唯奈(1)


 オレンジ色の陽に塗られた校門で、唯奈は腕を組みながら待っていた。


「おっそかったね」


 遅い、というのをことさら強調して唯奈は言った。少し膨らんだほっぺ。つんつんつつきたくなるくらいいじらしかったが、もししたら本気で怒るだろうと思い、やめておいた。


「ごめんね」

「せっかく澄香といっぱい遊べると思ったのに……悔しいから、今日はおうちに泊まっていくね」

「本当にごめん……って、えっ」

「もうご両親には許可とってるからね」


 膨らませていた頬を一気に緩ませて、唯奈は笑った。彼女は強引なところがあるのは、昔からだ。けれど、それが決して人が嫌がらないことだと知って行動するので、尊敬できる。


「今日はまだまだ唯奈と一緒にいられるってこと……?」


 ふふっ、と笑って、ぽかんとする私の頬を彼女がつっついた。


「そんなに嬉しそうにされると、照れるからやめて」


 私たちはマンションの方向へ歩き始めた。太陽が海と反対の方向へ沈んでいくのを見送りながら、二人で栄えている大通りに入る。


「なんだかんだ言って中学校ぶりじゃない? こうして二人で学校からおうち行くの」


 そうかもしれないが、今日に似た光景を思い浮かべることは難しかった。あの日もこうして二人、街を歩いたはずだった。周りの建物は、もっと背が高かった。こんなに綺麗な、ぽっかりと広い空はなかった。


「こう言っちゃなんだけど、本当にこっちの人になっちゃったんだね」


 唯奈はほんの少しだけ色づきはじめた銀杏の並木を眺めながら、こちらを向かず言う。


「今更それを言うの?」

「澄香が急にいなくなるなんて、嘘だと思ってた。今までずっと思い続けてた」


 私は彼女にかける言葉を、しばらく探すことにした。唯奈の声は、少しでも刺激すると泣きだしてしまいそうにか細く震えていたからだ。


「私も、詳しく言わなくてごめん」


 私は手を差し出す。


「つなご」

「うん」


 唯奈の手を引いていた。こんなことは、はじめてだった。唯奈をあやすように、不自然に腕を振りながら、私たちは歩く。車道をスポーツカーがものすごいスピードで走っていき、風が私たちを包む。やや寒い。


「澄香、こっちでもうまくやっていけているみたいだね」

「うん」

「私の心配なんて、本当ははじめから必要なかったのかも、なんて思う」


 唯奈が吐きだした言葉が、秋の空気にかすれ入って消える。


「そんなこと言わないで。私は中学校の時、確かに唯奈に救われたんだよ」

「澄香にメールでお説教ができるほど、私もまだまだ強くはないんだね……ごめんね、こういうこと、はじめてだったから」


 そう言って泣きだしてしまう唯奈をなだめる方法を、ついに思いつけなかった。あのころ支えてもらったことの恩返しを、私は何一つできずにいるのか。ほら、今だって、私は彼女をなだめ落ち着かせようという気持ちより、戸惑いのほうを強く覚えている。唯奈が望む声をかけてあげることを、できないままだ。


「ごめん……私帰ったほうがよかったかも。こんな弱いところ、見せちゃいけないよね……!」

「そんな……そんなことはないよ、嬉しいよ」


 咄嗟にかけることができた言葉の、つまらなさを呪う。しかし、そこで私は、脳の神経回路が強烈にスパークするのを感じていて、言葉を発することに意識を回す余裕がなかったのだ。唯奈の弱いところ。私のはじめて見る、いとおしい側面。


 人の心のままならなさを考えていた。それであるからこそ、世界が光り輝いているのだとも。


「おかしいな、おかしいな。なんで泣いてるのかな、私は」

「泣いたっていいよ。そういう日もあるさ」


 私はいつしか、足を止め、彼女の柔らかな髪を撫でていた。唯奈の困り果てたような泣き声は止まらなかった。私は先ほど自覚した強い挫折感に戸惑っていたが、それを振り切って、唯奈と一緒にこの先の人生を歩んでいくすべを今、ほかならない今、自分なりに見出した気がした。


「もう私にかまわなくても、唯奈はひとりでやっていって、いいんだよ」

「そんなの駄目……澄香は私に支えられていないと、ダメなの」

「ダメじゃない。私がこっちでうまくやっているの、見ててつまらないんでしょ」


 やや恥ずかしそうに、唯奈はうなずいた。


 持ちつ持たれつだったのだ。お互いに、依存していた。私は唯奈のもとを離れて、私の行きつく場所へとたどり着くことにあこがれていた。望まない関係の中でもがいて、いつしか一人で周りに溶けこむことができた、自分を誇った。唯奈の手を借りずとも、私は何とかなった。それが唯奈には可愛くなかったのだ。まだまだ手を、引いていたかったのだろう。そういう意味で、彼女は私を庇護の対象として扱うことに執着し、依存していた。私が引っ越すことなくそのまま東京にいたとしたら、あるいはそうなっていたかもしれない。今、お互いに依存していた関係がなくなり、唯奈は寂しがっていたことが分かった。


 しかしこうなるということは、事前に予想しようがない。まさに、何か人間を超えた存在に操られた結果なのだ。それについてあれこれ悩んだって、私たちには必ず限界がある。私たちは、自然の一部であり全体ではないのだから。

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