第10話




 チコウユの居場所は誰もが知っていた。

 木造建物が密集する繁華街の中で最も大きい、木と石で出来た立派な屋敷だ。


 チコウユに面会したいと申し入れたが、帯剣したリエットたちの言い分など聞き入れるはずもなく、門前払いを食らった。それでもしつこく粘っていると、しびれを切らした屋敷の警護が実力行使に出た。そのおかげで、リエットは自衛の大義名分をもって警護を吹っ飛ばし、ついでに千切れ飛んだ門扉をくぐり、屋敷へと踏み入った。美しい庭園を横目に、女中をかき分けて進んで行くと、家が何軒か立ちそうなほど広い部屋に出た。


 大理石の広間だった。

 その中央に、一人の老人が立っている。紅い星の腕章をつけ、部屋の上部に飾られた大きな絵画を見ていたが、リエットたちに気付いてゆっくりと振り返った。


 質素で単調な服に身を包んだ、恰幅の良い白髪の老人だ。

 ピンと伸びた背筋や落ち着いた佇まい。その眼光。


 常人では無いのが一目で分かる。


(チコウユだ)


 面会した事は無かったが、クルトンは確信した。


「おやおや、これまた不躾な訪問者のようだのぅ」


 チコウユは自らの顎を撫でつつ、泰然としたまま言った。

 リエットたち三名の侵入者を前に、まるで慌てるそぶりを見せていない。


 リエットはチコウユへと一礼した。


「面会の約束すらとらず、このような訪問とは呼べぬ押し入り。非礼の誹りは甘んじて受けましょう。けれど貴方には、物申さずには居られませんわ」

「ふふっ、よろしい。その若気、大変よろしい……」


 侵入者が来た、と屋敷は騒ぎになっている。だが、武器を携えた者と対面するというのに、チコウユは護衛一人つけていない。警護を呼ぼうとする気配すらない。


 イベリコの時と同じだ。

 そんなものが邪魔になるほど、チコウユは自身の持つ力に絶対の自信があるのだ。


 クルトンがそう考えていると、リエットが一歩進み出る。


「利益を最優先し、紙幣で人の頬を叩き、誇大広告で人心を惑わせ、食品偽装を横行させ、食の都ナゼカの環境を劣悪にした。あなたの行いは人の道に反しておりますわ!」


 リエットは単刀直入に言い放った。

 だがリエットの弾劾を受けても、チコウユは涼しい顔のままだ。


「なるほど、そうかもしれん。だがのぅ、お嬢さん。客にも問題があるのだよ」

「……どういう事ですの?」

「必要な対価すら払おうとせず、もっと美味く安く早くしろ、お客様は神様だ、質の良いサービスを提供するのが義務だ、やれ経営努力が足りない、モラルが無い、経営者が無能なのが悪い。……くっくっく、要求が無茶であれば、提供する側も無茶をするのが必定」


 チコウユはそう告げ、片方の目を大きく開けてリエットを見た。


「安全はタダではない。きれいな水もタダではない。仕入れも、接客も、店舗も、広告費も、商売である以上、何一つタダではない。経費がかかる。じゃが、客にとってはどうでも良い事。そんな事をまったく気にしない。では、タダに出来るものは?」


 チコウユにそう聞かれ、リエットは答えに窮していた。


 リエットの様子を微笑ましそうに見ながら、チコウユはにんまりと笑った。それは好々爺の笑みでありながらも、その双眸には、どこか寒気のする合理的な光が満ちている。


 なりゆきを見守るクルトンにはそう感じられた。


「……安心じゃよ、お嬢さん。安心はタダで良い。安全よりも安心じゃよ、消費者が求めておるのは。安心は情報を発信する力、つまり広告と郵便で作り出せる。売り手は利益を追求し、買い手は安心を得る。実に素晴らしい関係であろう? 仮に一割の人間が腹を壊して苦しもうと、残り九割が平気ならそれでいいのだ。腹の丈夫な九割は、いずれ一割に転がり落ちて地獄の苦しみを理解するまで、同じことを繰り返すものだ」


