石田君
ああ、疲れた。毎日残業が続くとなるとさすがに参ってしまう。今日も仕事、明日も仕事、明後日も仕事、明々後日も仕事。休みなんてほとんどなく、あったとしても疲れを取るために丸一日寝て過ごす、そんな日々を過ごしていた。
ふらふらになりながら家に帰ろうと道路を歩いていたら、電柱のすぐ側で泣いている子どもを見つけた。見た目は小学校低学年くらいであろうか。ここの通りは人が少ないし、夜になってしまうと人なんて自分以外滅多に通らない。そんな通りで子どもが泣いていた。
違和感を覚えつつも、何かあったに違いないと思った俺だが、この状況で泣いている子どもを無視することは出来なかった。
「ねえ、君、こんなところでどうしたのかな? お母さんとはぐれちゃった?」
お母さんとはぐれたは流石にないと思いつつも、子どもを怖がらせないように出来るだけやさしい口調で話したつもりだった。子どもは俺に気が付いて、泣きじゃくる声で言った。
「えっとね…僕、実は親に捨てられちゃったんです。捨てられたっていうより、忘れられたのかなあ」
言っている意味がよく分からなかった。捨てられたというより、忘れられた? 一体どういうことだろう。
「忘れられたっていうのは、どういうことなのかな? お母さんとお父さんは、君を置いてどこかに行ってしまったってこと?」
「うん…多分、そういうことだと思います。ずっと待っているんだけど、なかなか迎えに来てくれなくて」
なんてことだ、こんないたいけな子どもを放っておいて、どこかに行ってしまうなんて。腹立たしい気持ちになったけれど、このまま子どもを置いて自分だけ帰るというわけにはいかない。さて、どうしたものか。
「じゃあ、行くところがないならおじさんの家に来る?」
自分でもこんなことを言うつもりはなかったのだが、なんだろう、この子を見ているとなぜか放っておけなくなってしまったのだ。
「いいの…?」
「うん、いいんだよ。もし君が嫌じゃなかったらの話だけどね」
「ううん、嫌じゃないです。ありがとう、おじさん」
こうして俺は、名も知らない子どもを、いったん保護するという形で家に招きいれた。はたから見れば、誘拐にも見えただろうが、誰も見ていないし大丈夫だろう。
少し歩いて、自分の借りているアパートに着いた。子どもは少し緊張しているようだった。
「着いたよ。そういえば、君の名前はなんていうの?」
「名前…ですか…」
少し沈黙したのち、子どもはこう答えた。
「僕の名前は、石田です。ごめんなさい、下の名前は思い出せなくって」
驚いた。石田は俺の名字だ。こんな偶然もあるのだなあと思いつつも、俺は一抹の不安を覚えた。自分の名前を忘れるなんてことがあるのか? ということだ。もしかしたら、親に見捨てられたことがショックで、名前を思い出せなくなったのかもしれない。まだこんなに小さな子どもだし、深く聞くのはよくないと思い、無用な詮索はしないことにした。
「そうなのか。じゃあ、石田君。パパとママが見つかるまででいいなら、おじさんの部屋では好きにしていていいからね。あ、でも、勝手に出歩くのは危険だから、おじさんの許可を取ってからにすること。いいね?」
「はい、わかりました。ご迷惑をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
なんて礼儀正しい子なんだろうか。俺が小学校低学年ぐらいの頃は、もっと落ち着きのないガキだったと思うんだが、最近の子どもはみんなこんな感じなのだろうかと思い、感心した。ここで、仕事が終わってから何も食べていないことに気が付く。時計はもう10時を回っていた。
「あ、そうだ、ご飯は食べた?」
「いいえ、食べていないです」
「そっか。それじゃあ、ちょっと遅いけど夜ご飯にしようか」
