唯奈(3)

 制服を脱いで部屋着に着替える。ワイシャツを脱ぐと、胸ポケットに入ったメモの分の重みが取れたようでかなり楽になった。


「澄香の下着かわいいね」


 私はそう言った唯奈を小突くために近寄った。彼女の顔を近くで見ると、やはりまだ唯奈はもやもやと思い悩んでいる感じがした。


「じゃ、お風呂借りるね」


 本当は少し話をしたいが、そう申し出るのをかろうじてこらえた。唯奈が出ていき、部屋に一人きりになった。今日という日を振り返ると、様々な感情が洪水のように降り注いで、一瞬目を背けたくなる。いや、私は今日これをすると決めたのだ。


 今まで一人で考えてきた、全体という雰囲気、などという推論をまるっきり帳消しにするかのような存在が、今日現れた。私は翔太君に続いて、ゾーヤさんを思った。彼女の独りよがりが、私の頭の中の絵空事を強烈に自覚させた。


 私がどこまでみんなのためになれるかは分からないけれど、みんなが愛する自然を守る。それがしたい。そうふるまうことは、私という営みが望んでいることだ。それ以上のことに、私は踏み込まない。


 それは人間の領分ではないからだ!


 唯奈は帰って来た。濡れた髪がセクシーだったが、まだ何か憂いの残っているような表情だった。


「私もお風呂、入ってくるね」

「待って、先に話したいことがあるの」


 唯奈は私の手を握ってきた。鼻をすりよせ、ぺろりと手のひらを舐められる。くすぐったい。


「澄香の味だ」

「変態」

「私のこと、嫌いにならないで、聞いてほしいの」

「もちろん」


 唯奈が何か悩みを抱えていることはずっと分かっていたことなので、今まで聞きだしてやれなかった自分を恥じる思いだった。


「帰り道でも行ったけどさ、私やっぱり澄香がいないとダメ。ドジで人づきあいが下手な澄香がいないと、私はやっていけない」

「学校で何かあったの?」


 ごくり、と何かを決意するように、唯奈は唾を飲んだ。


「私、ハブられてるんだ」


 何と言ったらいいか、私には分からなかった。


「高校での私の立ち位置は、澄香の世話役だった……でもね、その世話する存在がいなくなったら、私にやることがなくなった――私は直接、周りの人と関わっていなかった。澄香ごしに、みんなを見ていたんだ」


 ああ、私にとっての天使は、その一面を私だけに見せてくれていたということか。唯奈を可哀想に思う気持ちとともに、温かな思いも生まれることを否定できない。


「辛くて苦しくて、最近学校も休みがちでさ。今日久しぶりに、笑った。ありがとう」


 唯奈の素振りから、何か内に秘めているところを全く感じなかった。


「こちらこそありがとう、気を遣ってくれてありがとう。でも、ダメだよ」


 キョトンとしている。


「辛い時は辛いって言おう、そう教えてくれたのは唯奈だよ?」


 泣き崩れて、唯奈は私に体重を預けてきた。やさしく受け止めてやる。


「辛いよ。毎日、自分の性格を呪ってるよ……」


 唯奈はすすり泣き、嗚咽し、私のパジャマにべったりと鼻水がついた。


「澄香が何を言おうが、私を嫌おうが言わせてもらうけど、私は澄香を見下してたよ。人づきあいが下手で、運動も勉強もできないし、話も科学のことばっかりでつまらない。そんな唯奈を見下していなかったら、どうして私は澄香に近寄ったと思う? ――かかわりを持とうとしなかった他のみんなの方が、そういう意味で公平だったよ」

「そんな風に言わないで。私は嬉しかった。それで十分でしょ?」

「危ない橋だったと思う。かかわってほしくない、そう思う人も絶対多かったと思う。澄香が私に優しかったから、私は私の思うように澄香を導いてあげられた、それだけ」

「そんなこと――唯奈には分からないし、私にもわからなかったよ」

「また――元に戻ってほしい。そう思うこともある。私に世話されていてほしい。でももう、澄香は立派になったよ。だから、私のわがままだけど」

「わがままな自分を、認めてあげて……そうならなくても、唯奈は自分の気持ちに嘘をつかなくてもいいんだよ」


 そう答えた。これが、私だ。唯奈ではない。


「……お風呂入ってきていいよ」


 唯奈の言う通りにしよう。ひとりになって、考えたいこともあるだろう。


 湯船につかる前に、軽くシャワーで体を洗い流す。自分の体から立ちのぼる湯気を、私は注視した。風呂場を覆い尽くしてあたためているそれを見ながら、感情の渦巻きに身を沈める。私は今日、唯奈に会えて、劇が成功して心が躍った。翔太君への恋が実り、安心した。肌が温かな水滴を弾き飛ばしていく。ゾーヤさんに会って、胸がうずくほど絶望した。唯奈が泣きだして、足元がふらつくほど戸惑った。水は排水管をたどり、河に放流され海へとたどり着く――誰も私の垢の成分が含まれている、などと考えない。私は唯奈を慰めた、そのときの暖かい気持ちに身をゆだねた。シャワーだけ浴びて満足した。私の心をさらって洗い流していったか。そんなはずはなかった。私は怒りや喜びや不安や戸惑いを、いまだ抱えている。それぞれを大事に抱え込んで、その上で明日を待ち望んでいる。


 部屋に帰ってきたときにはもう、するべきことを心に刻んでいた。


 制服の胸ポケットに入れていた紙を取り出す。ゾーヤさんについて、唯奈に相談するか迷っていたが、その必要はもうない。私がひとりで解決する。


「唯奈、上がったよ」


 お風呂から上がり、パジャマに着替えた。唯奈を立たせ、

 

 疲れのせいか、私は唯奈の前で大きなあくびをしてしまった。


「かわいい」

「かわいくない!」


 唯奈から、もう眠ろうと提案してきた。自分の中で解決することがあったのだろう。敷布団を敷き、唯奈には普段のベッドで寝てもらう。消灯した後、


「さぁてお楽しみのピロートークですね」

「意味違わない?」

「本当の意味にしてしまう?」


 唯奈の表情は暗くてよく分からなかった。なんてね、と唯奈は笑って、


「じゃあ、なぜ初めのメールの主である子ではなくて、翔太君に恋愛感情を抱いたんですか?」


 よく覚えてるな。


「それはね……私を照らしてくれるからだよ」

「私は?」


 むくれた顔が、近くではよく分かった。


「唯奈は私の実体を作ってくれたんだよ。唯奈、大好き」


 にっこりと笑った。縋るような目線をこちらに向けているように思えた。唯奈はベッドを抜け出して、敷き布団にごろんと寝転がってきた。互いを暖め合った。


「私、澄香がいないと駄目」

「私もだよ」


 長い間、そうしていた。

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