 無茶苦茶な物言いに、リエットは抗うように手を薙いだ。


「安全あっての安心ですわ!」

「甘いのぅ。人は信じれば皿ごと食らうものだ。それが例え、どんな毒であったとしてもな。くっくっくっくっ……表層ではどう言おうが、真に価値の分かる人間なんぞ一割もおらん。その瞬間さえ、美味ければ良いのだ。心地よければ何でもよいのだ」


 チコウユは禍々しさを漂わせて続けた。


「とにかく安ければ良いのだ。細かいことなどどうでもよいのだ。大勢の者が素晴らしいと言っていれば、それが素晴らしいと感じるのだ。より大勢の者がどう思うか、どれだけ売れたか、それがすべて。深く考えるなど面倒だ、楽しい事が重要なのだ。それが道理を無視する安さや、洗練とは程遠い粗雑さの産物でも、な。ワシはそういった、物事の道理や違いの判らぬ九割を相手に商売しておるのだよ。需要と供給、なにか、問題があるのかね?」


 悪びれもせずチコウユが問いかけると、リエットはまなじりを吊り上げた。


「お腹を壊してトイレに籠りきり……そんな不潔なプレイは許しませんわ!」

(プレイとかではなく死活問題なんだよ!)


 クルトンのツッコミは虚しく、リエットはマゾプレイの一環だと思っているらしい。

 リエットは剣の柄に手をかけた。


「最後の警告ですわよ、チコウユ。即刻、その心根と所業を改めなさい。さもなくば、神の奇跡を宿した勇者として、あなたを成敗いたします!」


 リエットはそう宣告するも、チコウユは肩をゆすって笑った。


「ほほぅ、勘違いの正義感を振りかざす馬鹿ものが現れたかと思えば、なるほど、なるほど。勇者か……くくっ、通りで。まったくご苦労な事だな。ワシを成敗する? やれるものなら、やってみるがよい。いずれお前も気付き、ワシの考えが分かるだろう。己が救おうとするものに、そこまでの価値などありはしないという事にな……」


 妙な説得力のあるチコウユの物言いに、しかしリエットは眉一つ動かさない。


「わたくしはあなたとは違いますわよ、チコウユ。良くも悪くも」

「はてさて、その涼しい顔がいつまで続くかのぅ?」


 ぱんぱんとチコウユが手を叩くと、広間の扉が一斉に閉まった。どうやら閉じ込められてしまったらしい。リエットが鞘から剣を引き抜き、戦いの火ぶたが切られた。


 老人とはいえ、チコウユはただ者ではなかった。


 チコウユへと挑みかかるリエットの運動量が激しいのに対し、チコウユは風に揺られる柳の葉のよう。勇者リエットの目にも止まらぬ連撃を、素手でするする捌き切っている。それどころか、リエットに当て身を食らわせて吹っ飛ばしてしまった。


 リエットは軽傷のようだが、胸部プレートが大きく凹んでいる。


 一見、チコウユは無傷のように見えた。が、頭頂部で団子状に結わっていた白髪が、ぽたりと落ちる。クルトンは驚いた。いつのまにか、リエットは反撃していたのだ。


 チコウユも意外そうな顔をして、自らの頭を手で触っている。


「くくっ、なかなかやりおるな、勇者。ちと侮っておったよ」

「いけませんわね、油断は。お次は貴方の首がそうなるかもしれませんわよ?」


 リエットの淑やかな声に挑発され、チコウユは大きく頷いた。


「忠告、痛み入る。では括目するがいい、これぞ我が力! 万の敵すら葬り去る奥義! お部屋の中がぁ……ツルツル祭りじゃぁあああああああああぁ!!」


 チコウユは大声を上げ、全身に力を漲らせていた。首筋の筋肉が浮き上がっている。

 部屋全体がガタガタと揺れていた。まるで地震だと、クルトンは身を屈めた。


 チコウユ周辺の空気が歪んでいる。魔法の力を使っているのだ。


「ぐっ……く!?」

「これはっ……油!?」


 リエットとヴィアンドが戸惑っている。


(な、なんだ、一体!?)