そう言って俺は、飯の準備をした。石田君もいることだし、なにか栄養のあるものを食べさせないと。そう思った俺は、簡単に出来る、野菜の沢山入った野菜炒めを作ることにした。
「石田君、野菜炒めでいいかな?」
「はい、なんでもかまいません。野菜炒めだいすきです」
いい匂いが部屋中を包み込む。俺特製のたっぷり野菜炒めが完成した。まあ、野菜を炒めただけなんだけど。
「お待たせ石田君」
「うわあ、おいしそう」
子どもだから、少しくらい野菜は苦手だと思っていたけど、この子はそうではないようだ。
「野菜好きなの?」
「はい、だいすきです。栄養があるし、食感もいいですし」
「意外だなあ、俺が小さい頃は野菜なんて全然食べなかったけどね」
「そんな、もったいない。こんなにおいしいのに」
がっつく石田君を眺めながら、もし子どもが出来たらこんな感じなのかなあと、少しだけ思った。ご飯も食べて、お風呂にも一緒に入り、少しだけテレビを見た。時間も12時になろうとしていたので、明日も仕事があるし、寝ることにした。
「それじゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
そう言って、部屋の電気を消した。
朝6時の目覚ましが部屋中に鳴り響き、俺は目を覚ました。その音で石田君も目を覚ましたようで、眠そうな目をこすりながら、あいさつをしてきた。
「ふああ…おはようございます」
「おはよう、このまま寝ててもよかったのに」
「そういうわけにはいきません、せめておじさんが仕事に行くまでは起きてます」
しっかりしてるというか、なんというか…。それでも俺は、なぜか少しだけ温かい気持ちになった。
仕事に行く準備も整ったので、すぐに仕事に向かおうとしたが、石田君に忠告するのを忘れなかった。
「いいかい、石田君。俺が帰ってくるまでは絶対にここから出ちゃだめだよ。おなかがすいたら、今朝作ったものを温めて食べてね。暇になったら、部屋にあるゲームをしていてもいいから」
「わかりました。気を付けて。お仕事頑張ってください」
石田君にそう言われて、俺は仕事場へ向かった。
すっかり遅くなってしまった。明日は休みだからって、上司め、こき使いやがって。石田君大丈夫かな。
「ただいま、遅くなってごめんね」
玄関を開けてそう言うと、石田君は正座をしながらゲームをしていた。
「おかえりなさい。おつかれさまです。暇だったのでゲームをしていました。これ面白いですね」
案外寂しがってはいないようだ。少しほっとした。俺は自分の分のご飯を平らげて、風呂に入った。石田君は先に入っていたようだ。風呂から上がり、明日は休みだということを石田君に伝えた。
「明日は休みなんだけど、どこか行きたいところとかある?」
「えっ? えーっと…あ! 野球をみにいきたいです!」
野球か、俺も野球は好きでやっていたし、たまにはいいかもな。
「よし、分かった。明日は野球観戦といこうか」
「やったー!」
素直に喜ぶ石田君を見て、なんだかこっちまで嬉しくなってしまった。
「それじゃあ、明日に備えて今日はもう寝るか!」
「はい! おやすみなさい!」
朝になった。今日観に行く試合は昼過ぎからなので、早速準備をして出かけた。石田君はとても嬉しそうだった。球場に着き、贔屓する球団側のベンチに腰掛けた。ほどなくして試合が始まった。
試合は接戦で進んでいき、贔屓球団は負けていたが、一打サヨナラの場面を迎えていた。バッターは四番、ここで一発出れば勝ち。緊張した空気が球場に漂っていた。
「うおーーーー! かっとばせーーーー!!!」
石田君は小さい体に似合わない大きな声を出していた。気付けば俺も負けじと応援していた。
ピッチャー振りかぶって、投げた。
カーン!
