第28話 ピペの決断

「私は、お母さんと一緒に帰国します」


 耳を疑った。僕は、ピぺが帰るのは嫌だと、ここに残ると言ってくれるものだとばかり思っていたから。


 どうしてピぺは、そんなに簡単に帰るだなんて言うんだろう。

 まだ調べていないことが沢山あるじゃないか。新宿も、23区も......


「そうね。お母さんも心配してるでしょうし」


 オム先生は穏やかな口調で言う。


「あなたがいなくなって寂しいけど、向こうでも頑張ってね、ピぺ」


 悲しげな笑顔。だってそうだ。オム先生だって、ピペには帰って欲しくないはずだ。それなのに、どうしてピペは......


「この子が帰る決心をしてくれて本当に良かった」


 ほっとした表情を見せるピペのお母さん。


「このままでは、宇宙人だの超古代文明だの、下らない夢ばかり追いかけてろくな大人になれませんわ。この子には父親のようにはなって欲しくなかったから」


 ――下らないって何だよ。宇宙人も古代文明もピぺの子供の頃からの夢だ。そうだろう?


 だけど、ピペの表情は動かない。


「この子には、きちんとした学校を出てきちんとした人と結婚して、いずれは家業を継いでもらわなくては」


 ――だって、そんな......


 ピぺは伏せていた目をちらりとこちらに向け、蚊の鳴くような声で言った。


「......はい」


 どうしてだよ。


 僕の胸には、ふつふつと煮え切らない思いが湧き上がっていた。






「荷物の整理は進んでる?」


 夜になり、僕はピぺの部屋を訪ねた。


「はい」


 トランクに黙々と荷物を詰めていくピぺ。

 

 ピぺの手が、枕元の古びた写真に伸びた。

 金髪の男性が、旧式の飛翔船の前で誇らしげにポーズを取っている。


 この人……そうだ。所長室で見た。


 古代トウキョウ遺跡を見つけたっていう、前の所長だ。


「その人……」


「私の父です。ここの創設者なんです」


 ピぺは写真を懐かしそうに眺めた。


 そうか。外国人であるピぺがこの土地にわざわざ来たのは、父親である前の所長の影響だったんだ。


 僕が所長室の写真に見覚えがあったのも、初めてここに来た日、ピペの部屋でこの写真を見たからだったんだ。


「そっか。凄いね」


「ええ。でも、数年前に友人と飛翔船で出かけたっきり行方不明になって」


「えっ?」


「恐らく、岩礁地帯で墜落したんじゃないかって」


 ピペは窓の向こうの海を見つめた。


「私は、父のようになりたかったんです」


 口元に笑みを作るピぺ。


「でも母にとって父は、家庭を顧みず、くだらない趣味に没頭し、挙句の果てに命を落としてしまうそんな人で――そんな父のようには、私にはなって欲しくなかったんでしょうね」


 下らなくなんかない。立派な夢じゃないか。僕はその言葉を飲み込んだ。


「ピぺのお父さんも、宇宙人や超古代文明が好きだったんだ?」


「ええ。趣味が講じて、ここに研究所まで建ててしまったぐらい」


「そうか。すごいね」


 でも君は、お父さんが作ったこの研究所からいなくなってしまうんだろう?


 僕は部屋の中を見渡した。

 あんなにごちゃごちゃだった机にはほとんど本が残っていない。


 あの日――ピぺと出会った日に、僕が座ったベッドのピンクのシーツも、海を見た窓のハイビスカスのカーテンも、枕元の写真もパイロット帽も、すべてがガランと消え失せている。