 クルトンもたじろいだ。


 部屋の隙間という隙間から染み出し、床に照りが出ている。部屋が油まみれとなってしまったのだ。大理石の床とあいまって、不用意に動こうものなら転倒してしまう。


 チコウユは環境を一変させてしまった。

 リエットとヴィアンドとクルトンの動揺をよそに、チコウユはくぐもった笑い声を出している。その声は徐々に、大きくなっていた。


「貴様らはどこに立っておるのか、忘れておるようじゃな。いかん。いかんのぅ。このチコウユの手にかかれば、貴様らの足元など、ほれ、その通りよ。食と同じ。自らの立つ場所を見ておらぬから、そのようになるのだ。んはっ、んふはっはっはっはっ!」


 チコウユは高笑いしつつ、壁に掛けてあった戦斧を取り上げた。軽く手慣らしするように振り回したのち、見事に構える。かなりの使い手らしい、洗練された動きだった。


 まさしく、強者そのもの。

 足元の非常悪いこの場では、自らの右に出るものはいないとチコウユは確信しているのだろう。リエットも一たまりもあるまい。


 クルトンはこれはいけると、ぐっと手を握り締めた。


「さあ、愚かな勇者一行よ、覚悟するがいい!!」


 巨大な戦斧を大きく振りかぶったチコウユは、つるっと足を滑らせて背中を強打した。うっかり自分の足元まで油まみれにしてしまっていたらしい。

 ごきんっというかなり鈍い音がして、チコウユは腰を押さえながらのたうち回った。


「腰がぁあああああっ、ぐぁああああ、せっかく直ったばっかりだったのにぃ!」


 老いというものは色々と失念させるものらしい。


 ポンコツすぎる。

 クルトンが呆気に捉えていると、ヴィアンドが容赦なく弓を構えた。


「はははっ、チコウユ! 灯台下暗しとは貴様の事だ! 私は弓の使い手。わざわざ近づく必要などない。地の利は我にあり、食らえっ!!」


 ヴィアンドの放った矢が、リエットをひゅんっと掠めた。

 リエットが咄嗟にかがんで避けなければ、頭を貫通していたかもしれなかった。


「ヴぃ、ヴィアンド様!?」

「も、もうしわけない! リエット殿。足場がわるく、弓の狙い――がっ!?」


 ヴィアンドもすっ転んで後頭部を強打したらしく、悶絶していた。真面目にしたくとも真面目に出来ない。開戦早々、とんでもない泥仕合の予感が立ち込め始めている。


 クルトンは困惑を隠せなかった。

 リエットも未だ、足元を油にとられてもがいている。


 のたうち回っていたチコウユが、生まれたての小鹿のように立ち上がった。


「ぐぬぉおおぅ……おのれ小癪な勇者どもめ! よくもワシの腰をっ!」

「いやあなたが勝手にすっ転んだんでしょうが!!」


 さすがにクルトンはツッコミを止められなかった。だがチコウユは小僧の言う事など歯牙にもかけず、リエットを猛烈な敵意の目で射抜いた。


「許さん! 泣いて許しを乞おうとも、もう許さんぞ貴様らぁ!」


 逆切れもはなはだしい。

 クルトンのツッコミを黙殺し、チコウユはばばっと服を脱いだ。老齢とは思えない引き締まった肉体だ。赤い星柄のパンツ一丁となり、戦斧を抱えて油を操り、全身に浴びせかけた。


「いくぞ、勇者! 我が滑走撃滅戦斧術、とくと味わうがいい!」


 腰の激痛から復活したチコウユは、壁を蹴って油の上を滑り始める。壁から壁へと、柱から柱へと。水を得た魚のような、目にも止まらぬ速さだ。がきん、ごきんと、チコウユとリエットが交差するたびに、金属の撃ちあう音と火花が飛び散った。


