今夜は月が綺麗

 まず初めに、これを読むにあたって、ロマンチックな展開だとか、歯が浮くような話では決してないということだけを断言しておく。逆にそんなロマンに溢れた話があるのなら、是非僕に紹介してほしいところだ。僕だってそのような話にしたいというのはやまやまなのだ。いや、考えてみると、そうなる要素は多少はあったのもしれない。しかし、そうはならなかったのが現実なのだ。これは僕が体験したことを、日記のようにつらつらと記していると思って差し支えない。僕はいつだって、望んでいない形で、望んでいないことをしてしまう。



 地球はいつからか、月が見えなくなってしまっていた。なぜ見えなくなってしまったのかという理由を、テレビの特番で説明していたようなのだが、いかんせん興味のない僕は全く気にしなかった。ただ天体観測が趣味な人や、月を見るのが好きだった人は大いに嘆いたらしい。夜になれば暗くなるし、暗くなれば星が見える。違うのは、今まであった月が無くなってしまった。ただそれだけのことだ。


 そんな月だが、どうやら毎年決まった日に一度だけ、地球に顔を出す時があるらしい。日にちは十月十日。月が消えてしまってから、毎年この日だけは月を見る絶好のチャンスということらしいのだ。「チャンス」と言っているから分かることだろうが、もちろん気候次第では見ることが出来ない。「一年に一度見ることが出来る」というところから、天の川のように、月を見ることがとても稀なものになってしまっていた。


 今は九月。僕は高校二年生になっていて、友達もそこそこと増えてきていた。中学校から仲の良かった友人たちは、皆それぞれ違う高校に通うようになり、僕自身は自宅から一番近い学校に通うことになった。僕の愛用する自転車を漕いで二十分、電車に揺られながら通学するよりは遥かにマシだろう。


 僕が通う高校は、僕以外にも一人だけ中学校からの知り合いはいた。月島亜季さんという女の子で、中学校で三年間同じクラスの子だった。しかし実際に彼女と話した回数は数えるくらいしかなく、彼女のことはあまりよく知らない。眼鏡をかけていて、髪は長いほうで、前髪が目にかかっているから顔はどんな顔をしているのかよく分からない。その他には、頭が良くて、大人しい感じで、いつも本を読んでいるということから、読書が好きという印象しかなかったのだ。もう高校生活も二年目だというのに、やはり彼女のことに関してはあまりよく知らない。こう言ってしまうと、あたかも僕が彼女に少し気があるように思えてしまうのだが、それは早計だ。ただ僕は、自分が知っている人間の最低限のことは知りたいタチなだけなのだ。今までで僕と友人だった人のある程度は知っている。何が好きで、何が嫌いなのか、どんな性格をしていて、どんな趣味を持っているかなどのことである。当然、友人になって深いことを知るに足る人物だった場合はさらに親睦を深める。そうでない者だったら、それ相応の振る舞いをする。僕はそうやって友人を作ってきたし、そうやって生きてきたのだ。そんな考えを持っている僕なのだが、やはり彼女に対しての好奇な目は隠すことが出来ない。それは何故か考えてみると、僕の得意の「立場を第三者目線に置いて考えてみる」が発動した。長いので僕はこれを「TDOK」「タダオカ」と呼んでいるのだが、これを発動することによって、僕はこれまでの悩みと向き合ってきたのだ。タダオカによると、中学校からこの高校に通うようになった人は、僕と彼女のみで、僕の理由は先ほど説明したばかりだが、彼女がなぜこの高校を選んだのかはよく知らない。彼女の家から近いというわけでもなさそうだし、勉強に力を入れている高校というわけでもない。頭の良い彼女がなぜ僕と同じ学校に、しかも中学校で二人だけ。これはもしや、彼女は僕のことが好きなのではないかという結論をタダオカが導き出したのだ。いや待て、少し落ち着けと僕はタダオカをなだめる。その結論は飛躍しすぎているのではないか。もしそれが本当だったとしたのなら、中学校のうちからそのようなことを匂わせる出来事があっていいはずだし、ましてや同じ高校なんだから、アプローチの一つや二つぐらいあってもいいはずだ。それがないということはつまり、そういうことなんだろうと思うのだが、彼女は大人しい。もしかしたら人と話すことが苦手なのかも知れない。話したくても話せないのかも知れない。彼女を知らなさすぎることがここで返ってくるとは、やはり僕は彼女に対して少しは知るべきだと思うのだ。しかし彼女は僕に対して何か思うことはないのだろうか、なんて反芻しながら日々を過ごしていた。


