水平線

「翔太は生意気だ、なんて、よく言われたけどさ」


 翔太君が私を外に誘った、見晴らしのいい高台までの道を歩いていた。近道なのだろう、狭い路地や舗装されていない砂利道を進んでいった。


 そこから海を眺めると、昔を思い出す、と言う。一緒に見たくない、海に顔合わせができないから、とは言えなかった。


「生意気でいなきゃ、やってられない。そうしないと、姉ちゃんと一緒に暮らすなんて、できない」


 道を行きながら、翔太君が私に語り掛ける声は、独り言のように小さかった。夜の田舎町の静けさの中では、私の耳に届くのにそれで十分だった。


「――俺は昔から、姉ちゃんに構ってほしかった。小さいころの姉ちゃんは、俺を見たとき明らかにおどおどしていた。そういう記憶が、沢山あるんだ。どう接していいのか分からない、そう考えているのが丸見えだった。お母さんが違うことが、姉ちゃんにとっては大きな、すごく大きなことなんだって、分かった。でも俺にはそんなこと、関係ない」


 私は彼の歩調の速さについていくのがやっとで、息切れを起こし、返事ができなかった。けれど必死に、彼を肯定するように、うなずきだけを返した。


 こうして取り乱しもせず、ただ不機嫌そうに歩を早めるだけで済んでいるのは、彼の器が大きいことを示している。私は翔太君に、尊敬すら覚える。


 夜八時ごろ、だと思う。スマートフォンを取りだして時間を確認する余裕もないが、彼の焦りが伝わった。一刻も早く昔の思い出に浸り、自分を保っていたい気持ちは、痛いほどわかる。いつも一人で歩くより早く流れていく、周りの景色。一軒家から明かりがもれ、田舎らしくカーテンが閉められていない家もある。その中の様子が、私たちが通り過ぎていく一瞬ごとにくっきりと目に焼き付いた。親子三人がテーブルにつき、談笑する様子。テレビを見て、大笑いする男女。私はそれらを見ることをやめ、翔太君の背中だけを見つめて歩いた。私より大きな背中は、みるみるうちにしぼんでしまいそうに見える。それでいて、芯が通ってしっかりしたものにも映る。


「姉ちゃんは、両親のうち父さんだけを見習って育ったんだ。それで、しっかり者でなければならない、と言う考えがしみ込んでいったんだろうね。その延長に、厄介者の俺を叱りつけることがあったわけだ。姉ちゃんが、俺に厄介な弟という役を押し付けた、とも言える」

「それは、許せない?」

「分からない。俺が姉ちゃんの立場だったら、そうしたかもしれない」


 翔太君は、やはり優しい子だ。相手の立場に立って考えられる子だ。それは彼にあって、怜美先輩にはない性格のように思えた。


 先ほど怜美先輩が思いのたけを吐き散らし、翔太君の存在に気付いたとき、彼女は何もできず、その場にくずおれた。翔太君は私の両手ごしに、しっかりと彼女の罵倒を聞いていたのだと、後で聞いた。怜美先輩は謝罪の一言を発したが、本心がこもっていたとはとても思えない。それに対し、翔太君は立派なものだった。しばらく我を失って泣いていたが、少しして、彼女に何をするでもなく、ただそっと家を後にしたのだった。


 丘にたどり着く最後の坂道で、私は石ころにつまずいて転んだ。翔太君はかなり先を行っていたが、私が転んでいるのを見ると、すぐに駆けつけてくれた。私に差し出された彼の手は冷たかったが、しかししっかりと私を支えてくれた。


「うれしい、ありがとう」

「さっきのお返し。こちらこそ、ありがとな」


 彼のためを思って抱きしめたのだ、とは言いきれない決まり悪さがあって、言葉を返せなかった。それ以上に、私は翔太君の素直さに、改めて感動した。また、目から涙がこぼれ落ちそうになる。


 丘の上には、ちょっとした公園があった。といっても、ある程度人工的に平らにされたであろう地面に、隅にベンチや東屋などが備え付けてあるだけの、簡素なつくりだった。後ろを振り返ることはしなかった。必ず、海が目に入る。