「くっ、おのれチコウユ!」


 ヴィアンドは悔しそうだった

 ヴィアンドの放つ矢もまったく当たらない。


 赤毛の守り神の腕をもってしても、この場では牽制程度が関の山らしい。


 チコウユは魔法の力を巧みに操っているのだろう。さらには、勇者さえ倒せば勝負は決すると見抜いているらしく、執拗にリエットへと撃ち合いを仕掛けていた。

 場所そのものを自らが有利なように一瞬で作り変える。


 クルトンは感心した。

 チコウユはさすが魔王軍大佐だ。奇跡の力で肉体を強化しているはずのリエットが、チコウユの戦斧の一撃を受けきれずに翻弄されてしまっている。


 足に力をこめられず、リエットは思う様に剣に威力を宿せないのだ。

 その勇者一向の様子をうかがい、チコウユは余裕の仕草で見下した。


「どうした勇者? 先ほどの軽快な身のこなしは、どこへ行った、んん? 若い身空で情けない。ツルツル祭りの場では、このワシの動きについて来られぬのか!?」

「ふんっ!!」


 チコウユの挑発に、リエットは破壊音で答えた。


 思わずクルトンは目を見開く。肉体を強化して、リエットは地面を踏み抜いたのだ。大理石の床へと、まるで雪原か何かのように足をめり込ませた。


 たしかに、これで油に足を取られることはない。

 だが、身動きもできないだろう。


 チコウユの高笑いが一層激しくなった。


「くぬははははははっ、勇者よ。じつに面白い! よかろう、その小賢しい知恵がこのワシに通用するものかどうか、試してやろう!!」


 そう言うなり、チコウユは再び力強く滑り始めた。そしてチコウユは壁を数度蹴りつけて加速しながら、リエットを翻弄するように躍りかかろうとした。


(今だ……!)


 クルトンは奇跡の力を使った。

 人間大の水球がクルトンの足元から湧き出でる。油まじりの水球は、その表面からポタポタと油だけを垂らしつつ、透明度を増しながら細長く引き絞られていく。


 湧き水の魔法の攻撃転用・《水の鉄拳》だ。


 早撃ち能力では劣るが威力は十分。背後からなら勇者にも通じる。リエットはチコウユを迎え撃つべく、大理石の床に足をめり込ませて身動きをつかなくしている。あの状態ならば回避系奇跡もその効果を完全には発揮できないはずだ。


 チコウユとの挟撃。

 リエットを仕留めるなら今しかない。


(リエット、覚悟!!)


 と放ったクルトン渾身の一撃を、しかしリエットはするりとかわした。


 リエットは足を脛までめり込ませていたというのに、液体をかき分けるように硬質の地面を砕きながら、するすると移動してしまったのだ。まったく信じがたいほど高レベルの、肉体強化の奇跡だ。クルトンの放った水の鉄拳は、突っ込んで来たチコウユに直撃した。


「ほぐぁ!?」


 跳ね飛ばされたチコウユは壁に激突して跳ね返り、意図せず大きく滑り出て止まった。止まった場所は、剣を大上段に振り上げていたリエットの真ん前だった。


(あ……やっちゃった……)


 クルトンは冷や汗が止まらない。

 くしくもクルトンは、リエットを援護した形となってしまった。


 急いで逃げようとするチコウユは、油で足と手を取られて動けない。バタバタと手足でもがくばかりで、氷上の小鹿よりも、力ない姿を晒してしまっている。クルトンの一撃で、チコウユの戦斧は壁際へと弾き飛ばされてしまっていた。


「ふあっ、な、ひゃっ……ま、待たぬか勇者っ! お主にも老いた祖父がおろう」


 チコウユはリエットを手で制し、同情を誘うような声を出した。


「わ、ワシとて同じじゃ。か弱き老人を前に、慈悲は無いのか……?」

「ありませんわ」


 リエットの無情な一言が決着の訪れを告げた。

 クルトンは目をこすって、リエットの様子を二度見した。


 地面に足をめり込ませたリエットの姿が、揺らいでいる。奇跡のオーラだ。肉体強化の奇跡の他に、何らかの奇跡を併用しているのだろう。リエット渾身の一撃はチコウユを弾き飛ばした。その威力は、クルトンの水の鉄拳の比では無い。


(うおっ!?)


