃げ出すか、日比谷公園で逃げ出すか。

 榊原の部下をまくには、日比谷公園に行くしかない。だが、そのためには会社の倉庫から食料を運ばないといけなくなる。手ぶらで日比谷公園に行ったら、ここにいるメンバーに怪しまれるだろう。どうすればいいのか――。

「それにしても、結構人が集まりましたね。ネットで呼びかけたらすぐ警察に見つかっちゃうから、知り合いに呼びかけただけなのに」

 鉄拳5が感慨深げに言った。

「でも、本来の趣旨とはかなりズレちゃったんじゃないっすか。ホームレスが15人も参加するなんて話、聞いてないっすよ」

 憂国が不満げに訴えかける。

「まあまあ、人数は多ければ多いにこしたことはないから。谷さんがあちこちに呼びかけてくれたから、これだけ集まったんですよ」

 ホームレス中年がなだめた。

「でも、ホームレスには年金は関係ないっしょ? そもそも年金なんて払ってないっしょ」

「会社に勤めてた時は払ってたんじゃないですか」

「それ、いつの話っすか? 谷さん、ホームレス歴20年になるって言うし。そんな長い間払ってなかったら、もらう権利なんかないっしょ」

「うるさいな、ゴチャゴチャと」

 谷さんが憂国に空になった紙コップを丸めて投げた。

「お前らなあ、これだけでっかい騒ぎを起こすのに、年金を返せってちっちゃなことだけで意味があんのかよ」

「だから、争点がぼけちゃったら、何のために暴動起こしてんのか、世間の人に分かんないじゃないっすか。学生運動の時だって、世界平和のためとかおっきなこと言ってたけど、どんだけの人がその理念を分かってたんすか? おっきすぎて、わけ分かんないまま参加してた人が大半だったっしょ。失敗はちゃんと総括しなきゃ。あんたら、総括が好きだったんだろ?」

「うるせえな、お前に何が分かんだよ、エセ右翼のくせに」

「まあまあまあ、焦点をしぼって訴えかけたほうが、今の国民は共感しやすいって話になったじゃないですか。郵政民営化のときみたいに」

 ホームレス中年が間に割って入る。

「憂国さんも、国防について語りたいって言ってたのを、今回は保留ってことにしたんですから。一遍にやろうとするんじゃなく、徐々にやっていきましょうよ」

「そうっすよ、賛成できないなら参加しなきゃいいのに」

「うるせえな、お前こそ足手まといになるのは確実のくせに。カッコばかりで、弱っちいんだろ。お見通しだよ、俺には。乱闘になったら、逃げ出すんじゃねえぞ。ママー、助けてえ、ボクちん怖いぃって」

「何をっ」

 憂国と谷さんが立ち上がったので、そばにいた人達が二人をなだめた。集会ではいつもこのパターンである。

「とにかく、当日は仲間割れしてる場合じゃないんだから。協力し合って、作戦を実行しないと。頼みますよ、2人とも」

 鉄拳5が言い聞かせると、2人は不貞腐れて座った。

「それじゃあ、簡単なスケジュールを作成して、LINEで送りますから。当日はそれを見ながら行動してくださいね」

 鉄拳5はみんなに念押しした。

「なんだよ、あんまり嬉しそうじゃねえな」

 谷さんが、順二の隣に腰を下ろした。なるべく距離を置きたくて離れた席に座っていたので、順二は内心「勘弁してよ」とげんなりした。何回会っても、ホームレスの不潔さには慣れない。

「嬉しそうじゃないって?」

「壮大な計画が実行されようとしてんのにさ。官僚国家をぶっ壊すような革命がさあ。みんな興奮してんのに、君だけやけに冷静だよね」

「そりゃあ、100%うまくいくなんて保障はありませんから。ちょっと不安になってるだけです」

「やってもみないうちに、あれこれ悩んでても意味ないって。流れに身を任せないと」

「はあ」

「一人で立ち向かおうってわけじゃないんだから。第一、俺たちゃ学生運動を経験してんだから、闘いのプロみたいなもんなんだよ。俺たちがいれば、問題ないって」

「まあ、そうですよね」

 谷さんは手酌で日本酒を紙コップに注ぎ、ぐいと飲み干す。

「まあ、当日困ったことがあったら、俺に聞きなよ」

 肩を気安く叩かれ、思わず順二は体をよけてしまった。谷さんは酔いがまわって、それには気づいていないようだった。



 雄太は道子の部屋でテレビを見ていた。

 不思議な気分だった。ニュースで自分のことを報道しているのである。

 今の段階では名前も顔写真も公開されず、ネンキンブログの首謀者ということで報じられていた。だが、いずれ老人ホームの放火の犯人だと分かるだろう。時間の問題である。

「容疑者は、昨日刑事がアパートを訪ねたとき、隙を見てトイレの窓から逃げ出したそうです。現在、足取りはつかめてないとのことです」

 雄太のアパートの前からアナウンサーが実況中継している。

 ――今、俺を探して日本中が大騒ぎになってる。

 雄太は自分が渦中の人物であるという実感はわかなかった。白昼夢を見ているような気分である。

 居場所を突き止められないよう、スマフォの電源を切っているが、おそらく会社から連絡は入っているだろう。母親のところにも、ひかるや綺羅羅のところにも、警察やマスコミは行っているかもしれない。ひかるは雄太の悪口を並べ立て、憂さを晴らしているかもしれない。今更ながら、もう少し優しく接しておけばよかったと、雄太はチラリと思った。

「俺を庇ってくれるやつなんて、誰もいないんだろな」

 雄太は仰向けに寝転んだ。

 ――いつまで逃げきれるんだろ。

 木目の天井を見上げ、深いため息をついた。もはやため息しか出てこない。

 その日は夜7時半過ぎに道子が帰宅した。

「あれ、ご飯作ってくれたの?」

 買い物袋を提げた道子がダイニングテーブルの上に並んでいる料理を見て、目を丸くした。

「うん。冷蔵庫にあるものを勝手に使っちゃったけど、よかった?」

「それはいいけど。のんびりしてればよかったのに」

「他にすることもなかったし。今、味噌汁あっためるよ」

 雄太はテレビを消し、キッチンに立った。道子は六畳間のふすまを閉め、部屋着に着替えているようだった。ふすまを開けた時はピンクのジャージを着ていた。

 雄太はご飯と味噌汁を器によそい、おかずを温め直した。ほかのメニューは豚肉と白菜のレンジ蒸し、小松菜と厚揚げの味噌炒めである。雄太の手際のよさに道子は驚いているようだった。

「雄太君、料理できるんだ」

「うん。うちの親、共働きだったから。中学のときから、夕飯を作ったりしてた」

「へえ、そうなんだあ」

 二人は向かい合って席につき、「いただきます」と箸をとった。一口二口食べ、道子は「おいしい」と感嘆の声をあげる。

「すごい、雄太君、料理上手だね」

「そう?」

「これじゃあ、私の作った料理、おいしくなかったでしょ」

「うーん……まあね」

 道子はため息をついた。

「まずいならまずいって、言ってくれればよかったのに」

「まあ、人によって味の好みは違うから」

 道子は「落ち込んじゃうなあ」とぼやきながら、おいしそうに食べている。

「今日ね、警察の人が会社に来たの」

 味噌汁を飲みながら、道子は何気ないふりを装って報告する。雄太は予測していたので、驚かなかった。

「社長に雄太君の仕事態度のこと、色々聞いてた。連絡があったら教えてほしいって言ってた」

「社長はなんて言ってた?」

「小峰君は今どき珍しいぐらいまじめな若者だったって。あの小峰君がネンキンブログをつくるなんて、そんなひどいことをするわけないって刑事さんに言ってた」

「へえ」

 確かに、働いているときは遅刻も欠勤もなく、我ながらまじめに働いていた。退屈な仕事だったが、それで給料をもらえるのなら安いものだと思っていたのである。

「雄太君が作ったホームページや顧客管理のファイルも見せてたよ。これを作ってもらったおかげで、うちは大助かりだったんだって言って。私は刑事さんからどんな人かって聞かれたとき、ひどい人だって言っといた」

「えっ、何それ」

「さんざん料理を誉めて気のあるそぶりを見せておきながら、私をこっぴどくフったって。刑事さん、ああ~って感じで、半笑いしてたけど」

「そんなこと、言わなくていいのに」

「怒ってるそぶりを見せておいたら、まさか私が雄太君をかくまってるとは思わないでしょ」

「確かに」

 雄太は感心した。

「頭いいな」

「そんなことないよ」

 道子は照れくさそうに微笑んだ。

「いや、すごいよ、とっさにそんな機転がきくなんて」

 雄太は一緒に仕事している時も、道子は愚鈍なほうだと思っていたのである。だが、道子は愛嬌はあるし、人当たりは決して悪くない。人を立てるのもうまかった。考えてみれば、そんな人間が愚鈍なはずはない。

 ――もしかして、料理を作りすぎたって言うのも、一人暮らしの俺に気を遣って声をかけてくれたのかもしれない。俺、見方がキツかったかもな。

 雄太は今更ながら、自分の傲慢な態度を反省していた。

 道子は箸を置いてから、おもむろに「雄太君が使ってたパソコンから、指紋をとってた」とつぶやいた。

 雄太は茶碗を落としかけたが、かろうじて堪えた。

「俺の指紋を?」

 道子は無言で頷いた。

 ――どうして気付かなかったんだ。俺の部屋にあるノートには、ネンキンブログのデータが全部入ってるじゃないか。あのノートを持ってこなきゃいけなかったんだ。あのパソコンと、警察に送られてきたパソコンの指紋が一致すれば、言い逃れなんてできない。もうおしまいじゃないか。

 雄太は茶碗と箸を持ったまま固まっていた。

「大丈夫だよ、ここにいれば」

 道子は雄太を励ますように言った。

「ここにいれば、警察には見つからないから」

「そうかな」

「そうだよ」

 雄太はそれ以上食べる気になれず、箸を置いた。

「ニュースで俺のこと」

「知ってる。でも、私は雄太君のこと、信じてるから」

「サンキュ」

 雄太は胸がいっぱいになり、それだけ言うのが精いっぱいだった。

 ――なんで、俺にこんなに親切にしてくれるんだろう。

 一緒に働いていた時の自分の態度を思い返しても、道子に親切など何一つしていない。適当にあしらっていただけである。道子も、雄太が疎んじていることに薄々気づいていたのではないだろうか。

 ――そのうえ、最後の日は突き飛ばされて、怒っていたのに。

 職場で、「ブスは強いから」と道子はよく冗談めかして言っていた。その通りかもしれない。強い人は、本当の優しさを持っているのだろう。人を許すという優しさを――。

 雄太は今、道子と巡り会ったのを奇跡のように感じている。道子に心の中で頭を下げていた。



 12月14日の朝になった。

 陰鬱な空の色だった。せめて晴れていたら、もう少し気分は高揚したかもしれない。順二は会社を休もうかと思ったぐらい、気が滅入っていた。だが、鉄拳5からは、くれぐれも普段どおりにふるまうよう指示を受けていたので、重い体を引きずるようにして出社した。

 今日は会議の連続だったのが幸いした。今晩の襲撃のことを考えると、仕事どころではない。会議中もメモをとるふりをしながら、時折今晩の段取りを頭の中で確認していた。

 襲撃するメンバーからは、何度もLINEでメッセージが送られてきた。


 憂国

 いよいよ今晩っすね。気合入りまくりです。

 爆弾は念のために10個持っていきます。よろしくっす。


 鉄拳5

 皆さん、今日の段取りは頭に入ってますか?

 ミスは許されないので、各自自分のすべきことを再確認しておいてください。

 僕は7時過ぎには公園に行ってます。何かあったら、僕の携帯に電話してください。


 こばけん

 今、厚労省の前です。

 なんか、今晩ここを襲撃するのかと思うと、興奮するなあ!

 警備員は何も知らずに立っていて、ちょっと気の毒かも。許してちょんまげ(古っ)。


 ホームレス中年

 すみません、今日は仕事の都合で、公園につくのが8時ギリギリになってしまうかもしれません。残業を断ったんだけど、どうしてもって言われて。間に合わない場合は、先に襲撃していてください。後から加わります。


 鉄拳5

 分かりました。なるべく早めに来てくださいね。

 ところで、鉄パイプは無事調達しましたか?


 ホームレス中年

 谷さんと一緒に工事現場に忍び込んで、ゲットしてきました。鉄パイプと角棒合わせて、70本ぐらい。全員分ないのが、残念だけど・・・。ヘルメットもいくつかもらってきました。これは我々初期メンバーが率先してかぶりましょう。


 こばけん

 正義の怒りさん、7時すぎに軽トラで会社に行きますから。

 会社の場所は飯田橋ですよね?


「えっ」

 順二は会議中に思わず声を上げてしまい、そこにいた全員が一斉に順二のほうを見た。慌てて咳をして、「すみません、喉が変で」とごまかす。

 ――なんで会社の場所を知ってんだよ。それに、迎えに行くって。そんなことされたら、商品をごっそり盗むしかなくなるじゃないか。やめてくれよ。

 会議が終わると、即メッセージを打つ。


 正義の怒り

 迎えに来てくれなくていいです。自分で車を手配して、現地に行きます。


 順二が考えていたのは、紙袋に入るだけの商品を入れて持って行き、「ごめん、これだけしか持ちだせなかった」と謝る、という計画だった。それぐらいなら、給湯室に置いてある商品を何とか持ち出せる。

 数分後、メッセージが届いた。


 鉄拳5

 正義の怒りさん一人で運び出すのは時間がかかるでしょうから、こばけんさんを使ってください。トラックも手配してありますし。


「どうしよう……」

 順二はつぶやいた。

 どう誤魔化せばいいのか分からない。これだと、こばけんを迎え入れるしかなくなる。

 ――考えろ。考えるんだ。

 だが、気ばかり焦って、考えはまったくまとまらなかった。

 


 ピッタリ7時にこばけんからメッセージが来た


 こばけん

 今、会社の前に来てます。いつごろ、出て来られそう?


 大きなため息をついた。とりあえず、行くしかない。トラックまで行って、手違いで商品は調達できなかったと言うしかないだろう。激怒されそうだが、仕方がない。

 順二は机の上を簡単に片付けた。

 この会社で仕事するのも、今日で最後になる。自分がいなくなっても困らないよう、自分が担当した仕事はすべて終わらせ、パソコンのデータなどは整理しておいた。

 新卒で入社してから、ちょうど10年になる。入ったばかりのころは毎日のように上司に怒鳴られたっけ……と、しばし感傷的になり、涙ぐんでしまった。

 ――マズイ、こんなことしてる場合じゃない。

 順二は心を込めて、「お疲れ様でした」と周りの人に挨拶をして、部屋から出ようとした。

「定岡」

 突然、部長に呼び止められた。一瞬飛び上がりそうになったが、心を落ち着かせながら「ハイ?」と振り向く。

「今日はもう上がりか?」

「ハ・ハイ、ちょっと今日は体調が悪くて……」

「そうか。最近、夜遅くまで頑張って仕事してただろ? 疲れがたまってるのかもな」

「はあ」

「今年は家のほうが大変だったのに、頑張ってくれてありがとな。もうしばらく忙しいのが続くけど、一段落ついたら飲みに行こうな。今日はゆっくり休んで、明日元気に来てくれたら嬉しい。ハイ、これ」

 部長は引き出しから栄養ドリンクを取り出すと、順二に渡した。

「あ、ありがとうございます……」

「お大事にな」

 軽く肩を叩かれた。

「ハイ、お先に失礼します」

 頭を下げながら、順二は不覚にも泣きそうになってしまった。

 部長は口うるさい面もあるが、面倒見はいいので順二は好感を持っていた。順二の両親の通夜にも顔を出し、励ましてくれたのだ。

 ――もう会うことはないんだろうな、みんなとは。お世話になっておきながら、別れの挨拶もできないなんて……つらい。

 背中に背負ったリュックには、銀行の通帳や印鑑、数日分の下着などが入っている。そして、両親の遺品を整理しているときにもらってきた、家族の写真が貼ってあるアルバム。逃げるといっても、どうしても持って行きたい荷物はそれほどなかった。

 ビルの外に出ると、門の外に幌付きの軽トラックが待っている。こばけんが乗ったトラックだろう。

 ――どうやって言い訳するか。

 あれこれ考えながら門に行くと守衛とこばけんが話しているのに気付いた。

 ――なんだ、何を話してるんだ?

 順二を見て、守衛は軽く会釈をした。

「お疲れ様です。山手スーパーの担当者さんが来てますよ。バカ売れして、売り切れた商品があるんですって?」

「えっ」

 順二は絶句した。

 こばけんが、「話を合わせろ」と表情とゼスチャーで促す。

「あ、ああ、そうなんです。クリスマス商品が売れてるみたいで……」

「裏口には連絡してあるんで、そっちに回ってもらえますか?」

「あ、ああ、ありがとうございます」

 順二はすっかり動揺しているが、守衛はとくに気に留めていないようだ。

 門を出て、軽トラックに乗りこむ。

 こばけんも運転席に乗り込み、守衛に向かってニッコリとお辞儀をしてエンジンをかけた。

「え、あの、これってどういう」

「話は後、後。遅れるわけにはいかないから、早く行かないと」

 トラックはゆっくりと走り出した。

 裏口につくと、裏門の守衛が門を開けて待っていた。

 窓を開けると、倉庫の鍵を手渡される。

「この時期は毎年大変だねえ。バタバタしちゃって」

 初老の守衛が、ねぎらうように声をかけてくれる。

「そそそうなんですよ。セールですぐに品切れになっちゃって」

 順二は慌てて話を合わせた。

 ――こうなったら、もう引き返せない。

 包装に不具合がある商品や販売期間が終了した商品を、倉庫の隅に保管している。それを運び出すしかないだろう。

 倉庫の入り口は社屋からは死角になっているので、トラックをつけても気づく人はおそらくいない。気づいても、他の部署でトラブルでも起きたのかと思うぐらいである。 

 順二はトラックから降りて、倉庫の鍵を開けた。

 電気をつけると、所狭しと商品の入った段ボール箱が積み上げてある。 

「すごいな。これ、全部持って行っていいの?」

 こばけんが驚きの声を上げる。

「いや、それは無理。奥に不良品が積んであるから、そこから持って行くしかない」

「ふうん。こんなにあるんなら、個人的に安く売ってもらいたい感じ」

 それから20分ほどかけて、2人でカップ麺や袋麺、粉末スープなど、50箱ほどトラックに積み込んだ。汗だくになり、順二は途中で背広を脱いで腕まくりをした。

「そろそろ行かないと」

 名残惜しそうにほかの段ボールを見つめるこばけんに声をかけると、こばけんは渋々トラックに乗り込んだ。倉庫の鍵を閉め、トラックに乗りこむ。

「鍵、ありがとうございます」

 出口で守衛に鍵を渡した。

「お疲れ様でした」

 守衛に声をかけられ、お辞儀をして門の外に出る。

 ――ああ、やってしまった。

 急に気が抜けて順二は背もたれに身を沈めた。

 売れない商品は、いつも慈善団体などに寄付しているので、盗んでも会社にとってダメージにはならない。それでも、窃盗は窃盗だ。

「さあ、行きますよーうっ」

 興奮した様子で、こばけんは叫んだ。トラックはみんなが待つ日比谷公園へと走り出した。

「そういえば、どうして俺の会社のこと、知ってるんですか?」

 こばけんに尋ねると、「俺は何も知らないよ。鉄拳5さんが知ってて、色々手配したみたいよ」と答えた。

「取引先のスーパーまで」

「どうやって知ったのかは、オレも知らないけどさ。正義の怒りさんが、どこかでポロッと話したんじゃないの?」

 ――いいや、そんなことはない。あの集会で自分の仕事の話をしたことはないぞ。食品会社に勤めているってことぐらいは言ったかもしれないけど。それだけで取引先まで分かるわけないよな。

 順二はすぐに鉄拳5がどうやって知ったのか、思い当たった。榊原が教えたのだろう。鉄拳5と順二を引き合わせたのも、榊原だ。

 ――じゃあ、逃げ出したら即バレるってことか。どうする?

 黙り込んでいる順二を見て、こばけんは「これで官僚を倒したら、世の中は絶対よくなるよ。亡くなった親御さんのためにも、頑張ろうよ」と声をかけた。

 順二は頷きながら、

 ――俺の親が心中したのと、厚労省は何の関係もないんだけど。

 と、心の中でつぶやいた。

「もうすぐ着くよ」

 トラックは霞が関の交差点に差し掛かった。



 日比谷公会堂前の広場につくと、すでに集まった人たちがひしめき合っていた。みな、お墓でよく見かける白ロウソクを持っている。変な集団だと怪しまれないために、キャンドルナイトを装おうという鉄拳5の案だった。だが、予算の関係で安いろうそくしか買えなかった、と2・3日前に聞いた。却って怪しげな集まりに見える。

 順二は人混みを縫いながら、鉄拳5たちの姿を探した。

「あっ、来た来た。こっちでーす」

 順二の姿を見つけて、鉄拳5が手を振る。夜青龍や谷さんらも同じ場所にいた。

「お疲れ様でした。食料調達はどうでしたか?」

「バッチリ。50箱ぐらい積んだから」

「おおっ、それはすごい」

 パラパラと拍手が起きる。

「憂国さんたちは、一足先にスタンバってます。グループ分けは済んだので、正義の怒りさんのスピーチを待ってたんです」

「は?」

「よっ、待ってましたあっ」

 あちこちで声が上がる。

「えっ、いや、スピーチなんて聞いてないし」

「でも、今回の企画は正義の怒りさんから始まったことだし、やっぱり代表として挨拶してもらわないと」

 鉄拳5は当然という顔をしている。

「いやいやいやいや」

 ――オレが言いだしっぺじゃないから! 何言ってんだよ。しかも代表って。俺、何も仕切ってないじゃんか。ヤバイヤバイ、これはヤバイ。早く逃げないと。

 順二はお腹を押さえて、「うっ、ちょっと、お腹の調子が急に」としゃがみこもうとしたところ、鉄拳5に腕をつかまれた。

「事前に言っておけばよかったですね。大丈夫ですよ、ちゃんとスピーチ用の原稿を用意しておきました。僕の独断で作ってしまったんだけど……これを参考にしてください」と、紙を渡される。

「みなさーん、こっちに注目。大声を出せないので、皆さん、近くに集まってください」

 鉄拳5が手を振りながら呼びかけた。広場にいた140人ほどが、順二たちを囲むように輪を作る。

「知らない人もいるだろうから、紹介します。この方が正義の怒りさんです」

 鉄拳5が順二を紹介し、顔に懐中電灯をあてた。順二はまぶしくて顔をしかめる。

「おおっ」とどよめきがあちこちで上がる。

「日本年金機構の職員宿舎の襲撃を計画して実行したのが、この方です」

 ――いや、計画してないし。

 打ち消そうにも、動揺して言葉が出ない。

 暗くて顔はあまりよく見えなくても、みんなの視線が集まっているのは空気で伝わってくる。順二の心臓はバクバク音を立てている。

「これから会場に向かいますが、それに先駆けて、正義の怒りさんから激励の言葉をいただきたいと思います」

 ちなみに、襲撃の計画がばれないように、襲撃のことはキャンドルナイト、厚生労働省の庁舎は会場と言い換えることになっていた。

 ――もう、逃げ出せない。

 順二は震えながら、鉄拳5に渡された紙に目を通す。

「大丈夫です、読めばいいだけですから」

 鉄拳5はそっと耳打ちする。

 順二は深呼吸してから、紙を読み上げた。

「僕はずっと、正しい怒りが、今の日本にはないと思ってました」

 声が震える。順二は必死に、普段会社でしているプレゼンと同じ要領でやればいいのだと言い聞かせた。

 俯かないように紙を高めに持ち、一言一言を区切るようにハッキリ発音した。

「原発の事故だって、そうです。いまだに、原発を止めることはできない。こくっ……国民の8割が原発はなくしてほしいって思っているのに、選挙で自由……自由連合を勝たせてしまう。デタラメな審査で再稼働を許してるのに、止められない。でも、これって本当に止められない……んでしょうか? 自分達が本気で止めようとしてないんじゃないでしょうか。たぶん、日本人は、怒り方を忘れてしまったんです」

