親たち(3)
「でも」
ゾーヤさんはうっかり私がそう言ったことに、微笑する。
「でも、とは?」
「なんでもありません」
「ありがとうございます。少し、私の気持ちを理解してくれましたか」
ゾーヤさんはそこで思い出したように、窓の外を見る。毒々しいくらいの晴天が、高いビルにさえぎられていた。コンクリートの街で、命を産めない命がもがいている。
「ちなみに聞きたいんですが。怜美先輩のお父さんとは、あなたから別れた、と聞いています」
「私たちは愛しあっていましたよ……しかし私たちの両親は、そうではありませんでした。異文化の衝突は、よくあることです。私の両親に、理解がありませんでした……それで、離婚しました」
「一度ロシアに帰ったと聞いていますが?」
「はい。少しだけ帰りました。でも、こちらに住所は置いてありましたし、もちろん国籍も取得していました」
怜美先輩は、ゾーヤさんと茂樹さんとの生活は、とても楽しいものだったことを覚えている、そう言っていた。その言葉を信じるならば、なんとひどい仕打ちだろう、と思う。亜紀さんが裏で糸を引いているのでは、という疑いを膨らまさざるを得ない。ただし、ゾーヤさんにとってその名前自体が忌々しいものだろうから、口にはしない。
「わがままでやってきて、よかったです。あなたのことが知れて、よかったです」
「……あなたはとんだお人よしです」
自分は不愛想なんだろうな、などと考えながらも、私は笑って見せる。私の決意が固まったと同時に、なんとなく、
「ゾーヤさんは、大人なんですね」
そう声に出していた。大人は決まりを決まりとして受け入れるのが得意なのだな、と思う。ルールをルールだから、と受け入れていくことが、大人になるということなのだろうか。なんだか寂しい気がした。そう言う思いも、社会にさらされてすり減り、麻痺するように消えていくのだろうか。
「ちょっと、分かりませんね」
肩をすくめるしぐさは、痛々しかった。回り回って、この話し合いには何の生産性もない。はっきり言って、わざわざ遠くまで、他人の愚痴を聞きに来た形になっていると思う。けれどそれが、苦痛ではなかった。
「――私は、あの町へ行き、学校の祭りを訪れて、いざ怜美に会う前に理解していたんです。衝動的にここに来てしまったけれど、このまま引き返そうと思いました。浜辺にも寄ったんです。海風が、素敵ですね。日本らしくて。それで、満足してしまいました。この町には彼女が健全に成長できるものがあふれているな、と。私は、親心が捨て切れていなかったのだと思います。それがあそこに行くまで、分からなかった。彼女には私が必要だって感じていたんですが、そうではなかった。しかし私は、結局は衝動に負けて、学校に押しかけるようなことまでしてしまいました。そして来たからには一目でも、と思ってしまった。一目でいいから――会話が交わされなくてもいいから、会いたいと考えてしまった」
ゾーヤさんは腕を組んだまま、
「だからそんなにできた大人じゃありませんよ。怜美からすれば、私から去っていったのに、会いに来るのは図々しい、と感じるでしょう」
「それは……」
確かにその通りだった。自分から離れておいて、会いに来るというのはおかしな話だった。それでも、怜美先輩はかならず、再会を喜ぶと思う。そして燃え尽きてなにも手がつかなくなる……変えられない血縁関係を悔やみながら、一生を過ごす。返事ができなかった。
ふと周りを見やると、それまでほかの席について読み物をしていた客、ぬるそうなコーヒーを手にパソコンで作業をしていた客も、もう姿を消していた。ゾーヤさんの提案で、私たちは場所を変えることにした。
喫茶店からさらに歩いて二十分。駅から離れ、高い建物の群れが少しずつ住宅街へと変わっていく。
「神頼み、です」
ゾーヤさんが提案したのは、神社参拝だった。訪れた神社は、住宅街の中にあるちょっとした茂みに、ぽつりと忘れられたような印象だった。鳥居の隅側の道を通り、堂に入った所作で手水を済ませていくあたり、かなり日本になじんでいる。彼女をまねて手水をする。
小さなほこらに向かって、懸命に祈っている姿。異国の地で得て、産み落とした命に対する思いが込められているように思える。やり切れなさが胸に渦巻いて、私は本心から尋ねる。
「私が、話をしましょうか。怜美先輩のお父さんに会って、直接会ってもらうよう説得しましょうか」
彼女はうなずくことも、首を振ることもしない。なにも聞いていない風でもあった。
「私は、怜美が立派に成長しますように、そう祈っただけです」
まだ午後三時にもなっておらず、明るかった。ゾーヤさんに寄るところがある旨を告げ、その場で解散とする。
「さよなら」
そう言ってから、このさよならは、彼女と最後に交わすのさよならになるのか。そうぼんやりと考えた。後ろ髪を引かれる思いがしたが、振り切って、彼女から離れていく。ゾーヤさんがここから去っていく足音を背中越しに聞いた。
帰り道、私はそこから近くの栄えている駅まで歩いた。確か大きな電器屋さんがあったはずだ。ゾーヤさんから逃げるように、私は勇み足で歩く。彼女のことを不快だとは思ってはいない自分に、嘘をついて。彼女のことを、分かりたくなってしまうから。
これが今生のお別れだ。何のかかわりもないロシア人夫婦だが、幸せになればいいと神社では祈っておいた。
電器屋さんを訪れた。しばらく考えた後、可愛らしいコンパクトなデジタル一眼レフを買い、ラッピングをしてもらう。
「ありがとうございます」
お年玉貯金の三万円を支払う。好きな人の喜ぶ顔が、頭に浮かぶ。この先ずっと関わっていたい、という思いを胸に抱き、そのことも神社にお祈りした。欲張りだろうか。
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