快音と共に、ボールは観客席へ飛び込んだ。ホームランだ。俺と石田君は抱き合って喜んだ。
「すっごーい!! 入りましたよ! サヨナラだあ!」
「ああ、すごかったな今の! ボールが吸い込まれていくみたいだった!」
こんなに大きな声をだしたのはいつぶりだろうか。まだこんな声を出せることに、俺自身驚いていた。石田君はまだ喜んでいた。
球場をあとにして、家へ帰る途中でも、石田君の興奮は冷めていないようだった。
「それにしても、あのホームランすごかったですねー! さすが四番! って感じで!」
こんなに喜んでくれるなんて、連れてきてよかったな、なんて考えていた。すると、石田君は急に黙り込んでしまった。
「石田君、どうかしたの?」
「おじさん、今日は本当に楽しかったです。とっても楽しかったです。おじさんは明日からまた仕事ですよね。でも僕、おじさんとまだまだいっぱい遊んでいたい、そう思っちゃいました」
そう言った石田君は、また黙り込んでしまった。親に見捨てられたということは、こんなこと一度もしたことがなかったんだろうな、どうにかできないものか…。そういえば、俺は有休をまだ消化していないことに気が付いた。上司からは早く使っとけと言われていたが、特にすることもなかったので、使っていなかったのだ。有休を使えば、石田君とまだ一緒にいられる時間が増えるかもしれない。
「石田君、おじさん、もしかしたらお休みがたくさんもらえるかもしれない」
「え? 本当ですか?」
「うん、だからね、もしお休みがもらえたら、石田君がしたいことをいっぱいやろうよ」
「おじさん…ありがとうございます!」
そう約束した俺は、翌日早速有休申請をしに行った。
申請は案外すんなり通ったようで、三日間だけだけど翌日からでいいようだ。俺は帰ってすぐ石田君に報告した。
「…ということなんだ。明日から三日間は休みだから、何がしたい?」
「じゃあ僕、今度は…」
それからの三日間はあっという間だった。あるアーティストのライブに行った。漫画喫茶に行って一日中漫画を読んだ。一緒にゲームをした。消防士の演習を遠くから見た。大学に行った。映画を見に行った。その他に沢山のことをした。その間、ずっと石田君は楽しそうだった。しかし、時の流れははやく、明日からまた仕事に行かなくてはならなかった。
「石田君、三日間俺もすごく楽しかったよ。でも、明日からまた仕事なんだ」
「はい、僕もすっごく楽しかったです。でも、いいんです。僕は今からいなくなるので」
「え? いきなりなに言ってるの?」
「思い出してください、僕と過ごした日に、なにをしたのかを」
ここで俺は少し考えた後、はっとした。
「気付いたようですね。そう、僕は人ではありません。あなたが見た夢たちです。正確に言えば、僕ではなく、僕たちでしょうか」
「え? ええ?」
俺は驚きを隠せなかった。まさか人ではなく、夢? そんなことあるものか。いやしかし、この子のこれまでを考えれば、納得がいってしまう。石田という名前も含めて。
「色々ありましたが、僕たちは、あなたが見た夢なのです。実際あなたは忘れていたでしょう。だからこうして僕たちが現れたのです」
「じゃ、じゃあ、野球を見に行ったのも、ライブに行ったのも、一緒にゲームをしたのも全部…」
「はい、かつてのあなたの夢たちです。でも、よかった。思い出してくれたようで。これで心おきなく消えることができます」
淡々と喋る石田君は、とても大人びていて、寂しそうでもあり、嬉しそうでもあった。俺は、今の俺は…。
「待ってくれ! 消える前に教えてくれ! 俺の夢は…俺の夢たちは今の俺を怒っているか!? 結局なんにもなれずに、一般的なサラリーマンとして働き、上司には毎日頭を下げ、深夜まで残業を続けている情けない俺を、夢たちはどんな目で見ているんだ!?」
叫ぶようにして言った。胸からこみあげてくるなにかを感じた。
「…いいえ、怒っていませんよ。それがあなたの選んだ道なのだから、精一杯頑張ってほしいと思っています。ただ、働きすぎはよくありませんけどね」
石田君、いや、夢たちはとても温かい声でそう言った。俺は黙り込んでしまった。
「さて、それでは、そろそろ行かなくてはいけません。最後に一つだけ、この言葉を言わせてください」
夢たちは、最後にこう言った。
「僕たちは、いつまでもあなたのことを忘れませんから」
そう言って、消えていった。消えた瞬間、やはりあれは本物の夢たちだったんだなと改めて思った瞬間、涙があふれてきた。俺は自分の見た夢たちを、年を取るにつれて忘れていってしまったけど、夢は俺のことを忘れていなかったんだ。
今はもう消えて、いなくなってしまった夢たちに聞こえるか分からない、絞り出すような声で、俺は…。
「ありがとう……」
やはり、涙は止まらなかった。
朝、目が覚めて、昨日のことが嘘みたいないつも通りの朝だった。スーツに着替え、会社に行く準備をし、玄関へ向かう。
「行ってきます」
あの愛らしい石田君の顔を思い浮かべながら、俺はアパートを出た。
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