 そこで言葉を切り、さらに深呼吸する。みんなが真剣に聞いてくれているのが分かる。普段、会議で発言しても、順二の話をこんなに真剣に聞いてくれる人はいない。

「僕もずっと怒るのを忘れていました。でも、両親と祖母が心中したとき、何もしてこなかった自分に腹が立ったんです。社会を変えようとしなかった、自分自身に。世の中で起きていることに、全然関心を持たなかった自分自身に。ものすごく、腹が立った。それと同時に、国の悪口を言うばかりじゃ、何も変わらないだろうって思ったんです。今、僕は本気で日本を変えたいと思います。今日の行動は、そのための第一歩です。僕たちの手で、日本の未来を変えるための第一歩です。自分達の生きたいように生きられるような、本当の意味での自由な社会をつくりたい。おかしなことを、おかしいって言い続けられるような世の中にしたい。今なら、まだ間に合うと僕は信じてます。今日僕たちがすることは、自分のためじゃない。すべての国民のため、日本の未来のためなんです。きっと世の中は変わります。それを信じて、みんなで力を合わせましょう!」

 話すうちに、段々スピーチに熱がこもっていった。最後の言葉を言い放って数秒後、わっと歓声が沸き起こった。ロウソクをペンライトのように振っている人もいる。鉄拳5は満足そうに微笑んでいる。

「すごい、感動しましたっ」

 こばけんが順二の肩をつかむ。

「やるじゃんか、兄ちゃん」

 谷さんがニイッと汚い歯を見せる。

「いつも集会じゃ、たいした意見を言わないのに。そんなたいそうなことを考えてたなんてな。見直したよ」

「憂国さんたちにも、後で見せないと。絶対感動するぞ」と、ビデオ撮影していた夜小龍がつぶやいた。

 順二はやりきった充実感で爽快な気分になっていた。さっきまで逃げたいと思っていた気持ちは、どこかに吹き飛んでしまった。

「よかったですよ」

 鉄拳5に誉められ、

「いや、これは僕が考えた文章じゃないですから」

 と言うと、鉄拳5は首を振った。

「いいえ、僕はあなたの考えを代弁しただけですよ。正義の怒りさんのツイートを読んで、こういうことを考えてるんじゃないかって思ったんです。それがうまくハマっただけですよ」

「はあ」

 ――いや、俺、原発についてツイッターでつぶやいたことはないんだけど。電気が足りないと困るから、原発は当分あったほうがいいって思ってるぐらいだし。

「それじゃ、行きますかっ」

 鉄拳5の掛け声に、

「おーっ」

 みんなはこぶしを振り上げ、雄たけびを上げた。



 8時を10分ほど過ぎて、順二たちは日比谷公園の出口に到着した。そこでロウソクを吹き消して捨てる。

 そこから厚労省は目と鼻の先である。こばけんはメンバー30人ほどをつれて、地下鉄の入口から地下に潜って行った。

 そびえたつ厚労省の庁舎を見上げると、まだあちこちに明かりがついている。

 ――官僚でも残業するんだな。

 順二は意外に思った。

 鉄拳5が電話で憂国に指示をしている。

「うん、二手に分かれて突入するから。もう一組は、すでに地下に潜って待機中。10分後に爆破させてください」

 電話を切り、腕時計を見る。

「憂国さんたちは予定通り、厚労省の正門前と、交差点4か所で同時に爆発させます。その音が聞こえたら突入です」

 鉄拳5はポケットからマスクを取り出した。

「皆さんも、そろそろマスクをつけてスタンバっててください」

 順二もマスクをつける。バイクのヘルメットをかぶる人もいる。あきらかに怪しい団体だが、厚労省の正門前にいる警備員からは見えないらしい。

 そのとき、一台の軽トラックが路肩に止まった。その荷台には幌がかぶせてあり、積んである鉄パイプや角棒が覗いている。

 ホームレス中年が、トラックから降りてきた。

「何とか間に合って、よかったあ」

 ホームレス中年はすでにマスクをし、ヘルメットをかぶっている。

「これ、どうぞ」

 工事現場から盗んだらしいヘルメットを順二と鉄拳5、夜青龍に渡した。

「そろそろだ……10、9、8、7、6」

 鉄拳5が腕時計を見ながらカウントダウンを始めた。

「5、4、3、2、1」

 数え終わったとき、その場にいたメンバーは、みな息を止めた。だが、何も音はしない。

 30秒……1分……失敗か? 

 順二が鉄拳5と顔を見合わせた、そのとき。

 厚労省の正門前で激しい爆発音がした。その数秒後、あちこちで爆発音が鳴り響く。

「やった!」

 鉄拳5が興奮して叫ぶ。そしてトラックに突進し、荷台から鉄パイプを2本抜き取った。順二も慌てて鉄パイプを持つ。鉄パイプはずしりと重かった。

「行くぞーっ」

 鉄拳5は雄たけびをあげながら道路を渡り、正門に突進した。順二とホームレス中年も後を追う。他のみんなも次々と武器を手にし、吼えながら後に続いた。

 みんなから大きく遅れて、夜青竜がカメラで撮影しながら、追いかけてくる。夜青竜は糖尿病で激しい運動は無理だと自己申告し、撮影係ということになっていた。

「やったね、大成功っす!」

 物陰に隠れていた憂国が、流れに合流して鉄拳5から鉄パイプを受け取った。順二は「グッジョブ!」と親指を立てて健闘をたたえた。

 銀色の門は、大きくへこんでいた。そばにいた警備員はうめきながら倒れている。爆弾は思ったより威力があったらしい。ケガをしていないか、順二は心配になった。

 門を飛び越えて中に入ると、建物の中にいた警備員が外に飛び出してきた。

「うらあっ」

 憂国が鉄パイプを振り上げると、警備員は一瞬足を止め、すぐに悲鳴をあげて館内に逃げこんだ。憂国が後を追う。

「怪我させるなよ!」

 鉄拳5は憂国に向かって叫んだ。順二たちは自動ドアから、明かりの消えた玄関ホールになだれ込んだ。

 館内にいた職員たちが爆発音に驚いたのか、5、6人エレベーターで降りてきた。順二たちの姿を見て、ぎょっと足を止める。

「おほっ、獲物じゃっ」

 変な歓声をあげて、谷さんとホームレス仲間が鉄パイプを振り回しながら職員に突進する。職員は驚いて固まっている者も、全速力で逃げだす者もいた。

 次々とエレベーターがつき、職員が姿を現す。職員はすべて館内から追い出すという段取りになっている。初めは幹部だけでも人質にしようという案も出たが、幹部が残っているかどうか分からない、人質にしても管理しきれるかどうか自信がない、という意見が出て、考え直したのである。追い出す担当は決めてあるので、該当する者は恐怖で凍りついている職員を引きずり出したり、逃げた職員を追い回していた。

 そのとき、地下から二手に分かれていたこばけんが上がって来た。

「こっちも成功!」

 こばけんがグッと親指を立てる。

「バリケード築くぞっ。使えるものは、全部集めろっ」

 打ち合わせで、バリケードを築くチームと、窓に鉄線を張り巡らせるチーム、外からの侵入者を防ぐチーム、職員を追い出すチーム、食料を運び込むチームとに分けてある。

 順二はバリケードを築くチームだった。バリケード用の机や椅子を調達するためにエレベーターで2階に上がると、エレベーターに乗ろうとしていた職員と鉢合わせになった。呆然と見ている職員に、「さっさと館内から出てください。ここは占拠されました」と順二は告げる。職員はポカンとした後、順二達のいでたちを見て状況を把握したようで、階段から逃げ出した。

 2階は一部屋だけ明かりがつき、後は真っ暗だった。

「他にも職員が残ってたら、みんな追い出してよ」

 2・3人のメンバーが見回るために駆けだした。順二はエレベーターホールから一番近い部屋の電気をつけた。室内は学校の職員室のように机と椅子が並び、壁際には書類棚がズラリと並んでいる。部屋のあちこちに段ボール箱が積まれ、雑然とした印象である。

 順二は机の上にあるパソコンや電話などを床に払い落し、机を持ち上げた。他のメンバーも同じように机と椅子を確保している。

「棚もあったほうがいいって、谷さんが言ってたよね」

 近くにいた男に声をかけられ、

「そうだね、資料を全部棚から出しておいて。後で取りに来るから」

 と順二は答えた。

 メンバーは手際よく机や椅子をエレベーターホールに運び、ある程度たまったところで第一陣をエレベーターに積み込んだ。 

 順二は荷物とともに1階に降りた。憂国や谷さんらにせきたてられ、警備員や職員らが両手を上げながら外へ逃げ出している。

 順二たちは、まず自動ドアのスイッチを切り、谷さんとホームレス中年が調達したベニヤ板をガラス戸に立てかけた。それを塞ぐように机を並べ始めると、谷さんが「お前ら、そんなに規則正しく並べちゃ意味ないって。教室で授業受けるんじゃねえんだから」と呆れた。

「もっとガンガン積んでいきゃいいんだよ。きれいに並べてたら、すぐに突破されちまうだろ。崩れそうな感じがいいんだ」

 谷さんが手本に、そばにあった机をひっくり返し、並べてあった机の上に投げるように置いていった。

「さすが、経験者は違うな」

 順二は感心した。

 夜青龍がカメラを構えて、バリケードを築く様子を撮影している。谷さんはカメラに向かってVサインを出し、ニイッと笑った。



 30分もすると、2メートル以上はあるバリケードの山が築かれた。

 順二は他の場所のバリケードを築くのを手伝うため、別館への渡り廊下に向かった。渡り廊下の前では、積んでも崩れる山にメンバーが悪戦苦闘していた。

「さっきさ、別館から警備員が侵入しそうになったんだ。だから、ペットボトル爆弾で攻撃したんだよ」

 メンバーの一人が、興奮気味に語る。通路の向こうを見ながら、ドライアイスの入っているアイスボックスに手をかけ、すぐさまペットボトルに入れられるようスタンバイしているメンバーもいる。

 ペットボトルにドライアイスを詰めて爆弾の代わりにするのは、憂国のアイデアである。谷さんが「昔は火炎瓶があったのに、ペットボトルじゃあ、できないよなあ。栄養ドリンクの瓶じゃちっちゃすぎるし、一升瓶じゃ投げるのには重いし。中途半端な大きさのばっかなんだよ」と嘆いているのを聞き、提案したのである。ペットボトルのほうが安上がりで済むというのも魅力だった。

 順二たちは手際よく机や椅子を積み上げ、20分もたたないうちに、通路を塞ぐ強固なバリケードを築きあげた。

「すごいね、俺らじゃ全然ダメだったのに」

 苦戦していたメンバーに褒められ、

「コツがあるんだよ。規則正しく並べるんじゃ、ダメなんだよね」

 と、順二はさも自分の考えたテクニックであるかのように言った。

「ほかの場所のも、見に行こうよ」

 メンバーに促すと、みな汗だくになりながらも快く頷いた。スポーツで体を動かした後のような爽快さと充実感があった。



 バリケートを築き終わり、ひとまず全員が玄関ホールに集まった。

「ここからは、打ち合わせたとおり、7つのグループに分かれます」

 鉄拳5が指示を出す。

「Aグループはここを守り、Bグループは下を守ります。後のグループは上に行って、声明を放送する準備。女性は夜食の準備ということで。見張りは1時間ごとに交代です。何かあったら、僕の携帯に連絡をください。いいですか?」

 みな、「分かった」「よろしく」と口々に応じる。

 順二はCグループである。見張りまで時間があるので、鉄拳5と共に2階に上がった。

「ここって、厚労省だけじゃないんだ」

 順二の言葉に、

「そうそう、内閣府や環境省も入ってんだよね。環境省は何も関係ないから、ちょっと気の毒だけど、まあ官僚であることには変わらないからね」

 と鉄拳5はこともなげに答えた。

 2階の窓は、すべて机や椅子、スチール棚で塞いである。フロアの机や椅子はなくなり、床には本や書類が散乱している。適当にスペースをあけ、持ってきたパソコンの電源をいくつか入れた。

 鉄拳5は部屋の隅に置いてあるテレビをつけた。

「本日8時ごろ、霞が関付近で同時に爆発が起きました。通行人が巻き込まれて、病院に運ばれている模様です」

 NHKで、男性キャスターが緊張した面持ちでニュース原稿を読み上げている。

「まだ映像は出てないのかな」

 鉄拳5はほかのチャンネルに切り換える。ほかのチャンネルもすべてニュース速報に切り替わっていた。

「おっ、TBSは映像が出てる。これ、交差点のところだ。赤坂だから駆けつけたのが早いのかな」

 そこに集まっていたメンバーは、「おおっ」「こっちにはまだ来ないのかな」と興奮した様子でテレビに見入っている。

 警視庁前の映像が映っている。警官と救急隊員があちこちに駆けていく。

「危ないから、下がってください! 爆発の恐れがありますから、避難してください!」

 警官が付近にいる通行人に怒鳴っている。車を置いて逃げる人もいるようである。

 爆発現場は、黒く焼け焦げているのが分かる。

「どれぐらい威力あるんだろ」

「死んだ人もいるのかな」

「うわっ、あれ、血じゃないか?」

 みなが食い入るようにテレビを見ていると、鉄拳5のスマフォが鳴った。

「ハイ……うん、え? いや、見かけてないけど……連絡は? そうか……今、テレビ見てるんだけど、ケガ人が出てるみたい。もしかしたら、その中にいるのかもしれない。……うん、分かり次第、連絡するから」

 鉄拳5は困ったような表情で電話を切った。

「憂国さんの知り合いの神風さんが、こっちに来てないみたいなんだって。霞が関ビルディング前の担当なんだよね。電話しても出ないから、もしかしたら爆発に巻き込まれたのかもしれない」

「えっ」

 みな、息を呑んだ。

「じゃあ、どうするの?」

「どうしようもないよね。怪我したのなら、救急車で運ばれてるだろうし。うちらには何もできないよ。ここから助けに行くわけにもいかないしね」

「そっか……無事ならいいけど」

 そう言いながらも、順二は神風という人物の顔を覚えていない。憂国とたむろしていた仲間はみな眼光が鋭く、近寄りがたい雰囲気を醸し出していたので、いつも距離を置いていたのである。

「準備できましたよ」

 あぐらをかいてパソコンに向かっている夜青竜が、鉄拳5に声をかけた。

「ネットではどう? もう出てる?」

「うーん、爆発が起きたってことしか、まだ出てないかな」

「警察が集まって来てるっ」

 バリケードの隙間から窓の外を見ていたメンバーが叫んだ。みな一斉に窓に詰め寄る。

 正門の前には、パトカーが10台ほど止まっている。鉄拳5は1階にいる憂国と、地下にいるホームレス中年に電話で状況を伝えた。

「しばらく向こうは何も手出しできないだろうから、今のうちにユーチューブにアップして」

 鉄拳5の指示に従って、夜青竜がテキパキと作業を進めている。

 鉄拳5の電話が鳴った。

「ハイ。ああ、そう、もう電話が来たんだ……うん、こっちは今投稿を開始したところ。ちょうどいいタイミングだね。うん、それじゃ」

 鉄拳5は電話を切ると、

「警察が電話してきたみたいだよ。下の受付で、憂国さんが電話をとったんだって。厚労省は日本リセット会が占拠した、声明はユーチューブに投稿するから、詳しくはそれを見ろって言ったらしい」

 と報告した。

「へえ、予定通りだ」

「そうだね」

「正義の怒りさん、そっちのパソコンで、ユーチューブの動画を観れるかどうか、試してみて」

 夜青竜が画面から目を離さずに言った。順二も床に座り、パソコンでユーチューブのサイトを開いた。『日本リセット会』というキーワードを打ち込む。

「あっ、出てきた。憂国さんの画像が出てきたよ」

 順二はその画像を再生した。

「これ、かなり苦労してるんですよ。憂国さんはどうしても右翼の演説口調になっちゃうから、何度も録り直してね。これでギリギリってところかな」

 鉄拳5が苦笑しながら言った。


「我々はぁ日本リセット会ですっ。その名の通り、日本をリセットするために生まれましたっ。今の日本はぁ腐ってるっ、いや、腐ってます。見てください、今の日本の有様をっ。若者は夢や希望をなくして犯罪に走り、女子中高生は援交に走り、中高年は絶望して自殺する。最近は、ネンキン制度とかいって、高齢者を金のために殺すやつらまでいる。そんな国にしたのは、政治家、官僚、公務員のやつらなんだ。こいつらは散々国民の税金を食い物にしてきて、脱税なんて平気でやってる。一番、法を守らなきゃいけない立場の人間が、法に背いてるんだから、世の中おかしくなるでしょ、そりゃ。上が腐れば、下も腐る。上から腐っていったんっすよ、この国は。もう、今の日本は政権交代ぐらいじゃどうにもならない。実際、民衆党が政権を握った後も、官僚に翻弄されっぱなしだったでしょ。今回の選挙も、野党で仲間割れ。政治家なんてあてにならんと、よくわかったっしょ? だから、我々が、自分たちの手で、変えるしかない。今行動を起こさなければ、日本は終わるっ。だから、我々は立ち上がって、厚生労働省を占拠することにした。厚生労働省に求めるのは、まず全職員の解雇。そして、今まで国民が払った年金を、すべて国民に返してほしい。その2点であるっ。官僚が主導権を握っている社会を変えるためには、まず官僚を総入れ替えするしかないっ。こんなに不景気だと叫ばれている時代でも、官僚は我々の税金から高い給料をもらい、豪邸に住み、高級車を買い、贅沢三昧なんだから、とんでもない話である。我々の大切な年金を散々ムダ遣いしてなくしたくせに、自分たちは老後をのうのうと暮らす気でいるらしい。俺は断じて許さないっ。天下りまでして、退職金を何度ももらいやがって。年金は、元は我々が払った金。制度が失敗したんなら、払った金を返してもらうのは当然であるっ。我々の活動に賛同する人は、ぜひ厚労省に集まって欲しい。みんなで、この国を変えよう!」

 西本晃は、その画像を観終えるなり、興奮して友人に電話をかけた。12回目のコールで、眠そうな声で友人が電話に出る。時刻は、深夜1時を回っていた。

「ユーチューブの動画、観た? 日本リセット会とかいうのの動画。すげえぞ。厚労省、今占拠されてるじゃんか。その占拠してるやつが動画に出てんだよ。なんで占拠したのか、語ってんの。これ、すげえぞ。ぜってえ観たほうがいい。俺、明日、厚労省までこれ見に行って来るわ」

 動画のアクセス数は、すでに20万を超えていた。

 さらに、襲撃時の映像もアップされた。鉄パイプを振りかざして正門に突撃するメンバー、館内で職員を追い立てるメンバー、バリケードを築くメンバー……まるでドキュメンタリー映像のように編集された動画は、日本のあちこちで繰り返し再生され、それを観た人々は興奮した。深夜にもかかわらず、日本中が熱狂に包まれていた。



 スマフォのバイブの振動で、順二は目を覚ました。段ボールを下に敷き、上着にくるまって眠っていたので、体のあちこちが痛い。体を起こすと、部屋のあちこちに、同じようにごろ寝しているメンバーがいた。

 時計を見ると朝の6時過ぎだった。深夜に交代で見張りをしている合間に、仮眠をとることになっていた。興奮してなかなか寝付けなかったが、明け方には疲れが出て眠ってしまったらしい。

 携帯を取り出すと、兄の一博の名前が表示されている。

「もしもし」

 寝起きの低い声で電話に出た。

「順二、今、今どこにいる?」 

 一博は取り乱した様子だった。

「どこって……家だけど」

「本当か? お前、今厚労省にいるんじゃないよな?」

「えっ」

 その言葉に、一瞬で眠気が吹き飛んだ。

「えっ、何、どういうこと?」

「お前の動画がユーチューブに出てんだよ。どっかの公園で、大勢の人の前で、お前が日本の未来のために戦おうとか演説してるやつ。画面は暗いけど、この声はお前じゃないかって、裕三が電話してきたんだよ」

「嘘だろっ」

 順二は近くのパソコンに飛びつき、ユーチューブを開いた。

 日本リセット会で検索すると、憂国が演説している画像のほかに、順二が日比谷公園で演説している画像も出てきた。

 ――思い出した。昨日、夜青龍が撮影してたんだ。あいつ、これを勝手にアップしたんだ。

 画像は暗くて見づらいが、順二を知っている人ならおぼろげな姿形と声から本人だとわかるだろう。

「おい、本当に家にいるのか? 厚労省じゃないよな?」

 一博が半分叫びながら、何度も尋ねる。

「いや……その……」

 まさか、こんなに早くばれるとは思っていなかったので、順二は動揺した。

「いるのか? 厚労省にいるのか?」

「……うん」

「じゃあ、爆破したのもお前か?」

「いや、俺じゃなく、別の人」

「何やってんだよ、お前。何考えてんだよ。さっさと出て来いよ。今、大変な騒ぎになってるの、知らないのか?」

「知ってる」

「大体、親父とお袋が死んだことと、厚労省とは何も関係ないだろ?」

「まあ、その辺は話の流れ的にそう言ったまでで」

「確かにさ、まじめに働いてる親父やお袋が死ななきゃならないなんて、理不尽だって俺も思うよ。税金をムダ遣いばっかりしてる官僚や政治家ばかりいい思いしてんのは、俺だっておかしいって思うよ。だからって、厚労省を襲うってのは話が違うだろ? 爆破に巻き込まれて、ケガした人がいるんだぞ?」

「分かってる」

「そんなの、人殺しと同じじゃないか。関係ない人を傷つけるなんて」

「……」

「何て言われて、そいつらにたぶらかされたのか、知んないけど。俺がこれから、そっちに迎えに行くから。取り返しがつかなくなる前に、そっから出て来い! いいな?」

 電話は一方的に切れてしまった。電話を切り、ため息をつく。

 バリケードの隙間から窓の外を見ると、まだ外は暗く、これから夜が明けるところだった。

 厚労省の建物を幾重にも囲むように、警察官や機動隊、報道関係者がひしめき合っていた。今や館内の人数より、外にいる人数のほうが多い。

 日付が変わる前には、厚労省が占拠され、その占拠したメンバーが連続爆破も企てたらしいと、報道で伝えられた。

 ――取り返しがつかなくなる前に。

 一博はそう言っていたが、もうとっくに取り返しのつかない事態になっている。日本年金機構の社員寮を襲った時点で、もう取り返しのつかない事態になってしまっていた。いや、その前からかもしれない。榊原に会った時から、ツイッターでつぶやいてしまった時から、既に取り返しのつかない事態になっていたのかもしれない。

 ――どっちみち、もう後戻りできないのは確実なんだ。

 順二はぼんやりと、明けはじめた空を見つめていた。



「なんで、昨日の日比谷公園での動画をアップしちゃったの」

 朝食を食べているときに夜青龍に問いただすと、

「憂国さんに見せたら、これもユーチューブにアップするべきだって言われたから。鉄拳5さんも、そうしたほうがいいって言ってたし」

 と、菓子パンを食べながら夜青龍は答えた。ちなみに、菓子パンは地下の売店にあったのをみんなで分け合って食べることにしたのだ。

「それなら、アップする前に相談してよ」

 順二が言うと、「なんで?」と夜青龍は無愛想に訊き返した。

「さっき、兄貴から電話があったんだよ。この動画、お前だろうって。俺にも都合があるんだから、勝手にアップされちゃ困るんだって」

「そんなこと言われてもさ、実質的なリーダーは鉄拳5さんなんだから。あなたに決定権はないでしょ」

 ――あなた、だと?