 悩みというのは一生の友だと思う。何をするにしても、本当にこれでいいのか、駄目ならどうしていけばいいのかと、悩み、考え、解決に向かって喘ぐ。解決したとしても、また新しい悩みに振り回され、必ず僕の周りを憑いてまわる。そんな悩みの友がまた僕に話しかけてきた。

「なあ、そろそろあの子に話しかけてみてもいいんじゃないの? お前はあの子に興味がある。興味があると言ったらお前の気分を害してしまうかもしれないから、必要最低限のことは知りたいという言葉にかえておくけどさ、もう高校二年生だぜ。モヤモヤしたまま生きていくなんて、お前らしくないと俺は思うんだよ」

なにやらごちゃごちゃ言っているようだ。でもまあ、モヤモヤしたまま生きていくのは確かに僕らしくないのかもしれない。しかしこんな悩みの友に納得させられたような気にされるのはなんとなく癪なのだ。

「ええい、うっとうしい。そんなのお前に言われてたまるか。僕は自分を知っている。決して馬鹿じゃない。時が経てば解決することだってあるだろうが、この問題は逆なのだ。時間が僕の足を重くしているのだ。今もし彼女にいきなり話しかけてもみろ。今になって何で話しかけてくるんだろうと思われるのがオチだ。それでは絶対に話は続かない。そんなことは無いかも知れないが、僕はそう思う。人間自分が思っていることが最優先とされるのだ。この気持ちは人ではないお前には分かるまい」

と、悩みの友を撥ね退けてみようとしても、悲しいかな、人間は考える葦という言葉があるように、考える能力があるからこそ人間なのだ。一人でぶつぶつ言ったところで何の解決にもならないことは重々承知していた。しかし、この悩みの友が語りかけてくるのだから仕方がない。

「お前らしいや。ということは、彼女を知るに足りる自然な出来事があればいいんだろ?」

悩みのくせしてなかなか僕が重要だと思うところは的確に突いてくる。やはり今まで一緒でいたからこそ成せるものなのだろうか。

「まあ、そういうことになるのだが、正直なところ全く良い案が浮かばない」

「今は九月だ。来月には何がある?」

ああ、なるほど、と僕は思った。


 悩みの友が言ったように、来月には年に一度の地球に月が顔を出す日がある。悩みのくせになかなか粋なことを思い出してくれる、やはり悩みだからと言って侮れん。僕が悩みを友と呼ぶ所以はこういうところにあるのだと思う。早速取り掛かることにした。まず、月がよく見える場所はどこなのだろうか。ネットで探すことも出来るだろうが、僕は機械音痴なのでネットをどうやって利用すればいいか分からない。今の御時世、これはけっこう致命的な弱点だと思うのだが、社会に出るまでに何とかすればいいだろうという安易な考えがあったから今に至る。とにかくネットは使えない。もし使えて、良い場所が分かったとしても、ネットに書いてあることなのだから、そこは人で溢れかえっているに決まっている。どうせいるのも付き合っている男女ばかりだろう。何が楽しくて、罰ゲームでもないのに月と一緒にそんなものまで見なければいけないと言うのだ。考えただけで腹が立ってきた。僕は付き合うということに対しては全く何も思わない、どうぞ勝手にやってくれという感じなのだが、人目も憚らずに街の中や公共の場でべったりしている男女を見るのがとても嫌いなのだ。美男美女なら百歩譲って許すことは出来ようが、そうじゃないものを見るのはとても堪えられない。「自分たちは付き合っている」という事実がお互いでお互いの顔を美化させてしまっているのではないのだろうかという仮説さえ立ててしまうほどだ。僕が颯爽と、あなたたちは今こんな顔をしていますよ、と鏡を見せたらどうなるのだろう。そんなものより自分が吐いた反吐の方がよっぽど愛することが出来る自信がある。いや、それは言い過ぎかもしれないが。ということはやはり、付き合うということは慎ましく清らかである方が僕にとって好ましいということは明らかであるだろう。話がやや脱線したが、そうなると月を見るに相応しい場所はどこにあるだろうか。