 ああ、本当にピぺは居なくなるんだ。帰ってくるつもりは無いんだ。そうひしひしと感じて、僕の心臓は焼けるように痛んだ。


「どうして?」


「何がです?」


「ピぺがこんなににすんなり帰国するなんて。まだやり残した事が沢山あるじゃないか」


 ピぺは軽く頭振った。


「だって、仕方ないです」


「仕方ないって」


 窓の外を見つめるピぺ。


「逃げ隠れしても、いずれは見つかるものだと分かっていました。心の隅では、いつかきっとこうなるんじゃないかって、覚悟してました」


 弱々しく笑う声に、僕は少し視線を落とす。


「僕は......ピぺにだけはそういう事を言って欲しくなかった。ピペがそんないくじなしとは思わなかったよ」


 僕にとってピぺは、いつだって自由で、明るくて、夢とやる気に満ち溢れていて......そういう女の子だったのに。


「そんなこと言われても、それはあなたが勝手に私に抱いていたイメージでしょう。現実には、親の前には子は無力です」


 膝の上でこぶしを握り締めるピペ。


「ピぺは子供じゃない。もう十七じゃないか。自分の人生くらい自分で決められるはずだ」


「自分で考えた結果、決めたんです。家に戻るって」


「ピぺ......」


「決めたんです」


 遠くを見つめる瞳。

 もうだめなのか? どうにもならないのか?


 僕は意を決して言った。


「二人で、星空を見ないか?」





 僕たちは二人で星を眺めた。


 静寂が、あたりを包む。

 僕たちが出会ったあの日のように、波は寄せては返し、星は空で静かに瞬いている。


「ピペ......本当は帰りたくないんだろう?」


 僕が言うと、ピペは悲しげに遠くを見つめた。


「分かりません」


 台風の名残を残す冷たい風が吹き抜ける。


「私も、初めは絶対に帰るもんかって思ってたんです。でも私を最初に見たときのお母さん……あの厳しいお母さんが泣いたんです」


 ピぺの目に涙が浮かんでいる。


「馬鹿なことをと殴られる覚悟はしていました。叱られると思っていました。でもお母さんは、私を見て『無事でよかった』と……」


「ピペ……」


「私には……母を裏切ることはできません」


 月上りが、ピぺの頬を青白く照らす。決意に満ちた、その横顔を。


 僕は、それ以上は何も言えなかった。だって、僕もお母さんが――顔もよく思い出せない、ただ声だけが記憶に残っているお母さんを大切に思っていたから。


「本当に――本当に帰るんだね?」


「はい」


 ピペは静かに、だが力強く頷いた。


「明日の船で、私は帰ります」


 僕は観念してこう言った。


「......そうか」


 仕方ない。


「分かった。新宿は、僕一人で探す」


 僕はそう言って部屋に戻った。


 そうするしか無いんだ、きっと。





 密封されていたサイダーの蓋を開けるように、思い出は次々とこぼれ落ちてくる。


 そうだ、あれは――


 あの日も、星の綺麗な晩だった。


 僕は荷物をまとめる父さんの背中をじっと見つめていた。


「父さん、本当に行くの?」


「ああ。母さんを探しに行く」


 思わず父さんの腕を掴む。


「待ってよ。あれからもう何年経ったと思ってるんだ。母さんはもうとっくに――」


 父さんが振り返る。大きな目で僕を見ている。悲しいような、失望したような驚いたような、なんとも言えない色をした。


 僕は思わず手を離した。


 父さんを傷つけるつもりは無かった。

 僕だって、そんなの信じたくなかった。でも、認めないと。認めないと、余計に苦しいままだ。



「分かってる」


 静かだけどきっぱりとした父さんの口調。


「分かってるさ。僕だってそれぐらいの事は。でも、迎えに行かないと」


 父さんは僕の頭をくしゃりと撫でた。


「あの時は、毎日一緒にいるのが当たり前で、気づかなかった。でも離れてみて分かったんだ。僕は本当に母さんを愛していたんだってね」


 僕は目を見開いて父さんを見つめた。父さんがそんな事を言うのは初めてだった。父さんは少し視線を落として口元を引き締めた。


「それからすごく後悔した。あの時、母さんは東京に残ると言った。僕はその意志を尊重しようと思った。でも、今思えば、反対を押し切って、首に縄を着けて引っ張ってでもここに連れてくるべきだった」


 僕の目を真っ直ぐに見つめる父さん。


「本当にその人を愛しているんなら、その手を放すべきでは無かったんだ。だから――許してくれ。僕は行くよ」


 そして父さんは旅立った。

 母さんが愛した、あの場所へ。


 待って。待ってよ。

 どうして皆居なくなってしまうんだ。

 どうして。





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