親たち(2)

 その発言は想定のうちだった。


「子供でしょうか」

「あなたひとりでなにか変えられるとでも?」


 緊張している。コーヒーが目の前のテーブルに置かれるのが、かなり遠くで起こっている出来事のように感じた。準備していたように返せばいい。それだけだが、難しい。コーヒーが熱いうちから、何度も手を付けていた。


「私がここに来ても来なくても、どちらにしろあなたの意志は変わりませんでしたか?」


 ゾーヤさんが黙っていたので、私も黙った。


「少しは変わるかもしれませんね」

「だとすれば、私は子供らしく自分勝手に動いた甲斐があったことになります」


 今日初めて、ゾーヤさんは微笑した。


「私は他人です……他人で、しかも世の中のことをよく分かっていない子供です。私のわがままを聞いてくれませんか」

「いったいなんでしょうか」


 本題は、すでに共有されている。それを敢えて口に出させようという意地の悪い問いだった。


「あなたには、怜美先輩に会ってほしくない」


 決心するように膝を打ってから、はっきりとそう言った。


「それで?」

「……前も言ったように、今の時期に怜美先輩がいなくなったゾーヤさんを見つけたとしたら、必ず生活に支障が出ます。学業にも手がつかなくなるかもしれません。あなたは怜美先輩の未来を壊すことになるんですよ。自分のお腹から生まれた子の未来を」


 ゾーヤさんははあ、とため息をついた。期待外れだというふうだった。


「あなたの仮定は、あまりに拙いです」


 余裕のある態を装おうとしているのか、本当に余裕があるのか、優雅にコーヒーを飲んだ。音を立てず、ゆっくりと口に含んで味を確かめるように。


「やはりあなたと話をする必要はありませんでした。無駄骨でした。もう、話すことはありません」


 私の緊張はここでピークに達する……今日まで言いたかったことを言うべき時はいまだ。いま、言うべきだ。推測が正しければ――私はなんどもつっかえながら、


「なら、堂々と会いに行けばいい。山本家の両親に気遣うことがないのなら、あなたは勝手に、今まででも勝手に遊びに行くことができたはずです。それを、今更になってなぜ……それに、抜け駆けのように文化祭の日を選んだというのもおかしい話です」


 彼女の目を見て言った。効果はてきめんだったらしく、彼女は落ち着きを失って視線を宙にさまよわせてから、


「そうです……私が怜美に堂々と会えないのには、理由があります。離婚調停で取り決めたことです。私と怜美は、会ってはいけないということに決まったのです」


 離婚調停とはどういう制度なのかはよく分からかった。別れた後の決まりを、国が保証するのだろう、程度に考えた。


「顔も見せたくない、と言われました。当時私は仕事をしていませんでしたから、生活の支えとしてお金を入れてくれるという条件も付けられました。それはそれで、願ってもないことです」

「今まではそれで納得がいっていたわけですよね」


 私はたずねる。


「そうです。今までずっと、それはルールだから、と自分に言い聞かせました。すぐにひとりの生活に慣れました。仕事も無事、見つかって。今はロシア語会話の講師をしています……」

「それが、どうあっても我慢できなくなるような出来事があったと」


 ゾーヤさんは神妙にうなずいた。


「私はもう、子供を持つことができません。私の体にはもう、子宮がない」


 私はコーヒーカップに手を付ける。空だった。どう言葉を発していいかわからず、それでも何か声を掛けなければ、彼女をただ感傷に浸らせてしまうだろう。そうなれば、まともな話し合いは期待できない。それでも言葉が出てこない。


「つい数か月前子宮にがんが見つかって、摘出を受けました。夫との間に怜美みたいな可愛い子を産めないと思うと、私はつらい。つらくて仕方なくて夜眠れません。私は夫を愛しています……夫も私を愛してくれますが、それでも、申し訳なくて……。怜美に会いたいです。どうしても、一目でいいから、会いたいです」


 彼女の、宵闇が渦を巻いて迫るような口ぶりに、呑まれてしまった。子供を産むとはどういうことか、考えたこともない。それは人生でまだまだ先の出来事であって、今考えても仕方がないのだと思っていた。私はゾーヤさんに、どうしても同情できなかった。その感情が分からない。もうあなたはお腹を痛めて子を産めない、仮にそう言われても、ピンとこない。


「そのことを怜美先輩のご両親に伝えてはどうですか」

「はい。それは伝えてあります。茂樹さんには伝えてあります――怜美に会いたいとも、言いました」


 まさか会いたい意志を伝えていたとは思わなかったので、私はつい、


「それでも、会ってはいけないといわれたんですか。私には、冷たい対応だと感じられます」

「茂樹さんは私の体を気遣う言葉をかけてくれました。それだけです――決まりは決まり、そう自分に言い聞かせて、最近は過ごしています」


 ゾーヤさんの相談に乗りに来たわけではない。彼女の気持ちに共感はできない。ただしそれでも、彼女の思いが知りたくなっている自分がいる。


「もう答えは決まっています。あの町を訪れて、すこし考えた末に結論は出ました。私はもう、怜美に会いには行きません」

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