眠り姫

孤独堂

前編 愛してるって言えなくたって

 僕が彼女の入院を知ったのは、それから四日目の事だった。

 最近彼女を見かけないので、僕は思い切って彼女の家に様子を見に行ってみる事にしたのだ。

 するとそこで、丁度家から出て来た彼女の母親が、入院している事を教えてくれたのだった。


「それにしても、大学生の方と付き合っていたなんて…」

「はい」

 少し驚いている母親に、僕ははっきりと答えた。

 それは僕らにとって重要な事だと思えたし、何よりも僕は彼女を本気で愛していたからだ。

「全くほのかったら、何も言わないで」

「ほのか…」

 ほのかのお母さんが一瞬微笑んだかと思うと、不謹慎だと気付いたのか、直ぐに伏し目がちにして表情を隠すのを見ながら、ぼくは彼女の名を刻む様に呟いた。

 彼女の家は目の前の道路から盛り土され、タイル張りの階段五段程を上った先にあった。

 僕はほのかのお母さんとその階段の丁度真ん中で出くわして、今こうして話をしているのだが、果たしていつまでもこうしている訳にもいかない。

「それで、ほのかさんはどうして入院なんか?」

 僕の質問にお母さんは一瞬考える素振りをしてからゆっくりと、口を開いた。

「昏睡状態なの」

「昏睡状態?」

 僕は驚いて思わず訊き返した。

「そう…そうだ。貴方にも来て貰った方がいいかも知れない。申し訳ないんだけれど、もし良かったら一緒に来て貰えないかしら? 丁度今タクシーを呼んだの。もう直ぐ来るから丁度いいわ。ね、お願い」

「タクシー?」

 入院。昏睡状態。タクシー。一番重要な事が抜け落ちている様で、話を呑み込めないでいる僕は、またも訊き返したのだが、お母さんはそんな僕の言葉には答える事もなく、そのほのかの手に良く似た白い指先で僕の左手首を掴むと、階段を下りて下の道路に出ようとした。

 思ったより力強いその引き方に、僕は階段上で体が前のめりになって、慌てて足を片方下の段に下ろす。

 それからはもう、お母さんの思い通りだった。

 僕は川の流れの様に上から下へと、スルスルと階下の道路まで下ろされる。

 僕の手首を掴みながらお母さんは、左手の掌を見るように腕時計を眺める。

 どうやらタクシーがそろそろ来るみたいだ。

 観念した僕は、ほのかに、彼女に何があったのか? 昏睡状態って一体? それらの全ては、タクシーの中で訊こうと思った。




「それで貴方…あの…」

「隆博です。泉隆博」

 程なく着いたタクシーの後部座席に二人で乗り込むと、ほのかのお母さんは直ぐにタクシーの運転手に市内にある大きな総合病院の名を告げて、そのまま僕の方を向き直して口を開いた。

 そして僕は直ぐにお母さんが僕の呼び名に困っている事に気付き、また、自分でも先に名乗っていなかった事に気付き、赤面しながら慌てて名前を伝えたのだった。

「あ、隆博君。それで隆博君は、何処でウチのほのかと知り合ったの? 分かっていると思うけれど、その、ウチの娘はまだ高一なんだけれど」

 自分の娘の素行に不安があるのか? それとも僕を危険な不良大学生とでも思ったのか? お母さんは心配そうな顔で先ず最初に出会いについて尋ねて来た。

 こうなると話は時系列を辿る形になるのだろう。

 僕の尋ねたいほのかについての話は、まだ先になるのだと観念して、僕はお母さんの質問に、心象の悪くならない程度に気を遣いながら、話し始めた。

「コンビ二です。僕のバイトしているコンビニに彼女が良く来ていたんです」

「じゃあ、〇×女学院の近くのコンビニ?」

「はい。〇×女学院は近いですね。ほのかさんに限らず、そこの子達は大勢、学校の行きと帰りにウチのコンビニに回りますね」

「へー、そういう出会いもあるのね~。でもそれなら少し分かるわ。うちの娘大人しくて人見知りでしょ。何処でそんな出会いがあったものかと思ったけれど。それで?」

 お母さんは何処かで納得出来るものがあったのか、先程までとは打って変わり、娘の恋愛話を楽し気に聞く母親の表情になって来ていた。

「僕は直ぐにほのかさんに一目惚れしました。それで…」

 そこから先はどうにも母親を前には語り辛い。

 僕は言葉を濁して、下を向いてしまった。

 するとその様子を見て察したのだろうか。

「それで、告白した?」

 ほのかのお母さんは下を向いている僕の顔を覗き込む様にして、そう尋ねて来た。

 だから僕は、言葉もなくただ頷く。

「まあ、初々しい恋愛♪ それでほのかがそれをOKしたのね。全く恋愛なんて考えられない、奥手な娘だと思っていたのに。あの娘もやっぱり異性には興味があったのね。隆博君、有難う。あの娘に素敵な思い出を与えてくれて。でも…ごめんなさい。ほのかの事は諦めてください」

