第8話 ニホン語の授業
「おはようございます! おはようございます!」
またいつものように、ピペが部屋のドアをノックする音で朝が始まる。
「お待たせ」
ドアを開けると、清々しい夏空のような笑顔。
「おはよーございます、ジュンくん、今日はニホン語の授業の日ですよー!」
そう言ってピペは薄い教科書を見せてきた。
「あ、そっか。ごめん、ちょっと待ってて」
僕は慌てて部屋の中へと戻った。
「そっか、今日は金曜日か。すっかり曜日感覚が無くなってたよ」
慌てて机の上から筆記用具と教科書を取り出す僕の背中を、ピペはバシバシと音を立て思い切り叩いた。
「もうっ、しっかりしてくださいよ!」
「痛い!」
僕は大げさによろけてみせる。
「骨が折れる!」
「それぐらいで折れません!」
鼻歌を歌いながら上機嫌で階段を降りていくピペ。
「全く、ジュンくんはナンジャクなんですから!」
「ピペッが怪力なんだよ」
「むーっ!」
年季の入った階段が二人の足音を軽やかに響かせる。窓からは朝日が眩しく照りつけている。週末というのはどこか心が軽くなる。
僕は教科書とノートを手に、揺れる金色の髪を追いかけた。
「待ってよー!」
今日は金曜日。
毎週金曜は仕事がない。
その代わり、事務室でニホン語の授業があるのだ。
*
「おはよう二人とも。ちゃんと宿題やってきた?」
アキルノからやってきたミカ先生が僕たちの宿題をチェックする。
「ジュンくんは、もうほとんど完璧ね。話す言葉も、ここで生まれ育った人とそう変わらないし」
「はは......ありがとうございます」
実はここに来た当時、僕は読み書きも話す言葉も、少しおかしかったらしい。自分ではほとんど自覚は無かったんだけど。
だからピぺと一緒にニホン語の授業を受けるように言われていたんだけど、今ではすっかり元々ここに住んでたみたいに話したり書いたりできる。
でもミカ先生は、言葉だけじゃなく、僕が忘れてしまった歴史や地理も教えてくれるから大助かりだ。
「ジュンくんは元々読み書きができる人だったんじゃないですか? 頭を打ったせいで一時的に言語能力が落ちてただけで」
ピぺの言葉に、ミカ先生は上を向いて考える。
「確かに、そう言われればそうかもしれないわね」
「そうですよ、だってジュンくんは古代文字まで読めるんですから!」
ピぺが力説する。
「きっとジュンくんは謎の超古代文明の叡智を受け継ぐ山奥の隠れ里で育ったんですよ! それで宇宙人がその事実を隠蔽するために......いたっ」
ミカ先生がピぺの頭をノートではたく。
「おしゃべりはやめろって言ったでしょ? さっさと問題を解きなさい。ピぺ、書き取りの宿題、間違いが多かったわよ」
「そんなに間違ってました!?」
「ええ、かなりね」
萎れたように下を向くピぺ。
「仕方ないよ、ピぺは外国人だから……」
僕はピペの顔をじっと見る。ここハチオージでは珍しい金髪に青い目。
「ええっと、何人だっけ」
「カクヨ・ムー人です!」
うーん、何度聞いても不思議な国名だ。
ピペは外国人にさしては話すのは流ちょうだし聞くのも問題無い。でもどうも読み書きが苦手みたいでニホン語の書き取りにはかなり苦戦している。
僕は壁にかかっている地図を見上げた。太平洋上には、カクヨ・ムー大陸という大きな大陸が広がっている。
その中心にあるのがピペの生まれ故郷、カクヨ・ムー国らしい。
見覚えのない大陸。聞き覚えの無い国。
たけどそれはきっと、僕が頭を打っておかしくなってしまったせいなのだろう。あまり深くは考えないようにする。
ここに来たばかりの頃、ピペとオム先生に連れられて病院に行ったことがある。
そこでも医者に似たようなことを言われた。僕の頭には大きなたんこぶがあるので、恐らく相当強く頭を打って記憶を失ったのだろうと。
「......というわけで、今から三百年ほど前、カクヨ・ムー国の英雄で冒険家のフヘ=フヘ・ハヒーフがこのフヘフヘ諸島を発見したこととから、この国は歴史の表舞台に登場します。このことから他の国ではニホンのことをフヘフヘと呼ばれています」