 順二はカチンときた。

 この夜青龍という人物には、初めて会った時から嫌な印象しか抱いていない。ほかのメンバーは順二を日本年金機構の襲撃犯として一目置いているような部分があるが、夜青龍だけは順二を小馬鹿にしたような態度をずっととっている。鉄拳5に対してだけ従順な態度をとり、他の人には見下すような態度をとっているので、夜青龍を嫌っている人は多かった。

 ハローワークの非常勤として働いている夜青龍は、労働条件の悪さに嫌気がさし、大元締めに嫌がらせをしたくて参加したと話していた。

「まあ、俺が一番、官僚に近いから」

 と、自慢なのか何なのかよく分からない発言をしょっちゅうしていた。

 順二は怒鳴りたくなる気持ちをグッと堪え、

「でも、顔を出すのは俺なんだから。事前に相談してくれたっていいじゃないか」

 と言うと、

「まあ、その辺のことは俺に言うんじゃなく、鉄拳5さんに言ってよ」

 と、夜青龍は順二の顔を見ないまま答えた。

「そういえば、夕べ、厚労省をてっぺんから下まで撮影して、『真夜中の厚労省ミステリーツアー』って動画を、今朝アップしたんだ。最上階に行った? 夜は、あそこから眺める夜景がきれいだよ。今晩行ってみれば?」

「それどころじゃ」

「ないよ」と続きは口の中でモゴモゴと言った。もう既に10万以上の人が画像を見ている。今さら削除したところで、遅すぎるだろう。

 夜青龍の突き出た腹を蹴飛ばしたい気持ちを、順二は何とか堪えた。



「ちょっと、信じらんない!」

 朝食後、主要メンバーでミーティングをしていると、ショートカットの女が駆け込んで来た。

「給湯室で、ホームレスの人が、体を洗ってんの! シンクに座りこんで、裸になって……もう、信じらんない! あんなに臭かったら、給湯室、もう使えないよ。どうにかしてよ、あいつら」

「しょうがないな」

 鉄拳5が立ち上がった。

「でも、体を洗ってくれたほうが、こっちも助かるかもしれないよね、一緒に行動するんだから。あの臭い、きついでしょ? とくにここは、暖房がきいてるから」

「まあ、確かにそうだけど」

「じゃあ、二階の給湯室は彼らに使わせて、それ以外の階で体を洗わないように谷さんに言っとくよ。お茶を入れるのには不便になるけど、もうそこは使いたくないでしょ? それとも二階はお茶用に使って、他の階で体を洗ってもらう?」

「えー、もう二階は使いたくない」

「じゃあ、二階は彼ら専用ということで。他の階では絶対に体を洗わなければいいかな」

「それならいいけど」

 ショートカットの女は表情を和らげた。

 順二は、鉄拳5の交渉力の高さにはいつも感心していた。集会で何度か仲間割れするような場面があったが、そのときもどちらに味方するでもなく、双方の言い分を聴き、納得する落とし所を見つけるのがうまいのである。

「鉄拳5さんは政治家に向いてるんじゃない?」

 順二は本気でそう言ったことがある。鉄拳5は「無理、無理」と一笑に付した。

「ヘリコプターだ」

 バリケードの隙間から外を見ていたメンバーが叫んだ。窓際に走り寄ると、何機ものヘリコプターが騒音と共に、厚労省の建物の周辺を旋回しているのが見えた。

「マスゴミだな」

「俺、映ってるかな」

 ヘリコプターに向かってVサインを出す者もいる。

「うわっ、すげえ」

 テレビをつけたこばけんが、驚嘆の声をあげる。

「日比谷公園に、人がいっぱい集まってるよ。ホラ」

 映像を見ると、まだ朝8時だというのに、数百人――いや、数千人規模の見物人が集まっている。みな厚労省と、厚労省を取り巻く機動隊などを興奮した面持ちで眺めている。

「いいじゃん、いいじゃん。やっぱり、ユーチューブって効果あるねえ」

 こばけんが嬉しそうに手を叩いたとき、

「日本リセット会の諸君、私は警視庁長官の渡部です」

 と外で男の声が鳴り響いた。

「おおっ、来なすった」

 とたんに憂国の眼が輝いた。その場にいたメンバーはみな耳を澄ます。

「君たちの主張は、ユーチューブで拝見しました。えー、まずは、話し合いをしましょう。逮捕はしないと誓うから、君たちの代表と私とで一対一で話し合いませんか。なんなら、私がそっちに行ってもいい。まずはその返事を聞かせていただきたい」

 テレビの画面は、厚労省前に止まっている車に切り替わった。車の屋根についている白いボックスの中で、強面の男が数本のマイクを握りしめている。

「あれは機動隊が使う現場指揮官車だな」

 憂国はなぜか嬉しそうにしている。

「すっげえな、警視庁長官が出てくるなんて。最高っすよ」

「そんで、どうする?」

 こばけんが鉄拳5に尋ねた。

「もちろん、今は応じないよ。なんだかんだ理由をつけて、逮捕するに決まってんだから」

 鉄拳5は即座に答えた。

「えっ、でも、それじゃあどうするの? ずっと立てこもってるわけにはいかないでしょ?」

 ホームレス中年が不安げな声をあげる。

「もちろん、永遠に立てこもってるわけにはいかないよ。もっと大きな騒ぎになるまで待つってこと。全国から続々と人が集まってくるだろうから、数万人規模になったら、交渉に応じてもいいかな。それまでは立てこもってないと、意味がないから。交渉はこっちが有利になってからしないとね」

 鉄拳5の意見を聞いても、ホームレス中年はなお不安そうだった。

「もーう、まだ始めたばっかじゃん。気が小さいなあ」

 こばけんがからかうように小突くと、ホームレス中年はムッとした。

 テレビは、爆破についてのレポートに切り替わった。

「先ほど、病院に収容されていた20代の男性が一人亡くなったという情報が入りました。男性は持ち物から、東京都に住む柳原克己さんだと判明しました」

 男性アナウンサーが沈痛な面持ちで原稿を読み上げている。

「神風っ」

 憂国が叫んだ。

「嘘だろ、あいつ、そんなあ」

 憂国はその場に崩れ落ちる。ややあって、肩を震わせながら低い声で泣き出した。

「神風さんが爆破の犯人だとは、まだ分かってないみたいだな」

 鉄拳5は冷静に分析している。

「逃げ遅れたのか、爆弾が欠陥品だったのか」

「爆弾って、ボストンバッグに入れといて、遠隔操作で爆発させるんでしょ?」

 順二の問いに、

「そうなんだけど。うまくいくかどうかは、爆発してみないと分からないからね。爆発しなくて、近寄って様子を見ようとしたのかもしれない」

 鉄拳5の分析に、「なるほどね」と順二は納得した。

「神風は殉職したんだ」

 憂国が涙を拭きながら立ち上がった。

「我が国日本のために、あいつは命を捧げたんだ! みんなで黙祷しよう、あいつのために」

 憂国の言葉に、その場にいたメンバーは顔を見合わせた。憂国が膝をつき、目を閉じたので、メンバーは仕方なく立ったまま目を閉じた。憂国はやることなすこと芝居がかっているので、順二はうんざりしていた。

「ありがとう、きっと天国にいる神風にもみんなの気持ちは届いてると思う」

 憂国は頭を下げた。みんなは幾分しらけた気持になっている。順二は神風という人物と一度も話したことがないので、正直なところ、死んでも何も感じない。

「さて、それじゃあ、各自、持ち場につこうか」

 鉄拳5がその場の空気を変えようと手を叩いた。

 順二はそろそろ地下のグループと見張りの交替である。鉄パイプを持ち、持ち場に向かった。



「――由々しき事態です。日本リセット会とか名乗ってるそうですが、彼らのやってることは、まさしくテロです。厚生労働省を乗っ取り、5か所も爆破して、亡くなった人も出ています。テロリストは許されるべきではありません。政府は、毅然とした態度で、断固許さぬ覚悟で持って、しかるべき措置をとる所存でおります」

 いつも気だるい雰囲気で話している官房長官が、相変わらず緊張感のない表情で、記者会見でメモを読み上げている。

「しかるべき措置とは、具体的にどのような措置でしょうか」

 記者から質問が飛ぶ。

「それは今話し合っている最中です」

「場合によっては、厚労省への突入も考えられるのでしょうか」

「どのように厚生労働省から彼らを排除するかは、今検討している最中です。これ以上犠牲者を出さないためにも、細心の注意を払って、ベストをつくす方向で考えなければなりません。何より国民の命を、国民の安全を守るのが最優先されるべきことです」

「よっく言うよ」

 スマフォでテレビの中継を見ながら、憂国の知り合いの零戦という男が声を上げた。

「ふだんは国民のことなんて、なーんも考えてないくせに。今さら正義の味方ぶんなっての」

 地下のバリケードの向こうにも、警官や報道陣が詰めかけているのだろう。途切れ途切れに怒号が聞こえてくる。バリケードは受付付近の入り口からエレベーターホールまで伸びている。憂国はバリケードの外側に、「爆弾あります」というビラを貼ったと得意げに話していた。これで警察は突入するのに慎重になる、という狙いだった。

 見張るといっても、何をするでもなく、順二を含む20人はあちこちに座りこんで時間をつぶしていた。メールを打っているメンバーもいる。

「ここに突入するつもりなのかな」

 一人の男が、不安げにつぶやいた。

「よくさ、映画ではヘリコプターでロープからつつーって屋上に降りて、そこから侵入するってあるよね」

「屋上の入り口もバリケード築いてあるから、まあ、難しいっしょ」

 零戦は軽く答える。

 集会で、60年代の学生運動の映像を観て、何度も対策を練った。あさま山荘や東大の安田講堂と違い、占拠するのは行政の建物であり、放水で水浸しになれば困るような資料やデータが山ほどあるし、高いビルをあさま山荘のように鉄のボールで壊すわけにはいかないだろう。なるべく無傷でここから出て行ってもらいたいと考え、力づくで突入はしないはずだ。そう判断し、バリケードを強固に築いておけば安全だという結論に達したのである。

 順二のスマフォがポケットの中で震えた。取り出してみると、一博だった。おそらく、この近くに来ているのだろう。数分ごとに電話がかかってくる。会社からも電話はかかってきていた。会社も、順二がこの暴動に関係していると既に把握しているのかもしれない。大野はカッコいいと興奮しているだろうか。

 ――なんか、想像以上に大騒ぎになっちゃったな。まさか俺の映像が流れるなんて思わなかったもんな。ホントは逃げるつもりだったのに。何であの時、逃げなかったんだろう。

 電話は一切無視していた。今、話したいのは一人だけである。

 ――南。南も、俺がここにいるって知ってるのかな。伝えておけばよかったなあ。早く声を聞きたい。声だけでも。

 南から電話がかかってくるかもしれないと思い、電源を切れずにいた。



「テロ行為は断じて許さない。我が党はこのスタンスでいきます。皆さんも、マスコミや支援者の方にこの事件について聞かれたときは、その主張で通してください」

 若手議員を集めた緊急の会合が開かれ、京子は望みの党の本部に来ていた。代表や副代表、幹事長らが今回の厚労省の立てこもりについての党の見解を伝えた。

「でも、日本リセット会の動画を見たんですけど、うちの党の主張とかぶってる部分もありますよね」

 京子の隣に座っていた同じく一年生議員の男が手を挙げた。

「方法は間違ってますけど、主張していることはまともだな、と僕は思いました」

「何考えてるんだ、相手は犯罪者だぞ?」

 細井代表が声を荒げた。

「犯罪者に共感なんてしてる場合じゃないだろうが。そんなやつが党内にいたら、一斉にマスコミに叩かれるぞ? ただでさえ、支持率は低いのに」

 細井の剣幕に、会議室は静まり返った。

「まあ、彼らに共感してるのは、大半は若者でしょう? お祭り感覚でとらえてるだけのような気がしますね。賢明な有権者は、犯罪者に共感を示すようなことを言ったら、すぐにネットで叩くでしょう。政治家のくせに、ってね。だから、皆さんも不用意な発言をしないように気を付けてくださいね」

 舟崎がなだめるように口をはさんだ。

「ここで変な発言や行動をとったら自由連合に格好のエサを与えることになる。くれぐれも、気を引き締めて、テロには屈しないという態度を貫くように」

 と細井も強調した。

「そういうわけで、要点は先ほど配った資料にまとめてありますから。間違えても、彼らを支持するような発言をしないでください。ひじょうにデリケートな問題で、うっかり不謹慎な発言をしたら、党の存続に関わる事態になるかもしれませんからね」

 舟崎も繰り返し注意する。

 ――なんだか、学校みたい。夏休み前に、全校集会で校長先生がしてはいけないことを注意するような。政治家って、こんなもんなんだな。

 京子は半ば呆れながらパラパラと渡された資料をめくった。



 午後1時過ぎ。日本リセット会のメンバーはカップめんの昼食を食べ終え、それぞれの持ち場についていた。順二は2階の集会室で鉄拳5と共にテレビに見入っていた。

 どの局でも厚労省の占拠を報道し、通常の番組を放映しているのはテレビ東京ぐらいである。政治家や評論家、コメンテーターらが深刻そうな顔で討論している。

「ゲームで育った世代は、現実と非現実の区別がつかない。ゲーム感覚で襲撃しているのではないか」 

「今の若者はコミュニケーションが希薄。対話で問題を解決しようとするのではなく、暴力で解決しようと短絡的に考える傾向があるのではないか」

 専門家たちはもっともらしいことをコメントし、襲撃する理由や原因を見つけ出そうと必死になっているようである。

「こういうことを言ってるやつに限って、今の若者は自分の意見を持ってない、自分の頭で考えて行動しないとかって言うんだよね」

 鉄拳5は鼻でフンと笑った。

「ちゃんと襲撃する理由を言ってるんだから、僕らの主張を聞けばいいのに。現実から目をそらしてるのは、あんたらじゃないかって感じだね」

 画面は、日比谷公園に切り替わる。

「こちら日比谷公園です。日比谷公園には早朝から続々と人が詰めかけ、既に数千人が集まっているという情報もあります。今、機動隊によって公園が封鎖されようとしています。これ以上人が入り込めないようにしているのでしょうか。公園の門が一斉に封鎖されようとしています」

 若い男性アナウンサーが興奮気味に語る横で、機動隊が「ハイ、入らないで、ここには近寄らないで」とロープを持ち、出入り口を封鎖しようとしている。

「公園の中は、今、どうなっているのでしょうか」

 男性アナウンサーが人込みをかき分けながら園内に入ると、詰めかけた大勢の人が厚労省に向かって「いいぞー、頑張れー!」「負けるな!」と叫んだり、肩を組んで歌を歌っている。

「あの、すみません、皆さんはどちらからいらしたんですか」

 アナウンサーは近くにいた男性5人組に声をかけた。パソコンを囲んでいた男らは、カメラを見て目を輝かせた。

「長野からですっ」

「わざわざ長野から」

「ユーチューブを観ていたら、じっとしていられなくて」

「皆さん、お勤めされているんじゃないですか?」

「ハイ、仕事休んで来ちゃいました!」 

 5人はどっと沸いた。

「厚労省を占拠している日本リセット会については、どう思いますか?」

「よくぞやってくれたって感じですよ。厚労省は年金とかであれだけの不始末をしておきながら、自分たちは年金をもらえるんでしょ? 今まで払った年金を返せって、ほんと、その通りですよ」

「じゃあ、日本リセット会の行動については、共感できると」

「共感しますね。俺らを代表してやってくれたって感じです」

「彼らはテロリストだという意見もありますが。爆発に巻き込まれて亡くなった方もいますよね」

「あれは仲間だったんでしょ? 日本リセット会の人が、動画でそう説明してますよ。自分で仕掛けた爆弾で死んじゃうのは、ちょっとマヌケだとは思うけど。厚労省の職員は全員外に追い出して、危害を加えなかったんでしょ? カッコいいじゃないですか!」

「日本リセット会、頑張れー、負けんなよおっ」

「俺らの年金を取り戻してくれえっ」

 5人はかわるがわるにコメントした。昼間から酒でも飲んでいるのか、やけにハイテンションである。

 画面は、厚労省の正門前に変わった。

「今、こちらでは中に入ろうとする人が詰めかけて、それを制する機動隊とで小競り合いが起きている状況です」

 女性アナウンサーが、少し離れた場所から緊張した面持ちで実況している。

「危ないから、下がってなさい!」

「中に入れろよ!」

「邪魔すんな!」

「息子が中にいるかもしれないんだ!」

 あちこちで怒号が飛び交う。

「日本リセット会のご家族の方でしょうか。機動隊は今500人を配置しているそうですが、いずれにせよ、しばらく混乱は続きそうです。以上、現場からでした」

「いいねえ、この調子なら、当分は僕らをつかまえるどころの騒ぎじゃないな」

 鉄拳5は満足そうに微笑んだ。

「それにしても、本当にこんなに人が集まってくるなんて。すごいな」

 順二は素直な感想を漏らした。

 そのとき、田部井総理大臣の顔が画面に映し出された。どうやら政府が緊急につくったCMのようである。寝不足なのか、総理大臣の眼の下にはクマができ、髪は乱れている。

「皆さん、厚生労働省が日本リセット会と名乗る若者たちによって占拠されるという非常事態が起こりました。我々はこのテロリストと戦う覚悟でおります。断固としてテロを許してはなりません。テレビをご覧の皆さまは、ネットの動画に惑わされることなく、通常通りの生活を送るよう、心がけてください。今、厚生労働省や日比谷公園の周辺は、交通規制をしております。危険ですので、近寄らないようにしてください。繰り返します。厚生労働省や日比谷公園の周辺には近寄らないでください。政府から、緊急のお知らせでした」

「騒ぎを牽制しようとしてるんだな。余計にあおるだけなのに」

 鉄拳5はまったく動じていない。

 そのとき、夜青龍が

「ちょっとちょっと、この画像、観てよ」

 と二人を手招きした。

 二人がパソコンを覗き込むと、夜青龍が動画を再生した。

「日本リセット会の皆さん、はじめまして。皆さんにお願いしたいことがあって、何度も厚労省に電話したのですが、誰も出ないようなので、動画でお願いすることにしました」

 50代ぐらいの女性が、カメラに向かって話している。目は赤く腫れ、胸元まで垂れた長い白髪交じりの髪はボサボサである。

 彼女は涙ながらに語った。

 5年前、夫ががんにかかり、ある抗がん剤を使った。それを投与して一週間後に、突然亡くなってしまった。その薬は重篤な副作用があるということを、伏せられていたのである。今、私たちは製薬会社と国を相手取って裁判を起こしている。厚労省は薬害エイズや薬害肝炎のときにように、重大な情報を隠蔽しているのではないか。その資料を探してほしい――。

 動画は5分ほどで終わった。その場にいたメンバーは黙り込んでしまった。

「そんなこと言われても……」

 鉄拳5は困ったように頭をかいている。

「こんな膨大な資料の中から、見つけられないよな」

「うん、今はそれどころじゃないし」

 夜青竜も頷く。

「厚労省の官僚が総辞職したら実現できるかもしれないって、言っておくしかないかな。夜青竜さん、撮影のスタンバイをお願いできるかな」

 鉄拳5の言葉に、「了解」と夜青竜は立ち上がった。隣の部屋が撮影部屋になっている。

 そのとき、「順二!」と甲高い声が、窓の外とテレビから同時に響いた。

「順二、俺だっ、一博だっ、分かるだろ?」

 どうやら、一博が呼びかけているらしい。声のした方向に慌ただしくテレビカメラが向けられる。画面が切り替えられ、近くのビルから撮影しているらしいカメラが、正門前で機動隊に囲まれ、拡声器で怒鳴っている一博をとらえた。

「兄ちゃん」

 順二は呆然としてつぶやいた。周りにいたメンバーが、驚いて順二を見る。

「順二、俺、今ここに来てるんだよ。厚労省の前。分かるか? そっから見えるか? 何度も電話したのに、どうして出ないんだよ? こんなことやめて、もう出て来いよ。これだけの人に迷惑かけて、俺は恥ずかしいよ。なんで、こんなことやってるんだよ。お前、元々政治なんて興味なかったじゃないか。騙されてるんだよ、その人達に。お前、人がいいから……頼むから、出てきてくれ。今なら、まだ罪はそれほど重くないって、警察の人は言ってるんだ。長引けば長引くほど、不利になるって。なっ、話し合おう。お前が何を考えて、何に不満を持ってんだか、俺が聞いてやるから。だから、もうこんなことやめてくれ。親父とお袋も、お前の今の姿を見たら」

 そこで言葉は途切れた。一博は肩を震わせて泣いている。拡声器を隣にいた男が受け取る。それは裕三だった。

「順兄、俺、ビックリしたよ。ネットで順兄の動画見たとき、信じられなかった。順兄、昔から優しかったろ? よく俺におやつわけてくれたし、マンガ貸してくれたし、昔はよく一緒に遊んだじゃないか。俺の知ってる順兄は、やさしい兄ちゃんだ。だから、なんでこんなことしてんのか、わかんないよ。早く出てきてよ。一兄も、本当に心配してんだから。こんなことやめて、早く出てきてよ、お願いだからさあ」

 裕三は大声で泣き出した。

 順二は両手で顔を覆った。2人の言葉に感動して涙が出たわけではない。あまりの恥ずかしさに、正視していられなかったのである。

 ――なんてことしてくれたんだよ。名前まで出して。これじゃあ、俺は恥さらしじゃないか。

「大丈夫?」

 鉄拳5が気の毒そうに声をかけた。

「ああ、うん、まあ、何とか」

 順二は恥ずかしくて顔を上げられない。

「なんなら、動画で兄弟にメッセージを送ったほうがいいんじゃないかな。無事でいるから安心してって一言言うだけでも違うかもよ」

 順二は首を振った。そんなことをすれば、ますます日本中に恥をさらしているようなものである。

「まあ、ちょっと休んで、気分転換したほうがいいかも。休憩室に行ってれば?」

 鉄拳5は軽く肩を叩いた。順二は頷き、顔を伏せたまま部屋を出た。

 みじめであった。自分だけいち早く家族が駆けつけて涙ながらに呼びかけられるなんて、マヌケもいいところである。これでは、世間を知らない甘ちゃんが家族を困らせていると思われてしまうかもしれない。

 ――2人とも、なんで俺のメンツを考えてくれないんだよっ。

 順二は苛立ち、近くにあったごみ箱を蹴とばした。



「気分、どう?」

 30分ほどして、鉄拳5が様子を見にきた。順二は段ボールの上に寝転がっていた。

「うん、平気」

 ノロノロと起き上がり、ため息をつく。

「みんなは何て言ってる?」

「特に何も。ただ、自分の家族は自分がここに来てるってことがわかったら、どうすんだろって心配になってるみたい」

「ふうん」

 ふと、順二は疑問を感じた。

「鉄拳5さんの家族は? 奥さんもいるのに、こんなことやってて、大丈夫なの? 今更だけど」

 鉄拳5は胸ポケットから煙草と携帯灰皿を取り出した。

「まあね。うちは、普段から市民運動に参加してるから。つれともよくデモ行進に参加してるし、慣れてるっていうのも変だけど。今回のことは賛成してくれたんだ」

「えっ、奥さんに話してあるの?」

「うん。最初から話してある。つれも本当は参加したがってたんだよ。でも、お腹に子供がいるからさ。今、日比谷公園には来てるよ。声をかけてつれてきた人達もいるみたいだな」

「そうなんだ」

「他の人は……そうだな。ホームレス中年さんは離婚してるから心配する人はいないだろうし、谷さん達は元々ホームレスだからねえ。こばけんさんは実家は田舎でネットなんて見ないから、自分がここにいるってこと知らないだろうって言ってたし。夜青龍さんは家族とは仲が悪いみたいだしね。憂国さんはどうだろうね。あの感じじゃ、家族は関わり合いたくないんじゃないかな。問題息子って感じだもんね」

