第10話 いざ、高尾山へ(1)
『――ジュンくん』
霧の中で、女の人が僕を読んでいる。
うっすらと浮かび上がるその横顔は、水鏡に写ったかのように朧げだ。
じっくり姿を見ようと思った瞬間に水面は波紋によって乱れ見えなくなってしまう。
誰だ? 一体誰。僕を呼ぶのは。
『――に行くのよ』
星が瞬くようなかすかな声。僕は懸命に耳を澄ます。
『――へ......行くのよ』
行くってどこへ?
僕はその女性に問いかけようとした。だが、言葉が出てこない。喉を潰されたように、ヒューヒューと息だけが漏れる。
教えてくれ。僕はどこへ行かなくちゃ行けないんだ?
募る焦燥感。声にならない声で手を伸ばすと、女性が振り返る。
『覚えてない?』
声と同時に、光が立ち込めた。
何をだ?
『一緒に......に行ったこと』
光はますます強くなり、辺りは一面の白に包まれる。
『高尾山に行ったこと』
高......尾山......!
「高尾山!」
僕は目を覚ますと同時に叫んだ。
額に汗が流れる。息が荒い。
頭上では大きな木の葉がザワザワと揺れている。
ここはゲストハウスと研究所の境目に生えている巨大なガジュマルの木の下だ。
「そうか、僕はうたた寝をしていて」
枝から
肉厚な葉はワサワサと茂り、その下は木陰となっていて、夏の強烈な日差しから僕らを守ってくれる。
絶好の読書スポットなのだが、どうやらお昼寝にも最適らしい。
今日は土曜日。休日をのんびり過ごすには絶好の場所だ。
「これを読んだま寝たからかな」
僕は手元にある『タカオサン自然ガイド』をチラリと見た。
「高尾山か」
今まで何度もあの夢を見てきたけど、具体的な地名が出てきたのは初めてだ。
再度『タカオサン自然ガイド』を開く。
そこには、高尾山に住んでいる動植物や、登山ルートなどが載っている。
が、それ以上は何も思い出せない。
「とりあえず、まずは高尾山に行ってみないとな」
――高尾山。
この場所は、僕の過去と何か関係があるんだろうか
地図で見る限りでは、ここからさして遠くないみたいだけど。
僕が本に見入っていると、どこかからピペの声がした。
「ジューンくん、何してるんですか?」
「ピペ?」
振り返る。が、ピペの姿はない。ガジュマルの木には精霊が住むという。ではこの声もピペではなく精霊なのだろうか? そんな馬鹿なことを考えながら辺りを見回す。
「ピペ? どこ?」
「ここですよ」
「どこだ?」
「ここですっ!」
見上げると、そこには白いワンピースを着て麦わら帽子を被ったピペがいた。
「びっくりしましたか!?」
悪戯っぽく笑うピペ。いや、それはいいんだけど――その、真下から見るとパンツが......
「ぎゃっ」
と、その瞬間、ピペは足を滑らせひっくり返る。
「ピペ!?」
僕は咄嗟に木の上から落ちてきたピペを抱きとめた。その反動で、二人とも地面にひっくり返る。
「大丈夫......」
言いかけた僕は慌てて目を逸らす。目の前には着衣が乱れ、露わになっている胸元。さらに、下に目をやると、スカートがめくれ、根元から露出した白い太ももが見えた。
「お、おい!」
ピペは悪戯好きの精霊みたいに笑う。
「あははははっ!」
「笑い事じゃないって!」
僕は慌ててピペの体を押しのけた。
「全く、いい年して木登りなんかして」
「えへへ。でも、気持ちいいですよ?」
ニコリと笑うピペ。
いつもはシャツに短パンのシンプルな格好なのに、なんでまた今日に限ってワンピースなんだよ。
僕は笑い転げているピペをちらりと見た。
――まあ、清楚で可愛いと言えば可愛いけど。見た目だけは。
「ところで、何を読んでたんです?」
ピペがガジュマルの根元に転がっている本を指差す。
「ああ。この前買ったガイドブックを読んでるんだ」
ピペがガイドブックを覗き込む。
「タカオサン?」
「ああ。ここに、行ってみたいなって」
「なぜです?」
ピペが首を傾げる。
僕は小さく唾を飲み込んだ。
「もしかするとだけど......僕の過去の記憶に関係があるかもしれないんだ」
僕は今朝の夢のことをピペに話す。霧の中にいる、謎の女の人のことを。その人が語る言葉を。もしかするとあれは、過去の記憶なんじゃないかってことも。
「おお、記憶が戻ってきたんですね!」
ピペが嬉しそうに僕の腕を掴んだ。
「じゃあ、明日にでも行きましょう。案内しますよ、タカオサン!」
真剣な、ピペの瞳。
僕は頷いた。
「うん、行こう」
明日。明日になれば、高尾山に行ける。
そこに行けば、何かが分かるだろうか?