「昔はあそこ、砂場だったんだけど」


 翔太君は私と手をつないだまま指し示したところまで歩いていき、強調するように靴を地面に滑らせた。じゃり、とややきめの細かい音が聞こえた。


「滑り台もあって、水飲み場の蛇口もひねれば水が出た。よく遊んだんだよ、俺と、直輝君とで」


 私は新堂君が、翔太君と小さいころよく遊んだ、と言っていたのを思い出した。


「姉ちゃんが家出したときの話は聞いてる?」

「うん」

「姉ちゃんがうちに帰って来た日、一緒に直輝君もいてさ。姉ちゃんが俺に構ってくれないのを見て、俺の手を取ってここまで遊びに誘ってくれたんだ。その時初めて俺は優しさを知った、じゃないけど、自分だけに、無条件に与えられる優しさを感じたんだ」


 見てみな、と翔太君は海の方向を指さした。私は、かぶりを振った。


「私、海に顔合わせできないよ。あんな恥ずかしいところ、見られて」

「自分を傷つけたこと?」


 私はほんの少しうなずいた。彼は少し、考えるように腕を組んでから、


「あんたの海に対する信頼って、その程度のものなの? いいところしか見せない、なんてできない、ぼろが出る。さっき姉ちゃん見ただろ?」


 それはそうだ、と納得できた。むしろそう思わないほうが、恋した相手に対し失礼だとも考えた。私はためらって、空を見上げた。星空の光が眩しく、九月の半月は強く輝いていた。


 そうか、ここは星も綺麗なのか。これまで気づかなかったのが不思議だった。空の星々が、自らを燃やし、自らを鏡にし、きらめいている、それを私は、美しいと思う。


「俺は、姉ちゃんの本音が聞けてすっきりしたよ。これもきっかけを作ってくれたあんたのおかげだ」

「私は――私はひどいことをしているよ。翔太君、そんなに自分を捨てなくてもいいよ。お姉ちゃんを憎んでもいいんだよ」

「――いま、なんとなく思ったんだけどさ。あんた、親バカになるタイプだよ」


 翔太君はそう言って、空を見上げた。私も彼をまねる。星空に、優しくなだめられているように感じながら、私はついに海を見た。


「綺麗でしょ」


 私は、夜空の際限ない広がりと、柔らかな光を投げかける月に照らされて光る海の、よろめくようなさざ波を見た。弱々しい。――光がないと、海は輝かない。私はそれに、はっと思い至った。今日ほど海を、身近だと思ったことはない。


「許すことを教えてくれたのは、海か、あんたか。――もうこれ以上言いたくない」


 私は地上から、海に溶けこみたいと思いあこがれていた。地上の人間として、泳げない私が決して踏み込めない神秘とは、ずっと交わることができないと思いながらも、強い魅力を覚え、恋慕してきていた。それが、今では少し感覚が違うのだった。その感覚は、怜美先輩と話していたとき覚えた気持ちからも来ていた。


 私は私の心の中に、海を持っていて、それが今、目の前の雄大な海と共鳴している、そういった想いが胸に満ちあふれていた。


「言ってくれてもいいのに」

「照れるんだよ! この」

「名前で呼んでほしいな」

「ふん。澄香」

「年下のくせに呼び捨ては生意気」

「あんた、よりましだろ」


 私はくすりと笑った。


「俺は海よりは、空の星が好きだな。うん、そうだ、俺は星空のほうが好きだ。星になりたい。――死にたいとかじゃないぞ。海を照らしたい、俺は」


 翔太君が長い独り言をつぶやいた。やはり、私には丸聞こえだった。私は、海だ。


「翔太君」


 上目遣いで彼を見る。なんだよ、と空を眺めていた顔をこちらに向けた隙に、私は彼の頬に口づけをした。


「私はあなたのことが好きです」


 翔太君は耳まで真っ赤だ。夜の寒さのせいではないだろう。


「お母さんじゃないよ、恋人として私とつき合って」

「――今は、少し考えさせて。さすがに今の俺じゃ、冷静に答えられない。これまで以上に、俺たちのことに巻き込むことになるかもしれないし……」

「分かった。返事、いつでもいいから。待ってるね」


 初めて人に恋をした。この気持ちもまた、本物。

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