 鉄拳5は軽く笑った。

「だから、正義の怒りさんのとこが、一番まともな家族なのかもね。厚労省に来てまで説得しようとするんだから。まともだよ」

「そうかな」

「夜青龍さんに聞いたよ。ネットに動画出されて、困ってたみたいだって。事前に相談しないでアップしちゃって、申し訳なかった。憂国さんは、顔出して主張するのを楽しんでる部分があるけど、普通の人はそうはいかないよね。そこんとこ、配慮が足りなかったなって思って」

「いや、まあ、俺だけ出さないわけにはいかないし」

 順二は小さく答えた。本当は、動画を勝手にアップしたことで夜青龍や鉄拳5を恨めしく思っていた。だが、このように謝られたら文句を言えるほど、順二は気の強い性格ではない。

「そういえば、市民運動って、どんなことやってるの?」

 話題を変えるために、順二は思いついたことを尋ねた。

「うん、まあ、原発とか、いろいろとね」

 鉄拳5は詳しく話したくないのか、言葉を濁した。煙草を消し、灰皿をしまって立ち上がる。

「そろそろ交代の時間だから、下に行こうか」

 


 夜になった。

 厚労省や日比谷公園の周りには、ますます人が集まってきていた。入れないように通行止めにしていても、詰めかけた人たちはロープをくぐって中に入ってしまう。機動隊が取り押さえている横を別の人がすり抜ける、という具合でキリがない。

 政府は、何度も記者会見を開いた。だが、「機動隊を500名追加」「霞ヶ関方面を通行止め」という程度の情報しか発表しない。

「突入しないんですか?」との記者の問いには、「それも含めて検討中」と答えるだけである。

 ユーチューブには、次々と画像が投稿された。日本リセット会を激励する動画のほか、「天下り役人の住所を教えてくれ。俺はそこを襲いに行く」といった要望を伝える画像も増えている。

 厚労省の職員やOBは、恐怖のあまり自宅から出られないとニュースで報道されている。その報道を観て、メンバーは「ざまみろ」「いい気味だ」と沸き立った。

 深夜1時。順二は見張りを終え、3階の給湯室で顔を洗い、歯を磨いた。心身ともに疲れ切っていた。

 ――そうだ。気晴らしに夜景でも見に行くか。

 ふいに思い立ち、一人でエレベーターに乗り、最上階に向かった。

 最上階でエレベーター近くの部屋のドアを開けると、叫び声が上がった。見ると、窓際で抱き合っている男女がいる――2人とも下半身は裸で、女のほうはセーターをまくりあげ、乳房が露わになっている。

 順二はしばらくその場で固まってしまった。数秒後、順二はドアを閉め、エレベーターホールに向かった。

「なんだよ、もう。エッチしてる場合かよ」

 ぶつくさ文句を言っていると、「正義の怒りさんっ」と、男がジーパンのファスナーを閉めながら駆け寄った。

「こここのことは、みんなには黙っててもらえますかっ」

 順二は無言で相手の顔を見た。

「もうしないからっ、すみませんっ」

 男は必死の形相で、何度も頭を下げる。

 エレベーターがつき、順二は「わかった」と一言言い放ち、エレベーターに乗り込んだ。

「ありがとうございますっ」

 男は深々とお辞儀をする。順二はさっさとドアを閉めた。

「なんだかなあ」

 どっと疲れが襲い、順二は壁に凭れかかった。

 ――俺、こんなとこで何やってんだろうな。本当に。

 夜が更ける。

 一博や裕三は、今どんな思いで夜を迎えているのだろうか。親戚のおじさんやおばさんたちも知っているのだろうか。会社の人は、どういう思いでニュースを観ているのだろうか……そんなことを考えていると、胸が苦しくなってきた。

 2階に着くと、エレベーターホールで夜青龍が驚いたような顔をして立っている。 

「どこ行ってたんだよ、みんな心配してたんだから」

 いきなり厳しい口調で云われ、順二は鼻白んだ。

「どこって……22階だけど」

「何しに?」

「夜景を見に。きれいだって言ってたじゃん」

「ああ」

 夜青龍は合点がいったような表情をした。

「見張りが終わったのに戻ってこないから、みんな心配してたんだってば」

「ちょっと上に行ってただけじゃないか」

「それならそうと、抜けるときは誰かに言わないと」

「そんな決まりになってたっけ? ほかにも抜けてるやついるじゃん」

 順二は段々不愉快になって来た。

 ――なんで、こいつに偉そうな口調で指図されなきゃいけないんだよ。

「俺だけに言うなよ。ったく」

 吐き捨てるように言って、仮眠室に向かった。苛立ちを隠すのも面倒になっていた。

「夜景、どうだった?」

 ふいに、夜青龍が尋ねた。

「どうって、きれいだったよ」

「ふうん。東京タワーは見えた?」

「まあね」

 適当に答えて、順二は休眠室に向かった。とにかく2時間でも3時間でも横になりたかった。



 4時5分前に順二は目覚ましの音で目を覚ました。見張りの時間である。分かってはいるが、まぶたが重く、目が開かない。目覚ましアプリを消してそのままウトウトしていると、誰かが仮眠室に入って来た。

「ちょっと、交替の時間を過ぎてんだけど」

 揺り起こされて、ようやく目を開けた。今見張りについているグループの男が、不機嫌な顔で覗き込んでいる。

「早くしてよ、待ってんだから」

 男はそばにいた何人かを揺り起こし、苛立ちを全開にして勢いよくドアを閉めて出て行った。

 順二たちはノロノロと起き上がると鉄パイプや角棒を持ち、部屋から出てエレベーターで1階に降りた。みな、寝不足で話す元気すらない。

「やっと来た。10分もオーバーしてるよ」

「勘弁してよ、こっちは疲れてんだから」 

 正面玄関を見張っていたグループが、口々に文句を言う。

「ごめん」

 順二は軽く謝り、見張りについた。

「いよっ、お疲れさんっ」

 ふいに、かっぼう着を着た男に、肩を叩かれた。その男が谷さんであることに気づくまで、数秒かかった。

「……なんだ、谷さんか。誰かと思った。何、そのかっこ」

「これか? 食堂のおばはんたちが着てんじゃないの。今、服を洗濯して乾かしてるところだから、これを借りたんだよ」

 谷さんとは突入して以来顔を合わせていなかった。谷さんは、やけにこざっぱりとしている。髪は短く切りそろえ、顔や体も洗ったのだろう、真っ黒だった肌がきれいになっている。異臭もしなくなっていた。ただ、長いひげだけはそのまま残っている。

「昨日、兄貴と弟がそこまで来て、泣きながら呼びかけたんだって?」

 谷さんはニヤニヤしている。寝起きで忘れていたが、谷さんのその一言で昨日の出来事をすべて思い出した。ただでさえ憂鬱なのに、ますます重い気分がのしかかる。

「泣かせるねえ、家族愛ってやつか? ネットでも、兄弟を味方する意見が多いんだって? 犯罪者の兄弟に向かって呼びかけるなんて、けなげで泣かせるって同情票が集まってるらしいよ」

「そうなの?」

 順二は思わず声が裏返ってしまった。そんな話、初耳である。昨日は一博たちが呼びかけてからネットを見る気を失ったので、情報を何も拾っていなかった。

「まさか、お前さん、裏切ったりしないよねえ」

 谷さんが意地悪そうな笑みを浮かべる。

「お前さん、なんだか人がいいって言うか、ボーッとしてる感じだからさ。すぐ人の言うことに流されちゃいそうだよね」

「なんだよ、それ」

 順二はムッとした。

「裏切るって、どういうことだよ」

「だから、こっから出るってことだよ」

「はあ? そんなの、無理に決まってんでしょ。どうやって出んだよ。外には警官や機動隊がウジャウジャいるのに」

「ならいいんだけどさ。昨日、みんなで話し合ってたんだぜ。お前さんが逃げ出さないか、見張ってようってことになってさ」

「えっ、な・何?」

 順二は訊き返した。

「だから、鉄拳5とか夜青龍とか、憂国とか、いつもお前さんがつるんでるメンバーが、話し合ってたんだよ。兄弟の呼びかけでかなりショックを受けてるようだから、一人だけ逃げ出すかもしれないって。まあ、俺は、あの兄ちゃんにゃ、そんな勇気はないべなって言ってやったんだけどね」

 谷さんはカラカラと笑う。順二は絶句した。

 ――そうか、それで。

 昨夜の夜青龍の行動を思い出した。順二がどこに行ったのか、探していたようだった。あれは順二が逃げ出さないか、見張っていたからなのか――。

「まあ、もしビビってるようだったら、喝を入れてやろうかと思ったんだけど。その調子じゃ、大丈夫だあな。それじゃ、後は頼むわ」

 谷さんは大あくびをしながら、エレベーターに乗り込んだ。

 順二は谷さんが話した内容を、何度も頭の中で反芻した。

 ――つまり、俺は信用されてないってことか。

 そう思い至ると、頭がクラクラした。

 ――冗談じゃないよ。人のこと、勝手にヒーロー呼ばわりしておきながら、今は裏切り者扱いかよ。やりたくもないのに、参加してやってるってのに。食料も俺が調達したってこと、忘れてんのかよ? 感謝もしないで、人を疑うなんて、ふざけやがって。

 怒りがメラメラとわいてくる。今、夜青龍の顔を見たら、殴ってしまいそうだった。

 順二の様子を見て、他のメンバーは困惑したように顔を見合わせている。

 夜はまだ明けない。順二は今すぐ外に飛び出していきたい気持ちを、必死で堪えていた。

 ――こんなやつら、仲間でも何でもない。いざというときには、こっちから切り捨ててやる。

 歯ぎしりする思いで、順二はそう強く決意した。



 見張りを終え、順二は仮眠室に戻ったが、怒りで興奮してしばらく寝つけなかった。1時間ほど、うとうととまどろみ、7時過ぎには目が覚めた。

 顔を洗おうと廊下に出ると、昨日鉄拳5に抗議をしていたショートカットの女とバッタリ会った。

「おはよう」

 軽く頭を下げて洗面所に向かおうとすると、

「あのー、こっちを手伝ってもらえませんか」

 と声をかけられた。

「ハイ?」

「地下の食堂で女の子だけで朝食の準備をしてるんです。140人分の食事を用意するのは大変だから、手伝ってほしいって何人かに声をかけたのに、誰も来てくれないんですっ」

 女は話しながらどんどん声が大きくなっていく。起きぬけでキンキンした声を聞かされ、順二は耳をふさぎたくなった。

「食事の準備は女の子がするってことになってたんじゃなかったっけ」

「女の子だけって話にはなってませんよ。手が空いている人は手伝うってことになってましたっ」

「そうだっけ」

 どうやら、逃げるのは難しそうだと順二は観念した。

「俺、8時から見張りだから。それまでだったら、手伝っていいよ」

「じゃ、手伝ってください」

 やけに居丈高な言い方をする女だな、と順二はカチンときた。

 ――南とは大違いだ。こいつ、絶対、男にモテないだろうな。

 エレベーターで食堂に向かう間も、女はずっと不平を漏らしていた。最初は適当に相槌を打っていた順二も、途中でうんざりした。

 ――なんで、俺にばっか文句たれるんだよ。俺は手伝うって言ってんのに。

 食堂に入ると、20人ぐらいの女が黙々と食事の準備をしていた。ふと、夕べ最上階で見かけた女がいるのに気づいた。その女は、気まずそうに視線をそらした。

 ――こんなブスと、あんな場所でエッチしようって気によくなれるよな。俺は絶対その気にはならないけど。あいつ、酒でも飲んでハイになってたのかな。

「お盆とお皿をこういう風に並べてください。そこに盛りつけていきますから」

 ショートカットの女に指示され、順二は黙ってその通りに盆と皿を並べ始めた。

「すみません、見張りで疲れてるのに、手伝ってもらって」

 近くにいた女が、小さい声で話しかけた。

「なんかね、今西さん、ずっとイライラしてるんですよ。自分が男の人たちの話し合いに混ぜてもらえないのが、気に入らないらしくて。怖いですよお、もう」

 その女はおどけたような感じで言うと、頭を下げ、サラダを盛り付け始めた。

 ――なんだ、まともな女の子もいるんだな。

 順二はいくらか心が和らいだ。

 ――こういう子に頼まれたら、いくらでも手伝おうって気になるんだけどね。今西とかいうやつ、最悪だな。



 朝の見張りの後、2階に戻ると、こばけんと廊下ですれちがった。

「どうしたの、女性株をあげちゃって」

 やにわに、こばけんに言われて、順二は「はあ?」と露骨に嫌な顔をしてしまった。

「今日は、朝食の準備を手伝ってあげてたんだって? うちのグループの女の子が、やっぱり正義の怒りさんはいい人だって、やたらとほめてたよ」

 ――もしかして、あの女の子かな。

 食堂で話しかけてくれた女をチラリと思いだした。

「別に、手伝ってくれってキンキンうるさい女がいたから、渋々手伝っただけだよ」

「ああ、あいつでしょ、今西とかいうやつ。あいつ、東大の大学院生らしいよ。東大の女は女として見てもらえないって、集会の時もやたらと愚痴ってた。女の子は夜中は見張らなくていいってことにしてあげてんのに、文句多いよな。まあ、適当に聞き流せばいいよ」

 こばけんは手を振って、見張りに向かった。

 ――なんだか、嫌な言い方だな。女性株をあげるって、何だよそれ。

 そのとき、背中に視線を感じた。振り返ると、こばけんが振り返ってこちらをじっと見ている。順二と目が合うと、慌てて目をそらし、エレベーターホールに向かった。

 ――あいつも、俺を見張ってんだ。

 順二は慄然とした。怒りが込み上げてくる。

 ほかのメンバーと顔を合わせる気にならなかった。だが、自分が遠慮する必要もないだろうと腹をくくり、集会室に入った。

 鉄拳5と夜青龍がチラリと順二のほうを見る。明らかに、何か含みのある視線だった。

「おはよう」

 鉄拳5に声をかけられたが、順二は無視してテレビの前に座りこんだ。鉄拳5はかすかに戸惑ったようだが、それでも話し続けた。

「すごいよ、昨日の夜はみんな帰って人が減ったと思ったけど、それどころか、どんどん増えてるみたい。5万人は集まってきてるって、ニュースで言ってた」

「ふうん」

 順二は視線を合わさず、素っ気ない返事を返した。鉄拳5と夜青龍は、顔を見合わせた。

「朝食は?」

「食べた」

「食堂の冷凍庫には、まだ食材がいっぱいあるんだって。今日の昼は、ご飯を食べられそうだよ。やっぱり、ずっとカップ麺じゃきついからねえ」

「悪かったね、インスタント麺しか盗んでこれなくて」

 順二は低い声で言い放った。鉄拳5が眉をひそめる。

「なに、どうしたの」

「俺が逃げ出すって思ってんだって? 兄貴と弟に呼びかけられたから、裏切って逃げだすって。だから、俺を見張ってんでしょ?」

 二人は言葉に詰まった。

「ったく、冗談じゃないよ。こっちは危ない思いをして、食料を調達したって言うのにさ。どんだけ大変だったか、わかってんの? ったく」

 順二が不満をぶつけると、ややあって鉄拳5が、

「どうやら、お互いに誤解があったようだね。みんなで話し合ったほうがいいかもね」

 となだめるように言った。その言い方が順二の神経を逆なでした。

「勝手に誤解してんのはそっちでしょうが。俺にどうしろって言うんだよ。話すことなんて何もないよっ」

 順二は言い放つと、立ち上がり、二人の顔を見ないまま部屋を出た。仮眠室に入ると、みんな順二の顔を見て話をやめた。どうやら、順二の噂話をしていたらしい。

 順二は無視して、寝床用の段ボールの上に寝転がった。

 ――もう、何もかも、めんどい。

「順二、俺だ、一博だ」

 そのとき、テレビから一博の声が流れた。また一博が正門前に来て、呼びかけているらしい。一博と隣にいる裕三の姿がアップになる。

「昨日はよく眠れたか? 俺は全然眠れなかった。お前は……大丈夫か? 無理してるんじゃないか? なあ、もういいだろ。お前はよくやったよ。お前のことを褒めてる人たちもいっぱいいるよ。体を張って国を変えようとしてるなんて、たいしたもんだって……な。でもな、こんなところにずっと立てこもっていても、何の解決にもならないだろ? ……さ、俺待ってるから」

 一博の眼は真赤だった。眼の下にはクマができ、見るからに憔悴しきっている。声はかすれて、所々聞き取れない。見ているほうが辛くなる。

 まわりにいたメンバーが、順二とテレビとをチラチラ見比べている。その様子が癇に障った。

 順二は思わず、そばにあった鉄パイプをテレビに向かって投げつけた。大音響とともに、画面は粉々に砕け、火花が飛び散る。まわりにいたメンバーは悲鳴をあげて外に飛び出した。

 順二は段ボールの上に寝転がった。

 廊下をバタバタと走る音がし、仮眠室のドアを開ける音がした。

「どうしたの、これ」

 夜青龍が入ってきて、素っ頓狂な声をあげた。

「正義の怒りさんが割ったの?」

 順二は何も答えず、目を閉じた。すべてが面倒臭くなっていた。

 ――もう、誰にどう思われようと、いいや。

「ちょっと、正義の怒りさん。無視してないで」

 夜青龍が順二を揺り起こそうとした。順二は夜青龍の手を振り払い、飛び起きて睨みつけた。

「うるせえな、デブ。向こう行ってろ、暑苦しいから」

 自分でも驚くほど、低いドスの利いた声が出た。夜青龍の顔が引きつる。慌てて立ち上がり、転がるように部屋から出て行った。

 順二は再び寝転がり、目を閉じると、数分後にはいびきをかきだした。



 順二は夢を見ていた。

 夢の中では、自分は小学生だった。両親もいるし、一博と裕三もいる。家族旅行に行く前日、「明日は寝坊するなよ。寝坊したら置いていくからな」と父に言われ、早めに寝たもののなかなか寝付けず、起きたら8時を過ぎていた。飛び起きて下に降りると、誰もいない。なんだよ、俺だけ置いていかれたのか――呆然としていると、父が呼びに来て安心する、という夢だった。

 目を覚ました時、自分は家にいるのかと思った。もうなくなってしまった、木造の家に――天井が違うと気づき、飛び起きた。

 そこは厚労省の一室だった。

「ああ」

 自分の置かれている状況を思い出し、げんなりした。

 久しぶりに家族の夢を見た。幸せだったころの家族の夢。あのころが、人生で一番幸せだったのかもしれない。

 時計を見ると、1時を過ぎていた。どうやら4時間以上眠っていたらしい。見張りの時間になっても、誰も起こさなかったのだろうか。

 棚の上のぽっかりと穴があいたテレビを見て、自分のしたことを思い出した。恐れをなして、誰も近寄らなかったのかもしれない。

 腹が鈍い音をたてて鳴った。

「腹減ったな」

 順二は昼食を食べようと、集会室を覗いた。集会室にいたメンバーは、一斉に順二を見る。

「あー、お昼は」

「みんな食べちゃいました。食堂にまだ残ってると思います」

 近くにいた男が答えた。順二は礼を言い、下に降りた。

 食堂に入ろうとすると、

「だから、私だってみんなのことを考えてやってるのに、なんでそんなこと言われなきゃなんないのよ」

 と、叫ぶような声が聞こえた。

 見ると、女性陣が集まって何やら話し合っているようである。話し合いと言うより、ケンカと言うほうが正しいかもしれない。輪の中心にいる今西という女が、顔を真っ赤にして目を吊り上げている。

 順二は入ろうかどうしようか迷ったが、空腹には勝てない。そっと入り、厨房に向かった。

 女性陣は順二の姿を見て、気まずそうに話をやめた。今西はいたたまれなくなったのか、部屋から飛び出した。

 厨房を物色していると、「お昼まだなんだよね、ちゃんと残しておいたから」と、朝話しかけてくれた女が、声をかけた。

「お昼はカレーだったの。今、温めるから」

 女は鍋を火にかけた。

「ありがと。助かる」

「座ってて。できたら持って行くから」

 数分後に、ホカホカと湯気の立ったカレーライスが順二の前に置かれた。順二は女に礼を言い、かきこむように食べ始めた。

「ごめん、名前まだ、聞いてなかったよね」

 コップに水を注いでくれた女に、順二は尋ねた。

「私、小宮真理っていうの」

「小宮さん」

「真理でいいよ。おかわりまだあるから、言ってね」

 真理は丸い顔で微笑んだ。チラリと八重歯がのぞく。

 ずいぶん親切な人だな、と順二は感心した。

「何かトラブルでもあったの?」

 尋ねると、「ああ、うん、ちょっとね」と真理は含みのある笑みを浮かべた。

「今西さんの態度に、みんな怒っちゃって。あの人、うるさいんだよね。みんなで食事の用意をしている時も、メニューを一人で決めちゃうんだもん。分担も勝手に決めちゃうから、文句を言ったら『今はそんなことでもめてる場合じゃないの。あなたたち、状況が分からないの?』って感じで、人のこと見下すんだよね。ひどいでしょお? 誰も、今西さんにリーダーになってなんて頼んでないのに。だから、女性陣のリーダーをきちんと決めようって話になったんだけど、そしたら今西さんが怒っちゃって。他の人にお願いしようとしたら、その人を攻撃するんだもん。『あなたには、全体を見て判断する俯瞰力がないから無理』とか、難しいこと言って。それで、みんなで今西さんにキレちゃったというか」

「へえ。大変だね」

「今西さんて、東大だから、頭のいいのを鼻にかけてるところがあるんだよね。私も厚労省に入ることはできる、キャリア官僚は東大や京大卒がほとんどだからって。でも今の組織に入っても改革はできないから、外から改革しようって、今はこっちに参加してるんだって、集会の時も散々言ってた。あの人、鉄拳5さんの愛人ってホント?」

 順二は驚いて、水を吹き出してしまった。慌ててそばにあった台拭きでテーブルを拭く。

「そんな話、聞いてないけど。どっから出たの?」

「あの人、鉄拳5さんがつれてきたみたいなんだよね。何かの市民運動で出会ったって。 だから、偉そうにしてるんじゃないかな。集会の時も鉄拳5さんとやけに馴れ馴れしく話してたし」

「言われてみれば」

 思い当たる節がある。だが、今西のようにギスギスした女を愛人にするのは、男として理解できない。

「まあ、どうでもいいけどね」

 順二が投げやりにつぶやくと、真理も「そうね。勝手にしろって感じ」と頷く。

「私、集会の時に正義の怒りさんと話したことがあるんだよ。覚えてる?」

「えーと、いつだろ」

「私が参加したのは、7回目の集会から。私、ずっと公園で飲んでるとは思わなかったから、結構薄着してたんだよね。そしたら、正義の怒りさんが気の毒がってカイロをくれて。酔っ払っちゃったほうがあったまるよってお酒を注いでくれたんだけど、私、お酒飲めない人だからさ。そしたら自販機であったかいお茶を買って来てくれたの。あのときは嬉しかったあ」

「そうだっけ」

 そんなこともあったような気がする。だが、親切心でしたのではなく、議論から抜け出したかっただけだろう。たまにそうやって中座していた。

「正義の怒りさんのグループの女の子、うらやましいなあ。私、夜青龍さんと一緒なんだけど、あの人なんか偉そうな感じで、嫌いなんだ。私が見張ってると、そんな位置にいちゃダメだとか、細かくて。じゃあ、どこにいればいいんですかって聞いたら、自分で考えろとか、訳わかんなくて」

