涼国賢妃伝 ~路傍の花でも、花は花~

結城かおる

第1話 鈴玉立志

「……はあ、つまらない」


 今朝から数えて十六度目の溜息が、ごく若い女官の唇から逃げた。

 彼女は後宮のちょうど真ん中、太清池たいせいちと呼ばれる大きな池のほとりに腰を下ろし、鯉が餌を期待して寄ってくるのを眺めていた。


「つまらないったら、つまらない」

 まるで彼女の愚痴に賛同するように、もしくは餌を催促してのことか、鯉は口をぱくぱくさせる。

「残念でした。お前達が可愛い尾びれを振りつつ媚びを売っても、何にも持ってませんですよう」

 意地悪な笑みを浮かべ、女官は手にした小石をぽちゃんと水面に放った。同心円に広がるさざ波の下で、鯉たちが鈍い動きで身をひるがえす。

「ああ、あんた達はいいわねえ、私みたいに宮仕えの苦労も知らず、尾びれをぱたぱたしていれば、池の中が太平無事で……」

鈴玉りんぎょく!こんなところで何をやっているの、王妃さまがさっきからあなたをお探しなのに」


  同輩に咎められたらしい、「鈴玉」と呼ばれた女官はぷっとむくれる。そして、わざとらしく裳裾もすそをはたきながら立ち上がった。

「余計なお世話よ、香菱こうりょう。別に怠業たいぎょうというわけじゃなし、落とした腕輪うでわを探していただけ」

 明らかに疑いの眼を向ける香菱に、鈴玉は横目でにらみ返し「ふん」と鼻を鳴らすと、すたすたと自分の持ち場へと戻っていった。



 話は鈴玉の入宮前までさかのぼる――。


 彼女の父親である鄭駿ていしゅんは、貴族とは名ばかりの最下級の官僚であり、家は寒門かんもんという言葉さえおこがましいような貧窮のうちにあった。母親は苦労に苦労を重ねたあげく、三年前に病を得てあっけなく亡くなったが、それも金がないばかりに医者を呼ぶことができなかったためである。


 つなぎ目に隙間が出来、木目は割れ、蓋も満足に閉められないような棺のなかに、母は横たわっていた。祭壇には供え物が一つか二つ、所在なげに置かれているばかりである。その前に肩を落としてうずくまる父とは対照的に、一人娘は両の手を固く握りしめ、棺を睨みつけていた。


「……これ、鈴玉や。いつまでも突っ立っていないで、早く母親に拝礼しなさい」

 弱々しい駿の叱責も耳に入らぬように、鈴玉は低い声を絞り出した。身にまとっているのは親等の近い者が着る目の粗い麻の喪服、その固い襟がうなじに当たって痛かった。

「知らなかったわ、貧しいってこれほど惨めなものだとは」

「鈴玉」

「お父様はいいわね。鄭家が没落したといっても、まだ多少はましな時代のことを覚えていらっしゃるだろうから。でも私には何もないわ、貧しさの記憶以外は」

「お前……」


「お母様の喪が明けたら、私、王宮に入ります。後宮の女官になるの」


 娘の思いがけぬ言葉に父親は仰天した。

「女官って、鈴玉……跳ねっ返りのお前に女官勤めなどできるものか。いやいや、明君のほまれ高い我らが王、賢妃とたたえられる王妃のおわす王宮といっても、やはり魑魅魍魎ちみもうりょうがとぐろをまく場所には変わりない。お前がもし入宮しても、一月もせぬうちに死体となって出宮することになりかねん」


「お父さまは弱気ね。お母さまの前でこんなことを言うのも申し訳ないけれども、お父さまがもっと気丈でいらしたら、我が家門の没落も食い止められたかもしれないのに」

 娘の鋭い舌鋒に反論もできない父は、うつむいて頭を垂れた。


「……といっても、お父様を責めても仕方がないから、私が代わりに家門を立て直すのよ。いえ、きっと立て直してみせる」

 後宮に入って女官となり――そう、後宮という場所を利用して権力を持つ。彼女はそう決意したのである。

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