望海祭(7)
楽なほうに逃げたくなかった。それがただの唾棄すべき矜持だとしても。
午後の劇は、午前の劇の評判を得たからか、観客の数は多かった。しかし気のゆるみか、セリフ回しを忘れたり、道具の位置を間違えるなどの失敗が出た。それはそれで笑いを取れたが、そういう笑いがほしいわけではなかった。振られた久世君の調子も悪かった。美薗ちゃんもどこか気まずげで、みんなにかける言葉を失っているようだった。私がフォローを入れようと思ったが、私の出る幕でない気がした。脳裏にゾーヤさんの冷ややかな表情がちらついた。
解散して、私は翔太君と二人で廊下を歩いていた。窓からやや低くなった日が差してきている。
唯奈は私の恋心を見抜いていた。彼女は翔太君をそそのかして屋上に向かわせ、私が来るのを待っていたのだという。当初としては私と唯奈が、迷子になった翔太君を探すため、私に屋上に向かわせるつもりだったらしい。そうはならなかったが、結局私は翔太君から愛の告白を受けた。
いま、唯奈は美薗ちゃんと、当番の終わった怜美先輩を連れて遊んでいる。
隣の翔太君は、ほとんど話さなかった。ただ手のぬくもりを感じていた。それはとても嬉しいことのはずなのに、まるで手袋ごしのように遠いぬくもりだった。
告白を受けて、とても嬉しかった。彼は屋上で、スマホを取り出して撮った写真を私に見せながら、
「澄香の写真を撮らせてほしいな。海をバックに、笑って」
あまりに照れくさくてレンズを直視することはできなかったが、私は被写体になった。後で写真を見ると、無自覚だったが笑っていた。
「付き合ってくれる?」
ぼそりと彼はつぶやいた。私は周りのカップル同様、スマホを操作している彼に後ろから抱きついた。耳元で、
「ありがとう」
ささやくと、体中にその言葉の意味が染みわたっていくかのようだった。全身の細胞すべてに、活力が行き渡る――。
それも、ひとときのことだった。重いタールのような思考に、知らぬ間に頭が蝕まれていて、甘いロマンスに浸ってそれから目を背けることなどできなかった。
ワイシャツのポケットに入れたメモ書きの存在を感じていた。これを、翔太君に見せることができたなら、どんなに楽なことだろうか。私はそうするべきなのかもしれない。怜美先輩の肉親である彼にこの件を任せて、私は目と耳をふさげばいい。そういう選択もある。何もかもをゾーヤさんのせいにして、われ関せず、それもいい。
「なんか悩んでるみたいだけどさ」
私が好きになった彼――翔太君は、スマホを操作する手を止めて私に言った。
「何にも悩んでないよ」
「もしかしてお腹痛い? ……あ、ごめん」
恥ずかしそうに、そっぽを向く翔太君に私は同意した。そういう誤解でいい。
私一人、抱えよう。一人でゾーヤさんのところへ行こう。何とか彼女を、説得したい。翔太君を頼るには、あまりにも彼の精神が脆すぎると思う。
手持ち無沙汰になり、翔太君がついてくるよう言った。何か見たいものができたのかもしれないと思い、素直についていった。
廊下の途中で、翔太君が立ち止まった。同じように人の流れの中で立ち止まる存在があって、見ると新堂くんだった。
「久しぶり」
黙り込んでいるとお互いに気まずいと思い、先手を打つつもりで声を掛ける。
「翔太君に呼ばれたから来たんだけど、松野さんも一緒だったんだ。聞いてなかった」
久しぶり、と懐かしげな視線を送る先は、私ではない。翔太君は不思議そうに、
「あれ、なんで私服なの」
そうたずねる。翔太君は新堂君が学校に来ていない事情を知らないようだ。
「午前は調子が悪くて休んだんだ……いま、楽になったから来たけど」
それにしてもなぜ制服ではないのか、そこまで詮索することを翔太君はしなかった。
「新堂君、来てくれたんだ。嬉しいよ」
「君に会うつもりはなかったんだけどね。むしろ会いたくなかった」
新堂君が、人目につかないところへ移動しようと提案した。学校に来ていることを、できるだけ他の人には知られたくないのだ、と、翔太君には聞こえないように私に言った。
「望海祭……終わっちゃうね」
私は彼と初めて会った、プールのそばにまで移動した。誰もおらず、日差しにはほのかに色がつき始めていて、どことなくもの寂しさを感じた。
「新堂君にも劇、見てほしかったよ、すごくいい公園ができたよ、特に午前は」
彼は黙っていた。私は続けて、
「新堂君のアドバイスしたところ、やっぱり変えて正解だったよ。あれでかなり笑いが取れたもん」
「面白かったよ」
翔太君が私に合わせて言う。新堂君の人差し指が、いらだつようにぴくぴくと動くのを私は見て取って、黙った。
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