唯奈(2)

「ただいま」


 母親が、もう来てしまったか、という顔をしてこちらを向いた。


「唯奈ちゃん、久しぶり……って、大丈夫?」


 目が赤く、涙の痕を頬に残した唯奈を見たのち、私をにらみつけ、


「澄香、泣かせたんじゃないでしょうね」

「……」


 ある意味では私が泣かせたのだ、といえなくもなかったので、黙ることしかできなかった。


「澄香ちゃんのせいじゃないですよ。ちょっと、会えて感動しちゃって」


 唯奈にそう言ってもらえて、私は安心した。うちの母親は、娘に対する評価が低いようで、しょっちゅう私のことでへりくだり、私に嫌な思いをさせる。母親は一転笑顔を見せ、


「ありがとうね、いつも澄香によくしてもらって。これこっちのお土産だから、持って帰って食べてね」


 紙袋に入った地元土産の和菓子を彼女に差し出した。唯奈は嬉しそうにそれを受け取った。


すぐに夕食ができるというので、リビングに案内する。今日の朝、散らかっていたものがきれいになくなっていた。急に唯奈が来ると知って、慌てて片付けたのだろうと思い、苦笑いをした。


「遠いところからごくろうさま。劇の時に会って思ったんだけど、見ない間に、一段とかわいくなったわね」


 母親に、先に言われてしまった。


「もう、親戚のおばさんじゃないんですから」


 あら、ごめんなさいね、そう言って母親はダイニングチェアを唯奈にすすめた。


「澄香もお疲れさま。劇、よかったよ」

「なんで見に来たのさ! 来るなって言ったのに」

「でも、すごくよかったし、見せたいものを皆さんに見せられて、充実してたんじゃない?」


 母の吐いた言葉に、背筋がこそばゆくなった。その通りだった。あれだけ嫌だと言い続けていたけれど、これだけのものを作り上げたのだ、と胸を張りたかったのだ。そんなこと、言ってやらないけど。


「素直じゃないなあ」


 唯奈が茶化す。


「怒るよ!」


 唯奈は私の顔を見て、笑った。帰り道以来初めて見た笑顔だったので、私も嬉しくなって笑った。


 テレビではニュースが流れていた。いよいよこの地域は、冬の天気が大荒れすることが確実になっているようだった。十年に一度の嵐。私の脳裏に、知り合いの悲しんだような顔が次々浮かんでは消えた。


 私たちは、自然の前で無力かもしれない。しかしそれでも、嫌いになって目を背けてもなお、自然は私たちを見守っているのだ。などとぼんやり思った。


「澄香が何か考えてるー」


 テレビをぼんやり見ていたはずの唯奈が、いつしかこちらを向いていた。


「はっ! ごめんね」


 唯奈は私の驚いた声がよほど面白かったのか、お腹を抱えて笑いだした。


「澄香は自分の世界に入ると、いつもそうだよね……変わってなくて安心した」


 笑い涙を指で拭いながら、唯奈が言った。私の核である部分は、変わりない。唯奈にとってはそうかもしれない。そしてそれに、私はあまり納得できずにいた。


 母親に呼ばれて、台所まで料理を取りに行き、ダイニングテーブルに並べていった。急ごしらえにもかかわらず、四品の料理を作ってふるまうところはさすが母親である。


 二人であっという間に夕食を平らげた。母親は普段手抜き料理しか作らないが、こういうときは驚くほどおいしいものを作る。やるときはやる人だ。褒めてやらないけど。


「お風呂今いれるから、ちょっと待っててね唯奈ちゃん」


 お風呂が入るまでの間、私の部屋で時間をつぶすことにした。


「あっ、この漫画貸しっぱなしだったっけ? うちのどこ探してもなかったんだよね」


 早速漫画だらけの本棚を漁り始めた唯奈が言った。


「ごめんね、今返すよ……」


 その漫画のタイトルも確認せず、唯奈がそれをカバンにしまうのをただ見ていた。たったそれだけのことで、私からその漫画は、縁が遠くなっていく。


「私、今日までいろんなこと経験したよ」

「なにその、明日はここにいませんみたいな言い方」

「明日からの私は、本当に私かな?」

「当たり前でしょ」


 私はこの町に越してきて、自然の美しさに瞠目させられた。空を仰げばたっぷりと見える星々、穏やかに私たちを見守る海。恋をしてしまうほど美しかった。


 自然は私たちそのものでありながら、私たちから遠く離れたところにもある。私は、自然の一部であれど、人間だ。自然そのものである人間と、自然と触れ合い、時に扱う人間とが、私のうちに存在している。


「私たちは若いよ、いくらでも人は変われる」

「何言ってるのさ。――まあ、そういう青春話は聞きたいけどね? 翔太君のどこに惹かれたか、とか」

「それは寝る前にしよ? そのほうが、盛り上がるよ」

「確かにそうだね!」


 私は翔太君を想った。屋上で言われた、告白の返事。これまで、屋上での告白の伝統を思い出すにつけ、自然に対し私たちが恋をすることは、なんてちっぽけなんだろう、と考えていた。それはちっぽけではない。人間同士の関係と、関係が綾織のように縦横に与えあう影響は、人間の人間としての営みから時に大きくそれてしまう。人の扱える領分を、時折超越する。


「私は人間なんだ。人間以上でも、以下でもない、人間なんだ」


 ほんの少しでも周りを、そして私自身を小馬鹿にしていたことを、猛烈に反省した。人を愛することと自然を愛することは、両立するのだから。そのどちらかが私ではない、などと判断してはいけない。どちらも私。だからこそ、ままならない自分を、世界を愛していくのだと思った。


 今この瞬間また、ほんのささやかな挫折をした。きょう、なんど挫折をしたことだろう。そのたびに起きあがればいい。私の中では些細な部分の挫折なのだから。私の芯は、折れない。ちょっとした他人の干渉程度では、折れることはない。


 その挫折の後に、私は教訓を得る。すなわち、私は私の、意のままに。

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