 順二は段々うんざりしてきた。どうやら真理は話し出すと止まらない性格らしい。下手に会話に参加すると話が長引くので、適当に相槌を打って、早々に退散した。

 ――こんなんで、日本を変えられるわけないよな。

 ふと思った。

 主要メンバーは順二の行動を疑っている。順二も、もはや主要メンバーを信用する気になれない。夜中に抜け出してセックスしている連中もいる。たった20名ほどの女性陣でさえ、内輪もめが起きている。そもそも、集会のときから憂国と谷さんが衝突していたように、完全に一枚岩にはなっていなかった。

 ――日本が変わる前に、内部崩壊するほうが早いかもしれないな。

 順二は他人事のように思った。



 集会室に入ると、また一斉に視線が集まる。順二は気にせず、自分のグループのメンバーを見つけて「ごめん、次の見張り、何時だっけ」と尋ねた。

「4時です」

「そうか。ごめん、ずっと眠ってて。起こしてくれればよかったのに」

「起こそうと思ったんですけど、気持ちよさそうに眠ってたんで」

「申し訳ない」

 順二は素直に謝った。

「定岡順二容疑者は、こちら、都内の食品会社に勤めていたそうです」

 アナウンサーの声に、順二はハッとテレビを見た。順二の会社の建物が映し出されている。門の前には、報道陣が群がっていた。

 ――俺の会社、バレたんだ。

 画面が切り替わると、社長や専務、部長らが横一列に並んで座っている。どうやら、会社の会議室で撮影しているらしい。

「このたびは、弊社の社員が皆様に多大なるご迷惑をかけてしまい、申し訳ありませんでした」

 社長のその一言で全員が立ち上がり、カメラに向かって頭を下げた。一斉にカメラのフラッシュが光る。

「定岡順二容疑者は、会社ではどんな人物だったんですか」

 報道陣から質問が投げかけられる。

「定岡君は、入社したときから、ひじょうに勤務態度はまじめでした。遅刻や無断欠勤もなく、仕事ぶりもまじめで、力仕事を進んで引き受けるような積極性もありました。ですので、私たちは今回のこの事件を、本当に信じられない思いで見ています。本当に、あの定岡君なのかと」

 社長が顔を紅潮させながら話す。

「最近、どこか変わった様子はなかったんですか」

「それについては、直属の上司から話を聞くと、確かに仕事のミスが多かったのが気になっていたという報告を受けました。ただ、定岡君は、ご両親と祖母を今年の春に一度に亡くされています。それも心中というショッキングな形でしたので、そのショックを引きずっているんではないか、そう判断していた次第です」

 画面の端に移っている部長は、下を向いて肩を震わせている。どうやら泣いているらしい。その姿が画面に大写しになった。

 順二は衝撃を受けた。最後の日、部長は順二を心配して声をかけてくれた。栄養ドリンクもくれた。その気持ちを裏切ったのである。部長は相当ショックを受けただろう。

「正義の怒りさん」

 画面に釘付けになっている順二に、夜青龍がふてくされたような顔つきで、話しかけた。

「スマフォを出してくれるかな」

 順二は何も答えなかった。それどころではないのである。

 すると、夜青龍がテレビを遮るように順二の前に立った。

「スマフォを出して」

 ぶっきらぼうに言い、手を差し出す。順二は状況が呑み込めなかった。

「……なんで、スマフォを出さなきゃいけないんだよ」

 ようやく疑問を口にすると、「外と何か連絡とってるかもしれないから。履歴をチェックさせて」と夜青龍は答えた。

「はあ? どういうことだよ、それ」

「昨日、最上階に行って夜景を見てたって言ったでしょ」

「ああ」

「そんとき、俺が東京タワーは見えたかって聞いたら、見えたって言ったじゃん」

「そうだっけ」

 そんな細かい会話まで覚えていない。

「あの時間帯に、東京タワーが見えるわけないんだよね。真夜中はライトアップしてないんだから」

「だから?」

 順二は思いっきり眉間にしわを寄せた。

「本当は上に行ってないんじゃないの? なんか、怪しいんだよね、行動が」

 順二は呆れて、思わず笑ってしまった。

「それぐらいで、人の行動を怪しむのかよ。バッカじゃないの?」

「怪しいことしてないんなら、スマフォを出してよ」

「あのねえ、俺は外と連絡なんてとってないって。それに、夕べは最上階に行ったんだよ。だけど、あそこにいるやつが、女とエッチしてる最中だったんだよっ。だから夜景を見るどころじゃなかったんだってば」

 順二は、部屋の片隅で固唾をのんで成り行きを見守っていた男を指差した。男は慌てて顔をそらした。

「みんなが見張ってる間にエッチしてるやつらは、許されんのかよ?」

「それならそうと……言えばいいじゃないか」

 夜青龍が声のトーンを落とした。

「言わないでくれって頼まれたから、言わなかっただけだよっ」

 順二が吐き捨てると、夜青龍は黙り込んでしまった。鉄拳5を睨むと、気まずそうに目をそらす。

「まあ、そういうことなら、スマフォを見せてもらわなくてもいいんじゃないかな」

 ホームレス中年がなだめるような口調で言った。

「無理して見なくても、ねえ」

 だが、夜青龍は「そういうわけにはいかないよ」と頭を振った。

「怪しいことしてないんなら、履歴をチェックしてもかまわないでしょ。何もしてないんなら、それで誤解が解けるわけだし」

「お前、何様のつもりだよ? リーダーでもないくせに、何いばってんだよ。俺に頼むのなら、まずお前のを出せよ」

 順二が怒鳴ると、夜青龍はフフンと鼻先で笑った。

「それを決めるのは、あなたじゃないでしょ」

 順二の中で、何かが音をたてて切れた。

 順二は夜青龍の太った腹を、蹴りあげていた。夜青龍が悲鳴とともに倒れる。さらに、壁に立てかけてあった鉄パイプをつかみ、夜青龍に振り下ろした。鈍い音がする。夜青龍は「やめてっ、やめっ」と悲鳴をあげ、両手で自分の頭をかばう。順二は自分の衝動を止められなかった。続けざまに、鉄パイプを振り下ろす。

 鉄拳5らが、数人がかりで順二を取り押さえた。夜青龍は呻きながら体を丸めている。腕から血が噴き出ていた。

「きゅ・救急車っ」

 誰かが叫んだ。

「どうやって救急車を呼ぶんだよ? バリケードを壊して、こいつを運び出すのかよ? そんなことしたら、機動隊が殺到して全員逮捕だろ」

 順二が言い放つと、その場は水を打ったように静まり返った。

「こんなデブ、その辺に転がしておきゃいいんだよ。なんなら、バリケードに置いとくか?それなら、役に立つかもな」

「正義の怒りさん、落ち着いてよ、仲間割れしてる場合じゃないんだからっ」

 鉄拳5が甲高い声を上げる。ホームレス中年は、真っ蒼な顔をして震えている。順二は腕を振りほどいた。

「だったら、こんなことすんなよっ。勝手に人を疑っておいて。俺のこと、これっぽっちも信用してないじゃないか」

「いや、だから、それはお互いに誤解が生じて。話し合えば分かるから」

「何を話し合うんだよ? 俺のスマフォを出せって、一方的に決めて要求するんじゃ、話し合いにならないだろうが」

「まあ、確かに、夜青龍さんのやり方には問題があったけど」

「やり方どうこうのっていう問題じゃないよ。俺の知らないところで、コソコソと決めてるのが問題なんだよっ」

「わかった。つまり、正義の怒りさんは、自分の知らないところで僕らが話し合ってることが気に入らないんだね?」

 鉄拳5のその言葉に、順二はイラッと来た。

 言い返そうとしたとき、廊下で叫び声があがった。

「誰かっ、誰かっ、来てえっ」

 女が叫びながら駆けて来る。

「何、どうしたの」 

 鉄拳5が廊下に顔を出すと、女はひきつった顔で叫んだ。

「今西さんがっ……今西さんが、首を吊ってるの、トイレで!」



 今西はトイレのドアの枠にベルトをかけ、首を吊っていた。数人がかりで下ろすと、既に息をしていなかった。

「みちるっ、みちるっ、しっかりしろ!」

 鉄拳5が半狂乱になりながら、今西に人工呼吸をしている。

「救急車を呼んでくれ!」

 鉄拳5の言葉に、みんなは顔を見合わせた。

「早く、救急車を!」

「だって、そんなことしたら、俺ら逮捕されるじゃないか」

 メンバーの一人が反論した。

「その女、勝手に首吊ったんだろ。いいじゃないか、助ける必要なんかねえよ」

「何だとっ」 

 鉄拳5はその男に飛びかかった。まわりのメンバーが、もみ合う2人を引き離す。

「どうしよう、心臓が止まってるよ、今西さん」

 そばにいた女が今西の胸に耳を当てている。鉄拳5はその女を突き飛ばし、再び人工呼吸をはじめた。

「なんだよ、愛人の管理ぐらい、きちんとしとけよ」

 つかみかかられた男は言い捨てて、仮眠室に向かった。

 順二もその場を離れた。これ以上、そこにいてもムダだと思ったのである。



 神戸は、最初その人物が森山幸輔だとは気付かなかった。

 声をかけられても本人だと思わずに、思わず眉をしかめて警戒心を顕わにしてしまったのである。

 一カ月ぶりに見る幸輔は、すっかり変わってしまっていた。頬はやせこけ、顔には一気に皺が増えた。体は全体的に一回り小さくなってしまったようである。ギラギラした眼の輝きは消え、穏やかな光を湛えている。そして、頭を丸坊主にしているのである。坊主頭にスーツ姿といういでたちの幸輔は、あきらかに浮いていた。 

「ずいぶん、変わっちまっただろ」

 幸輔は頭をなでまわした。

「出家したんだ。文字通り、頭を丸めてね」

 神戸は困惑し、何も答えられなかった。

「時間、大丈夫か? お茶でも飲もうか」

 幸輔に促され、神戸は頷いた。二人は新橋のホテルで待ち合わせていた。そのままロビーにある喫茶室に入る。

「悪いな、急に呼び出したりして」

「いえ、そんな」

「それにしても、すごいな。青梅の人間が呼び出されるほどの厳戒態勢なんて」

「ええ。今、霞が関周辺には1万人の警官が配置されてますから。交差点ごとに警官が立ってて、うっとうしいぐらいですよ。朝から、何台のトラックを検閲したことか。トラックの運ちゃんも、交差点ごとに止められて、えらい迷惑だってキレるし。検閲を一度通ったら、分かるようにどこかに印でもつけてくれって言われたけど、一々車体に印をつけるわけにもいかないし、印をつけたら悪用されそうだし」

 うんざりした表情で神戸は愚痴る。

「立てこもってるのは140人ぐらいなんだろ? しかも素人の」

「ええ。素人でも、バカではないでしょう。あさま山荘のときのように、厚労省の建物を鉄球でぶち壊すわけにはいきませんからね。あんなにバリケードを築かれたら、狙撃もできないし。突入しても、バリケードを壊すまでに時間がかかるから、その間にまた爆弾でも使われたらやっかいですよ」

「決め手がなくて攻めあぐねているというわけか」

「ええ。上の人たちは右往左往してるんでしょうね。僕らは指示通り、検閲をしてるだけですけど」

 神戸はコーヒーを飲んだ。幸輔もゆっくりと紅茶をすする。

「あの、出家って、どこで」

「ああ、滋賀にある禅寺でね。学生時代、友達と一週間ほどこもってたことがあるんだよ。悩める若者だった時期にさ。あのころは幸せだったよな。貧乏だったけど、真剣に自分の将来に悩んで、日本の行く末について考えたもんだよ。あのころのほうが、思想的には自由だったよな」

「あの、奥様の件は、ご存じなんですよね」

 おずおずと神戸は尋ねる。

「ああ。知ってる」

 幸輔は短く答えた。

「僕は通夜と葬式の両方に出たんですけど、息子さんが『親父と連絡が取れない』って、相当取り乱していて。娘さんもアメリカから戻ってらして、分かったことがあれば、何でも知らせてほしいって言われました」

「ああ、迷惑かけてすまんな」

「いえ、あんなことがあったら、家を出るのは当然ですよね。奥様も、さぞ後悔されたんじゃないかと思います。遺書はなかったようですけど」

「そうか」

 どうやら、神戸は幸輔が正子の売春行為に怒って家を出て、その後正子が後悔に苛まれて首を吊ったと思っているらしい。

 ――まあ、確かにそうだな。女房が首を吊ってるのに、それを見捨てて家を出たとは、誰も思わんよな。

「直行はどうなんだろ。何か聞いてないか?」

「そうですね……やはりショックで、一週間ぐらい欠勤したって聞いてます」

「そうか」

「息子さんは警部の捜索願を出してるんです。きっと、心配してると思います」

「そうかな」

「そうですよ」

 幸輔はティーカップを置き、鞄から茶封筒を取り出した。

「実は、その直行のことで相談がある。今から俺が話すことは、すべて本当の話なんだ」

 幸輔は、神戸に洗いざらいを話した。直行がネンキンブログに関わっていたこと。奥多摩のコロシは直行がホシであること。長野の老婆と孫のコロシも直行がやったこと。ほかにもどうやら何人か殺してるらしいこと。

「証拠は、すべてこのUSBの中に入ってる。今までの経緯を、文書にもしてある。これを署長に渡してもらえないか。今は立てこもりのほうでバタバタしてるだろうから、それが終わってからでもいい」

 神戸は震える手で茶封筒を受け取った。

「すまんな、こんな厄介なことを頼んじまって。でも、署長がこれを公開するかどうかは分からんな。不祥事がバレるのが怖くて、握りつぶすかもしれない。何しろ、クジョレンジャーの一味なんだからな」

 幸輔は最後のほうは独り言のように呟いた。

「俺の今いる場所も、そこに書いてある。俺が直行のコロシを知っていたのに黙っていて罪に問われるのなら、それはそれで構わない。覚悟はできている」

「あの、警部から直接署長に話したほうがいいんじゃないですか」

「いや、俺はまだ、やり残したことがあるんだ」

「やり残したこと?」

 その問いには、幸輔は答えなかった。神戸はコーヒーを飲もうとしたが、手が震えてコーヒーカップを口元まで持っていけなかった。

「俺の息子が、お前だったらな。いや、直行が悪いんじゃねえな。俺の子育ての仕方が悪かったんだ。子育てだけじゃなく、正子も追い詰めてしまった。家庭人として失格なんだ、俺は」

 幸輔はふいに優しい笑みを浮かべた。

「お前は、こんな風になるなよ。ずっと警官を続けるにしても、組織には染まるな。出世とか権力に縛られて、大切なものを見失うなよ」

「これから、どうするんですか」

「今晩、家に帰る。その後は寺に戻って修行を続けるさ」

 幸輔は立ち上がり、伝票をつかむ。

「まあ、もし俗世からつかの間でも離れたくなったら、うちの寺に遊びに来いよ。山奥だから、今はとんでもなく寒いけどな。大自然の厳しさと向き合ってたら、俗世の煩わしいことなんて、どうでもよくなってくるよ。なにもかもちっぽけに感じるんだな。自分の存在すらもさ」

 幸輔は最後に軽く手を挙げ、踵を返すと一度も振り返らずに喫茶室から出て行った。神戸はその後姿を見送りながら、茶封筒を握り締めていた。



「やっぱり、東京はあったかいな」

 ホテルを出た後、幸輔は呟いた。みな寒そうに身を縮めて歩いているが、山奥の凍るような寒さに比べれば、ここは天国である。

 新橋駅に向かうと、駅前のロータリーに選挙カーが止まって誰かが演説していた。

「確かに、官僚が牛耳っている今の世の中は、変えなければなりません。でも、テロ行為は許されるものではありません。変えるのは社会のシステムであり、政治であり、行政です。それらは暴力で無理やり変えるのではなく、国会という場で変えていくものなのです」

 女の演説に、あちこちで「そうだっ」と声が上がる。

 選挙カーの上で演説している女は見覚えがあった。

 ――ああ、あの子じゃないか。奥多摩の老人ホームに勤めていた子。桂木京子とかいったな。政治家になったんだっけ。

 幸輔は立ち止り、しばらく演説を聴いていた。

「彼らは、なぜ厚労省に立てこもったのでしょうか。最下層の革命だという評論家の方もいます。でも、普通の学生や会社員もかなり参加しているようです。どの層にも共通しているのは、閉塞感ではないか。そう私は思います。先が見えずに、希望を抱けない国――こんな国にしたのは、間違いなく戦後50年以上も政権を牛耳って来た自由連合の責任です。大企業や政治家や官僚ばかりを優遇して、庶民を切り捨てた政治家の責任なんです。そんな世の中を変えたくて、一度は下野させたんじゃないでしょうか? 今はまた、以前の日本に、いいえ、今までよりももっと暗黒の時代になっています。金持ちばかりが優遇され、生活が苦しい人が切り捨てられる。子供達の貧困も、増えてるんですよ? 皆さん、もしも今の世の中に不満があるのなら、私達に直接伝えてください。皆さんの声を聞くために、私達はいるんです。暴力に訴えなくても、世の中は変えられます。暴力は何も解決しないんです。今の世の中に必要なのは、対話なんです。立てこもっている人たちも、それに気付いてほしかったと私は思います。今、大変な騒ぎになっていますが、皆さんは良識に従って行動してください。どんな理由であれ、暴力は許されるべきではないと、皆さんに再認識していただきたくて、私は今こうして皆さんの前でお話ししています。そして、世の中をいい方向に変えていきましょう。そのためにも、皆さんの力を私たちに貸してください。皆さんの声を聞かせてください。望みの党は、皆さんの望みをつなぎたいと思います」

 京子は一息ついたあと、ぺこりと頭を下げた。

 ――あのときは、おとなしそうな子だったのに。たいしたもんだな。

 幸輔は大きく拍手をした。まわりでもパラパラと拍手する者がいた。京子は「ありがとうございました」と頭を下げて選挙カーの階段を降りる。

「よかったですよ、迫力がありました」

 車の中に入ると、舟崎が京子をねぎらった。有紀が温かいコーヒーを水筒から注いでくれた。寒さでかじかんだ手でカップを受け取り、ゆっくりと飲み干す。

「でも、私がこんなところで演説してて、いいんですかね」

 京子が尋ねると、「次の選挙に向けての布石ですよ。今、自由連合の支持率が落ちてるから、これで世論の不満が集中するかもしれない。そうしたら、また解散総選挙になるかもしれませんよ」と舟崎は説明した。

「えー、選挙したばっかりなのに」

「そうなんですけどね。風がどう吹くか分からないし。うちの党も、今度は政権を取りに行きますから。そのための戦略を今から練っておかないといけないんです」

「はあ」

 選挙、選挙。どうして政治家はこんなに選挙ばかり気にしているのだろうと、京子は政治家になって改めて思った。目の前にやるべき課題はたくさんあるのに、それには手をつけようとしない。次の選挙に向けて地元の活動をしなければならないのだと、舟崎や有紀から何度も言われている。だから、土日は地元であちこちの集会に顔を出している。

 三郎やみつの住む場所も、結局決まっていない。

 クジョレンジャーが逮捕され、高齢者を狙った事件は減ったといっても、まだ安心できない。武道館をいつまでも宿泊所として使うわけにはいかないので、今は都内の体育館を転々としている。その生活に耐えきれず、何人もの高齢者が亡くなった。

 当選後、京子が2人に会いに行ったとき、2人ともまともに話せないぐらい憔悴しきっていた。

 みつは涙を流しながら、「あのとき、死んでいればよかった」と嘆いていた。

「やっぱり、とよさんの選択は正しかったんだな」と、京子は思わずつぶやいたのだ。

 何も解決していない。それなのに、何もできない。

 政治家って、大した力がないのだと、京子は思い知らされる日々が続いていた。

「それじゃ、次は渋谷に行って」

 舟崎に指示され、スタッフが車を出す。

 日比谷公園に向かう人の波は途切れない。

 ――私の言葉なんかじゃ、何も変わらないんだろうな。

 京子は窓から陰鬱な空を見上げた。



 雄太は、ジャージ姿で部屋の隅にうずくまってテレビを見つめていた。

 ――俺、この人と電話で話したことがある。

 画面には京子が演説している様子が映し出されている。

 ――この人、奥多摩の老人ホームの職員だったんだよな。美人だからって話題になって、政治家になった人。俺のお陰で成功したようなもんだよな。

「俺も、どこかで役に立ってるってことか」

 声に出して言ってみる。だが、気分は少しも晴れなかった。

 ――死刑。

 その二文字が心に重くのしかかる。

 道子が仕事に行っている間、何もすることがないので、ネットで死刑について調べてみた。

 死刑囚の牢獄での生活、死刑が実行されるときの様子。死刑場の画像を見た時は、「俺もここで縛り首にあって死ぬかもしれないんだ」と背筋に冷たいものが走った。

 首にはどんなロープが巻かれるのか、絞まってからどれぐらい苦しむのか、首を絞められるとき何を思うのか。リアルに感じるほど、悶絶するほどの恐れが体を駆け抜ける。

 つかまるのが怖い。

 つかまったら、自分の人生はそこで終わりになる。

 調べれば調べるほど、よりそんな思いが強くなる。

 身勝手なのは分かっている。

 火事で焼かれた老人も、生きたまま肌を焼かれ、地獄のような苦しみを味わっただろう。それに比べれば、絞首刑の苦しみは一瞬で終わるかもしれない。

 ――でも、俺はまだ29なんだ。29年しか生きてないんだ。こうなりゃ、もしつかまったら、おかしいふりをするしかないな。ネカフェ生活のストレスが募って、犯行時は正常な判断ができる状態じゃなかったって話を持っていくか? 何かうまい言い訳を考えて、せめて死刑だけは免れるようにしないと。

 雄太はせわしなく右足で床を叩き続けた。

 


 夕方の4時になり、順二は見張りをするために地下に降りた。

「どういうことなんだよっ」

 食堂から、鉄拳5の怒鳴り声が聞こえる。

「お前ら、みちるに何を言ったんだよ!?」

 今西は結局助からなかった。遺体は撮影室に運んで寝かせてあると聞いた。鉄拳5は、しばらく遺体から離れず号泣していたという。

 女の泣き声が途切れ途切れに聞こえる。

「なんか、すっげえ責め方したらしいよ、女ども」

 順二のグループのメンバーたちが、小声で話している。

「奥さんは妊娠してるのに、こんなところにくっついてくるなんて、人格を疑うとか。愛人をやるような人は性格がゆがんでるとか、そんな人の言うことを聞きたくないとか」

「愛人やってることと、料理の当番なんて、何の関係もないのになあ」

「まあ、あの人、高慢チキチキなタイプだったからさ。反感かうだろうなとは思ったけど」

「でもさ、ここに来てから、やけにイライラしてなかった? あの人」

「なんかさ、鉄拳5さんと一緒の部屋に寝泊まりしたいと思ってたらしいよ。2人きりで。でも、さすがにみんなの前でそれはまずいだろうって、鉄拳5さんは別々のグループにしちゃったんだよね。それが気に入らなくて、ずっとふてくされてたらしい」

「なんだよ、愛人旅行じゃないんだから。何しにここに来てんだよ」

 順二は話を聞きながら、

 ――もう、ホント、どうでもいい。

 と思った。

 今、ここに立てこもっている人の中で、本気で日本を変えたいと思っている人はどれぐらいいるのだろう。順二が流されて参加したように、「なんとなく面白そう」というノリで参加した人も多いはずだ。しょせん、襲撃はイベントの延長のようなものなのである。

 順二達は気付かなかったが、そのとき机や椅子の山を縫うように、細い管が音もなく忍び寄っていた。

「んっ、何か臭わないか」

 バリケードの近くにいた男が、鼻をひくひくさせた。その数秒後、白い煙が勢いよく机の山からなだれ込んできた。

「うわっ、なんだ、こりゃ!?」

 悲鳴をあげて、付近にいたメンバーは後ずさる。煙に巻かれた途端に激しく咳きこみ、鉄パイプを放り出し、叫び声をあげながら崩れ落ちる。離れた場所にいた順二も、すぐに目を開けていられないほどの痛みに襲われ、咳きこんだ。 

