望海祭(8)

 新堂君の視線の先――暖かい気温のおかげでまだ入れそうなプールのほうを、私も追うように見る。彼はもう、泳がないのかもしれない。泳げないのかもしれない。


「要するに、水のいれものなんだよ、プールは」


 新堂君はそちらから差す日差しに、眩しそうに目を細める。まるでそちらを見たくないようにも、私には思える。翔太君が、流石に様子がおかしいことに気付いたようで、


「プールは戦場だったんじゃないの?」

「そうだったかもしれないね。今の僕には、いれものにしか見えないけど、いくらあがいても、どこへもたどり着くことがない」

「新堂君」


 私は一度名を呼ぶものの、声を失ってしまう。これは彼のうちの出来事だ、私が干渉するべきことではない。しかし彼を慰める言葉を飲み込んでしまったことで、やはり調子を狂わされているということをことさら認識させられる。冷ややかな青い目。海と同じだけれど、あまりに印象の違う色。それが、私を絶えず見張っている。


 私も翔太君も口をさしはさまないと分かると、彼は堰を切ったように、


「いれものの中で、必死に手足を動かして、速く泳げた者の勝ち。それが何になるんだろう? なぜ僕は他ならない、『水』を掻くことを選んだんだ? 僕は人工的に作られた――それもずっと滞り続け、しまいには下水に流れていくような水を――なぜ掻くことを選んだんだ? それは最も――自然から遠い人間の営みのような気がする。逃げていたんだ。海から一番遠い水を、体に浴びることで。初めから自然にかないっこないって、本能が言っていたんだ」

「直輝君、泳げなくなっちゃったの?」


 新堂君は完全に我を失っているのか、心配そうな眼差しを向ける翔太君に気付かず、


「だいたい、スポーツだって、芸術だってなんだってそう。僕は演劇に出なくて正解だった、そればっかりじゃない、今日松野さんたちの作り上げた、それを見なくてどれほどよかったか」


 ようやく、私は彼に声を掛ける気になった。


「バカにしているの?」


 声に出してみあると、あまりに自分の口調がとがっていて驚いてしまった。しかし彼に怒りをぶつけたい気持ちは確かだったので、続ける。


「私たちがあんなに頑張って、一緒に作ったものだったのに。新堂君だって手伝ってくれて、アドバイスもしてくれて私たち嬉しかったのに。そんな風に思っていたなんて、ひどいよ。見てほしかった、本当にあれは素晴らしい瞬間だった」

「その場にいて、僕が呆れ笑いをしてしまうよりはましだったでしょ?」


 頭の血液が沸騰したようで、まるで手足が自分のものではないような感覚にとらわれた。だめだ、新堂君は冷静じゃないんだから――。今の彼が、彼のすべてじゃないんだから。面と向かって彼を罵倒したくなる心を必死に抑える。


「直輝君!」


 翔太君が、私と新堂君の間に入って大きな声を上げた。名前を呼ばれた主は、はっとして、努めて柔らかく微笑もうと口角を上げる。その瞬間、翔太君は彼を思い切りこぶしを握っていることに気付いた。振りかぶろうとしている――私はとっさに彼の手をとった。ダメだ。それはやってはいけない。


「今みたいな直輝君、初めて見た」


 代わりに出た言葉は、やり切れない怒りが無理やりに変換されて、返って戸惑いの色が濃いようだった。虚ろな目をして、プールのほうを向く新堂君。もはやこの世界の何物も輝いては映らないかのような、どろりとした瞳。


「そんな顔、直輝君もするんだって思った。やめてよ。手首切った帰りの、俺みたいな情けない顔、しないでよ」


 翔太君の言色に、やや物おじする気配を感じた。新堂君は彼のリストカットのことを知っている。しかし、いい印象を持っていなかったのだろう。それを案じての、慎重な言葉らしい。


 ――あんたの海に対する信頼って、その程度のものなの?


 私は、翔太君に丘の上の公園に誘われたとき、言われた言葉を思い出した。私は海にみっともない姿を見せてしまった、それだけで見限られるほど、信頼していないのか、そうなじられたのだ。今、彼はみっともない新堂君に幻滅している。翔太君に取って、そんなに新堂君は信頼に足らない存在だったのだろうか。そう指摘をしては、翔太君は怒るだろうから、言葉を選んで、


「新堂君だって、弱いところはあるよ。それを見せちゃいけないなんて、息苦しいよ」

「……それにしたって、ひとりで寂しかった手を引いてくれた新堂君と、同じ人が目の前にいると思えない」

「新堂君は……楽しいこと、いまなにかある?」


 その質問は失礼だと気づいて、私はその後小さな声で謝った。なにもないから、こうして悩んでいるのだろう。


「ないよ」


 案の定の答えに、私はもう一度ごめんと言った。翔太君が、辛そうな顔を一層ひきつらせた。


「……一緒にまた遊んでよ」

「ごめんね翔太君、それはできそうにないな」

「じゃあこれからちょっと遊ぼうよ。某海祭、見て回ろう?」


 新堂君が無言で首を振る。そう言えば――スマホの時計を見る。後二十分ほどで、望海祭は幕を閉じる。そして、唯奈や美薗ちゃんから沢山、どこにいるの、と心配のメッセージが届いていた。後で謝らなければ。


「ごめんね、もうすぐ終わっちゃうんだ」


 しばらく、みんなが沈黙していた。最後にホームルームがあるので、私はその場から離れなければならなかった。しかし、言いだしにくい。


 しばらく考え込んでいた翔太君が、急に新堂君の手を取った。


「見せたいところがあるんだ。海に行こう」


 新堂君が、目をしばたたかせる。


「なんで」

「うまく言えないけど……新堂君は一度海を見たほうがいい気がする」


 私が翔太君の言葉を引き取った。


「これまで海から逃げていたんだったら、これからは海を見ていけばいいよ。逃げていたってこと、自覚できただけすごいよ、偉いよ。翔太君は強引だけど、今日じゃなくても気が向いたら少しずつ、無理しない程度に触れ合ってみたらどうかな」

「……うん。ありがとう。そうしてみようかな――今日、行こう、翔太君」


 手を差し伸べられて、新堂君はそれを取った。彼の目には再び光が宿りはじめていた。瞳が昔を懐かしむように、優しく光を反射した。


「これで恩返しできたかな。ひとりで寂しかった小さな頃、新堂君に手を引いてもらえたことの」

「もう一度、ゼロから海に立ち向かってみる。小さい時海と戦おうと思った頃の考えを、思い出してみる」


 新堂君の声に、わずかながら力が宿っていた。後は、翔太君に任せれば大丈夫だろう。


「っと、ごめんね、私ホームルームがあるから、もう行かなきゃダメ。新堂君、また学校来てね。ゆっくりでいいからね!」


 私は言い残し、急いでその場を去ろうとした。


「……こういうの、ホント自分でも嫌になるけどさ」


 翔太君がひとり近づいてきて、ぼそりと言った。


「直輝君ばっかり心配されると、なんかもやもやする」


 その上目遣いに胸がとくりと鳴った。屋上で写真を撮ったときと同じ幸福感が、今更になって溢れ、血流に乗って全身をざわめかせた。


 できない。私は、どうしても彼を抱きしめることができなかった。そうしたいのは山々だったが、彼に愛情を注ぐことがどうしても難しかった。


「気を付けます」


 私はその場を後にした。罪悪感が再び、麻酔のように冷たく私を蝕んでいった。

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