 これといったものが出ないまま、僕はわけもなく出かけてみることにした。今日は休日、とりあえず街まで出てきたはいいものの色々な人が行き交っている。人が多すぎて少し参ってしまいそうになった僕は、街に繰り出すのは間違ったかなと思い踵を返した。そもそも人が造り出したものばかりの街から見る月が綺麗なわけがあるか、なんとなく出てきやがって、少しは反省しろと自分で自分を叱った。街から離れて、ぶらぶらとしていたのだが、やはり良い場所は見つからなかった。人が造ったものが多すぎる、少しは自然らしい場所はないのだろうかと考えていたところ、ふと思い出した。そうだ、子供のころよく行っていた秘密基地なんてどうだろう。家から少し遠いが、あそこは木々で囲まれていて、自然が沢山生きている。秘密基地と呼ぶくらいなのだから、当然人がいるわけもない。ぴったりだ。あそこだ、あの場所にしようと思い、早速向かってみることにした。


 ほどなくして秘密基地に着いた。大きすぎる木がどっしりと構えていて、もちろん枝も太くて大きい。その枝にどこから持ってきたのか分からないベニヤ板を張り付けて床のようにしてある。意外と安定感があり、出来た時はみんなではしゃいでいたことを思い出す。頑丈そうな枝にはそれが全て張り付けられてあり、それぞれの枝は壁のない部屋のようになっていた。置いてあったおもちゃも残っていたが、風雨に晒され、とてつもない色に変色していた。全く、ここに来るのは何年振りだろう。小さい頃に作った時とあまり変わりはなく、木の根元に雑草が生い茂っているだけだった。あの時はただ遊ぶのが楽しかったなあと一人で感傷に耽った。なにはともあれ、月を見る絶好の場所が確保出来たことで、僕は安堵していた。しかし、こんな我が物顔でふんぞり返って生命を維持している憎き雑草を取り除かなければならなかった。刈り取らなければ誘えるような場所ではない。僕は相当骨が折れるのを覚悟した。


 翌日、僕は早速草刈りをしに秘密基地へ向かった。片手には鎌、片手には大きなビニール袋を持って作業に取り掛かった。初めてやる草刈りで、はじめは思うようの草が刈れず悪戦苦闘したが、同じことを続けていくと要領が分かってきたのか、どんどん作業が進んでいった。やはり僕はなんでも卒なくこなしてしまうタイプなんだろうな、なんて思っていたのだが、途中からだんだんと腰が痛くなり、草を刈ってくるのも嫌になってきた。そこをぐっと堪えて黙々と作業は続いていった。作業中、僕に度々語りかけてくる悩みの友はすっかり出て来なくなった。夕方になり、日が落ちそうになってくる頃、ようやく全ての草を刈り終えた。昨日見た、草ばかりの秘密基地とは見違えるように綺麗になっていた。自分の仕事ぶりに満足しながら、痛くなった重い腰を上げて、帰路につくことにした。


 貴重な休日を丸一日草刈りに費やすという、青春真っ只中の高校生では考えられない一日を過ごした僕だが、そのせいか腰だけでなく色々な所が痛い。多分筋肉痛だろう。随分と久しぶりな筋肉痛だが、くそ、筋肉痛とはこんなに体が重くなるものだったか。高校の体育系の部活に入っている同級生が、趣味は筋トレ、筋肉痛は気持ちいいと言っていたが、こんなものが気持ちいいわけがあるか。ああいう活動をしている者は、脳みそまで筋肉になっているのか。なるほど、脳筋とはよく言ったものであると、全国の体育会系の人を敵に回してしまうようなことを、一人でふらふらと考えながら歩いていたら、いつの間にか学校に着いていた。