*
「よしっ、と」
そして翌日。僕とピペは、食堂でバスケットに、おにぎりと飲み物を詰めていた。まるでピクニックだ。
「あっ、ピぺ、そのおにぎりだけ大きい!!」
「ふふっ、バレましたか。これは私が食べますよー」
「ずるい。そんなに食べたら太るぞ」
「ひぇっ」
青ざめた顔でお腹を抑えるピペ。そんなに太ってるわけじゃないんだけどね。
僕たちが食堂でオニギリを作っていると、パジャマ姿のオム先生がやってくる。
「おはよー。あなたたち、やけに早起きなのね」
「あ、オム先生。僕たちこれから高尾山にいくんです」
「先生も一緒に行きませんか?」
「んー、考えとく」
あくびをしながら階段を上っていくオム先生。そのけだるげな後姿を僕は目で追った。
「オム先生は行かないみたいだね」
「忙しそうですもんね」
しかし数分後、オム先生は着替えを済ませ再び食堂に現れた。
「何やってるのあなたたち、早く行くわよ」
つばの広い帽子に、夏だというのに長袖のジャンバー、登山靴に、何をそんなに持っていくのかというほど大きなリュックサック。たかがピクニックに行くとは思えない程の本格的な装備だ。
「めちゃめちゃ行く気だった」
「ですね」
僕とピぺは顔を見合わせた。
*
タカオサンはここから乗り合い馬車で少し走った所にあるそんなに高くない山だ。
ここには豊かな自然が沢山残されている。
鬱蒼と生い茂る巨大なシダ植物に、ガジュマルの木やソテツ、タコの木。まさにジャングルといった感じだ。
「わあ、大きい木が沢山ありますねー!」
「ええ、亜熱帯の植物を中心におよそ1500種もの植物が生育しているわ」
「そんなに!」
馬車を降りると、登山道をひたすら登る。
すると、急にピペが立ち止まる。目の前の岩盤に手を当てている。
「先生、これテング石です!」
「テング石?」
僕とオム先生は首を傾げる。
「そう、テング石。この辺に伝わる伝説でね、テングという翼を持つ妖怪みたいなのが、その昔偉い神様からこの世界の作り直しを命じられたんです!」
ピペが語るところによると、テングは神様に命じられて、タカオサンを作っていたんだそうだ。
だけどそれを見た神様が、急にもっと高くした方がいいんじゃないかって言い出して、それで神様の設定した期限に間に合わなくなった。
困ったテングは神通力でその辺の石を取ってきて投げ、タカオサンを完成させた。この石がその名残なのだという。
ピペの指さすその岩を見ると、地層が
「地層って普通はこう、上に順番に積み重なっていくので
ピぺがじっとテング石を見つめる。
「それがこんな風に縦縞になるなんて、テングの仕業以外に考えられません。こんな大きな岩、人間には動かせないし......テングは実在したんです!
オム先生が呆れ顔をする。
「あのね、ピペ、私も地層に関してはは専門外だから詳しいことはわからないのだけれど、これは恐らく何らかの地殻変動の跡よ」
オム先生が言うには、海洋プレートが沈み込む時に、上に乗っていた地層が陸地にぶつかり押し上げられこんな形になったのではないか、ということだった。
「なるほど、それがテングの言い伝えと混じってそうなったのか」
テング岩をじっと見つめる僕を、オム先生は促す。
「さ、行くわよ」
「はーい」
そうして山の中腹辺りまで来た時、小さな雫が頭の上に落ちてきた。
――ポツ。
見上げると、空がいつの間にか暗くなってきている。肌寒い風に身を震わせる。
「ん? 通り雨?」
「嫌だわ。朝は晴れてたのに」
オム先生が空を見上げる。と同時に、雨足は一気に強まる。ばしゃばしゃと、勢いよく雨が地面に叩きつけられる。
「『ゲリラゴーウ』ですね。大丈夫です。ちょっと待てば止むはずです」
「『ゲリラゴーウ』?」
「この地方ではスコールのことをそう呼ぶんです」
そんな話をしているうちに、いつの間にか雨は土砂降りになってきた。オム先生が目の前にある洞窟を指さす。
「ちょうどいいわ。あの洞窟で雨を凌ぎましょう」
「はい」
僕たちはすぐ目の前にある洞窟へと急いだ。
――が
ずるり、足元がぬかるみ、靴が宙を蹴った。
「うわぁっ!?」
地面がひっくり返る。
「ジュン?」
「ジュンくん!!」
何が起きたのか一瞬分からずに戸惑う。
濡れた斜面に足を滑らせたのだと気づいた時には時すでに遅し。
僕はそのままゴロゴロと山の斜面を転がり落ちて行った。
「うわああああっ!!」
雨に濡れた斜面を二転三転、ひっくり返る。
そして僕は、数メートル先の地面に落下すした。
「あいたたた......」
全身が痛い。頭がフラフラする。両肘と両膝をすりむいている。特に右膝はかなり血が出てる。でも骨が折れたり酷く痛む箇所は無さそうだ。下がふかふかした腐葉土だったのが幸いしたのかもしれない。
「それにしても」
僕は空を見上げた。
辺りは木々に覆われ、ピぺたちの姿も見えない。
微かに出ていた月が雲に隠れ、ポツポツと降ってきた雨が本格的に強くなってくる。あまりの寒さに身を震わせる。
「ここはどこなんだ!?」
もしかして僕、遭難した?
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