 たちまち、地下には白い煙が充満した。

「催涙ガスだ、逃げろっ」

 誰かが叫ぶ。順二は目をまともに開けられず、這うようにエレベーターに乗り込んだ。次々と、メンバーが乗り込んでくる。

「ドアを閉めろっ、早くっ」

 ドアが閉まり、エレベーターが動きだす。みな激しく咳をし、涙を流してのた打ち回っている。あまりの痛さに、立つこともできない。

 2階につき、エレベーターホールにどっと這い出ると、近くにいたメンバーが驚いた様子で駆け寄る。

「どうした?」

「さ・催涙ガスをまかれたらしい」

 順二たちはうめきながら床に転がった。吐いている者もいる。

「目を、目を洗いたい」

「顔がいてえ」

 泣き叫ぶ順二たちを見て、駆けつけたメンバーが洗面所に走った。バケツや洗面器に水を汲んでくると、順二たちは我先に顔を洗う。その間にも、地下と1階で見張りをしていたメンバーが、よれよれになって到着した。食堂に集まっていた鉄拳5や女性陣も、力尽きたようにエレベーターホールに倒れこむ。

 30分後、ようやく事態が落ち着いたころ、鉄拳5が「見張りは?」と尋ねた。

「もしかして、地下と一階の見張り、いなくなっちゃったのか」

「こんなんで、見張ってられるわけ、ないじゃんよ」

 メンバーの一人が言う。

「まずいな。バリケード壊されたかも」

「じゃあ、お前が見て来いよ」

「僕が?」

 鉄拳5はムッとした表情をした。

「僕は今の時間、見張りじゃないから」

「だってあんた、リーダーだろ? リーダーが率先して見に行くのは当然じゃないか」

「別にリーダーじゃないよ。勝手にみんながそう思ってるだけで。リーダーになるなんて、一言も言ってないだろ」

「今さら責任転嫁かよ」

「それよか、今の時間の見張りは、戻って現場がどうなったか見て来いって。見張りが全員逃げて来たら、意味ないじゃないか」

 鉄拳5が声を張り上げたとき、

「おい、みんな戻ってるか?」

 ふと、こばけんが尋ねた。

「なんか、人数少なくないか」

 見張っていたメンバーは、互いに顔を見合わせて確認する。

「そういえば」

「点呼とれ、点呼」

 順二がいたグループは2人、1階にいたグループは3人足りないことが分かった。

「鉄拳5さん、ひどいよ。真っ先に逃げちゃうんだから」

 女性陣が鉄拳5をなじる。

「かなちゃんがいないよ。ともちゃんも」

「高性能のマスクとゴーグルをつけとくべきだったな」

 鉄拳5がため息をつく。

「じゃあ、次のグループ、マスクとゴーグルつけて、下を見に行って」

「だから、お前が行けって!」

 メンバーの一人が苛立ったように怒号を浴びせた。

「命令ばっかしてないで、お前が行けよ。大体、女性陣をみんな食堂に集めて問い詰めるなんて、何考えてんだよ、こんなときに」

 鉄拳5は何か反論しようとしたが、ぐっと堪えたようだ。

「……わかった。じゃあ、僕と谷さんと憂国さんで見に行くから」

「俺、行かないよ」

 谷さんがすかさず反対した。

「そんな危険なところに、行けるわけないっしょ」

 その場にいたメンバーは皆、驚いて谷さんを見た。

「えっ……だって、この中で唯一、谷さんは学生運動の経験者でしょ。こういうときの対処法も知ってるでしょ」

 鉄拳5の言葉に、谷さんは首を振った。

「知らないね。催涙ガスなんて、浴びたことないから」

「でも、最前線で戦ってたって」

「頭の中ではね。思想的には、最前線で戦ってたって意味」

「どういうこと?」

「俺はノンポリだったんだよ。学生運動には参加しないで、家で本を読みふけってたんだよ。真の世界平和を目指すなら、武力を使わない抗議活動が必要なんじゃないかってスタンスでさ」

「は? 言ってることが見えないんだけど」

「だからあ、俺は学生運動には参加してないんだってば」

「でも、でも、バリケードの築き方は詳しかったよね」

 順二が口を挿むと、

「ああ、そりゃ、学校に行ったら、あちこちにバリケードがあったからさ。見て覚えてたんだよ」

 と、谷さんは涼しい顔をして答えた。

「まあ、とにかく、俺は高齢者だしさ。君たち若者で、何とか処理できるでしょ。元気なんだから」

「じゃあ、なんで今回の襲撃に参加したの?」

 鉄拳5が問いただすと、

「だって、つかまったら刑務所でしばらく暮らせるじゃん。窃盗ぐらいじゃ、すぐに出てこれちゃうからね。年をとるとさ、やっぱり冬の野宿はキツイんだよ。凍死しそうでさ」

 と、悪びれずに言う。

「じゃあ、もしかして、ほかのホームレスの人も、それが目当てで参加してんの?」

 こばけんの問いに、「まあね」と谷さんとホームレス仲間は素直に頷いた。その場にいたメンバーは、みな呆れてものも言えなかった。鉄拳5は脱力して座り込んでしまい、ホームレス中年は口を開けてポカンとしている。

「しょうがないな。憂国さんは?」

「寝てる」

「こんなときに、よく寝てられるよな」

 鉄拳5は仮眠室に早足で向かった。



「来た来た来た来たあっ」

 憂国は話を聞いたとき、驚くどころか、興奮して立ち上がった。

「よっしゃああ、そうこなくっちゃ! あいつら、ずっと黙って見てるだけなら、どうしようかと思ってたよ。こっちは戦闘モードに入ってんだからさあっ」

 憂国は顔を真っ赤にして雄たけびを上げた。

「よーし、気合入った! マスクとゴーグル、どこ? 俺らで見てくっから」

「ありがとう。助かるよ」

 鉄拳5はホッとした表情で頭を下げた。

「俺らには、最終兵器があるから、ノープロブレムっすよ」

 鉄拳5と仲間たちは、マスクとゴーグルをつけ、鉄パイプを持ち、意気揚々と階下に向かった。

「ねえ、何か外で起きてるみたい」

 集会室でテレビを見ていた女が、廊下にたむろしているメンバーを手招きする。テレビの前に集まると、画面には機動隊ともみくちゃになっている市民の姿が映っている。

「危ないから、下がってください」

「私の息子が、中にいるんですっ」

「俺の子を傷つけるなっ。ケガさせたら、訴えるぞっ」

 機動隊ともみあっているのは、中年の男女達である。

「あっ、かあちゃん!」

 メンバーの一人が驚いて画面を指差した。

「これ、俺のかあちゃんだよ。なんで、こんなとこにいるんだよ」

「あっ、これ、親父だっ」

 別のメンバーも驚きの声を上げる。

「えー、こちら、厚労省につながる地下鉄の通路です。今、機動隊と、厚労省に立てこもっている犯人たちの親との間で、もみあいが起きています。機動隊が攻撃を開始したという情報が入り、親が殺到し……うわっ、危ない!」

 機動隊に押されてバランスを崩したのか、将棋倒しのように数十人が次々となぎ倒される。怒号や悲鳴が飛び交い、凄惨な光景になっていた。アナウンサーとカメラマンは巻き込まれないよう、慌てて逃げている。

「こりゃ、機動隊も突入どころじゃないな」

 鉄拳5は安堵したような声音で呟いた。

 ややあって、救急車が厚労省のまわりに何台も到着した。将棋倒しで巻き添えになった人たちが運ばれるのだろう。

「どうしよ、かーちゃん、大丈夫かな」

「お父さんも巻き込まれてるかも」

 メンバーは不安そうにテレビに釘づけになっている。慌てて親に電話をかけているメンバーもいた。

 ――まさか、兄ちゃんと裕三はいないよな。

 順二も不安になった。だが、電話をかけられなかった。今2人の声を聞いたら、迷わずここから逃げ出してしまうだろう。裏切り者と誤解されて激怒した手前、逃げ出すわけにはいかない、と順二はぐっと堪えた。



 三日目の夜になった。

 催涙ガスの騒動で食堂を使えず、みな黙々とカップ麺をすすった。

 夜青竜は太った体がクッションになったのか、順二の力が弱いのか、骨は折れていなかったようである。傷口にタオルを巻き、順二と会わないように、作業用のパソコンは別の部屋に運んでしまった。

 夕食後、鉄拳5が「みんな、集まってくれるかな」と声をかけた。みな、面倒臭そうにバラバラと集会室に集まる。重苦しい空気を振り払うように、鉄拳5は穏やかな口調で話し出した。

「今日は不測の事態が色々と起きて、みんなも動揺が続いたと思う。辛いとは思うけど、全国から応援する人が集まってきてるし、世論も僕らに味方してるから、ここが正念場なんだと思ってほしい。政府も解決策がなくて焦ってるだろうし、明日には交渉をスタートさせようと思う」

「交渉って、どうやってやんのさ」

 坊主頭の男が、刺々しい声音で尋ねた。

「総理大臣と直接話す」

「総理と? そんなことできるの?」 

「総理は無理だとしても、官房長官とか、警視庁の長官とか。とにかく、会って交渉してるところをテレビで中継してもらえば、国民にも僕らが本気で国を変えようとしているのが分かるから」

「一人で行くわけ?」

「いや、僕と憂国さんとで行こうと思う」

「そのまま投降するとか? あんたが俺らを売ったりしないという保証は、どこにあんだよ」

「売るって、そんなことするわけないでしょ」

「そんなのわかんねえよ。信用できるかよ」

 鉄拳5は深いため息をついた。

「わかった。交渉は電話でするから。それなら構わないでしょ?」

「ならいいけど」

「みんな、言いたいことがあったら、遠慮なく言ってもらえるかな。これから一緒に戦っていくには、みんなの足並みをそろえておかないと。バラバラだったら、やつらにつけこまれる」

「もうとっくにバラバラじゃん」

 長い黒髪を一つに結んだ女が、ぶっきらぼうに切り捨てる。

「だったら、なおさらでしょ。足並みをそろえるために、みんなで思っていることを話し合おう」

 鉄拳5が訴えかけると、その女はため息交じりに、「だったら、お風呂に入りたい。髪の毛ベタベタなんだもん」と言った。

「それぐらい、我慢しろよな。部活の合宿してんじゃないから」

 憂国がたしなめると、女は「思ってることを言えって言うから、言ったんじゃないの」とプッと膨れた。

「それなら、まず鉄拳5さん、今西さんのこと、みんなに説明してもらえるかな」

 眼鏡をかけたキツネ目の男が手を挙げた。

「愛人だったって本当? こんなとこにつれてきて、公私混同してんじゃないの?」

 鉄拳5は言葉に詰まった。

「遺体、どうすんだよ。ずっとあのままにしておくのかよ」

「いやあ、気持ち悪い」

「あそこのトイレ、もう使えないよ」

「親を呼んだら? 遺体を引き取りに来てもらったほうがいいよ」

 みな口々に意見を言い始めた。順二は壁にもたれかかり、その光景を眺めていた。

 ――バカバカしい。

 順二は心の底からうんざりしていた。

 ――俺、なんでこんなやつらと行動を共にしてんだろ。会社のものまで盗んで。バカだよなあ。

「正義の怒りさんは、どうかな」

 突然、鉄拳5が順二に話をふった。

「どうって……何もないけど」

「でも、夜青龍さんをケガさせてしまったわけだし。かなり荒れていたよね」

「それは、あんたらが俺を裏切り者だと勝手に思ってたからじゃないか」

「確かに、勝手に思い込んでいた僕らにも問題はあるけど。そう思わせる行動を君もとっていたわけで」

「そう思わせる行動って?」

「昨日の夜は、突然いなくなっちゃったし」

「だから、それは夜景を見に行ってたからだって」

「それならそれで、誰かに言わないと、急にいなくなると心配するでしょ?」

「そんなこと言うなら、鉄拳5さんだって、昨日の夜、今西さんと二人きりでトイレにこもってたじゃないの。何してたの?」

 真理がなじるように言う。鉄拳5は顔色を変えた。

「誰も見てないと思ってたの? 30分ぐらい、二人で出てこなかったよね。その後、コソコソと出て来てさ」

「なんだか、学校のホームルームみてえだな」

 部屋の隅で聞いていた憂国が、呆れたように床に足を投げ出した。

「どいつもこいつも。ロクなもんじゃねえな」

「そうやって、上から目線はやめろよ。そういう言い方、イライラすんだよ。偉そうにさ。ただの自衛隊マニアのくせに」

 順二の近くに座っていた男が、声を荒げる。

「なにおっ」

 憂国が立ち上がる。鉄拳5が慌てて間に入った。

 順二はバリケードの隙間から、外の様子を見た。相変わらず何百人もの機動隊や報道関係者が建物を取り巻いている。煌々と明かりがつき、まるで祭りの夜のようである。

 地下鉄の将棋倒しで3人が意識不明の重体になり、11人が重症、23人が軽傷という大惨事になった。機動隊も今はうかつに行動をおこせず、遠巻きに見ているだけのようである。

 ――とっとと終わらせてくれればいいのに。早く突入してくれないかなあ。

 順二は呆けたように外でうごめく人々を眺めていた。



 直行は、その日もファミレスで夕飯を済ませた。

 正子が亡くなり、幸輔が失踪してから、一人で家事をしなければならなくなった。あっという間に台所は汚れた食器や食べ物の残りが山積みになり、家のあちこちには脱いだ洋服がそのまま放置してある。

 子供のころから、親から注意されずに好き勝手に暮らしたいと思っていた。

 突然の「自由」を手に入れた今、自由に生きるには、すべて自分で責任を取らなければならないのだと気づいた。食べたものを片づけるのも、汚れた服を洗濯するのも自分でやらなければならない。風呂に入りたいなら、自分で入れなければならない。歯磨き粉が切れた時、正子はいつも切れる前に歯磨き粉を用意しておいてくれたことを知った。今は自分で買わなければ、歯磨き粉がないまま歯磨きをしなければならない。一人でいる自由とはちっとも楽しくないのだと、早々に悟った。こうなってはじめて、母という存在のありがたさを知るのだった。

 今日もまた、散らかった家に一人で帰らなければならない。それだけで気が滅入った。

 雨戸を閉め切ったままの家にたどり着き、鍵をあけて中に入る。

 すると、玄関の電気がついていた。出かける時に電気を消し忘れたのかと思ったが、たたきに置いてある一足の革靴を見て、しばし固まる。直行が脱ぎ散らかしていた靴も、きちんと並べてある。

 直行は慌てて靴を脱ぎ、リビングに向かう。リビングも明かりがついていた。

「親父」

 幸輔がソファに座り、テレビを見ていた。一体何日ぶりに、この光景を見たのだろうか。

「おう、お帰り」

 幸輔が振り返った。

「遅かったな。これを見に、日比谷公園にでも行ってるのかと思った」

 リモコンでテレビの画面を指す。テレビでは、日比谷公園の中継を行っていた。

「何、その頭」

 ようやく絞り出した言葉が、それだった。

「ああ、出家したんだよ」

「出家!?」

「滋賀の山奥の禅寺で修行してる。今日は住職にお願いして、帰らせてもらったんだ」

「何だよ、それ」

 直行は脱力して壁にもたれかかる。

「おふくろが自殺したこと、知ってんのかよ。大変だったんだぞ、俺一人で葬式を仕切らなきゃいけなくてさ」

「ああ、すまんな、一人でやらせちまって」

「俺が帰ってきたら、ベランダで首を吊ってたんだぞ」

「ああ、知ってる」

「知ってる!?」

「ああ、正子が首を吊ったのを見た後で、家を出たからな」

 直行は絶句した。

「なんで首を吊ったのかは、聞いてるんだろ。正子のやつ、売春してやがった。それを責めたら大ゲンカになって、出て行けって言ったんだよ。そしたら、首を吊っちまってな。まあ、オレが悪いんだ、すべて」

 幸輔は大きく息をついた。

「じゃあ、何、お袋を死に追いやったことに負い目を感じて、出家したってわけ?」

「そういうわけじゃない。ただ、何もかも嫌になったんだ。今の生活を全部捨てちまいたくなってね。まあ、逃げたようなもんだな」

 幸輔はテレビを消し、「よっこらせ」と立ち上がった。

「まあ、立ってないで座れよ。お茶でも飲むか?」

 キッチンに向かい、てきぱきとお茶を入れている。気づけば、キッチンやリビングは片付けられ、見違えるようにきれいになっている。

「それにしても、お前、片付けるってことを知らないのか? 大変だったぞ、この辺を使えるようにするには。夏だったら、ゴキブリが大発生してたぞ。冷蔵庫の中には、いつのものか分からない煮物があるし。あれ、もしかして正子が作ったやつか? カビが生えてたぞ」

 直行は力なくソファに座った。

「修行で、寺の掃除は毎日やってるからな。掃除もいいもんだ。何も考えずに没頭できるし、きれいになったときは嬉しいしな。単純なことだけど、こういうのも大切なんだなって実感するんだよ」

 幸輔はお茶を二つソファのサイドテーブルに置いた。

「親父の入れたお茶を飲むなんて、初めてだ」

 ポツリと直行は言う。

「寺で毎日入れてるからな。それに、一人暮らししてた時は自炊してたから、簡単な家事はできるんだよ。まあ、でも、お前の片付け下手は俺に似たのかもしれない。俺の部屋も散らかってて、正子がせっせと片付けてくれてたから」

 幸輔はおいしそうにお茶を飲む。直行も一口、二口飲んだ。

「それで、またこっちに戻ってくるわけ?」

「いや。そのつもりはない。お前も知ってるだろ。俺はもう警察には戻れない。すべてのキャリアを失ったんだ」

「じゃあ、また寺に戻るんだ」

「ああ」

「でも、出家したんなら、それはそれで連絡ぐらいくれればよかったのに。伯父さんたちも心配してて、捜索願も出したんだから」

「ああ。明日にでも、事情を説明しに行くよ」

 幸輔は湯呑を置いた。

「今日、神戸に会った。それで、全部話してきた。お前がしたことを」

 直行は湯呑を持ったまま、硬直した。

「お前のパソコンにあったデータを、家を出る前にコピーしたんだ。それも渡してきた」

 幸輔は直行の眼を見据えた。

「なあ、これから一緒に警察に行こう」

 直行は湯呑をテーブルに置こうとした。が、手が滑り、湯呑は倒れた。お茶がテーブルとじゅうたんに派手にこぼれる。幸輔は黙ってティッシュを抜き取り、テーブルにこぼれたお茶を拭った。

「自首しろってこと?」

 掠れた声で尋ねた。幸輔は深く頷く。

「お前も、このまま逃げ切れるなんて思ってないだろ? 今は隠せていても、いずれバレる。どう頑張って隠していても、いつかはバレる。世の中はそうなってるんだ」

「だって、世の中には未解決の事件なんて、山ほどあるじゃないか」

「まあな。でも、犯人が心穏やかにその後の人生を送れたなんて、俺は思わない。たとえば、道で警官を見かけただけで、冷や汗が出て逃げたくなるんだ。時効が訪れるまで、生きた心地なんてしない。時効が来ても、自由になんてなれない。人は、大きな秘密を一生抱えて生きられるほど、強くないって思う。本当は誰かに話してしまいたい。でも、誰にも話せない。それは孤独だよな。本当の自分を隠して、上っ面だけで人とつきあわなきゃいけないんだ。恋人ができても、結婚しても、子供が生まれても、ずっとその秘密はしまっておかなきゃいけないんだ。それが幸せな人生だと思うか? お前に、それが耐えられるか?」

 直行はうなだれている。膝に置いた手が小刻みに震えていた。

「でも、自首したら、俺は死刑だよ? そんなの耐えられないよ」

 直行は顔を上げた。真っ青な顔で訴えかける。

「そうかもしれない。だが、悔い改めれば、無期懲役になるかもしれない」

「そんなのムリだよっ、ムリっ」

 直行は頭を抱える。

「お前はまだ、若いんだ。過ちを認めれば、まだやり直せる。刑務所の中にいたって、人生はやり直せるんだ。人として正しい道を選べるんだ。それこそが、やり直すってことなんだ」

 幸輔は優しく言い聞かせる。

「ムリだよ、ムリ。絶対に。あり得ない」

 直行は「ムリ」「あり得ない」と何度もつぶやいた。

「お前、いったい何人殺したんだ?」

「それは……」

 直行は血の気を失った顔で、考えをめぐらしているようだ。

「先月の限界団地で老人を襲ったクジョレンジャーってやつら、お前も一味なんだろ?」

 直行はがっくりと首を垂れた。

「よく逃げられたな」

「あれは、まあ……騒ぎが起きた時に、現場からはすぐに逃げたし。普段、あいつらと接しているときも、ずっとマスクをつけてたし」

「仲間を見捨てて逃げたってことか」

「別に仲間じゃねえし」

 幸輔はため息をついた。

「まあ、お前は昔から友達がいなかったからな……。他にはないな」

 黙り込んだ直行を見て、さすがに幸輔も顔色を変えた。

「まさか、他にもあるのか?」

「学校に集まった老人も殺した……」

 幸輔は絶句した。

「それじゃ、お前……あの、老人ホームを焼け出されて集まっていた小学校の放火事件も、お前なのか?」

「俺一人じゃないけど……」

「そりゃ、死刑になっても仕方ないよな。殺した数が多すぎる。二ケタ行くじゃないか」

 幸輔の言葉に、直行は訳の分からない雄たけびをあげた。

「でも、なんでそんなに老人を殺したんだ? お前は理由なんかないって言ってたけど、それなら老人以外も殺すだろ?」

 直行は荒い息をしながらブルブル震えている。ようやく自分がしでかしたことを自覚したんだと、幸輔は気づいた。

「お前が悪いんじゃない。俺が悪いんだ。俺という人間が弱かったから、お前を人として正しい道に導けなかった。お前が間違った方向に進んだのは、お前が悪いんじゃない。すべて俺のせいだ。正子が死んだのも、俺のせいだ。俺が浮気してたから、正子は売春に走った。俺という存在が、周りの人を狂わせ、誤った道に導いていたんだ」  

 幸輔は直行の背中を優しくさする。

「俺がついてるから。刑務所に入ったら、毎日でも面会に行く。死刑になるのなら、俺が骨を拾ってやる。俺がついててやるから。俺も一緒に、罪を償うから」

 直行は声を上げて泣きだした。幸輔は繰り返し、「俺がついてるから」と言い聞かせた。

 ややあって、幸輔は壁にかけておいたジャケットのポケットから何かを取り出し、テーブルに置いた――拳銃だった。

 直行は、それを凝視する。

「昔、チンピラの世話をしてやったことがあってね。そいつに頼んで、一丁用意してもらったんだ」

 直行は涙に濡れた顔で、幸輔を見つめる。

「お前にもプライドはあるだろう。もし、どうしても自首できないのなら、自分で自分の人生を終わらせるっていう手もある。俺を撃ってもいいんだ。俺を撃って逃げてもいい。それでお前の気が済むなら、そうしてもいいんだ。でも、それは余計につらく苦しい道を選ぶことになる。死ぬ以上に苦しい道になる。できれば、俺はそうしてほしくない。最後の最後で逃げたことを後悔してほしくないんだ。そこで後悔しても、取り返しはつかない。でも、自首したら、少なくとも逃げなかったんだからその後悔はない。その分だけ、心の安らぎを得られるんだ」

 直行は顔をゆがめ、叫ぶように泣き声を上げた。幸輔は直行の頭をなでる。

「罪を犯しても、自由になる方法がひとつだけある。それは逃げないことなんだ。逃げてちゃ、自由になれない。それが分かったから、俺は今日、ここに来たんだ」

「じゃあ、俺も出家する。親父と一緒に、寺に入るよ」

 直行は涙声で必死に訴えかけた。幸輔は少し笑った。

「それは難しいな。犯罪者が罪を償わないまま出家するのは。そりゃ、仏様も怒るだろ。祈ればすべて許してもらえるってわけじゃないんだ。でも、ムショのなかで出家する人は、昔からいるからな。それならいいんじゃないか」