 学校に着いて一息ついたのだが、ここで大きな問題があることに気付いてしまった。

「なあ、場所は決まったようで何よりなんだが、月島をどうやって誘うんだ?」

久しぶりだな悩みの友よ、よく分かっているじゃないか。そう、今度はどのようにして彼女を誘えばいいのかという壁に直面していた。

「そうだな、別に何か良い案があるというわけではないから、普通に直接誘ってみようかと思うのだが」

「それならそれでいいんじゃないか、俺は何も言わないけど」

そうしてくれた方が助かる。ここで僕のタダオカが発動した。タダオカによれば、いきなり誘ってみたとしたら、大抵の確率で断られることだろうということだった。理由を聞くと、やはり今更感が強く出るし、高校に入ってから特別仲良くしたということでもない。それを聞いた僕は納得してしまった。納得してしまったのだが、それでタダオカの言いなりになってしまっては、卒業するまで彼女のことを知る機会がなくなる予感がした。今までずっと頼るべきタダオカの言いなりになっていた僕だが、今回ばかりはタダオカに反抗してみようと思った。人間は自分の殻を破ることで成長すると言うが、もしもその言葉通りなら、今がその時なのだろう。僕は愛すべき僕のため、一肌脱ぐ決意をした。


 一肌脱ぐ決意をしたはいいものの、なんて声をかければいいか分からずに時間だけが過ぎていった。今は十月三日。月が見られる日まであと一週間となっていた。本当なら前日に誘いたいのだが、もし予定が入っていると断られたら正直かなりへこんでしまうだろう。それだけは避けたい。実行するなら今日しかないと思った。彼女が人気者で、休みの日は誰彼からか遊びのお誘いを受けているとしても、一週間前に誘ってくる人なんていないだろう。まあ、それは僕のただの願望なだけなのだが。


さらに時間は過ぎて、結局言えずまま放課後前のHRになってしまっていた。さすがの僕でも焦っていた。もう言うタイミングは放課後しかないと思っていた。幸い彼女も部活には入っていないようだし、HRが終わってすぐ言えば問題ないだろう。しかしクラスが違うから、先に帰ってしまうこともあるかもしれない。なら走って追いつけばいいだけだ。HRが終わって、僕は一目散に彼女のいる教室まで走っていった。しかし、彼女の姿は見当たらない。どうやら先に帰ってしまったようだ。ドキッとしたが、そっちの方が好都合だ、まだ人がいる教室で誘うなんて、まるでデートにでも誘う男の姿ではないか。と考えて落ち着こうとしたが、ここで僕は彼女をデートに誘いたいのかという、いらない疑念に苛まれ、冷静さを完全に欠いていた。頭の中は彼女のことでぐるぐるしていたし、もし断られたらどうしよう、どうしようという気持ちで昇降口へ向かっていた。途中クラスの友達が僕を見つけて、今日遊ばないかと誘ってくれたのだが、僕は今それどころではない。友達の横を通り過ぎ、結果無視をしてしまう形になってしまったのだが、後で謝ればいいことだろう。今は心の中で謝っておく、すまん。早歩きをしながらかける言葉もまとまらずに、彼女を見つけてしまった。中履きを脱いで、自分のローファーに手をかけていた。今まさに帰らんとしているところだろう。僕は思わず彼女を呼び止めた。幸いまわりには誰もいなかった。

「あの!」

呼び止めたはいいものの、やはりなんて言えばいいかまとまっていない。しんとした空気が漂った。この空気に耐えられなくなったので、もうどうにでもなれと思い僕は切り出した。

「来週のこの日、一緒に月を見ませんか」

我ながらストレートすぎる言葉だなと思い、なぜか急に顔があつくなった。本当なら僕はこんな直球な言葉を言う人ではない、もっとスマートに誘うことだって出来ただろうに、僕らしくもない、冷静さを欠いていたせいだ、きっとそのせいだと、自分に言い訳をするように彼女の返事を待っていた。すると彼女は驚いた顔で

「あ、ああ、いいですよ。来週の今日ですね。分かりました」

と言ってくれた。あっさりだった。僕はその瞬間、緊張していたものがプッツリと切れ、大きなため息を漏らしていた。このため息は漏らさない方が良かったかもしれないが。

「よかった、ありがとう。それじゃあ、来週楽しみにしていますね」

僕はそう言って、軽くお辞儀をして学校を後にした彼女を見送った。言ってしまえば意外とすぐだったんだな、僕はなぜこんなに怖気づいていたのだろうかと思ってしまうほどだった。とにかく、約束は取り付けた。これで準備は整った。悩みの友よ、待っていろ、もうすぐお前とこの件を解決出来たということで、杯をあげることが出来そうだ。その杯はもしや酒ではあるまいなと無粋なことを言う輩は黙っていてもらいたい。