 クルトンは驚いて、とっさに耳を塞いだ。

 だが衝撃が耳を貫き、クルトンは耳鳴りがした。


 視界すら塞がってしまう。天井に大穴が空いたらしく、大量の埃が降り注いで吹き荒れたのだ。埃の吹雪が静まると、やっと視界が戻って来た。


「な、なんて威力だ……」


 クルトンは目を見開き、ぽつりと呟いた。

 部屋の中はめちゃくちゃに崩れていた。


 いつのまにか壁が無くなっている。柱が何本もへし折れ、塀も消え、隣りの建物にチコウユがめり込んでいた。放射状のひび割れの真ん中で、ぴくぴくと動いている。まだ生きているという事は、これほどの威力でありながら、リエットが絶妙に加減したのだ。


 いかに防御しようと、食らった者の努力で原型を留めていられる一撃ではない。


(間違いない……リエットの奇跡を操る才覚は、尋常のものではない……)


 恐怖を覚えつつクルトンは確信した。

 高威力の奇跡・魔法は濁流のような物であって、流れる方向こそ術者に指定できても、その流れを指先のように制御できるというのは、並大抵の事ではないのだ。


 リエットのコントロール能力は頭抜けている。

 勇者の中でもトップクラスの力量を持っていることは、もはや疑いようがない。


「クルトン、湧き水の奇跡でわたくしを狙いましたわね?」


 リエットが振り向いてそう言った。剣をまだ鞘に仕舞っていない。目つきも鋭い。

 クルトンはぎくりとした。


「いえ、その、リエット様、さっきのは――」

「言い訳は無用ですわ。あなたの思惑はお見通しですのよ、クルトン」

(ま、まずい)


 クルトンは心臓が縮み上がる。

 何と言って誤魔化せば、とクルトンには考える間もなかった。


「わたくしを信頼して、必ず避けると、そうしたのでしょう? チコウユの不意をつくならば、あの手法しかありませんでしたもの。素晴らしいアシストでしたわ」


 すべて分かっておりますわ、とリエットは満足そうにうなずいている。


(リエットがアホの子で助かった……)


 クルトンはそう思った。

 しかしアホの子であるリエットは勝手に納得していたが、もう一人うるさいのがいる。


 クルトンは振り返るのが恐ろしかった。


(ヴィアンドには今ので、確信を持たれてしまったかもしれない)


 クルトンはそう思えて仕方なかったが、ヴィアンドの反応は違った。


「クルトン、見事だ。今のは、リエット殿の能力を知るそなたにしか出来ない芸当だ。湧き水の奇跡を転用して攻撃に生かすとは、よくぞ機転を利かせたな」


 クルトンの予想に反して、ヴィアンドは追及してこなかった。

 むしろ、少し気まずそうでもある。


 チコウユ戦ではあまり役に立てなかった上に、油に足を取られてリエットを誤射しかけたのだ。追及されればクルトンは足が滑った事にしようかと考えていたのだが、チコウユを倒す一番良いアシストをしたおかげで、追及しようにも出来ないらしかった。


(助かった……)


 油断はならないが、クルトンはひとまずほっと息をついた。

 とにもかくにも、王都ナゼカの食を牛耳っていたチコウユは倒れた。リエットはまたもや、見事に佐官軍人を打ちのめしてしまったのだ。




     9



 ナゼカの食事情は急速に浄化されつつあるそうだ。


 志ある商人たちに料亭へと招かれ、リエット一行は戦勝祝いに舌鼓をうった。その祝いの席から外れ、人気のない倉庫裏へとやってくると、クルトンは通話呪符を取り出した。


 魔王国中央情報局・ローレル局長への報告は、気が重い。

 また失敗の報告なのだ。

 だが報告しないわけにもいかず、クルトンは手短に述べた。


「――さらにその、お願いしていた助っ人である、《随一の者》が死んでいて。グラス・ド・ヴィアンドという名うての護衛者が、旅に同行してしまう事に……」


 クルトンが簡潔に伝えると、ローレルはしばし沈黙した。


『助っ人をもう一人、新たに送れと?』

「いえ。どうやらヴィアンドに疑われているらしく、今はまずいです。歴戦の護衛者だけあって、かなり勘が鋭いので。こうして通話するのも一苦労です。下手にパーティーに助っ人を引き入れようとすると、かえって逆効果になってしまうと思います」