 直行は床に泣き伏した。

「怖いのは最初だけだ。行動を起こさないから怖いんだ。行動を起こしたら、怖くなくなる」

 幸輔は静かに諭す。直行はしゃくりあげながら、拳銃を見つめていた。

「じゃあ、親父が俺を殺してくれよ」

「え?」

 直行は涙をボロボロこぼしながら、幸輔をまっすぐ見た。

「親父が、俺を撃ってくれ。俺も、こんな風になりたかったんじゃない。自分を抑えられないんだ。自分でも、どうしようもないんだよっ。こんな俺を産んだ責任を、とってくれよ。俺を殺してくれえ」

 幸輔はただ黙って直行の顔を見つめていた。

 ――子供の頃、悪いことをして叱ったとき、こんな風に泣きながら謝ったこともあったな。あのときは、やっぱり俺の子だ、かわいいじゃないかって思えたんだ。でも、今は……。

 幸輔は目をつぶって天を仰いだ。その瞬間、直行がテーブルの上の拳銃に手を伸ばす。

 霞が関周辺の騒ぎが嘘のように、住宅街は静寂に包まれていた。

 やがて、夜空に一発の銃声が響き渡った。その音は厚い雲に吸い込まれて消えた。 



「自衛隊を出すっ」

 一瞬、その場の空気は凍りついた。真夜中の首相官邸。昨日に続き、ほとんど眠らないまま、総理大臣や官房長官、幹事長、防衛省の大臣などが話し合いを重ねていた。

 田部井総理は、もう一度繰り返した。

「自衛隊を出すから。陸上自衛隊に、戦車で厚労省周辺を固めるよう、通達を出すから」

「いやいや、総理、そこまでするのはまずくないですか? 市民に対して武力攻撃することになります」

 防衛大臣が慌てて止めた。

「それに、戦車が街の中を走り回ったら、パニックになるでしょう」

「何も、戦車で民衆を襲えって言ってるんじゃないから。戦車で厚労省の周りを固めたら、やつらもおとなしくなるでしょって話をしてるだけだから」

「そんなことしなくても、機動隊が抑えますよ」

「抑えてないじゃないか。うちの息子を傷つけるなって親から言われて、手出しできない状態なんでしょ?」

「ですから、親御さんにケガをさせないようにしてつかまえるって説得してる最中なんです」

「それじゃあ生ぬるいから。今、霞が関の機能は完全にストップしてるんだから。厚労省だけじゃなくて、ほかの省庁も群衆に囲まれちゃって、仕事できない状態でしょ? 今、この混乱してる隙に、近隣諸国が攻めてきたらどうするつもり?」

「近隣諸国って、つまり」

「ミサイルをこっちに向けて何発も打ってる国があるから、これ以上長引かせるわけにはいかないってことを私は言いたいの。短期戦で決着をつけなきゃ、国の機能はマヒしたまんまなんだから」

「いや、あの国は本気で撃ってこないんじゃないですか」

「そうだけど、そういう理由で選挙戦を戦ったんだから、そういうことにしておかなきゃいけないでしょって話」

「まあ、そうですが」

 防衛大臣が反論できずに困っているのを見かねて、官房長官が口を開いた。

「そんなことをしたら、連立組んでる公正党が許しませんよ」

「もう公正党なんてあってもなくてもいいんだから、連立を解消してもいいんじゃないの?」

「そんなわけにはいきませんよ。それに、今、リセット会に心酔してる国民が多いんです。国に対する批判が高まってる時に戦車を出したら、政権に対する批判が集中しますよ」

「批判してるやつらは、共謀罪でぶちこめばいいじゃないか!」

「いやいや、それをやってしまったら、本当に政権が倒れますって。少し落ち着きましょう」

 官房長官に冷静になだめられて、田部井総理はしばし目を閉じて呼吸を整えた。

「とにかく、国民に銃を向けるんじゃないから。テロリストに銃を向けるんだから。田部井政権はテロには屈しないという姿勢を見せたほうがいいんじゃないの?」

「それはそうですが」

「批判されたら、被災地に派遣するのと同じように、緊急事態だから派遣しただけだって言えばいいでしょう。バリケードを撤去するのは、被災地で壊れた建物を撤去するのと同じだって説明すりゃあいい。人の手で取り除くより、戦車で壊すほうが安全だとか、いくらでも理由は挙げられるでしょう? やっぱりね、こういうときのために緊急事態条項が必要なんだから。それが分かるきっかけになるんじゃないの?」

 官房長官は「まあ、確かにそうですが」といつものように気だるく応じた。

「でも、私はそんなことで戦車を出せなんて、命令を出せませんよ」と防衛大臣は難色を示す。

「次の選挙で党の公認を得たくないのなら、出さなくても構わないよ」

 田部井総理の言葉に、防衛大臣は黙り込んだ。官房長官は静かに目をそらした。



 早朝4時。まだ街は眠りについている。日中は混んでいる都内の道路も、今ならまだスイスイと走れる。

 三田寅吉はトラックの運転手である。運転歴40年という大ベテランで、無事故を誇っていた。

 その日は、眠い目をこすりながら関越自動車道に向かっていた。

 赤信号で待っているとき、対向車線の向かい側に見慣れぬ車が止まっているのに気づいた。

「ずいぶんでけえトラックだな」

 その車が戦車だと気づいたのは、青信号になり、戦車が走り出してからである。戦車は一台ではなかった。重い音を響かせながら、次々と寅吉のトラックの横を過ぎていく。

「なんだよ、あれ」

 寅吉だけではなく、ほかの車のドライバーもみな、呆然として戦車を見送っていた。



 朝7時。順二は一階の見張りをしていた。

「日本リセット会の諸君!」

 突然、外から呼びかける声が響いた。誰かがスピーカーを使って話しているらしい。

「私は総理大臣の田部井です」

 その場にいたメンバーと顔を見合わせた。

「今、私は厚労省の前に来ています。皆さんと話をしたくて来ました」

 順二たちはバリケードの隙間から確認しようとしたが、外の様子は見えない。

「あっ、本当だ」

 スマフォを持っていたメンバーがみんなに、画面を見せた。画面は小さくても、その男がいつもテレビで見る総理大臣だということは分かった。

「あなたたちは、完全に包囲されています。厚労省を自衛隊が取り囲んでいるのが見えるでしょう? あなたたちがそこに立てこもっている限り、日本の行政はストップしてしまうんですよ。今、近隣諸国が日本に向けてしょっちゅうミサイルを発射しているってこと、あなた達もわかるでしょう。国を全力で守らなくちゃいけない状況なんですよ。これ以上、国の中枢でもある行政をストップするわけにはいきません。そこで、1時間、猶予を与えます。そこからみんなで出てくるか、もしくは代表者と私とで話し合うか、とにかく事態を進展させたいのはお互いさまでしょう。おとなしく出てくるのなら、傷つけることだけはしないと約束します。ただし、もし1時間待っても誰も出てこないなら、自衛隊がバリケードを壊します。繰り返しますが、猶予は一時間です。お互いに血を流すことのないよう、平和的解決をしようではありませんか」

 そこで演説は終わった。順二は興奮で体が震えた。

 ――これで外に出られる。ここから抜け出せるんだ。

 他のメンバーは、「ヤバいんじゃないの、これ」とおびえだした。

「戦車がいるじゃん。こんなのに撃たれたら、どうすんだよ」

「ここにいたら、ヤバくない?」

 みんな、エレベーターに向かって駆け出した。順二は後からゆっくりついていく。

 集会室に行くと、すでに他のメンバーは全員集まっていた。

 鉄拳5が寝不足で真っ赤な目を血走らせながら、テレビの前をウロウロしている。

「おい、早く出て行かないとヤバイ」

 メンバーの一人が言いかけると、「いや、それはまずい」と鉄拳5が遮った。

「いいか、これは罠だ。僕らを分断し、混乱させるための罠なんだ。自衛隊が僕らを襲えるわけない。そんなことしたら、憲法違反になるからね。これはこけ脅しだ。現に、自衛隊が突入するとは言ってない。自衛隊はバリケードを壊すとしか言ってないんだ。向こうは腰が完全に引けてる。言いなりになる必要なんかないと思う」

「こけ脅しのために、戦車まで呼ぶか? 5台もあるぞ」

 メンバーの一人が厳しく反論した。

「戦車で撃たれたら、ビルが吹き飛ぶぞ」

「それはないでしょう。そんなことしたら、厚労省のデータはすべて吹っ飛ぶんですから。それに、そんなことしたら、世間が黙ってませんよ。だから、まずは僕が総理と会って交渉するから」

「冗談じゃないよっ。そんなの待ってられんよ。俺はもう、こんなとこにいるのは、うんざりなんだっ。俺は出るぞっ」

 一人の男が、顔を真っ赤にして叫んだ。

「私も出たい」

「私も。もう、こんな生活耐えられない」

 みな口々に不満をぶつける。

「わかった、じゃあ、こうしよう」

 鉄拳5は手を叩いた。

「外に出たい人は、今すぐ出ていけばいい。その代わり、こっちは援護も何もしないから。出た瞬間撃たれても、責任持たないからね。それと、一歩外に出たら、二度とこっちには戻ってこないでほしい。もう仲間でも何でもないから。逮捕されてもいいなら、出て行けばいい。引き留めないから」

 鉄拳5の言葉に、その場にいたメンバーは顔を見合わせた。

「私は出ていく。こんな場所にいるより、逮捕されたほうが、ずっといいもん」

 一人の女が言うと、「私も行く」「俺も。自衛隊が人を撃つわけないよ」「どっちみち逮捕されるなら、早いうちがいいよね」と次々と名乗り出た。結局、ほぼ半分のメンバーが出ていくことになった。

 順二も手を挙げようとしたが、眉を吊り上げている鉄拳5や、出ていくメンバーを鋭く睨みつけている憂国の顔を見て、どうしても言い出せなかった。

「どうやって、外に出すよ」

 憂国が尋ねると、「それについて、ちょっと相談したい」と鉄拳5は憂国を手招きして、部屋を出て行った。

 順二は床に座り込んだ。ふと、部屋の隅に座っていた夜青竜と目が合う。夜青竜は怯えたように素早く目をそらした。

 ――どさくさにまぎれて、俺も外に出るしかないな。俺を裏切り者だと思ってたこいつらと、一緒に残る必要なんかないし。こいつらに義理立てする必要なんか、ない。よし、出るぞ。兄ちゃんたちに会えるかもしれないし。

 順二はそっと手を握りしめた。

 ――逃げ切れたら、南に会いに行こう。



 7時40分。鉄拳5は動画サイトに82名が投降すると告げる動画をアップした。

 順二は1階の正面玄関でバリケードの一部を取り除く作業をノロノロと手伝っていた。積み上げる時は懸命だったのに、今は一つ取り除くたびにため息が出る。

 ――あーあ、なんでこんなにたくさん積んじゃったんだろ。

「おい、もっと広く開けてくれないと、通れないよ」

 投降するメンバーの一人が不満を漏らすと、

「だったら、自分でやれよ。お前らが逃げるんだろ?」

 と憂国がすごんだ。投降するメンバーはみな、気まずそうに押し黙った。

 外に出る通路ができたのは、8時数分前だった。まずは女が一人、割れたガラスをくぐり、外に抜け出す。

「今、女性が一人出てきましたっ。中から女性が一人出てきました」

 とたんに目もくらむようなカメラのフラッシュがたかれ、各局のアナウンサーの絶叫する声が響き渡る。その後は、我先にとメンバーが出口に殺到する。その両脇には、憂国やこばけんらが30人ほど、自衛隊や機動隊の突入に備えて鉄パイプや角材を持って待機している。順二は鉄パイプを持ってエレベーター付近にいた。

「ごめん、やっぱり俺も行く」

 メンバーの一人が突然鉄パイプを放り出し、出口に走り寄った。

 憂国が笑いだした。

「弱虫どもめ。いいさ、逃げだしたいやつは、どんどん行っちまえ」

 ――今だ。 

 順二も続いて、走り寄ろうとした。そのとき、後ろにいたメンバーが「俺も行く!」と順二を押しのけたので、順二はバランスを崩して転んでしまった。

 順二があたふたしている間に、新たに10人ほどの投降者が出た。

 最後の一人が出たとき、憂国はそばに置いてあったトランクをつかみ、外に放り出した。

「バイバーイ」

 数秒後、爆発音が鳴り響き、ガラス戸が割れ、バリケードの山が崩れ落ちた。バリケードによりかかっていたこばけんらが机や椅子の雪崩に巻き込まれる。

 順二は何が起きたのか分からず、呆然とした。まわりのメンバーもみな固まったまま動けずにいる。

 憂国はガラスの破片が額に突き刺さり、床に転がって呻いている。床に広がっていく血を見て、

「何、何が起きたんだっ」

 とメンバーの一人が叫んだ。

 バリケードの山に呑み込まれたこばけん達が、「助けてくれえっ」と悲鳴をあげている。

 そのとき、数名の自衛官が崩れたバリケードを乗り越えて入ってきた。順二は尻もちをついたまま、口をポカンと開けていた。

「手を挙げて、両手を頭の後ろで組んで!」

 銃口を突き付けられ、順二は慌てて言われた通りにした。他のメンバーも、同じように手を挙げている。背後に一人の自衛官がまわり、順二を立たせた。

 ――終わった。

 順二は目を閉じた。長い長い四日間だった。

 憂国はケガをしているのになおも抵抗し、自衛官は数人がかりで取り押さえている。

 順二は自衛官に促され、手を挙げたまま机や椅子をまたいで外に出た。そして足を止めた。

 そこには、地獄絵図が広がっていた。投降したメンバー数十人が、血だらけになってそこかしこに倒れている。手がもげて絶叫している者もいれば、うつぶせになったまま動かない者もいる。自衛官やメディアの関係者も吹き飛ばされたようで、門の外は逃げまどう人々で大パニックが起きている。

「なんだよ、これ。なんだよ、これ」

 順二は足がすくんで動けない。

「こっちへ」

 自衛官が順二の腕をとり、横によける。

 そのすぐ後を、引きずられるようにして血まみれの憂国が出てくる。憂国は目の前の光景を見て、一瞬ニヤリと笑い、猛々しく吠えた。そして力の限り暴れまわり、自衛官の手が離れた瞬間、

「俺に触わるんじゃねえっ」

 と飛び退った。

「俺に触ると、お前ら、吹っ飛ぶぞっ」

 憂国は迷彩服のコートを勢いよく開けた。憂国の腹に赤いものがくくりつけられている。それがダイナマイトだと分かったとき、順二は血の気が引いた。憂国の手にはいつの間にかライターが握られている。

「まずいっ、逃げろっ」

 自衛官らがわっと走りだす。順二も倒れている人を踏んでバランスを崩しながらも、門の外に走り出た。

「ダイナマイトだっ」

「下がれ、下がれっ」

 門を取り囲んでいた自衛官らも慌てて逃げている。順二は止まっている戦車の脇をすり抜け、日比谷公園に入ると、逃げ惑う人々でめちゃくちゃになっている。ふと、誰も順二を追ってこないことに気づいた。

 ――逃げれる。

 その四文字が頭に浮かんだ時、順二は全速力で走り出していた。人波に紛れ込み、人を押しのけ、転ぶ人に躓きながらも、順二は走った。後ろを振り返らずに、ひたすら走った。



 どれぐらい走っただろうか。

 線路に突きあたり、順二は立ち止まった。右に折れ、しばらく歩くとSLが見えた。それを見て、新橋駅に着いたのだと気づく。ここも通行規制が行われていて、あちこちで警官が車や通行人を誘導している。

 順二はフラフラになりながら近くの駅ビルに入った。喉がカラカラである。ジーパンのポケットに財布を入れていたことを思い出し、自販機を探してミネラルウォーターを買う。ゴクゴクと音を鳴らしながら飲んでいると、スマフォが震えた。取り出すと、表示は南になっている。

 順二は急いで耳に押し当てる。

「南っ」

 だが、予想に反して、低い男の声で「やあ、こんにちは」と挨拶された。

「誰?」

 男はフフフと低く笑う。

「私の声を忘れてしまいましたか?」

「あっ、あんたは」

 それは榊原の声だった。順二は絶句する。

「テレビを見ていましたよ。どうやら、うまく逃げだしたようですね」

「……」

「今、厚労省はパニックになってますよ。ダイナマイトを体にくくりつけた男が、玄関前で騒いでますからね。その騒ぎに紛れて、うまく逃げだしましたね」

「なんでそれを」

「私は何でも知ってるんですよ。あなたのことなら」

 榊原の言葉に、順二は全身に鳥肌が立った。

「そそそれより、なんで南の番号からかけてるんですか」

「私の番号からかけても、あなたは出ないでしょ」

「まあ、そうだけど」

「南はここにいますよ。声を聞きますか?」

「ホントに?」

 ややあって「順君?」と懐かしい声が聞こえた。

「南ぃ」

 順二は胸がいっぱいになり、それ以上は何も言えなかった。

「順君、すごいことしたんだね。テレビで見てたよ。動画も見た。カッコよかったあ」

「南、俺、南にずっと、会いたくて」

「私も。早く会いたい。私、東京に帰ってきたんだよ」

「ホントに? じゃあ、じゃあ、会おうよ。すぐに会おうっ」

「うん。ちょっと待ってね」

 そこで、榊原が電話に出た。

「順二君、今どこにいるんですか。迎えに行きますから。今は電車にも乗れないでしょ」

「えっ、迎えって……」

 榊原から逃げようとしているのに、榊原につかまるわけにはいかない。

「いや、自分で何とかしますから」

「そんなことを言っている場合じゃないでしょ」

「順君?」

 南の声が聞こえた。

「とにかく、そこから離れないと。私も一緒に行くから」

 榊原が隣にいるのに、榊原から離れるように説得するのは難しい。 

「……わかった。南も来るんだね?」

「うん、行くよ」

 順二は覚悟を決めた。

「えーと、ここは……」 

 順二は周りを見渡し、目印になりそうなものを列挙した。

「順君、待っててね。すぐに行くから。それまで、どこかに隠れてたほうがいいよ」

「わかった」

 電話を切り、順二は自分が涙を流していることに気づいた。久しぶりに聞いた南の声が、深く胸に染みわたっていく。

 ――やっと。やっと南に会える。

 そう思うと、後から後から涙が湧き出てきた。順二は人に見られないよう自販機の陰に隠れ、しばらく静かに泣いた。



 30分ほどして、スマフォが震えた。南達が迎えにきたのだ。

 外に出て車を探すと、少し離れた路地にグレーの車が止まっているのを見つけた。人混みを抜け、車に向かうと助手席のドアが開いた。

 車に体を滑り込ませ、大きく息をついた。

「久しぶりですね」

 順二は何か言おうと榊原を見て、ギョッとした。見知らぬ顔だったのである。

「ああ、言い忘れてました。整形手術を受けたんですよ。ちょっと気分転換したくてね。でも、声だけは変えられないから、私だと分かるでしょ」

 榊原は、目と鼻をいじり、髪を染めたのだと説明した。

「ちょっといじるだけで、ずいぶん印象が変わるでしょ。別人になった気分ですよ」

 なぜ顔をいじったのか、理由を聞かなくてもわかる。海外移住詐欺の犯人として指名手配されているからである。テレビで似顔絵が公開されたとき、順二はそれが榊原だとすぐに気づいた。何度も警察に話そうかと思ったが、榊原の部下に見張られているので思いとどまったのだ。

 後ろの座席を見ると、誰も乗っていない。

「ああ、南は別行動にしました。もし、順二君が見つかってしまったら、南も巻き込まれるかもしれないでしょ? 都内を出るまで、一緒に行動しないほうがいいだろうって、私が判断したんです」

 ――確かに、そうかもしれない。

 順二はその考えには素直に従った。

 車は静かに走り出した。道路のあちこちで警官が警備をしている。順二は顔を伏せた。榊原はダッシュボードから黒縁のだてメガネを取り出し、順二に渡した。

「これをかけるだけで、カムフラージュになるでしょう」

 順二はお礼を言い、眼鏡をかけた。

「それにしても、ずいぶん思いきったことをしましたねえ、爆弾を使うなんて。まるで映画のようでしたよ。あそこまでするとは、思いませんでした」

 榊原はのんびりした口調で話しかける。

 順二は、前から疑問に思っていたことを尋ねた。

「あの、ホームレスにお金をばらまいたのは、榊原さんですか」

「ええ」

「なんでそんなことしたんですか。何のために」

「昔から、金持ちから金を盗んで、それを貧しい人に恵んであげるっていうパターンは喜ばれるじゃないですか。貧しい人のヒーローになる。それを狙ったんですよ」

「でも、榊原さんがヒーローになったわけじゃないでしょ」

「そう、私じゃなく、あなたがヒーローになった。それでいいんですよ。私は表に出るのは好きじゃないんですから。人には向き不向きっていうものがある。あなたは、みんなの前に出てもっと脚光を浴びてもいい人物ですよ」

「いや、俺、何もしてないし」

「いえいえ、世の中はあなたのようなヒーローを求めてるんです。悲劇的な状況から立ち上がったヒーローをね。実際に、あなたがいなければ厚労省の襲撃なんて誰もしなかったでしょ」

「別に、俺が考えたわけじゃないし。別のやつが言いだして、その話にみんな乗っかって、ダーッと突っ走っちゃった感じで」

「それも、あなたが年金機構の宿舎を襲ったからでしょう。みんな、あなたの行動に影響を受けてるんですよ。あなたに心酔している」

「いや、それも俺がやったわけじゃないし。俺はあそこが年金機構の宿舎ってことを知らなかったんだから」

「まあ、流れであってもね。流されながらもヒーローになっていくってこともあるんですよ」

 通行を規制されているので、車は一向に進まない。

「これは時間がかかりそうだな」

 榊原はため息をついた。

「南は、千葉に向かってるんです」

「千葉……」

 順二は肩を落とした。

「俺、これからどうすればいいんだろう」

 つぶやくと、

「まあ、どこか遠くに逃げるしかないでしょうね。名前を変えて、別人となって暮らすしかないでしょう。大丈夫です、その辺は南が慣れてますから。案外、何とかなるもんですよ。顔も変えればいいし」

 と、榊原は言った。

「えっ、じゃあ」

 順二は榊原の顔を見た。

「俺、これで自由ってことですか?」

 榊原は唇の端に笑みを浮かべた。

「そういうことになりますね。今まで部下に見張らせていて、窮屈な思いをしたでしょう。でも、私もこれから日本を離れるんです。部下と一緒にね。だから、ここからはお互いに自分の人生を歩んでいくってことにしましょう。今まで迷惑をかけたお詫びに、後ろのバッグに当面の生活費を入れておきました。それで南と一緒にどこかに行ってください」

「ホ・ホントですか?」

 順二は疲れがいっぺんに吹き飛んだ。

「ありがとうございますっ」

 順二は勢いでお礼を言ってしまった。

「その代わり、私のことは誰にも何も言わないでくださいね。まあ、もっとも、あなたもこれで完全に追われる立場になりますから、今後、事件のことは一切封印するしかないでしょうけど」

 榊原は微笑んだ。人工的な顔に浮かぶ微笑みは、どこか気味が悪かった。


 