ミカ先生が話す歴史の授業を聞き流し、僕は壁にかかっている世界地図を見上げた。何だかかなり、不思議な感じのする地図だ。
「大きな国だね。どんなところなんだろう」
僕はピペにカクヨ・ムーという聞きなれない国について尋ねる。
「ええっと、ここと違って高い建物が沢山あります。お店やお洒落な喫茶店、パブが並んでて。蒸気機関車も走ってるんです!」
「蒸気機関車? 凄いね。僕も乗ってみたい」
「ジュンくんは、蒸気機関車が好きなんですね」
ピペが僕の顔をじっと見た。
「あ、うん」
僕は蒸気機関車が好きなのかな。よく分からない。でも、目をつぶると、頭の中に蒸気を出して走る黒い鉄の塊が思い浮かんだ。
「もしかして記憶を失う前に乗ったことがあるとか?」
僕は蒸気機関車についての記憶を思い出そうとした。でも頭の中はモヤがかかったみたいに真っ白だ。
「いや、分からない。新聞や本で見ただけなのかも」
横でピペがノートに何やら地図を書き始める。
「実はカクヨ・ムーには、遥か西の海上に、かつて経済大国として栄え一億人以上の人が住んでいたとされる黄金の国ジパングがあったという伝説が伝えられているんです」
「へぇ」
「私、古代トウキョウ遺跡こそがそのジパングではないかと思っていて......」
僕は地図を見た。
「こんな狭い土地に? 一億人も?」
「一億人は流石に盛りすぎかもしれませんが......ほら、位置的にも合いますし」
ピペがカクヨ・ムーから指を西にずらす。するとそこにはニホンがあった。
「どうです?」
すると、ミカ先生が我慢の限界とばかりに僕とピペの頭をパシリと叩いた。
「こら、さっきからお喋りばかりして。勉強に集中しなさいっていってるでしょ!? 仲がいいのは分かったから、イチャイチャするのは後にしなさい!」
「イチャイチャなんてしてません」
「そう? まあいいわ。若いうちは色々あるわよね。羨ましいわぁ。うふふふ」
何故か僕らの関係を勘違いしているミカ先生。
僕は息を吐き、窓から外を見た。
経済大国......ねぇ。
牛と馬が道を歩き、建物もほとんど無いこののどかな土地が?
*
「ジュンくん、本当に何も思い出せないんですか?」
授業が終わり帰る準備をしていると、ピペが尋ねてくる。
「何が?」
「何がって、過去のことですよ。ほんの些細なことでもいいので何か思い出せないんですか?」
「そんなこと言われてもな......」
僕は困って頭をかいた。
「だって不思議じゃないですか。古代文字が読めるだなんて」
息を荒くして僕に詰め寄るピペ。近い近い。
「そうだな、記憶って程でもないけど、最近夢を見るんだ」
「夢、ですか?」
「うん。誰か女の人がどこかへ行くように僕に言ってくる夢。けど、その肝心の場所がよく分からなくて」
ピペが首を捻る。
「それって、過去の記憶なんでしょうか?」
「いや、分からないけど。もう1ヶ月近くも記憶が戻らないし、もう戻らないんじゃないかなぁ」
「そんなことありません!」
ピペが僕の両手を力強く握る。
「探しましょう、二人で。ジュンくんの過去の記憶!」
「ああ」
僕らが手を取り合っているとガラリとドアが空いた。ミカ先生だ。どうやら忘れ物でもしたらしい。
「あらまあ」
ミカ先生が僕達を見て目を丸くする。僕は慌てて手を離した。
ミカ先生は、机の上に乗っていた筆箱を手に取ると、そそくさと部屋のドアを閉める。
「フフフ、ごめんなさいね。邪魔者は消えるわ。ごゆっくり」
何故かニヤニヤ笑いながら去っていくミカ先生。
「ち、ちがっ!?」
ミカ先生、何か勘違いをしている!?
「どうしたんでしょう、ミカ先生」
呑気に首を傾げるピペ。
「さ、さあ。どうしたんだろうね」
僕は冷や汗をぬぐった。
それにしても、だ。
僕の記憶、いつか戻る日が来るんだろうか?
僕は記憶を失くす前、どんな人生を送っていたんだろう。
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