 クルトンが意見を述べると、ローレルのため息が聞こえてきた。


『……ふぅ。あの、ヴィアンドですか? 褐色の肌で弓の使い手であり、赤毛の守り神とよばれる? 彼女があなたを疑っている、と?』

「はい、すいません……ヴィアンドの排除を、しようかと思っているのですが」

『やめなさい、クルトン。彼女に手を出してはいけません。あなたでは敵わない』


 ローレルはそう断言した。

 クルトンの身を気遣ってくれているらしい。


『クルトン、しばらく目立った動きはせぬよう、諜報に専念しなさい』

「はい、ローレル様」


 声しか伝わらないと言うのに、クルトンは通話呪符越しにぴしっと背を伸ばした。


「しかし、ローレル様」

『なんですか?』

「『凝縮の地下油』と有名を馳せたチコウユ大佐が、まさかあれほど、情け容赦のないお方だとは。正直、目を疑いました。チコウユ大佐と言えば、数々の城や砦をたった一人で落とし、あるいは守り切った城戦の名手。下々の者や、虜囚に対しても人徳を持って接するという高潔なお人柄だと、噂を耳にしておりましたが……。お年と聞いておりましたゆえ、歳月は人を変えてしまうものなのかもしれません。あまり噂通りの方では……」


 クルトンがためらいがちにそう言うと、ローレルの声音が怪訝な色を帯びた。


『……おかしいですね、それは』


 ローレルの口調には、譲らないものがあった。


「おかしい、とは?」

『チコウユ大佐は魔王国の奥、故郷でもあるリゾート地で病気療養中のはずです。たしか、痛風とかなんとかで。ナゼカの街に居るはずがありません』


 ローレルはあっさりとそう断じた。

 まぎれもなく、その口ぶりに嘘はない。確かな情報のようだった。


「………………………………じゃあ、あれ誰だったの!?」


 というクルトンの疑問は、数日後に氷解する事になった。

 道中で立ち寄った村の酒場で、郵便屋さんがぼやいているのを耳にしたのだ。


「実際はよ、元勇者だったらしいぜ」

「え?」

「ほら、食のナゼカで悪逆の限りを尽くしていた奴だよ」


 人目を憚るように郵便屋さんは声を潜めていた。


「でもたしか、ありゃ魔王軍人の仕業だろう? 凝縮の地下油、とか言う。……新進気鋭の勇者が見事に倒したって、ずいぶん良いニュースとして教会も宣伝してたぞ」

「偽者さ。魔王軍人の名を借りて好き勝手やっていたんだと。でよ、知り合いが記者やってんだけど、その事をすっぱ抜こうとした記事が潰されちまったんだとよ」

「誰に?」

「そりゃ決まってんだろ。ほんとの事を言うと体裁が悪いのは、ソタナフマ連合と神秘教会だ。元とはいえ、勇者だったわけだからな。圧力をかけてさ、よくある事さ……。勇者崩れの連中がそうやって各地で悪さ働いてるっつー問題に、一石を投じる事になったかもしれない真実の記事なのに、って、知り合いはめちゃくちゃボヤいてたよ」

「そうだったのか……あんまり大きな声じゃ言えねえな」

「ああ。ソタナフマも教会も、やり方が薄汚ねぇよ」

「……そこまで追い込まれてんだろうよ。同族ながら情けねぇ……」


 酒を酌み交わしながらも、二人は首を垂れて消沈していた。

 極悪の魔王軍人かと思いきや、まさかのまさか、チコウユは元勇者。


 そういえばと、クルトンは屋敷での一戦を思い返した。チコウユはリエットに対して、勇者として旅することの理不尽を説いていた。


 こうして、ソタナフマ連合と神秘教会の暗部に知らず知らず触れつつも、リエット一行は魔王城へとまた一歩近づいた。






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