 約束をしてから、正直なところ僕は日が経つにつれてどんどん気持ちが高まっていた。いよいよ彼女のことについて知ることが出来る。聞くとしたらどんなことを聞いてやろう。今までずっと聞いてこなかったのだから、少しディープな質問の一つや二つ聞いてもいいだろう。約束の日は明日に迫っていた。


 ついに約束の日になった。朝にやっていたニュースでも、今日の月について大々的に取り上げていた。

「今年もついに月を見ることの出来る日がやって参りました。気になる天気の方ですが、なんと今日は全国的に晴れ、月を見るのには絶好の天気となっております。本日の夜空は、いつもの夜空より格別に綺麗に見えるでしょう。大切な人と一緒に、ロマンチックなひとときを過ごすのはいかがでしょうか」

いや、僕の場合は大切な人ではない。ただ少し気になっていた人を知るために、今日の月を利用するだけだ。決してそういう意味ではない。


今日は平日だから、学校があった。学校の授業なんて頭に入るわけがなかった。放課後になり、彼女のところに確認をしに行った。教室に行ってみたがやはり彼女は先に教室を出ており、約束をした日のように昇降口にいた。

「あの、今日のことなんですが」

そう言って彼女の注意を引き付けた。

「はい、今日でしたね。どこへ向かえばよろしいのでしょうか」

きちんと今日のことを覚えていた。もしも今日のことについて、すみません忘れていましたなんて言葉が出たら、僕はその場でこの件について自分から破棄するつもりでいた。

「とりあえず、学校の近くに公園がありますよね? そこで九時に待ち合わせしましょう」

「分かりました。では、時間になったら行きますので、よろしくお願いします」

そういって彼女はあの時と同じように、軽くお辞儀をして学校を後にした。僕はそれを同じように見送った。さて、僕も家に帰って出かける準備をしなくては。


 約束の時間が次第に迫ってきていた。今は八時半、そろそろ家を出て待ち合わせ場所の公園で待っていてもいいだろう。家にいてもやることもないし、なんとなく落ち着かないから、玄関で靴を履いて行こうとすると、母親に声をかけられた。

「こんな時間にどこ行くの、もう夜は遅いわよ」

「うん、ちょっと月を見てくるんだよ」

それを聞いた母親は、少しにやりとした顔になり、何かを察したように言ってきた。

「ああ、あんたもやることはやってんのね、何だか少し安心したわ」

なにやら変な勘違いをしているようだ。馬鹿め、僕がそのようなものに現を抜かしにいくと思うのか。僕をうみだした母親なら、僕の考えていることを少しでも理解していると思っていたのだが、そういうわけではないようだ。そんなんじゃないと言い訳をするのも面倒くさくなったので、そのまま無視して家を出た。家を出ると、いつもの暗い夜空が、いつもよりとても明るいものだということに気が付いた。なるほど、テレビで言っていた通り、とても綺麗な月だ。少し見惚れてしまいそうになったが、この景色はあの秘密基地で改めて見るべきだと思い、僕は愛車にまたがり、公園へと向かった。


 公園についた。公園の時計を見てみると、八時五十分を回っていた。少し待ってしたら、遅れて彼女がやってきた。遅刻しないところを見ると、約束事にはきちんとしている人なのだろう。

「ごめんなさい、待ちました?」

「いいえ全然待っていませんよ。月を見るにあたってとても良い場所を知っているので、そこに行きましょうか」

待ち合わせをして先に来た場合の決まり文句を言ってから、例の秘密基地の場所まで行くことにした。彼女は徒歩で来ていたようなので、公園まで乗ってきていた自転車は押して歩くことにした。しかし、ここから秘密基地の場所まで遠い、なにか喋らなくては気まずい空気になってしまう。そう思った僕は彼女と話をしようと思った。