 順二は目を覚ました。いつのまにか、眠っていたらしい。

 窓の外には暗い海が広がっている。ここが港だと気づくまで時間がかかった。

 車の時計を見ると、5時を過ぎ、すっかり暗くなっている。途中でファミレスで食事をしたところまでは覚えているが、その後はまったく記憶にない。

 運転していた榊原の姿が見えない。

 車から出ると、とたんに冷たい潮風が吹きつける。今はその冷たさが心地よかった。

「やあ、起きましたか。たっぷり眠れましたか?」

 海面ににじむ港の光をぼんやりと眺めていると、榊原が戻ってきた。

「南はあっちにいますよ。あの車の中。さっきからずっと待ってますよ」

 榊原は、堤防の端に止めてある軽自動車を指した。すぐに走り出そうとした順二を止め、榊原は後部座席から黒いボストンバッグを出した。

「当面の生活費を忘れないように」

「ありがとうございます、助かりますっ」

 榊原は順二の肩を叩き、

「二人の幸運を願いますよ」

 と笑顔で言った。

 順二は南の待っている車に向かって駆けだした。

 南は助手席に乗っている。待ちくたびれたのか、窓に頭をもたせかけて目を閉じていた。窓を軽くノックしたが、目を覚まさない。

 順二は運転席に回り、乗り込んだ。ボストンバッグを後部座席に投げる。

「南」

 呼びかけたが、南はまだ目を覚まさない。久し振りに見る寝顔。いとおしくて、順二は頬に手を伸ばした。すると、驚くほどひんやりした感触が指に伝わる。順二は驚いて、思わず手を引っ込めた。

「南?」

 肩をゆすっても、南は目を覚まさない。

「南? 南っ」

 強くゆすると南の体は大きく揺れ、サイドボードに額を打ちつけた。それでも南は無反応である。両腕をだらんと垂らしている。

 ――死んでる。

 そのとき、大音響とともに順二の体は吹っ飛び、フロントガラスに叩きつけられた。トラックが後ろからぶつかったのだった。

 軽自動車は堤防から押し出され、前に大きく傾く。前は海――車は海にざんぶと飲み込まれた。

 順二は悲鳴を上げた。慌てて後部座席に移るが、車はどんどん沈んでいく。

「誰かっ」

 バックガラスにへばりついてガラスをドンドンと叩く。だが、トラックからは誰も助けに出てこない。その助手席に榊原が座っているのが見えた。

 ――最初から、あいつ。

 順二は慄然とした。

 車は音もなく水に飲み込まれていく。

「兄ちゃーん、助けてくれ、兄ちゃんっ、裕三っ」

 順二は力の限り、叫んだ。いつの間にか泣きだしていた。ドアは開かないし、エンジンがかかっていないので、窓も開けられない。

 ――あのとき、出て行ってれば。兄ちゃん達のところに行ってれば、こんなことにはならなかったのに。いや、違う。厚労省なんて襲撃しなければ……いや、あいつと出会わなければ。榊原と出会わなければ、こんなことに巻き込まれなかったんだ。あの日、ツイッターに書き込まなければ、俺は普通に暮らしてたのに。あの日、書き込んだりしなければ。

 ふと、スマフォがあるのを思い出した。

 一博に電話をかけようとしたが……圏外だった。

「兄ちゃんっ……母ちゃあん、父ちゃあん」

 車が海面から消える最後の瞬間に順二が見たのは、空に走った光だった。真っ暗な空が不気味に一瞬光ったのだ。ややあって、重い雷の音が鳴り響いた。だが、その音はもはや順二には届かなかった。

 車は波間に消え、静寂が訪れた。

 榊原はトラックの中から、煙草を吸いながら一部始終を見ていた。

「これで、こまごました用は、すべて片付いたな」

 長く煙を吐き出していると、スマフォが鳴った。ジャケットのポケットから取り出し、電話に出る。

「もしもし……そうですか、逃げ切れましたか。あの憂国とかいうやつが騒いでくれて、助かりましたね。ああ、そのようですね、蒲生大臣があなたを混乱に乗じて逃がすよう、自衛隊の内通者に手を回しておいたと聞きました。あなたはネットで顔を出してないから、大丈夫でしょう……ええ、私もこれですべての仕事が終わりました。これから成田に向かいます。ええ、お元気で」

 電話を切り、車が消えた波間を見つめる。

「でも、南もやっちゃうなんて、よかったんですか?」

 運転席にいたビルダーが聞く。

「いいんだよ、あいつは口が軽いからねえ。お金をずっとせびられるのも、煩わしいしね」

 榊原は煙草を灰皿でもみ消し、「さあ、行こうか」と声をかけた。

「こんな胸焼けする国とは、これでオサラバだ」

 独り言のようにつぶやく。



 その翌日。房総半島にある港から車が落ちたのを見たという通報を受け、警察は海中を捜索し、軽自動車が引き上げられた。その車から、男女二人の遺体が見つかった。

 男が女を抱きしめていたので、当初、地元の警察はカップルの心中と判断していた。

 だが、ボストンバックから数百万円の紙幣と、引っ越し業者が着るような制服が出てきたので、何らかの事件と関わり合いがあるんじゃないかと捜査が始まった。

 程なくして、その制服が8月の年金機構の宿舎の襲撃事件で使われた可能性があることが判明する。そこから、男が厚労省の襲撃犯の一人であると分かるまで、それほど時間はかからなかった。

 一緒に亡くなっている女は結婚詐欺でつかまった前科があった。

 世間では、「犯罪者同士の愛の逃避行」と騒がれ、ネットでは2人の過去が次々と掘り起こされていった。



 その日、雄太は西川口駅で道子と待ち合わせていた。

 今日はクリスマス・イブである。「外で食事しよう」と道子に誘われた時は、外に出れば誰かに見つかるかもしれない、と雄太は難色を示した。だが、「クリスマス・イブはみんな自分たちのことしか見えてないから大丈夫だよ。人が多いし」と説得され、渋々承諾した。

 雄太は道子に買ってもらった毛糸のキャップを深めにかぶり、だて眼鏡をかけて駅の改札で道子を待っていた。たった二駅だが電車を乗る時には緊張した。ドア付近に顔を見られないように立ち、駅に着いたら早足で歩いた。

 改札で待っているときはずっと顔を伏せ、スマフォをいじっているふりをしていた。

 確かに道子の言うとおり、イブの夜はみんな浮かれて、駅の柱に隠れるように立っている男には誰も目を止めない。すぐ近くでは、学生のサークルらしいメンバーが歓声を上げたり、笑い転げている。つい10日ほど前には厚労省が襲撃され、まだ見つかっていない犯人もいるというのに、ここにいるとそんな大事件も嘘のようである。

「お待たせ」

 7時少し前に道子がついた。軽く息を切らしている。

「走ってこなくてもよかったのに」

 雄太が言うと、「店の予約、7時なんだもん。もう遅刻だから、急がないと」と道子は息を弾ませながら言った。

 道子が予約を入れたレストランは、駅から歩いて10分ぐらいのところにあった。小さなビストロで、テーブルは5卓しかない。

「ここなら安全でしょ。帽子を脱いでも大丈夫だよ」

 道子は耳元で囁いた。雄太は頷いて帽子と眼鏡をはずす。

 道子はコートを脱ぐと、茶色のベロアのワンピースを着ていた。大きく開いた胸元には、銀のクロスのペンダントが光っている。

「あれ、朝はそんなカッコしてたっけ」

 雄太が聞くと、道子は照れくさそうに微笑んだ。

「雄太君をビックリさせたくて、駅ビルのトイレで着替えたの」

 その様子を見て、雄太は素直に「かわいいな」と思った。

 一緒に暮らすようになって気づいたが、道子は男性経験が少ないせいか、今どきの女性には珍しいぐらい恥じらいがある。洗濯物は自分の下着が雄太には見えないように隠して干し、お風呂に入っているときは雄太が洗面所に来るのも嫌がる。雄太がうっかり着替えている最中にドアを開けた時は、叫び声をあげた。そういう反応は、雄太にとって新鮮だった。

 雄太は道子にいろいろなことを話した。

 自分の子供のころの話、学生時代の話。以前は億ションに住み、羽振りのよい生活を送っていたこと。バツイチで娘もいること。会社が倒産し、ネットカフェ難民になったこと。娘にまともに仕送りもできない状態だったこと……ネンキンブログで老人を殺してお金を稼いだこと以外は、洗いざらい話した。道子はいつも真剣に耳を傾けてくれた。

 雄太は、満たされていた。こんなに安らいだ気持ちになるのは何年ぶりなのか。道子の部屋に転がり込んだばかりのころはまともに眠れなかったが、今はぐっすり眠れる。

 道子のところに来て、よかった。雄太はしみじみと何度も実感した。

 二人はまずシャンパンを頼んだ。

 店の片隅には小さなクリスマスツリーが飾ってあり、店内には陽気なクリスマスの曲が流れている。こういうクリスマスを迎えるのは久しぶりだと、雄太は気づいた。去年はネットカフェでマンガを読みながら過ごした。一昨年はどんなクリスマスを過ごしていたのか、もう覚えていない。クリスマスらしいクリスマスを過ごしたのは、ひかると結婚していたころが最後だろう。

 ――あのころは、銀座の高級レストランでディナーを食べていたんだっけ。今は埼玉の小さなビストロか。

 心の中で小さなため息をついた。

 だが、昔と比べていても仕方がない。今は警察につかまらないだけでもラッキーなのだ。

 シャンパンが運ばれてきたので、2人で乾杯する。5000円のディナーコースは予想以上においしかった。2人は他愛のないことを話し、よく食べ、よく笑った。

 幸せだ、と雄太は思った。

 こんな小さな幸せでも、今の自分にはもったいないぐらいだ、と。



 店を出たのは10時過ぎだった。

 道子はご機嫌で、鼻歌を歌っている。それは、第九の喜びの歌だった。

「私ねえ、高校のとき、合唱部だったの」

「へえ、それでカラオケもうまいんだ」

「エヘヘ、そうかな」

 道子は嬉しそうに笑った。

「地元の公民館で第九を歌おうっていうコンサートがあって、それにうちの高校も参加したんだよね。1000人ぐらいが集まって、オーケストラに合わせて第九を歌って。あれは感動だったなあ」

「ふうん」

「私、合唱が好きなんだよね。一人で歌うのより、みんなで同じ曲を歌うのが好きなの」

「俺は、合唱なんてかったるくて、音楽の時間も適当に歌ってたよ」

「雄太君は、一人で歌って目立つほうが好きなんでしょ。その他大勢になりたくないってタイプ。そういう人はバンドが向いてるかも」

「ああ、やってたよ、高校の時にちょっとだけ。俺はギターだったんだけど。ボーカルもちょっとやったけど、下手だって言われて」

「確かに、雄太君、カラオケでもかなり音はずしてたもんね」

「ゆうなよ、それはあ」

 二人で声をたてて笑った。

「合唱は一人一人は全然目立たないんだけど、みんなで一つの歌を一生懸命歌うっていうのがいいんだよねえ。大勢の声が重なったら、すっごい迫力になるんだから。そうやって歌ってるみんなにも、一人一人違う人生があるんだな、なんて思ったら、ジーンとしちゃって」

「ふうん、そういうもんかな」

「私はその他大勢でよかったんだよね。その他大勢の平凡な人生でよかったの。でも、それも叶わなかったな」

「んなことないでしょ」

「ううん。だって、私34なのに彼氏は10年ぐらいいないんだよ。私、短大卒業したら、すぐに結婚して家庭に入りたかったのに。そんなちっぽけな夢さえも、叶わなくってさ。その他大勢にさえ、なりきれなかったんだよねえ」

 道子は長いため息をついた。白い息が夜の闇に消えていく。

「喜びの歌でね、汝の優しき翼の覆うところ、すべての者は兄弟となるっていう歌詞があるの。歌うときはドイツ語なんだけど。その歌詞がいいんだなあ」

「汝の優しき?」

「翼の覆うところ、すべての者は兄弟となる。この歌を歌っているときは、ああ、一人じゃないんだなあって思う」

「今は、一人じゃないじゃないか。俺がいるんだし」

「そうだね……」

 道子は雄太の顔を覗き込み、「手、つないでいい?」と尋ねた。

「いいよ」

 雄太が右手を差し出すと、道子はそっと左手で握った。久しぶりに、人の肌のぬくもりを感じた。雄太は優しく握り返す。

 しばらく二人は黙ったまま歩いた。

「雄太君、あのね。聞いてもらいたいことがあるの」

「うん」

 道子はしばらく話すのをためらっているのか、無言で歩く。雄太は、「何でも話していいよ」という想いを込めて、握る手に力を込めた。

「私ね、弟がいたんだ」

「うん」

「ひきこもりになってね、高校の時に。学校でイジメにあったみたいで……それから7年間ひきこもってたんだ」

「それは大変だね」

「うん。でも、私はそんな家からとっとと逃げ出したの。私、あの家が大っ嫌いで。お母さんから嫌われて、冷たくされてたんだよね」

「そんなの気のせいじゃないの?」

「ううん、ホントに。お母さんは美人だったの。学生時代、ミスコンの候補になるぐらい美人だったんだけど、私はお父さんに似ちゃったんだよね。それが気に入らなかったみたい。何度も、『こんなブスの子が産まれるなんて』って言われたし。授業参観とか運動会とか、絶対に来なかった。私が自分の子供だと思われるのが嫌だって、お父さんに言ってたからね」

「それは……ひどいな」

「まあね」

 道子は言葉を切って、またしばらく無言になる。

「弟が生まれてから、お母さんは弟ばっかり可愛がってたし。弟は小学校から私立に通ってたけど、私は頭もそんなによくなかったし。で、短大入るときに家を出たんだけど、そのときに『もう二度とこの家には帰ってこない』って、お母さんと大ゲンカしたの。それから、ホントに帰ってないの、ずっと」

「お父さんは? お父さんは味方になってくれなかったの?」

「お父さんは仕事が忙しくて、あんまり家にいなかったから。私には優しくしてくれたけど、お母さんから庇ってくれるって感じじゃなかった。だから、あの家には居場所がなかったんだ」

「そっか……」

 道子が自分の話をここまでするのは初めてだ。雄太に心を開いてくれているのだと、嬉しく思った。

「その家に、帰ったんだ。先月」

「うん」

「3人とも、死んだって連絡を受けたから」

「えっ、何?」

 道子は立ち止まった。雄太の目をまっすぐ見る。

「うちの弟、ネンキンブログに関わってたみたいなの」

「えっ……」

 雄太はつないでいた手を離す。

「警察がスマフォを調べて分かったみたい。弟は2人、お年寄りを殺してる疑いがあるって。うちの近くで起きた殺人と、巣鴨のとげぬき地蔵で起きた殺人と。代表や胸焼け、クジョレンジャーを名乗る人とやりとりしてるのが分かったみたい。クジョレンジャーって、先月つかまった人たちでしょ? 団地で老人狩りをして」

 雄太は道子の話を聞きながら、必死で記憶を呼び起こしていた。

 ――巣鴨のとげぬき地蔵の殺人。確かにあった。日中に大勢がいる場所で堂々と殺害したって、みんなで盛り上がったっけ。

 雄太は道子の顔をまじまじと見た。

 ――じゃあ、あいつのお姉さんが……。

「弟はね、両親も殺しちゃったみたい。それで、2人の遺体を並べて、その間に眠ってたんだって。そのまま餓死したんだって」

「えっ、それ……」

 ――先月、報道していた浦安の事件か。

 雄太は思わず目を閉じた。

 ――こんな風につながるなんて。

「私、警察で遺体を確認したの。お父さんもお母さんも、真っ黒になって、干からびてる感じだった。身元確認って言われても、顔、分かんないぐらいになってたし。透は腐ってる状態で、臭いがすごくて……」

 道子の目からは涙があふれる。

「家に入らせてもらったら、床には三人の後がくっきりとついてたの。三人が並んで寝てて……」

 そこまで話すと、道子はしゃがんで泣きはじめた。

 雄太はどう言葉をかければいいのかわからなかった。頭がジンとしびれたようになって、何も思いつかない。

「私、家にもっと帰ってれば……透に手を差し伸べてれば……そしたら」

「ごめんなさいっ」

 雄太は頭を下げた。

「ごめんなさい、ごめんなさいっ」

 道子はうずくまったまま、しばらく声を上げて泣いていた。雄太は何度も謝り、頭を下げ続けるしかなかった。

 やがて、道子は涙を拭きながら、ゆっくりと立ち上がった。

「今日、透が殺したお年寄りのご家族に、謝罪しに行って来たの。謝罪しても、何にもならないんだけど……お金もたいして払えないし。でも、知らないフリはできないし。なじられた。ものすごく。でも、私が家に帰ってなかったって聞いたら、『あなたは別に悪くない』って言ってくれて。お金もいらないって。でも、そういうわけにもいかないよね。ホント、どうすればいいんだろ」

「俺、こんなことになるなんて、こんな、ホント」

 雄太は髪の毛を掻きむしった。

「うん。被害者だけじゃなく、加害者の家族も巻き込まれたってこと、知ってほしくて」

「ホントに、ホントに……」

「それで、雄太君、この先どうするの?」

 道子は静かに尋ねた。

「この先ずっと、私の部屋に引きこもってるわけにはいかないでしょ」

 雄太は道子の顔を見る。涙に濡れた瞳で、道子は雄太の目を見る。

 きれいだ。雄太は心の底から思った。

 ――汝の優しき翼。

 雄太の目から、涙がこぼれ落ちた。

「老人ホームの放火事件、俺がやったんだ」

 雄太の声は震えている。

「うん」

 道子は短く答え、雄太の手を握った。

「俺、人を殺したんだ」

「うん」

「俺、人殺しなんだ」

「うん」

 次から次へと、涙はとどまることなく溢れる。道子の手のぬくもりが雄太の心をゆっくりとほぐしていく。

 ――汝の優しき翼の覆うところ、すべての者は兄弟となる。

 雄太は心の中で、そのフレーズを繰り返した。

 ――俺も翼で覆ってもらえるんだろうか。こんな俺でも。

 やがて雄太は顔を上げ、袖口で涙を拭いた。

「行こうか」

 道子も涙を拭きながら頷いた。

 2人は手を握り合い、黙って歩いた。

 駅前の交番の前に来ると、道子は強く手を握った。

 ――大丈夫、一人じゃないから。

 そう言っているように思い、雄太も手を握り返した。立ち止まって、軽く深呼吸する。

 空を見上げると、陰鬱な空の色だった。

 厚い雲は、月も星の輝きもすべて遮っている。

 研ぎ澄まされたような空気を吸い、雄太は交番に向かって一歩踏み出した。




「はるさん、そろそろ終わりにしようよ」

 声をかけられても、北野はるは気づかなかった。鐘楼堂のまわりの落ち葉を黙々と箒で掃き集めている。

 一人の女がはるの側に寄り、

「終わりにしましょうよ」

 と顔を覗き込んだ。

「ああ、そうねえ」

 はるは手を止め、かかんでいた身体を伸ばすと、腰を拳で叩いた。寺の境内では、老爺や老婆が20人ほど、あちこちを掃除している。みな片付け始めていた。

「掃いても掃いても葉っぱが落ちてくるから、キリがないわね」

「ほどほどでいいって、住職はいつも言ってるじゃない。みんな、もう終わりにするから」

「大掃除だから、少しでもきれいにしたくて」

 はるは、なおも名残惜しそうに辺りの落ち葉を掃き集めた。

「はるさん、その辺にしときましょうよ」

 顔を上げると、本堂にいた住職が庭に下りて来るところだった。住職は古びたジャージを身につけ、禿げ上がった頭には手ぬぐいを巻いている。

「いやあ、きれいになりました。いつもは僕一人だから、こんなにきれいに大掃除できませんよ。今日は除夜の鐘をつきに来てくれる人にも、気持ちよく過ごしてもらえます」

 住職は嬉しそうに目を細めて、庭を見渡す。庭掃除をしていたはる達は、顔を見合わせて満足そうな笑顔になった。

「本堂もきれいになって、お釈迦様も喜んでらっしゃる。今年は皆さんのおかげで、気持ちよく年越しできます」

「そんな、こちらは居候の身ですから。これぐらいのことしかできなくて、申し訳ないです」

 はるの言葉に、住職は「いやいや、助けてもらってるのは、こちらのほうです」と首を振った。

「身体が冷えたでしょう、ぜんざいでも食べましょう」

「いいですねえ」

「こういうときは、甘いものがいいですなあ」

 みな、箒を手に持ったまま、嬉しそうに語り合う。

 そのとき、白いものがヒラヒラと地面に舞い降りた。

「あ、雪」

 一斉に顔を上げると、灰色の空から生まれたばかりの雪が舞い降りてくる。

「やっぱり降りましたか。除夜の鐘までは積もらないといいんですけど」

「すぐにやむんじゃないですか?」

「そうならいいんですけど」

 みな、しばらく次々と舞い落ちる雪に見入っていた。

「今年は、えらい年でしたね」

 住職はしみじみ言う。

「そうですねえ。戦争のときは、空襲警報が鳴るたびに生きた心地がしなかったけど、まさかまたこんなに怖い思いをするなんて思ってもみませんでした」

 はるが答える。

「老人ホームを焼け出されて、避難した小学校でも放火に遭ったときは、どうなることかと思いましたよ。ねえ」

「ホント、公園で寝泊りしてたときは、生きた心地がしなかったわよねえ」

「住職が声をかけてくれなかったら、俺ら、熱中症にでもなって、公園で野垂れ死んでたよ」

「あのときは、まだまだ世の中捨てたもんじゃないって思いましたよ」

 みな口々に話し出す。住職は穏やかな笑みを浮かべながら、

「今回の放火事件を起こしたのは、僕と同世代の20代、30代の若者だって聞いたとき、このままじゃいけないって思って。僕らの世代がしたことなら、僕らが何かしないといけないって思ったんです。それで、学生時代の友人に声をかけて、みんなで放火で焼け出された人たちを探して。うちの寺は、僕が後を継いでから、僕しか住んでないから、宿泊施設として使ってもらうのにはピッタリだってことになって」

 とゆっくりした口調で語った。

「ねえ、皆さん、布団や着替えを持って来てくださったり、食べ物も毎日差し入れしてくださって」

「ホント、立派な若者ばかりで、生きててよかったってみんなでねえ、言い合ってるんですよ」

「俺なんか、若者に対する見方が変わったからね。今まで若者にキツく当たりすぎたかもって反省したよ。俺みたいな老人が多いから、若者も俺らを嫌ったんだろうね」

「どうですかね。でも、それはお互い様ですよ。僕ら若者も、お年寄りに手を差し伸べてこなかったし。みんなが相手の気持ちを考えられなくなってたのかもしれませんね」

「そうかもしれんなあ」

 みんなで、なおも舞い落ちる雪を見つめた。寒くても、なかなか目を離せない。 

「来年はどうするんですか?」

 唐突に、はるは心配そうに尋ねた。

「私達、いつまでもここにいるわけにはいかないでしょう。食費もかかるわけだし」

「まあ、それはゆっくり考えましょう。こんな狭い寺でよければ、好きなだけいてもらってかまいませんから。普段は僕だけだから、皆さんに来てもらって、にぎやかになって僕自身が心強いんです。寺も、皆さんのおかげで随分きれいになりましたし。畑で野菜も育ててもらいましたし。春になったら、またみんなで野菜を植えましょうよ」

「そうですか……」

 はるはそっと目頭を押さえた。

「お堂でみんなで雑魚寝するなんて、なんだか修学旅行みたいでねえ。人生の最後に、楽しい思いをさせてもらってます」

「枕投げはしませんけどね」

「俺らがやったら、みんな心臓発作起こして倒れちゃうよ」

「いいんじゃない、ここはお寺なんだから。すぐ裏に埋めてもらえばいいから楽だよ」

「じゃあ、あらかじめ、墓場でやるか、枕投げ」

 男達の冗談に、住職と女達は弾けたように笑った。笑い声は空に吸い込まれていく。

「さあ、身体が冷えた、冷えた。ぜんざいを食べましょう」

「そうしましょう」

 陰鬱な空の色だった。見ているだけで、気が滅入りそうな色である。

 だが、降り注ぐ雪が、浄化するかのように街を白く染めていく。

 厚い雲は静かに、静かに雪を撒き散らす。

 まるで小さな希望を吐き出すかのように。

































  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る