 微笑んだ表情から少しずつ翳りのある顔に変わると、お母さんは僕にそう言った。

「諦めろって。昏睡状態って。一体何があったんです?」

 諦めるという言葉に引っ掛かった僕は、そう言うと、顔を上げてお母さんの目を見つめながら睨んだ。

 きっとそれはどれ程憎らし気な表情であった事か。

 お母さんは顔を強張らせながら、ストンッと声のトーンを下げて、まるで表情のない一本調子な声で話し始めたのだった。

「四日程前の夜、悲鳴が聞こえて外に出て見たら、娘が前の道路に倒れていたの。きっと家の前の階段を踏み外したかして転げ落ちたのね。制服も、顔も、手も。白く埃まみれだった。怪我はパッと見た限り、膝や手に擦り傷と、滲む赤い血が浮かんでいた程度なのよ。それなのに、頭を多分打ったのね。急いで救急車を呼んで病院に運び込まれたのだけれど。娘の意識は戻らなかった。昏睡状態だとお医者様に言われたの」

「そんな…なんで?」

 その話は僕には直ぐには理解出来なかった。

 それはつまり、つい最近まで見ていた彼女の微笑が、もう見れないかも知れないという事を意味している。

 僕は多分、目を大きく見開いて、何かを訴える様な表情をその時お母さんにしていたに違いない。

 お母さんは僕の顔を見ながら一筋二筋と涙を流し始めた。

「だから、ごめんなさい。折角ほのかとお付き合いしてくれていたのに、もう、無理になってしまったの。そういう事ですから、お付き合いは、諦めて下さいね」

 搾り出す様に語るお母さんの声に、僕は力強く答え返した。

「嫌です。まだどうなるか分からないじゃないですか。そんなに簡単に諦められる筈がない」

 と。



 困った様な表情のお母さんは、その後タクシーの中で、二人の関係に触れて話す事はなかった。

 だから僕は、自分が幾つか気になっていた事について質問してみる事にした。

 一つは今回の出来事が、ほのかが誰かに階段から突き落とされたとか、そういった犯罪性は無かったのかという事。

 そしてもう一つは、病院でのほのかの看病は、誰がどうしているのかという事。こちらの件に関しては、出来る限り自分はほのかの側にいたいのだという希望も付け加えた。

 そしてお母さんの回答は次の通りだった。


「事件性なんて事は全く考えていなかったから、警察なんて、伝えてないわ。そもそも家の直ぐ目の前の階段で起こった事だし。ひたすら眠り続けている娘に訊く事も出来ないし。そうね、でも警察には一応そういう事故があったって、伝えておいた方が良いのかしら。一応調べて貰って」


「病院では私がなるべく付いている様にしています。今は丁度家に取りに行く物があったから家にいたけれど、娘が病院に搬送されてからは殆ど娘の病室で、娘の傍らにいる。お父さんも最初の二日間は赴任先から戻って来て一緒にいてくれたけれど、いつ目覚めるか分からない娘を延々と看ている訳にもいかないから、単身赴任の△県に戻っちゃったし。まー、お金もかかるし、誰かは働いていなければやはり困るのもあるから、しょうがないんだけれど。だから、さっきの隆博君の申し出は、凄く嬉しいわ。ほのかも、大好きな彼が頻繁に見舞ってくれるのは嬉しいでしょう。 私が隆博君を病院に誘ったのも、貴方が来れば、ほのかにも何か変化が起こるかも知れないと思った訳だし」


 お母さんの回答は、僕を満足させるものだった。

 何故ならほのかの側にいる事を許可されたと思ったからだ。

 だから僕は更にはっきりと自分の気持ちを伝えようと思った。

「僕は、出来るだけほのかさんの側にいたいんです。その為に大学も暫く休学しても良いと思っています。そうすればお母さんも随分楽になりますよね。本当に僕は少しでも長くほのかさんの側にいて、面倒を看てあげたい」

「隆博君…」

 お母さんは僕の言葉に感慨深いものでもあったのか、名前を呟くと一度言葉を詰まらせて、それから少し微笑みながら言葉を続けた。

「ありがとう…本当に有難う。もし体は動かなくても、ほのかの意識はしっかりしているのだとしたら、きっと喜ぶわ。いつも隆博君が側にいてくるのだとしたら。でもね、こんな事彼氏に言ったら、ほのかに怒られてしまうかも知れないけれど。昏睡状態で、眠っている様な姿でもね、生理現象はあるのよ。だからその…ずっと病室でほのかの傍らにいられるのは…」

 少し恥ずかしそうに語るお母さんの生理現象の言葉に、僕はそれが排泄の事だと直ぐに気付いた。

「ああ、大丈夫です。都合の悪い時はいつでも言って下さい。その時は僕は外に出ています。僕はただ、愛する彼女が目覚めるまで、その寝顔をずっと眺めていたいんです」



 そしてタクシーは病院に着いた。




                     つづく

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