「あの、月島さんはなんであの高校に入学しようと思ったのですか?」

僕が一番疑問に思っていたところだ。これで少し探りを入れられることが出来るかもしれない。

「それについては、よく私の親ともケンカになりました。あなたならもっとレベルの高い高校に行くことが出来るって」

「え、じゃあなんで?」

あまり相手の家庭のことを聞くのは失礼だと思ったが、彼女がそう言ってきたのだから聞いてもいいだろう。

「あの高校って、図書館がとても広いじゃないですか」

「うん、広いですね。県で一番大きいって聞いたことがありますよ」

「それだけです」

「えっ? それだけ?」

思わず聞き返してしまった。それが彼女にとってはあまりよくないものだったらしい。

「それだけって言いますけど、私は本が好きなのです。小説とか読むのももちろんですが、分からないことがあれば調べることが出来ます。教養を深めることだって出来ます。何より本の発するあの温かい独特な紙の匂いが好きなのです。電子書籍というのもありますが、私はあれがどうも苦手で、これは私しか感じていないことなのかも知れませんが、冷たい感じがしてしまうのです。自分の世界に浸るってことがあるじゃないですか。私はそれが本を読んでいる瞬間なのです。図書館が広いということは、それほど本に対して理解のある学校なのでしょう。本が多いというだけで、私は魅力的に感じてしまうのです。だから私はあの高校を選んだのですよ」

一気に言われて、僕は面食らった。まさか彼女がここまで喋る人だなんて思っていなかったのだ。僕が少し驚いた顔をしたのに気付いたのか、彼女は少し恥ずかしそうにしていた。

「ごめんなさい。喋りすぎました」

小さい声で言った彼女の顔は、すっかり俯いてしまっていた。僕も申し訳ない気持ちになってしまった。

「いや、正直驚きました。月島さんがそこまで喋る人だったとは思っていなかったので。でも、いいですね。そういうちゃんとした理由があって高校を選んだなんて。僕なんてただ家から少し近いからってだけですよ。僕なんかよりは全然立派です」

本来ならこんなことを言う僕ではない。自虐的なことなんて絶対に言うことなんてないのに、なぜか口から出てきた言葉はそれだった。なぜこんなことを言ってしまったのかは、今となっては全く見当もつかない。彼女はそれを聞いて少し安心そうな顔をしていた。


 その後も彼女のことを聞いて新しいことを知ることが出来たし、当然僕のことも彼女に話した。中学校が同じということもあってか、中学校で体験した思い出話、行事など楽しかったことなどを話して、そこからは沈黙が続くことはなく、確証はないが手応えを感じていた。そんなこんなで、いつの間にか僕たちが目指していた秘密基地に辿り着いていた。

「ここで月を見るのですか?」

「そうですよ、なかなかいいところでしょう?」

「ええ、とても。手が加えられていて、あなたがここに連れてきたということは、あなたが小さいときにでも作った秘密基地といったところでしょうか」

驚いた。一目見ただけですぐ分かってしまうなんて。彼女はやはり、ただ頭が良いだけではないようだ。


木に登り、打ち付けられたベニヤ板の上で座って、夜空を見上げた。その夜空はまるで、今夜だけは月を主役にするかのように、炯々と真っ黒な空を照らしあげていた。もちろん星々も光っているのだが、その月の輝きには劣ってしまうようで、あまり目立っていなかった。とても幻想的な光景だった。なんとなくであったのだが、これが人類の原風景だということを直感的に理解した。初めて月を見てみたのだが、ここまで綺麗なものだとは思っていなかったのだ。彼女も自分の街から見る景色とは違うようで、やはり顔はよく見えないのだが、言葉通り目をきらきらさせていたことは間違いないであろう。いや、月の光によって僕が勝手に思っているだけなのかもしれないが。

「綺麗ですね、とっても」

彼女が声を出した。きっと心からの言葉なのだろう。僕も心の底からそう思った。これがよくある恋愛なら、ここで僕は、君の方が綺麗だよと言うチャンスなのかもしれない。しかし、僕がそんなくさいセリフを吐くと思ったか。ここまで読んでもらった通り分かるように、僕は彼女のことが人間的に気になっていただけで、そのような感情はこれっぽっちもない。そこは改めて言っておこう。

「はい、今夜は月が綺麗ですね」

その言葉を言った瞬間、彼女が固まったのが分かった。そして、ほんの少しだけ黙ったあと、

「…ごめんなさい」

と言った。僕は最初、なんで謝られたのか全く分からなかった。すこし考え、彼女が読書家だということを思い出して、僕も先ほどの言葉を言ってしまったことを後悔した。僕はこの後、彼女に対して見苦しく言い訳をしたのは言うまでもない。やはり、僕はいつだって、望んでいない形で、望んでいないことをしてしまうらしい。

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