親たち(4)

 二学期の中間考査が終わると、あたりが一気に秋めいた。メインストリートの銀杏はさらに色づき、気温の低下に伴って潮の色っぽいにおいが街から薄れていった。浅田先生から返された成績表は、私の自信を裏付けてくれた。ゾーヤさんに会いに行ってよかったと思う。勉強がはかどったのは、彼女のイメージをしっかりと消すことができたから、というのが大きい。


 テスト期間が終わって、平常授業が再開された月曜日だった。私たちは丘の上の公園に放課後集まっていた。


「もう水道通ってないのか」


 古びた蛇口を、新堂君がひねる。


「昔水遊びして、びしょびしょになって帰ったなあ」


 翔太君は、新堂君が閉めた蛇口をもう一度ひねっていた。もう水が出ないと知っていながら。


「涼しいね」


 学校指定のワイシャツを着崩した翔太君が、昔を思い出すように空を見上げる。二人ともが上を向いた。赤みがかかる大きな太陽と、湿り気のなくなった厳しい風。翔太君が指さした先――空をたどって遠くに見えている海まで視線を動かしていく。そこに、潮がオレンジ色に渦巻く海があった。しばらく見つめていた。『赤とんぼ』でも聞こえてきそうな時刻に、それぞれ思いにふけり、ひとときを楽しんでいた。このシーンはまさしく、私が思い描いていたものだ。


 ただ、立役者にスポットが当たらなくて面白くないので、私はわざとらしく咳ばらいをしてから、


「皆さんだけで思い出に浸っているところ、すみませんが、私帰ってもいいでしょうか」

「ごめんごめん……松野さん」


 新堂君が頬を掻きながら苦笑した。切れ長の目が、色の付いた光を反射して穏やかに見えた。


 翔太君の成績が芳しくないと知ったのは、ごく最近だった。中学校の中間テストも、一週間前に結果が出ていた。私は彼の学力を初めて知った。S高校を受験するとなると、今の成績では不安があった。特に理系科目の成績が悪く、彼から半ば強引に白羽の矢を立てられた。これから、山本家を訪れて勉強会をするのだ。その前に、一度丘の上の公園を訪れないか、と提案した。


「公園を写真に撮りたいね、いい題材になる」


 私は普段より膨らんだカバンに入れてある、翔太君への贈り物を意識した。勉強会で二人きりになったら渡そうと思っていたが、ここであげることに決める。


「かっこつけて言っちゃって。それに受験もあるだろう?」


 そう言う新堂君だが、口角が上がっていたので、彼も翔太君が熱を向けられる趣味が見つかって嬉しいのだろう。私が結び付けなければ、このまま疎遠になって終わっていたであろう二人の友情が、再び花開いた。私はそれが、自分でも想像できなかったほど嬉しい。


「ね、翔太君」


 私は公園跡の隅に翔太君を呼び寄せて、タイツに張り付いたひっつき虫をむしり取りながら言った。


「これ、プレゼント。何かの記念、ってわけじゃないけど」


 包装された箱を見ると、翔太君は遠慮せずに開封し始める。箱にプリントされたカメラを見ると、すぐに目を輝かせた。その後ふっと頬のゆるみを押さえきれない様子で、目を伏せた。いじらしい仕草。早速箱からカメラを取り出して、初期電力の詰まったバッテリーを差し込んで、高揚して震える手で翔太君はカメラを構えた。急に私にレンズが向けられ、恥ずかしくて顔を伏せる。


「からかわないの!」


 恥ずかしさからつい声を荒げたが、無遠慮に彼はシャッターを切った。

「うわ、色がきれいだなあ。すごい真っ赤」


 翔太君はそのカメラで初めて撮った写真を見せてくれた。初めての被写体が私でとてもうれしいのだが、なんとも歯がゆい思いがする。


「澄香、ありがとう」


 真面目な顔をして彼は言った。


「どういたしまして」

「本物のカメラってやっぱりすごいな。これで自分の心を撮って見せたい気分だな」


 翔太君が、ふいに漏らしたとき、新堂君が近づいてきていた。


「写真って、そういうものだと思うよ。自分の見てる世界を切り取って、心を表現する、というか。あと翔太君、もしかして松野さんのこと……」


 新堂君は確かに優しい。が、恋愛のことに関しては疎い感じがした。これまで目を向けていなかったからだろう。私たちが付き合っていることに、気づかないだろうか。例えば、仕草とか、丘までの坂道をくるのに手をつないで来たことから……。


「別にそんなのじゃないよ」


 伏せておいたほうが、何かと都合がいい気がするので、私が言っておく。翔太君はやや不服そうだった。



「とにかく。カメラの性能が上がって、俺が今見てる世界そのものにどんどん近づいて。それが進んでいった先に、自分の過去の思い出のワンシーンを写真に撮れる技術なんかがほしいな」


 私はふと思いついて、


「写真と一緒に、文章をつけたらいいんじゃない。昔の光景の写真は撮れないけど、そのときはこう考えていた、って書いて写真に添えるとか」

「文才がないから無理だな……昔のこと、うまく言葉にできないから、写真をやってるところもあるし」

「なんでも挑戦だよ」

「んー……考えとく。とにかく俺は、今頭の中に残ってるシーンをなんとか分かってもらうために、写真を撮り続けたいな」


 すこし前の話だが、私は翔太君のスマホの画像フォルダに、例の腕を切る石の写真があることに気付いた。日付は割と最近のもので、そこを最近訪れたのかと一瞬不安になった。写真の石に血の付いた跡はなかったが、撮った後に切った可能性もあった。きょうだいの仲も小康状態にあって、二人きりになったときなどに怜美さんのことをよく話してくれていた矢先でのことで、不安は募った。腕を見て、その傷がふさがっていることに安心したところだった。


 今の彼は、彼が言うように昔の写真が取れるとして、傷だらけだった腕を撮りたいと思うだろうか。


「新堂君も撮っていい?」


 呼ばれた主はいいよ、と軽く返した。私よりも数段自然な表情が、カメラのデータに収められた。

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